ぼくのてづくり

「ばかやろー」
 ライは言った。誰に、という訳ではない。もう一度、言う。今度は名指しで。
「朝陽の、ばかやろー」
 別に朝陽自体が憎いのではなかった。夜が明け、小鳥はさえずり、緑は輝き、大地も光を浴びて煌く……全てが目覚める、朝。の、道を、自分は覚束ない足取りで歩いている。動かしどおしでだるい右腕、開けていることも困難な色違いの瞳……仕事を終えて寝に帰る、朝。
 世界の美しさは認めよう。呪うなどという冒涜をする筈もない。だが、しかし。……毒づく位いいじゃないか。
「ばかやろーぉ……!!」
 呻きながら、ライは歩く。目指しているのはガリア軍の兵舎だ。
 ライは普段、王城の一室を借り受けて寝泊りしている。仕事柄、昼夜を問わず呼び出されることが多い為、その方が都合がいいのだ。彼を呼び出すのはジフカであったり他の上司であったり、同僚であったり部下であったり。
 特に最近は、『クリミア関係の仕事で分からないことがあればとりあえずライ』、という流れが完全に出来上がってしまっている。勤務時間外であってもお構いなしに、何かと言うと叩き起こされる毎日だ。知らん自分でやれ、と言えずに応じてしまう自分も悪いのかもしれないが。
 手近にいるからいけない、と思う。兵舎の自室に引き篭もっていれば、休日なのだとすぐに分かるし、瑣末な用件でわざわざ出向いては来ないだろう。ただ問題は……。
(あの部屋、もう何年使ってないんだっけ……?)
 左手を軽く持ち上げて指を折る。少なくともデイン=クリミア戦役の二・三年前から使っていないから……四・五年? しかもその時も、王城の部屋に本が溜まってしまったので置きに行った、とかそんなことだった。汚れてんなぁ、後で時間あるとき掃除しよ、と本を床に積んだまま、忘れていたのではなかったか。
 ……その辺のことは着いてから考えることにしよう。腹立たしい程爽やかな風に髪を揺らしながら、ライは歩いていく。

 

「おお、ライか!」
「スクリミル……」
 ライはげんなりした顔で呟いた。兵舎の前で若手相手に鍛錬していたのは、王の後継たるスクリミルだ。鮮やかな朱色の髪が、燃え盛る炎のように揺れている。
「丁度いい。貴様も付き合え。骨の無い奴ばかりで退屈していたところだ」
「遠慮するよ」
 ライは即答して通り過ぎようとした。が、急に浮遊感に襲われる。驚いて首を巡らすと、スクリミルの顔が眼前にあった。
「見損なったぞ軟弱者! 勝負の申し出から逃げるなど、貴様それでも獣牙の戦士か!?」
「疲れてんだよオレはぁ! 連勤に次ぐ連勤しかも毎日毎日時間外労働、とどめに完徹までさせられたグロッキーな部下を相手取ろうなんて、お前それでも獣牙の戦士か!?」
 顔に唾ががかったことにカチンと来て、つい怒鳴り返してしまった。
 スクリミルはライの襟から手を離した。恨みがましい目をしつつも、ぐっと口許を引き結んで文句が飛び出さないようにしている。それを見ていたら罪悪感が頭をもたげてきた。
「……悪い。次は付き合うからさ」
 スクリミルは、ふんと鼻を鳴らしてきびすを返した。鍛錬に戻るつもりらしい。ライがもう一言だけ声をかけようとした瞬間、大きな背中が呟いた。
「今度は言い訳は聞かんぞ」
「肝に銘じとくよ」
 肩をすくめ、ライは兵舎に向けて歩き出した。鍛錬を再開したらしい同胞達の、勇ましい声が響いている。

 

