罪紅に水括る

「いいお天気だね! 狐の嫁入りなんて言葉はきっとヒトの考えた冗談だよ」
「ピエリは人なのよ! お嫁入りするのはニシキじゃないんだから、雨が降ってなくて当然なの!」
「そうか、それもそうだね」
 透魔王国をめぐる戦いが終わった。
 ピエリは婚礼に伴ってマークスの臣の任を解かれ、夫と決めたニシキと共に父に挨拶をした。父は最初、ヒトでない者に嫁ごうとする娘を止めたが、孫のキヌに会わせると態度が一変。お前ぐらいの娘をもらおうというのだから、常人の身では無理なのかもしれない、とこぼし、ニシキとの仲を認めた。
 そしてピエリは無事、妖狐の里に行くことになったのだ。
「ボクの故郷はとても美しいところだよ。ピエリも気に入ってくれるといいな」
「楽しみなの!」
 道中、同じことを繰り返す夫に、ピエリも何度でも同じことを返す。
 だって本当に楽しみで仕方がないのだ。あの美しいもの(と自分)が大好きなニシキがそう言うのならば、さぞかし素晴らしい場所に違いない。浮かれ気分のピエリだったが、隣を行くニシキはふと表情を曇らせた。
 ピエリは暗夜の民謡を口ずさむのをやめ、夫の顔を覗き込む。
「どうしたの? ニシキ。元気ないの」
「いや、キヌも一緒ならもっとよかったのにと思ったんだ。あんなに村を見たがっていたのにね」
 ニシキは苦笑した。子供だ子供だと思っていたキヌの、意外に大人な決断に戸惑っているのだろう。心配ないの、とピエリは笑ってみせる。
「飽きたらこっちにも来るって言ってたの。それに、ピエリも恋した人のいる場所を見たいって気持ち、わかるのよ。今のピエリもそうなの。だからキヌのことは全然心配してないの」
「そっか。女のヒトは強いね」
 ニシキは笑って返した。ピエリはニシキの手を握った。ヒトと何も変わらない、でも少し華奢な手。にっこりと笑ってゆらゆら振る。
「ピエリもニシキと恋人に戻れたみたいで、今とっても嬉しいのよ」
「……そうだね」
 ニシキの指が握り返してくる。いつだって、少し遠慮がちに、壊さないようにするみたいにピエリに触れる。その気遣いと臆病が、ピエリは心底愛おしい。
 ある山の麓で、ニシキは立ち止まった。ここを越えていくのだろうか? 青々とした稜線を眺める。随分大変な旅になりそうだ。しかしニシキは、くるりとピエリを向き直りこう言った。
「着いたよ。ここがボクの故郷だ」
「へっ?」
 ピエリは面喰らう。その間にニシキは、ちょっと待ってて、と手を離した。
「ここから先に進むと察知されてしまう。妖狐は山に入るヒトに容赦しないからね。ボクが先に行って、キミがボクのお嫁さんだってことを説明するよ」
「え、ちょ、ちょっと待ってなの!」
 ピエリの制止も聞かず、ニシキは狐の姿になって木々の奥へ消える。
 ええ~……と呟いて、ピエリは周囲を見回した。何もない。服屋も、菓子屋も、雑貨屋も、食材を調達するための店はおろか、この様子では恐らくまともなキッチンもない。
「本当に、何もないの……。これからピエリ、お買い物もお菓子もお化粧もお料理も、可愛いものも全部諦めて生きていくの……?」
 目の前にあるのはただ木。葉。草。緑緑緑。これではどれだけ、ピエリの大嫌いな虫が潜んでいるか。けれど虫を殺さないことは、ニシキとの大事な約束である。破れない。
 ふええ、とピエリは座り込んで泣き出した。
 ニシキのお嫁さんになる、ということを、ピエリはピエリなりに覚悟して決めてここへ来たつもりだった。
 けれど、これはあんまりだ。ピエリの好きなものが何にもない。憂さ晴らしに殺していい従者もいない。ニシキだけはいるけれど、ニシキは里の長だというからいつでもピエリが独占出来るわけではない、ということぐらいは解る。寂しくてイライラしてどうしようもないときは、一体どうしたらいいのだろう?
