お味はいかが

 ある星の綺麗な夜である。というより雨の降らない星界は毎日星が綺麗である。
 人払いをした食堂には三人の影しかない。テーブルの傍に立ったピエリが、大きく両手を広げてみせる。
「ねぇサクラ王女、これぜーんぶピエリが作ったのよっ!」
「わぁ、ピエリさんってお料理とっても上手なんですね!」
 競い合うように並んだ豪華な皿々に、白夜王国第二王女サクラは目を輝かせた。向かいに座ったマークスもそれを見て満足した。
 まず食文化から暗夜に好意を持ってもらおうという試みは、今のところ上々の首尾だ。サクラは両手を合わせて、ピエリの力作に興味津々の顔だ。
「すごいです、ピエリさん。本当に私もご一緒してよろしいんですか?」
「もちろんなの! ピエリ、マークス様に頼まれて一生懸命がんばったのよ」
「そうなんですか……マークスさん、お気遣いありがとうございます」
 そんな風に上目遣いで恐縮されると何だかむずがゆくて、マークスは、礼には及ばないなどとんちんかんな返しをするのみである。ピエリは両手を後ろで組み、んーっと伸びをした。
「じゃあマークス様、サクラ王女、また明日なの」
「えっ? ピエリさん、一緒に召し上がらないん……ですか?」
 サクラが訝しげに腰を浮かす。ここにいたって、マークスは雲行きのあやしさに気付く。ピエリはけろりとした顔で返す。
「マークス様には、サクラ王女と二人で食べるお料理を用意してほしいって言われたの。だからピエリは、あまったのをラズワルドに分けてあげて他のところで食べるのよ」
「そんな、そんなの寂しいです! こんなに席が余っているんですから、ラズワルドさんの分もあるのなら四人でいただきましょう?」
 サクラが完全に立ち上がってピエリの手を掴む。いいの? とピエリは無邪気にそれを握り返す。
「サクラ王女がいいならそれがいいの! ピエリ、他の人がピエリの自慢のお料理おいしいおいしいって食べてくれるの見てるの大好きなのよ! ねぇマークス様、ピエリたちも一緒はダメなの?」
「……それは」
 マークスは眉間にしわを寄せる。無論よくはない。よくはないが、ここで断ればマークスの立場が悪くなること請け合いである。眉間を押さえて、マークスは呻くように、ラズワルドを呼んで来いとピエリに命じたのだった。

 

「そりゃあマークス様が悪いですよ」
 食後、サクラは食堂から出て行き、ピエリは片付けのために厨房に戻った。
 何がいけなかったのかと思案するマークスに、ラズワルドが頬杖をつきながら言った。何のことだと言い返すと、丸分かりの御託はいいですと切り捨てられる。
「完全に作戦ミスですよ。マークス様って本当に根っからのオウジサマですよねー」
「そ、それの何がいけない!」
 マークスは真っ赤になって否定した。王子であることは彼の誇りである。それを侮辱することはたとえ自分で選んだ臣でも許されない。
 だがどこから来たのかも知らず、いつも女の尻ばかり追いかけている男の言うことだから、頭ごなしに叩き潰せないのだった。口をついて出るのは情けない言い訳だ。
「サクラ王女も、生まれながらの王女だろう!」
「あー、僕の言ってることは体質の話で、血統の話ではないです」
 そんな苦し紛れも、ラズワルドにはさらっと流されてしまった。
 厨房の方からピエリの調子外れの鼻歌が響いてくる。マークスは咳払いして姿勢を正した。
「では聞こう、ラズワルド。私のどんな性根が曲がっているのだ」
「いえ、曲がってはないと思いますけど。むしろ筋金入りのような……。だから柔軟なサクラ王女には届かないんじゃないですか?」
 自分も誰一人口説けたことがないのに随分な言いようだ。しかしマークスも意中の女性と相思相愛になったことがないのは同じなので、口を挟めなかった。ラズワルドは調子付いたように、立てた人差し指など振り始める。
「もしですよ。マークス様がサクラ王女に、『ツバキさんが作ったんです』ってディナーを振る舞われたらどうします?」
「……それは」
 答えにくい問いを突きつけてきたものである。マークスが口ごもると、正直に! とラズワルドは手を突き上げる。眉間を押さえて強く目を閉じ、うなだれながら息継ぎなしにマークスは本音を垂れ流した。