 廊下を歩く。床板の軋む音がする。気になる程の音量ではないが(ベオクなら聞こえないだろう)。久々に聞く木の音は耳に心地よい。王城の石床に比べると、幾分足元が心許ない気はするけれども。
 隊長格の部屋は、有事の際に連絡の取りやすいよう一階に割り当てられている。……のだが、ライはどうせ殆ど帰って来ないだろうということで、二階の一番奥に追いやられていた。確かに帰るというよりは二・三日泊まりに来るという感覚なので、上の判断は正しいだろう。――ただちょっと遠いなー、とは、思う。
 ともかくも自室(と呼ぶのにも違和感がある)に着いた。鍵はかかっていない。ガリアでは金庫以外、鍵をかけるという習慣がないのだ。帽子を脱ぎながら部屋に入り、鞄も外して床に落とす。腰に巻いた布もその上に降らせてしまって、入り口の正面にある寝台を目指した。
「っあ゛ー!!」
 若者らしからぬ声を上げ、どっかと腰掛けた。半跏で足の布をほどきにかかるが、妙に手間取る。やっと脱ぎ捨てた長靴が床に当たってやけに大きな音を立てた。手の布を巻き取ってから、枕に抱きつくように倒れ込む。覚えていた以上に固い布団だったが、痛がるよりも目を閉じる方を優先した。
 腰を基点に、両脚も寝台の上に回収する。
(着替えんのめんどくさ……あとで風呂、入るときでいいや……の、まえに、めし…………)
 窓際に置いてあったおかげか、シーツは太陽の匂いがする。
 撫でるようなそよ風。小鳥の歌。空に拡がって漂う同胞の声。瞼の内の、適度に光のやわらいだ世界。
 そんなものに溶け込んでいくように、ライの意識は薄くなっていった。

 

「うわやっべ!」
 弾かれたように跳ね起きて、ライは寝台の上に正座した。自分の声で起きたのか起きてから叫んだのか、とにかく目が覚めた。
「あ……あー?」
 ふと我に返り、頭をかきながら辺りを見回す。一体何がやばいのか自分でも分からない(寝坊したような気になったのかもしれない)。寝台から脚を下ろした。ひたり、と床板の冷たさが剥き出しの足裏に伝わる。立ち上がり窓の外を見ると、もう既に星々が輝いていた。
 寝すぎた。一眠りしたら食事をして、入浴して、それからゆっくり本でも読もうと思っていたのに。嘆息しながら扉の方に向き直り、ふと、息を止めた。
 そういえば。歩き回ってみた。足の裏に埃はつかない。乱雑なままにしておいた本棚に歩み寄る。ジャンル別かつサイズ別、更に左から発行年順に並び換えられている。
「ええっと……?」
 引きつった笑みを浮かべて、背表紙に指を走らせた。寝る前からこうだったか? それとも寝ている間に小人さんが……いやそれはない。気にならなかったということはきっと、目につかないように片付いていたということだ。
 心当たりといえば一人ぐらいしかいない。ライはブーツに足を突っ込み、布を雑に巻きつけて縛ると、鞄を引っ掛けて早足で部屋を出た。同じ階のある部屋の前で立ち止まり、ノックする。はい、という声がして、すぐに扉が開いた。
「ライ隊長……!」
「よぉ、キサ。こんばんは」
 驚いたように目を見開いているキサに、ライは小首を傾げて微笑んだ。
「な、オレの部屋の本片付けてくれたのって、お前だよな?」
「申し訳ありません。久々の休暇ですからこちらでお休みになられるのではと……差し出がましい真似を致しました」
 キサは深々と頭を下げた。普段は届かないその頭を、声を上げて笑いながらかき回す。
「なーんで謝るんだよ。片付けんの面倒だなって思ってたんだ、おかげさまでゆっくり寝れたよ。ありがとな」
 手を放すと、キサは上体を上げて少し困ったように笑った。
「そうだ、お前、もう飯食った?」
 ライは問うた。キサは手櫛で髪を整えながら答える。
「いえ、まだですが……」
「じゃあ一緒に食いに行こうぜ。お礼にオレ、奢るからさ」
「えっ」
 ライが続けると、キサはその場で固まってしまった。あ、と呟いてライは頭をかく。
「悪い、お前にも都合があるよな。先約あるなら、無理に今日じゃなくても……」
「い、いえ! お供させていただけるのは光栄なのですが、その……!!」
 キサは両手を顔の前で振った。一瞬きょとんとしたライだが、すぐに合点がいき笑い出す。
「上の機嫌がいいときは、顔立てて素直に甘えときなサイ? これ、世渡りの鉄則」
 キサは微苦笑し、軽く礼をした。
「……はい。ではお言葉に甘えさせていただきます」
「よろしい」
 キサが短時間で支度するのを待って、ライは歩き出した。
「何食いたい?」
「お任せいたします。好き嫌いはございませんので」
「そっか、オレも嫌いなモンってあんま無いんだよな。……んー、じゃ、とりあえず呑めるとこ行くか!」