「ニシキぃ、ニシキ早く帰ってきてほしいの……ピエリ不安で不安で死んじゃいそうなの……大好きなキヌもいないのに、ピエリここでどうやって暮らしていけばいいの……?」
 わんわん騒いだところでどうなるものでもない。それでもつらくて仕方なくて、ピエリは塗りまつ毛の溶けた黒い涙をしきりに流している。
 ピエリが泣き止んだのは、そろそろ喉も疲れてきた頃だった。
「おねえちゃん、どうしたの?」
「ふぇ?」
 ピエリはぐちゃぐちゃの目をしばたかせ、その高い声がした方を見た。草むらから大きな耳が覗いている。
「そのお耳……あなた、妖狐なの?」
「おねえちゃんは、ヒト?」
 隠れているつもりなのかもしれないが、ふさふさの尻尾も見えている。本来なら警戒すべきところだろうが、妖狐を伴侶に選び、妖狐を産んだピエリには、むしろ人より彼らの方が信用出来るのだった。
 顔をハンカチで拭きながら答える。
「ピエリはピエリなのよ。ニシキのお嫁さんになるために、ここまで来たの」
「およめさん」
 ぴょこりと小さな頭が飛び出してきた。妖狐の少年だった。人で言ったら十に満たないほどに見える。くりくりした大きな目は、夫のニシキにも娘のキヌにもよく似ている。
「あなた、かわいいの!」
 ピエリが急に立ち上がったので、少年はびくっと身を震わせた。構わずに駆け寄って、ピエリは少年を抱きしめる。
「あなたみたいな子がいるなら、やっぱりピエリこの山で暮らしてもいいの。お菓子とかも少しは我慢してもいいのよ」
「よくわからないけど、遊んでくれるの?」
 少年がピエリの腕の中で身じろぎする。ますます、ピエリはぎゅっとしていてあげたいと思っているのに、じっとしてくれなかった幼い頃のキヌみたいだ。
「いいのよ! でもニシキに山は入っちゃダメって言われてるから、この辺で出来る遊びがいいの」
「わかった」
 ピエリが力を緩めると、少年は勢いよく走り出した。逃げたのかと思ったら、近くにある木に登り始める。
「ヒトのお菓子みたいなむずかしいのはないけど、この木の実は町の方には生えてないって聞いたことあるんだ。とっても甘くて、おいしいよ」
「わぁ、ピエリに取ってくれるの? 嬉しいの! じゃあピエリもこのチョコレート、分けてあげるの。暗夜でもいっちばんおいしいお店のなのよ! ピエリ、これだーいすきなの!」
 ピエリはポシェットの中を漁って、銀紙に包まれたチョコレートを取り出した。様々なナッツを散りばめた高級品だ。
「それ、甘いの?」
 熟れた真ん丸の実を持って、少年がするする降りてきた。ピエリの好きな鮮やかな赤い色だ。大きく頷いて、ピエリはチョコレートを持った手を突き出す。
「とっても甘くて、とろけるのよ! 交換っこするの!」
「ありがとう」
 少年と並んで、木陰に腰かけた。
 まずはピエリが果物をかじる。まるでジュースを飲んでいるような、甘みの強くて瑞々しい果実だった。ピエリは気に入って、すぐに全部平らげてしまった。
 それから、銀紙と格闘している少年の手から一度チョコレートを取り上げ、開いてまた返してやった。少年は焦げ茶色の塊をまじまじ見つめていたが、やがて意を決したように口に入れる。金色の耳と尾が、稲穂の風に揺れるように動く。
「本当だ、とろける!」
「そうなのよ、だけどナッツのつぶつぶがあるから噛むのも楽しいの!」
 ピエリは自分のお気に入りを喜んでもらえたので、両手を挙げて歓声を上げる。
 少年は、銀紙を木漏れ日にかざして輝かせている。
「ヒトはいつもこんなおいしいものを食べてるのかぁ、すごいなぁ」
「いつもじゃないのよ。これは特別なもので、ピエリがお嫁に行くから、相棒だったラズワルドが……ラズワルドが……」