「…………サクラ王女の顔を立てその場は笑顔で食事を済ませるが内心穏やかではないし次誘われたら恐らく断らせてもらう」
「それ! です!!」
 ラズワルドの両指がマークスをびしっと差すのが分かった。心から不敬であるが罰する気力が微塵も湧かない。
「ピエリ、ホントはちゃんとマークス様とサクラ王女を二人にしてあげようと思ってたのよ? でもサクラ王女が一緒に食べたいって言ってるの断ったら、マークス様嫌われちゃうかもと思ったの」
 ピエリが手を拭きながら戻ってきた。早いなと言うと、ピエリお片付けしながら作るからすぐなのよ、と意外に要領のいいことを示された。
 マークスは腹の底から嘆息する。臣下にこれだけ気を遣わせて、想いを告げるどころか進展もしていないとは。つくづく情けない。自分を支えてきた暗夜王国第一王子などという肩書きが、こんなとき露ほども役に立たないのだから。
「成程、話は大体分かった」
「うわ!?」
 前触れなくラズワルドの上げた悲鳴に、マークスは悲鳴さえも忘れて硬直する。
 テーブルの影からぬっと立ち上がったのは、弟のレオンだった。
「れ、レオン。いつの間に」
「これ? ゼロに教わったスニーキングというやつ。マークス兄さんが封鎖したはずの食堂からサクラ王女が出てきたから、何事かと思ってね。マークス兄さんの恋路の成否はそのまま暗夜の王妃を決定付けるものだし、僕も及ばずながら協力させてもらう。あ、決して面白そうだからじゃないよ?」
「そうよね、私も未来のお義姉様を選ぶなら、お兄様の好いた女性がいいわ……ぜひ手伝わせて。いえ、別に面白そうだからじゃないのよ?」
「カミラまで……」
「ねーおにいちゃんサクラと何のお話してたの? 面白そうだからまぜてよー!」
「よしわかったお前たち面白がっているな?」
 きょうだいが次々とやってきて、勝手にマークスと同じテーブルに座り始めた。
 こうなっては隠し通すのも無理である。ピエリとラズワルドは勝手に詳細な説明を始めているし。
「それでは、サクラ王女の心を射止めるための会議を始める」
 いつの間にか議長はレオンになっていた。
 当事者のマークスの発言権はどうやら奪われた。席は中心なのに腕組みをして難しい顔で黙っているぐらいしか仕事がない。
「はい!」
 元気よく手を挙げたのはラズワルドだった。ろくな予感がしない。
「僕、最近カザハナとよく話をするんですけど。サクラ王女って、誰かから何かしてもらうとすごく恩義を感じるみたいなんですよね。今回アレでしょ、頑張ったのはピエリでマークス様何もしてないじゃないですか」
 今のは刺さった。マークスは胸を押さえる。物理的にダメージを受けた訳でもないのにひどく痛い。
 でもでも、とピエリも負けじと声を張る。
「サクラ王女は食べ物が大好きだから、タクミ王子は喜んでほしくていつもお土産たくさん買ってるってヒナタが言ってたのよ! 今日もピエリのお料理おいしいっていっぱい食べてくれたの、ご飯で釣るのは間違いじゃないのよ!」
 痛い。自分のやろうとしていたことの浅ましさを改めて思い知らされ実に胸が痛い。マークスはおずおずと右手を挙げる。
「ピエリ、その……確かに私の発案だが、もう少し手心を加えてくれてもいいのではないだろうか」
「手心じゃないの! 真心なの!!」
「ていうか実際兄さんはセッティング以外何もしてないんでしょ?」
 レオンの正論が耳にも痛い。ふう、とカミラが浅いため息をついた。
「真心、ならお兄様がご自分でお料理を振る舞うしかないんじゃないかしら?」
「だがこんな理由で男子が厨房に立つなどと……」
「『こんな理由』も男子も王子もないわ、お兄様。サクラ王女が自分で努力した人を評価する人柄なのであれば、ご自分でがんばるしかないじゃない。好きな女の子よりプライドを取るなら別だけれど?」
 カミラは涼しい顔で言ってくる。妹にまでこの言われようで情けないにも程があった。
 そうだ、とエリーゼが手を叩いた。嫌な予感しかしない。
「サクラは甘いもの大好きなんだよ! 暗夜のお菓子が食べてみたい~ってこの間すっごくうっとりした顔で言ってた! おにいちゃんお菓子作ってみたら? サクラきっと喜ぶよ!」
