リィレがそれを持ってきたのは、女神との戦いから一月を経た頃だった。オレは執務室で仕事をしていた。既に勤務時間外なので、他には誰もいない。
この静けさにも慣れた。キサが退勤前に淹れてくれた茶を啜りながら、譲位関係の書類に目を走らせる。気温の変化があるだけで大きな時節の変化のないガリアにも、今年は劇的な春が訪れていた。
「どうぞ」
弱々しく扉が鳴り、オレは書類から目を上げずそれに答えた。どうせまた新しい書類でもやって来たに違いない。オレの機嫌を気にしてためらっているのだろう。
「開いてる」
短く言ってやる。ようやく扉が開き、誰かが入って来た。
慣れた匂いが嗅覚を刺激する。オレは思わず立ち上がり、そちらを見た。
「リィレ!? お前、どうしたんだこんな時間に」
「えへへ~。すみませぇん、オシゴト中に」
リィレは今まで伏せていた耳をぴんと立たせ、甘ったれた声を出した。
「いや、勤務時間ではないからいいけど……」
オレはもごもごと呟いて書類を机に置いた。なにも持ったまま話す必要はないのだ。
「……どうした? レテと喧嘩でもしたのか」
「やだぁ、違いますよぉ。ライ隊長に用があって来たんですっ」
リィレはそう言って一通の封書を取り出した。目に痛い程真っ白な封筒だった。
「あたしの気持ち! 受け取って下さ~いっ!!」
両手で突き出して来て、オレはそれを苦笑しながら受け取ったのだった。
リィレにしては大人しすぎる封筒を選んだものだなと思った。
「手紙ってのはまた新しい角度だな。今読んだ方がいいのか?」
オレは封筒を軽く持ち上げた。リィレはもじもじしながら笑っていた。
「そーですね~、早い方がいっかなぁ」
「じゃあ失礼して」
リィレはオレが封を開けるのを見なかった。俯いて両手をきつく握り締めていた。
便箋も同じこれ以上ない程真っ白な色で、簡潔な文章の簡潔な内容にオレはすぐ、彼女が下を向いているのは恥じらいなどではないのだということを思い知らされた。
オレは几帳面に便箋――いや、書類を畳み直した。彼女が丁寧に畳んだのをなぞるように。
「除隊、するのか」
口にしてから、彼女に似つかわしくない厳つい言葉だと思った。
だからリィレが頷いたとき、自分で言ったくせに耐えられないような違和感に苛まれた。
彼女に似合うのはもっと柔らかくて刺さらない言葉だと思った。
「いなくなるんだ」
そうか、いなくなるんだ。
そっちの方がすとんと納まった。
「急だな」
オレは机の上に退職願を置いた。
なんて、らしくない紙。レテに手伝ってもらって書いたのかな。
「んー、そうでもないです。戦争負けた頃からずっと考えてました」
リィレは少しだけ顔を上げた。笑おうか笑うまいか迷っているような感じだった。
戦争に負けた頃……レテと大喧嘩をやらかした頃だろうか。
「レテにもうわたしは必要ないんだなー、って思って。……ううん、違くて。嫌われたとかじゃなくて――大きくなってベッドが別になったときの感じ。もう手を繋いでいなくても、わたし達は眠れるから」
リィレは無造作に言った。
泣くんじゃないかと思ったのに、オレのしかめ面に気付いたせいなのか、リィレは笑顔らしい笑顔をつくった。
「レテはもうずっとそのつもりだったんですよね。やっとわたしも、レテのベッドに潜り込まなくても平気になったから」
「そう、か」
それ以外オレにどんな言葉がかけてあげられただろう。
「ライ隊長にも、いーっぱい甘えちゃいましたよねぇ」
リィレの口調は子供じみていたのに何故か酷く大人びて聞こえた。オレは目を逸らして、答えた。
「ホント、手のかかる部下だったよ。遅刻はするわ訓練はサボるわ、講習会で居眠りこくわ……」