 言いながら、ピエリはまた瞳に涙をにじませた。
 さよならだね、とラズワルドは別れる最後の時まで笑って。ピエリの好きな製菓店のチョコレートを。限定品ですぐなくなるから、毎日朝から並んで集めたんだと腕いっぱいに抱えて。ピエリがどんなに泣いたって、優しく笑ったままで。
 マークスも、お前はもう充分尽くしてくれたから今後は好きに生きるがよい、と言って。もうピエリは用済みなのと泣いたら、それは違うぞとお説教をくれた。自分はピエリがとても大事だから、縛り付けたくないから手放すのだと。もし万一ニシキにひどいことをされたら、いつでも戻って来いと、とても綺麗なブローチをくれた。ピエリが今、斜掛けにしているポシェットについているのがそうだった。
「マークス様……ラズワルド……」
 二人の顔が浮かぶ。難しい顔と朗らかな笑顔。
 もう会えないの。もういないの。ピエリは今だって二人のことすごくすごく大好きなのに。とっても悲しいのに、ニシキもキヌもピエリを置いて行っちゃったのよ。
 もうどうしたらいいか教えてくれないの? もう一緒にお茶してくれないの?
 ――ねぇ、ピエリ、寂しいの。
 鼻をすすると、少年が小さな手を伸ばして、こわごわ頭を撫でてくれた。ピエリは顔を上げる。少年は、耳を伏せて口唇を尖らせた。
「もっとおいしいもの、たくさん持ってきてあげる。元気出るよ」
「……ありがとうなの」
 自分の娘より幼い――それとも実年齢なら年上なのだろうか――子供に慰められて、ピエリは手の甲で濡れた目を拭いた。少年は頷き、獣の姿になって、たっと駆け去っていく。
 ピエリは呆と青空を見上げていた。
 暗夜にいた頃は、こんなに綺麗な色をした空があることを知らなかった。特に朝焼けや夕焼けといった、真っ赤な空が気に入った。これからはそんな空をいつでも見ることが出来る。
 そう思えば、暗夜を出てきたことも少しは意味があっただろうか。ぽつりと呟く。
「あんまり他の男の人の名前ばっかり言ってたら、ニシキがヤキモチやいちゃうの」
 さよならと。好きに生きろと。二人は言ってくれたのだから。
 ピエリもちゃんと『さよなら』して、『好きに生きて』いかなければ。
 ブローチのついたポシェットから、チョコレートを一粒取り出す。
「ラズワルド。マークス様。本当に、ありがとうなの」
 ピエリ、頑張って、元気に生きていくのよ。ピエリは、ニシキの傍できっと幸せになるのよ。
 だから二人も、元気で生きていってほしいの。
「さよなら」
 歳相応の口調で発した別離の言葉は、最後の一雫だけを頬に許した。
 なんだか疲れてしまって、ピエリは木に寄りかかって、うとうととまどろむ。
 野太い声が降ってきたのは、ピエリが今にも眠ってしまいそうになったときだった。
「おい。あんた、妖狐じゃねぇな。人間か?」
「うーん……誰……ピエリは眠いのよ……」
 重いまぶたを持ち上げると、見覚えのない男が立っていた。
 だが分かる。ピエリの殺戮者としての本能が嗅ぎ分ける。まともでない量の血を浴びてきた匂いだ。
「同業、ってわけでもなさそうだな。迷子ってとこか」
「おじさん、誰なの? なんだかとても嫌な感じがするのよ」
 最早ピエリに眠気はなかった。立ち上がりはしないが、軽く腰を浮かせる。男はにやにやと笑って、背中の矢筒を示した。
「なに、お嬢ちゃんはそこでじっとしてればいいだけさ。俺の狩りを邪魔しなければそれでいい」
「狩り」
 ピエリは硬い声で繰り返す。この山に暮らしているのは主に妖狐のはずだ。他に狩れるものなどない。得意げに語る男の声が頭にガンガン響く。