「それは……手配するのでは駄目なのか?」
「ダメだよ~」
「何を聞いてたんですかマークス様?」
「兄さんが自分でやるから価値があるんでしょ?」
「観念したら、お兄様」
「なの!」
 この様だ。マークスは肩を落とした。
 本来行軍中、こんなことにうつつを抜かしている場合ではないのだろう。世の中の長兄たちは、きょうだいや配下にお膳立てされて色恋を進めはしないのだろう。だが、だがしかし。既にここまでになってしまったので。黙れ、無用だ、放っておけ! と突き放すことが、マークスには出来なかった。
 ――こうなれば。
 ぎっと前を見据え、机を叩いて立ち上がる。
 ――もう、彼らの口車に乗って、作戦を遂行するより他にないのだろう。
「よし、ではこれよりサクラ王女と国際的な親睦を深めるための作戦を開始する!」
「ねぇこの期に及んで逃げ口上やめなよ兄さん」
「暗夜王国と白夜王国の恒久的和平のため、各々尽力されたし!!」
「ようするに、サクラをマークスおにいちゃんだ~いすきにさせちゃえばいいんだよね!!」
「要しすぎよエリーゼ、お兄様の体面も少しは考えてあげて」
 妹たちの会話は聞かなかったことにする。
「まず作戦時間を確保するため、行軍を止めさせる。ここで私たちの主観的時間が動いても、元の世界の客観的時間には影響しないからな。ついては――カミラ!」
 カミラに視線を送る。カミラは、得たりとばかりに頷いた。
「ええ。いつも以上にあの子に構い倒して、そろそろ出ると言い出す暇もないようにすればいいのね。分かったわ」
「……レオン」
「うん、ちゃんと見張っておく……」
 レオンがげんなりした顔で呟く。一番頼りになる相手を一番遠いところに配置してしまった。
 不安が残るが仕方ない。元々マークスが成さねばならぬミッションである。
「ピエリは私に菓子作りの指導をしてくれ」
「わかったの!」
「エリーゼはサクラ王女の好みを教えてほしい」
「はぁい! がんばるねっ」
「ラズワルドはサクラ王女の誘導を」
「出来上がるまでは食堂に近づかないようにしてもらえばいいんですね、分かりました!」
「だったらルーナにも頼むのはどう? あの子最近あの天馬くんとよく話すみたいだから。ベルカには食堂の入り口を見張っててもらいましょう」
「それはいいね、じゃあ僕もゼロを食堂の見張りに回すよ。オーディンは……まぁ臨機応変に遊撃かな」
 何だかどんどん大事になっていくうえに、オーディンが持て余され気味で不憫だ。
 ともかく、マークスは――やることの規模に対して大袈裟に――雄々しく号令を下す。
「諸君らの活躍に期待する、散開ッ!!!!」
 かくして、『サクラにマークスおにいちゃんのこと「だぁいすき」になってもらおう大作戦』(命名エリーゼ)は開始されたのであった。

 

「チェリーパイを焼くのよ!」
 現場指揮官のピエリが大きなかごに入れて抱えてきたのは、大量のチェリーだった。白夜のサクランボと違い、色が濃くて大粒だ。
「最後にナパージュでキラキラにするとすっごく綺麗なのよ! サクラ王女もうっとりなの!」
「……お手柔らかに頼む」
 いきなり敷居の高そうなことを言われ、改めて不安がよぎるマークスであった。一体何なのだナパージュとは。伝説の剣豪のような名をしおって。内心で毒づいていたので、エリーゼが無邪気に、それなぁに? と聞いてくれて助かった。果実の艶出しをする仕上げ処理のことらしい。そうならそうで簡単に言ってくれればいいのに。
 しかし、自分の無知を棚上げしてピエリを責めても仕方ない。せっかくエプロンも用意したことだし、気合を入れて取り掛からねば。
「よし! ではピエリ、私は何をすればいい?」
 気合充分のマークスに、ピエリは笑顔でかごを差し出す。
「枝を全部取って傷んでるのをえいって捨てて、綺麗なのだけ洗って種を抜いてほしいの!」
「わ、わかった」
 マークスは井戸水を汲んだ水場で、チェリーの検品に入った。
 緑の茎をちぎっては投げちぎっては投げ、たまに乱暴にしすぎて実まで剥がして。冷水にすぐ手がじんじん痺れてくる。剣を振るのは何百回でも平気なのに。種を抜くのも一気に何個も出来るわけでなく。傷んでいるといっても元の色が暗いし、瑕もどこまで許容してよいやら線引きが難しい。