 

 キサと別れ、千鳥足という程ではないが、多分に上機嫌でライは兵舎の廊下を歩いていた。全身に回ったまろやかな熱が心地いい。散々眠った後なのに、まだぐっすり眠れそうだ。窓から見える星空に見とれながら角を曲がる。
(……あれ?)
 ライの部屋の前で誰かが膝を抱えていた。うつらうつらと舟を漕いでいる様子だ。近づいていって傍らに立つ。当の人物はようやく気付いて、顔を上げた。
「……リィレ」
「あ、隊長ぉ。おかえりなさぁい」
 リィレはふやけた笑いを浮かべてライを見上げた。ライは呆気に取られていたがすぐ我に返り、リィレの前にしゃがむ。
「おっまっえっ、なぁ! 何やってんだよ、こんな時間に!」
「だって来たときはまだそんなに遅くなかったんですもん~」
 リィレは手首の辺りで目元を擦った。
「一緒にご飯食べようと思ってたんですよぅ。でも隊長いなかったから、もしかしたらすぐ戻ってくるかもしれないしー、と思って待ってたんですけどぉ……」
 そのうち眠くなっちゃって、リィレは明るく言った。ライは首を大きく横に振ってから、下に落とした。
「食いに出てたんだって。飯」
「んー、途中でそうかもって思ったんですけどね」
 リィレは両手を伸ばして細い指を組んだ。視線を天井に向けて小さく笑う。
「どいた瞬間、ライ隊長が帰ってくるんじゃないかって思っちゃって。そしたら立ち上がれなくなってました」
 リィレはあくまで軽い口調で言った。ライは嘆息する。……理不尽な恨み言の一つも言ってくれれば、もう少し気が楽だったろうに。リィレの頭に、軽く手を置く。
「ごめんな。随分待たせて」
「やだぁ、隊長なんで謝るんですか? そんなこと言われたらもっと好きになっちゃう」
 リィレはくすぐったそうに身をよじった。ライは思わず苦笑をこぼし、リィレの手首を掴んで立ち上がる。
「送ってく。それくらいはさせてもらえるんだろ?」
「ええっ!? でも今日ご飯いらないって言っちゃったから、帰っても何にもないんですけどぉ……」
 リィレは目を伏せて尻尾を揺らした。少し口唇を尖らせているのは、父親や姉にどやされるのを想像してのことだろう。ライはため息をついて、リィレの肩を叩いた。
「分かった。何か軽く作ってやるよ。それ食ったら帰るんだぞ?」
「ホントですか!? やーったぁ、待っててよかったっ」
 リィレは素早くライの腕を取って、階段の方へ歩き出した。肩の辺りに頭を擦り付けてくる。
「ライ隊長の手料理、楽しみ~♪」
「おいおい、あんまり期待するなよ。独身男が必要に迫られて覚えた料理なんて、大したもんじゃないぜ」
「いいんですっ! 隊長があたしだけの為に作ってくれるってことに意味があるんですからっ!!」
「……あー、そう」
 もう反論するのも面倒になって空を仰いだ。木目天井しかないけれど。
「それにしても、帽子被ってないライ隊長ってレアですよね。得したって感じ」
「珍しいものが何でも価値がある訳じゃないだろ」
「ありますよー、だってカッコいいですもん。たまには被らないで来ればいいのに」
「やだよ。デコがかゆくなる。邪魔なんだよ髪とか汗とか」
 リィレに腕を引かれながら、食料庫何があるかなぁ、いくら買い足されても目ぼしい物はすぐなくなっちゃうんだよなぁ、とぼんやり考えた。