「ひっどーい! ちゃんとやってるときもあったじゃないですかぁ! 講習会で寝てたの、あたしだけじゃなかったしっ」
リィレは小さな拳を振り上げて殴る真似をした。オレは笑い声を上げながら、それを押さえた。
「まぁまぁ。助かることも多かったよ。お前が来てからウチの隊も明るくなったし、お前にいいカッコ見せたいもんで仕事熱心になった奴もいたしな。他にも菓子作ってきてくれたり、隊の誰かにめでたいことがあるっていうと、必ずパーティとか仕切ってくれたしさ」
リィレの手を放す。
「感謝してるんだぜ」
もぅ、と言いながらリィレは手を下ろした。少し顔が赤い。
「面と向かって褒められると照れるじゃないですかぁ」
「なんだよ。褒めてほしかったんじゃないの?」
「そうですけどぉ」
リィレはちょっとだけ口唇を尖らせた。オレが何も言わなかったので沈黙が訪れた。
「……一応、書類は受理したから、明日から訓練の参加は任意になるけど」
しばらくして、オレはいつの間にか喋り出していることに気がついた。
自分で聞こえてはいたが、声を出しているという意識はなかった。
「事務はやってもらうから、今週いっぱいは出勤してくれ。除隊手続きは明日以降やってもらうけど、そんなに煩雑じゃないから心配要らない」
こんなこと、どうだっていいのに。
「給料はいつも通り月末な。二・三日遅れても平気だから、都合いい日に取りに来てくれ。ちょっとした手続き踏めば代理人受け取りも出来るし、レテに頼んでも構わないぜ」
オレにはどうでもいい話なのに、リィレは神妙な顔で聞いていた。
こういう顔を勤務中にしてくれればよかったのにと思った。
「おせわになりました」
リィレは両手を重ねてお辞儀をした。三つ編みが彼女の動きに合わせて跳ねた。
「おいおい。あと四・五日は来てもらうんだから、それはまだいいだろ」
「そーですね。えへへ、ちょっと焦っちゃった」
申し合わせてつまらない芝居をしているみたいだった。二人揃っておどけ方が痛々しかった。
「じゃあ、あたしもう帰りますね」
リィレは背を向けて扉に手をかけた。オレは片手を軽く上げた。
「ああ、おやすみ。また明日……」
――なんで。また、なんて。明日、なんて。
じきに、来なくなるのに。
「リィレ……っ!」
オレはリィレの手首を掴んだ。振り向いた彼女の髪が目に入りそうな位、側を掠めていった。
「オレは大勢の戦士を預かる立場だから、お前のことばっかり見てる訳にいかないって思ってた。ずっと甘やかしちゃいけないって言い聞かせてた。でも本当はお前が傷つかないように、誰も傷つけずに済むように、ずっと傍にいてやりたかった。本当はずっと、甘やかしてやりたかったんだ」
「な……んで……」
一気に言い切ったオレの目の前で、リィレの顔が大きく歪んだ。
迷子になって、喚こうかどうしようか迷っている子供みたいな顔だった。
「何でよぉっ! わたし、ライ隊長のこと本気で好きなんですよ!? だから……本気で好きだから、困らせないように笑ってようって思ってたのにッ!!」
リィレは叫んだ。高い声で、叫んで、叫んで、オレに手首を掴まれたまま、床にへたり込んだ。
「酷いじゃないですか……。そんなこと、今頃になって言われたら……あたし、勘違いしちゃいそうになる……」
あーあ。あと四・五日あるのに。
四・五日、あるんだけど。
「……いいよ」
もう、どうでもいーや。
オレは泣きじゃくるリィレの身体を、後ろから抱きしめた。
「勘違いじゃないよ」
オレが今まで抱きしめたどんな女より痩せぎすで硬い身体。
だけど、どんな女よりも優しい香りがした。
まるで頼りなく揺れている咲きたての花みたいだった。
「お前が好きだよ」