 エリーゼが横でおしゃべりしながらマークスの弾いたものを片付けてくれているが、もし一人でやっていたら気が滅入っただろう。始まりはかくも地味で地道な作業なのか。製菓の道は思った以上に険しい。
「マークス様ー、材料並べ終わったのよ。量るのはマークス様がやってほしいの」
「そうか、量ればいいのだな?」
「そうなの! ピエリがちゃあんと教えるから大丈夫なのよ!」
 厨房に戻ると、そこには小麦粉や砂糖とラベリングされた袋が並んでいた。
「この中からどれぐらい使うのだ?」
「今回は大体七オンスぐらいずつなの」
「七……! 小麦粉も砂糖もか? 過剰摂取ではないのか!?」
 暗夜の平均的な角砂糖一個の重さは概ね〇.一オンスである。単純計算で七十個分ということになる。
 そうよとピエリは何の気なしに答えた。
「フルーツの甘みがあるから少ない方なの。たとえばパウンドケーキは全部の材料が一ポンドずつだからそう呼ぶのよ」
「いち、ぽん、ど」
 ポンドはオンスの十六倍。つまり角砂糖に換算すると……。
「……菓子が高価で健康に悪い理由が分かった。即刻規制すべきだ」
「えー!? なんでなのー!?」
「ご飯の代わりにお菓子を食べてるんじゃないんだから、いいじゃないー!!」
 マークスの決意は、ピエリとエリーゼに即時却下された。そうは言っても、その危険物質を放置するのはいかがなものか。
 エリーゼは頬を膨らませて断固抗議してくる。
「そもそも、どうしておにいちゃんはお菓子を作ろうとしてるの? サクラが好きだからでしょ?」
「そ、それは……!」
「サクラが好きなもの禁止しちゃったら、サクラは隠れて食べる子になっちゃうかもよ? おにいちゃんはサクラを悪い子にしたいの!?」
「さ、サクラ王女に暗夜の法は適用されない!」
「でもいつかはお嫁さんにしたいんでしょー!?」
「くっ……!!」
 埒が明かない。マークスは顔をチェリーほどに赤くして反論の言葉を探している。
 いきなり、がんと大きな音がした。驚いて振り向くと、ピエリが鍋を置いて素っ頓狂な声を上げていた。
「コンフィチュールを作るの!」
「なんだ急に!」
「マークス様のお話は、むずかしいし長いのよ!」
 またこれまで以上に一刀両断だった。ピエリは苛立ちを隠そうともせず、鍋を何度も叩きつける。
「サクラ王女に喜んでほしいからお菓子作るの、それ以上いらないのよ? 戦場で身を守れない戦士は邪魔だってマークス様いつも言ってるのよ? キッチンは戦場なの! 何もしないなら出て行ってほしいの! ピエリとエリーゼ様だけでサクラ王女にパイ焼いちゃうの!!」
「わーい、そうしようピエリ! 臆病者のマークスおにいちゃんなんて放っておいて、三人でお茶しようよ!」
 エリーゼがピエリの傍ではしゃいでいる。
 臆病者の謗りを受けて聞き流せるほどマークスは寛容ではなかったし、『三人でお茶』という言葉を聞いてピンときた。下がりかけていた袖を、改めてめくり直す。
「そうだな、分ければいい。一人頭に換算したとき栄養過多にならなければいいのだ。……続きをやるぞピエリ、エリーゼ! 成功した暁には、残りは全てお前たちに下げ渡す!!」
「そうこなくっちゃなの!」
「うん、四人で分けっこしようよー!」
 飾り用のチェリーを取っておいて、残りを砂糖に漬けておき、水分が出てきたら洋酒で煮詰める。ピエリは控えめだと言うが、それでも砂糖の分量はマークスが軽く眩暈を起こすレベルだった。健康面も勿論ある。しかしそれ以上にこの令嬢は恐らく、暗夜における砂糖の流通価格を知らない。
 こんなに使っているのなら、菓子そのものの値段設定をもっと見直さないと、商人も職人も商売上がったりではないだろうか? しかも手間もかかっているのだし。賃金はどれだけなのだろうか。帰ったら早急に調べて適正かどうか判断しなければ。
「おにいちゃん、代わるよ。パイ生地作るってピエリが呼んでるから」
「あ、ああ。すまない」
 エリーゼに言われて我に返る。木べらを渡す直前、とんとん、とエリーゼは自分の眉間を叩いた。しわが寄っていると言いたいのだろう。マークスは苦笑して火の傍を離れ、ピエリの方へ向かった。
