エインヘリャルの祈り

 世界の凍りついた日。
 全滅の危険を避ける為、女神ユンヌは勇者達を三つの部隊に分けた。
 アイクを将とする部隊の中に、ヨファの名はない。
 アイクはその決定に難色を示した。
 ヨファの配されたミカヤ隊には、既に射手がいる。シノンも含めて、均等に振り分け直した方がいいのでは――というのがアイクの言い分だった。
 無論、それが全てではないことはヨファも気付いている。壮絶な殺し合いを演じたデイン軍よりは、顔なじみの多いラグズ・クリミア軍の方がまだしも、と考えたのだろう。
「いいよアイクさん。もしかして、射手がたくさん必要な状況になるのかも知れないし。何事も経験でしょ? 僕、行って来るから」
 ヨファがそう言うと、アイクもようやく承諾した。
 いい加減こちらも一端の戦士のつもりでいるのに、ヨファとミストだけは別枠で扱おうとするのだから参ってしまう。
 師に一瞬目配せして、ヨファは傭兵団に背を向けた。
「ヨファ!」
 ミストが名を呼びながら駆け寄ってくる。寒さのせいで、息は白く弾んでいた。
「ヨファ、本当に一人でいいの? 大丈夫なの?」
 落ち着かない様子で指先を揉んでいる。ヨファは思わず口許を緩めた。
 いつもは煩わしかった子供扱いが、今はやけに微笑ましく感じる。
「大丈夫だよ。リアーネ様もスクリミルさんもいるんだし、一人きりって訳じゃない」
「でも」
「それよりミスト、ボーレと兄さんのこと頼むよ。特にボーレなんか、放っといたら何しでかすか分からないし」
 肩をすくめると、もう、とミストは泣き笑いのような表情を浮かべた。
 けらけらと笑い返しながら、ヨファはふと、最後かもしれないと思う。
 これから挑む敵は今までの比ではないほど強大だ。
 『女神』などという、得体の知れぬもの。畏れ多いもの。
 人の身で『彼女』に立ち向かうことの報いが、どんなものであるか誰にも分からない。
 彼女の笑顔を見るのも、もうこれで最期になるのかもしれない。
「ミスト」
 敬称をつけぬことにもすっかり慣れた。
 自分はもう、盗賊に怯えて気を失った幼い子供ではないのだと改めて思う。
 ヨファは両手でミストの右手を取った。
「絶対みんなのところに帰るよ。そしたら大事な話があるんだ、そのときは聞いてくれる?」
「それは、今じゃダメな話なの?」
 ミストはすがるような目でヨファを見上げた。雪原の中でその肩は頼りなさげに震えている。
 ヨファは小さな手を握り締め、自分の額に当てた。
 君の強さが、僕に勇気をくれた。
 君の痛みが、僕に覚悟をくれた。
 君の全てが、戦う意味を教えてくれた。
 傷つくことなど恐れない。女神などには怯まない。
 怖いのはただ、君を喪うことだけだ。
「ミスト。僕はどこにいても君を守るから」
 君を想い続けるから。
 もしもこの身が石になっても、魂の凍るその瞬間まで君に祈り続けるから。
「僕のために祈って」
 どうか僕に祝福を――僕のただ一人の女神。
 ミストもヨファの手を両手で包んだ。どちらからともなく、指先に力を込める。
 重なる温もり。二人で一つのいびつな祈り。
「もう行くから」
 ヨファは呟いて指を開いた。ミストが放そうとしないので、少し強めに腕を引く。
 細い指は簡単にヨファの手をすり抜けていった。
 ヨファは黙って今までの居場所に背を向け、馴染みのない者達の方へ歩き出した。
 彼女は泣くのかもしれないと思った。ヨファのために涙するかもしれないと。
 だから自分が泣くのはよそうと思った。
 君が流す涙の分だけ、僕は血を流そう。
 君の捧ぐ祈りの分だけ、僕は矢を放とう。
 君の望む限り、生き続けそして戦い続けよう。
 まるで永遠の決まりごとのように、僕は君の意思を映すだろう。
 いつか必ず女神の黄昏(ラグナロク)を超えて、戦乙女の待つ暁(ヴァルハラ)へと還る。
「あなたの心は氷みたい。堅くて、冷たくて――とても澄んでいる」
 いつの間にか銀色の髪の少女が傍に立っていた。
 白い腕を伸ばし、ヨファの胸に指の先で触れる。まるで人ではないようだ。
 負の女神かもしれないし暁の巫女かもしれない。ヨファにはどちらでもよかった。
 少女は謡うような調子で続ける。
「雪が解ける頃には、氷も融ける。その美しい水の元で、かわいい花が咲いている」
「それは、占い? それとも、君の希望?」
 ヨファが低い声で問うと、少女はすっと手を引き、目を閉じた。
「願い。そして、祈り」
 ねがい、とヨファは口の中で繰り返す。
 傭兵団へ目をやると、ミストがこちらを見ていた。痛ましい顔をして、胸元で両手を握り締めている。
 ヨファは自分の胸に触れた。
 そうだ。僕が望むのは、君の涙じゃない。僕が望むものはいつも一つの筈だ。
 ヨファは右手を高々と上げ、大きく振って見せた。
 ミストは一瞬目を丸くした後、飛び跳ねるようにして振り返してきた。
 弾けるような笑顔。雪と絶望に覆われた世界で、なお輝きを放つ表情。
 ヨファは目を細めてミストを見つめていた。ぼやけていく視界の中に、彼女をずっと収めていた。
 女神(きみ)に誓うよ。絶対に君を悲しませない。
 だから君のために戦おう。君のために生きよう。君のために祈ろう。
 ――僕の願いは、君の笑顔だ。
 それぞれの部隊が出発した。ヨファは暁の団について歩き出す。
 もう振り返らない。
 願いも祈りも、この胸にある。