「知らないのか? 戦闘状態の妖狐の毛皮は高く売れるんだ。ちょっと脅かして、獣の姿になったところをこいつで射抜く。刃物はダメさ、アレじゃ毛皮が血に染まっちまって――」
「うるさいの」
 短く言い捨て、ピエリは両手で男の喉を狙い、下から一直線に身体を突き出した。男が倒れる。矢がこぼれる。ピエリの手がそれを掴む。
『いいかいピエリ、ボクの故郷に行く前に約束』
『ええ~!! また約束が増えるの!?』
『増えるというより、もう少し範囲を広げるんだよ』
「ま、待て! なら協力しよう、あんたが妖狐をおびき出してくれたら、連中で稼いだ金の分け前を……!!」
「うるさいのよ。邪魔なの。死ねばいいの」
 ピエリは男に馬乗りになっていた。怒鳴りながら抵抗する男の右の眼球に真っ直ぐ矢を突き刺す。絶叫。のたうつ男にまたがったまま、ピエリは次の鏃を喉に振り下ろす。
『ボクらと一緒に暮らすなら、虫に限らずムダな殺生は一切ダメだ』
『何も殺せないの!?』
『そうだよ。狩りのとき、ボクの指示の下で仕留める以外は絶対にダメ』
 男の腰から短剣を抜いた。肺を。肺を。肺を。心臓を探すより先に胸一帯を滅多刺しにする。一刺しごとに小さな噴水が。
『剣も没収。ヒトの領域に行くときしか持ったらいけない』
『腕がなまっちゃうのよ!』
『いいよ。ピエリはボクが守るからね。キミはもう何も殺してはいけないんだ、解ったね?』
『絶対?』
『そうとも――』
 男が血を吐く。太い指が痙攣して。変な声が出て。動かなくなって。
『絶対だ』
 何かが、落ちた音がした。
 ピエリは上を向く。妖狐の少年だった。今までピエリが人を殺した後、向けられてきた視線と同じものが注がれていた。少年は後ずさって、目を逸らし、黙って走り去っていった。
 色とりどりの木の実だけが地面に転がっていた。
「血……なの……」
 ピエリはかすれた声で呟いて、自分の両手を見下ろした。
 真っ赤だ。鮮血で染まった、鎧のない自分の服。服だけではない。ブローチの台座に納まった透明な宝石の表面を、どろりと流れる。
「変、ピエリ、変なの」
 あんなに楽しかった人殺しが。
 あんなに好きだった赤が。
 あんなに落ち着いた血の匂いが。
「嫌……どうしてなの……?」
 少しも、喜べないなんて。綺麗に見えないなんて。厭わしいなんて。
「おかしいの、おかしいの」
 ピエリは男の死体をなおも刺す。胸といわず顔といわず目に付いた箇所は刺してみる。
 血が。血が。血が。
「どうして、綺麗じゃないの、どうして楽しくないの」
 こんなことに一体何の意味があるのかと。そんな、恐ろしいことを、思う。
「意味……意味?」
 ピエリは短剣を落とし、血塗れの手で頭を抱えた。
 確かラズワルドと、大事な話をしたはずだ。今すぐには無理だけれど、いつかと――。
「あ、ああ……」
「ピエリ!!」
 待っていた声のはずなのに、嬉しいとは思わなかった。ピエリは下を向いて、駆け寄るニシキの足音を聞いていた。
 流れる涙が返り血を含んで薄紅になって伝い落ちる。そんなもの、自分を洗い清める助けにもなりはしないと知っていた。
「キミが、殺したのか」
 ニシキは静かに言った。どんな目をしているのか見るのが怖い。それでも逃げられないのは解っていた。覚悟を決めて顔を上げる。
「ニシキも、ピエリを殺すの?」
 だが視界がにじんでニシキの姿は見えない。安堵した。見たくなかった。ニシキは、ニシキだけは、あの視線をピエリに向けないでほしかった。
 少年が落とした果実が、ニシキの足に当たって転がっていく。ニシキの緊張した声が耳に届く。
「どうしてボクがキミを殺すんだい」
「男の人は、好きな女の人が思うとおりにならないと殺すのよ?」
 ピエリは目を閉じた。思い出した。覚えていた。悪いことをしていない従者を何故殺すのかとラズワルドに問われて、家族の死について考えたこと。
「ピエリのお母さん、そうだったの。そうやって従者に殺されたの。従者はお母さんのこと好きだったのに、お母さんはちゃんとお父さんが好きだったの。だから従者はお母さんを自分のだけのものにしたくて刺したのよ」
「ピエリ、いいからそこをどくんだ」
 ニシキの手がいつになく荒々しくピエリの腕を掴む。ピエリは抵抗出来なかったし、する必要もない。男の死体から引きずりおろされて、乾いた地面に座り込む。冷たかった。魂を失った人間の骸よりも冷たかった。
「ピエリ、約束守れなかった悪い子なの……こいつを殺したんだから、ピエリもニシキに殺されるのよ」
「どうして急にそんなことを言うんだい。キミは人殺しを止められるのを、あんなに嫌がっていたはずだろう」
「どうして……?」
 ニシキの手はきっとあたたかいはずなのに。ぬくもりを感じない。感じられない。嬉しくない。楽しくない。
 ピエリはニシキを突き飛ばした。これ以上、近くにいられることに耐えられなかった。会いたくて。大好きで。ずっと傍にいたくて、こんなところまで来たはずなのに。
 自慢にしていた髪を振り乱して叫ぶ。
「どうして!? どうして!? 今まで人を殺してたときと同じなのに、ちっともスッキリしないの、血が全然綺麗じゃないの、赤くて赤くて赤くて汚くて気持ち悪いの!!」
 実家の台所で横たわっていた母。幼いピエリはその意味も解らずに。
 ただその赤さと。痛みと。遣り場のない怒りだけが残って。
 それはとても重すぎて、ピエリの心を前に進ませてくれなかった。
 言葉遣いも、気持ちも、あの時のまま。ピエリは内側の時計の壊れた、人を殺める人形になった。
 復讐という単語も、仇とその他の判別も、悲しみという概念も知らないまま。
 そして今、人形の奥で眠っていた心は、覚醒の悲鳴を上げている。
「もういやああああ!! 誰も、誰も助けてくれないの!! もう誰もいない、ピエリも死ぬのよ、お母さんみたいに殺されて、潰されたトマトみたいになるのよ!!」
「ピエリッ!!」
 ――絞め殺されるのかと、思った。ニシキはそれくらい強く、ピエリの身体を抱き締めた。
 否応なくニシキの体温が伝わってくる。あつい、とピエリは胸中で呟く。やっと感じた、プラスの温度。
 ニシキは腕を緩め、ピエリの頬を両手で包んだ。ニシキの美しい手にも、返り血がにじんでいく。
「ボクがいるから。昔のお母さんじゃない。今のボクを見るんだ」
 ニシキはきっぱりと言った。稲穂色の瞳は、真っ直ぐにピエリの瞳を見つめている。
 今までピエリが浴びてきたどの視線とも違う。ただ純粋に、ピエリを繋ぎとめようとする意志。噛んで含めるように、一言一言丁寧に言葉を紡ぐ。
「ピエリは、あの子狐を助けたじゃないか。あの子もあの子の両親も、泣いてキミに感謝してる。ボクら里の妖狐も全員だ。そんなにたくさんの心を、キミは救ったんだよ。なんで自分だけは、誰にも助けてもらえないなんて思うんだい?」
「だってピエリ、ニシキとの約束……」
 引きつる喉でそれだけ答えた。うん、とニシキは微笑んだ。やわらかく揺れる毛並みのような、優しい笑み。
「どんな理由があれ、命を摘み取るのは悪いことだね。だけどボクだって、戦場でたくさんの人を殺しただろう? あれは悪くないからやってたんじゃない。悪いことだけど、それ以上に大切なものがあったから、覚悟を持って誰かの未来を奪った」
 ニシキの両手には、ピエリの落とす雫がどんどんたまっていく。
 それでも彼は、意に介することすらせずに、受け止めてくれている。
「キミはもう、人を殺すことが悪いことだってちゃんと解ってる。それでもこの男を殺したのは、ボクらの同胞を守ろうと決めてくれたからじゃないのかい。そいつはキミより、生きる覚悟で劣ってただけのことだよ」
「ピエリ、そんな難しいこと考えてないの。夢中で……気付いたら、殺してたの」
 ピエリはしゃくり上げる。ニシキはピエリの頬の両手を外した。
 そして、投げ出されたままのピエリの両手を、宝物のように拾い上げる。祈るように、真っ赤なピエリの手を口許に寄せる。
「でも、ボクたちはそれで助かった。だったらそれは、ボクら全員の罪だ。キミだけが背負って償うことなんてない」
「全員の……」
 ピエリは思わず繰り返した。
 お前は酷い大罪人だと言われたこともある。狂っているとも悪魔とも。責任は私が取ると言われて、勝手に振る舞ったこともある。
 けれどニシキは。ピエリの夫になる男性は、責めることも好き放題もさせなかった。共に罪を償おうと、初めてそう言ってくれた。
「ボクらはいつだって、何かを奪いながらしか生きていけない。だけどそれを最低限に抑えようと生きることこそが、美しいとボクは思うんだよ」
「ピエリも……? ピエリも、美しく生きられる……?」
 ニシキの指に冷え切った指を絡める。勿論、とニシキも指を組んでくれる。
「キミはとっても綺麗だよ。ピエリ」
「でもピエリ、真っ赤なのよ? 赤いのはもう、綺麗じゃないって、思うの……」
「そうかな?」
 ニシキが急に力を入れて、ピエリごと立ち上がった。おいでと叫んで走り出す。手を繋いだまま、山の中に駆け込んでいく。
「ニシキ! どうしたの!?」
「見ててごらん! 長い時間は出来ないから、ちゃんと目を開けていて!」
 ニシキは足を止め、目を閉じて何やら力を入れた。
 刹那。不意の風が、ピエリたちの足元から山肌を滑り抜けていく。
 木々のつけた緑の葉が、紅に染まっていく。見渡す限り、山の色が変わる。
 青い空と、白い雲と、鮮やかな赤。暗夜王国という常闇の中では、見ることの出来ない彩。
 悲しくなど決してないのに、泣きたくなるような風景。
 けれどそれは、ピエリが一度瞬きを我慢した間だけの、短い幻だった。
「綺麗、だったの……」
「そうだろう?」
 ピエリが思わず呟くと、ニシキは力を抜いて肩をすくめた。
「ボクたち妖狐は、霊力の強いこの山でなら幻術を使うことが出来るのさ。でも秋になったら、幻術なしでも木々は紅葉してこんな色になるよ」
 今度は、いきなりでも強引でもなかった。ニシキはいつも通りゆったりと、ピエリを誘う。
「川まで洗いに行こう。嫌な赤は落としてさ、またいつもの素敵なピエリを取り戻そうよ」
「……うん」
 ピエリも導かれるままに、ついていく。見も知らぬ山だけれど、もう怖くなかった。
 どんなに不便でも、今まで好きだった他の何がなくても、気まぐれな殺生が出来なくても、彼がいてくれればピエリはきっと幸せに生きていける。
「ピエリ、ニシキが好きよ。思うとおりにならなくても、絶対殺さないの」
 ピエリはニシキの手の甲を、指先でくすぐった。ニシキが笑いながら、金色の尾を揺らす。
「ボクもだよ。ピエリが言うことを聞かない悪い子になっても、殺さない。いい子に戻るまで何度だって叱るからね」
「お説教はイヤなのぉ」
「じゃあ、なるべくボクを困らせないでおくれよ?」
「頑張るの。ピエリ、ずっとずっとニシキの隣にいたいのよ。大好きって、ピエリが死ぬときまで、ずっとずっと言い続けたいの」
 汚れた赤は、きっともう二度と洗い去れない。
 それでも山を潤す清流に、少しずつ絞っていけたら。
 いつか、この身も誇らしい色に染まるだろうか。
 あやかしに嫁ぎて青き狐山、罪紅に水括るとは。