「この粉に手を突っ込むのか……」
「木べらもあるのよマークス様? ある程度まとまるまではこれを使ってもいいの」
「そ、そうか」
「でもピエリはかたさが分かる方がいいから、いつも最初から手を使うの」
「……ならば私もそうする」
 ピエリはもっと感覚的にものを教える――というより伝えるタイプだと思っていたが、蓋を開けてみれば随分しっかりとした理屈で、製菓の基本をマークスに指導するのだった。
 まだ途中ながら、やってみてマークスも分かった。菓子作りとは寸分の誤差や油断が、取り返しのつかない致命的な失敗となるのだと。気が短く飽き性のピエリだが、今は計量や手順に妥協を許さない。戦場で命を繋ぐため、武器の手入れだけは怠らぬのと同じように。
「キッチンは戦場、か」
「マークス様?」
「いや、何でもない」
 素肌に触れる小麦粉の細かさが、刻まれたバターのやわらかさが、こんな風であることをマークスはずっと知らなかった。知ろうともしなかった。知る必要はないと思っていた。彼は暗夜王国第一王位継承者、マークス王子殿下その人なのだから。厨房に立つのは彼の仕事ではない。これからも、きっと永劫。
 だからこそ――マークスはにじんだ汗が混じってしまわぬよう、腕で汗を拭う。
 だからこそ、今ここで経験した労働を、一寸でも無駄にしたくない。
「ピエリー、いつまで煮てればいいー?」
「そろそろいいと思うのー! 今行くのー!」
 ピエリが傍を離れても、マークスは一心不乱にパイ生地と格闘していた。しばらくして、おおーと歓声を上げてエリーゼが駆け寄ってくる。ピエリはいない。片付けているのだろうか。
「すごーい、ホントにパイになってる!」
「まだなっていない。焼きあがってからがパイだ」
「それでもすごいよー」
 こっちも、とエリーゼは鮮やかな赤に満たされたボウルを差し出した。
「ちゃんとジャムになったよ! すごいね、お砂糖だけで水も入れてないのに」
「そうだな」
 マークスは手を止めて、窓の向こうに目をやる。黄金の小麦が揺れている。
「あれを、育てて、収穫して、精製して、運んで、こねて、焼く者があるというのは……とてもすごいことだ」
 無論マークスとて、知識がなかった訳ではない。だがこうして身体を動かしてみて、改めてそれが『仕組み』ではなく『人間の仕事』であると思い知る。自分たちが、どれだけの手に支えられて生きてきたのかを。その上に立っているのを、いかに当然のこととして享受してきたのかを。パイ一つ焼くのさえ、妹や臣下の手伝いなしにはやり遂げられない男だというのに。
 マークスは自責に走りすぎる思考を途中で止め、妹に笑いかける。
「あとは、これを型に入れてそのコンフィチュールを注げばいいのだな?」
「うん、そうだと思う。すごいね、本当にパイみたいだね」
「お前はそればかりだな、エリーゼ」
 広げた生地を金属の型に合わせて成型していく。やわらかなベージュの器に煮込んだチェリーを流し入れると、エリーゼではないが『本当にパイ』の風情になってきた。おお、とつい声が漏れる。
「あー!!」
 その感動をぶち壊したのは、再び姿を見せたピエリの甲高い叫びだった。マークスはボウルを取り落としそうになりながら振り返る。
「何だピエリ、いきなりすごい声を出して」
「ああー……入れちゃったの、マークス様……」
 力なく言いながら、ピエリはおぼつかない足取りで歩み寄って来た。がっくりと肩を落としている。
「パイの土台は、一回空っぽで焼いてサクサクにしないといけないのよ……そのまま入れると底がべちゃべちゃになっちゃうの……」
「そうなのか?」
「ご、ごめんねあたし、勝手にそうだと思うなんて言って……」
「いや、エリーゼのせいではない。私が軽率だった」
 うなだれる二人を見て、マークスはボウルを置き嘆息した。
「これで今までの苦労も台無し……か」
「いいの! 焼けばいいの!」
 ばね仕掛けの人形のようにピエリが跳ね起きた。昔聞かされた怪談の化け物みたいだと思ったが、胸に押し隠す。ピエリの目は、まるで狂気に満ちてなどいなかったから。その目に宿る輝きは、犠牲や痛みを厭わない戦士のものだった。
「言っておかなかったピエリも悪いの。なっちゃったものは仕方ないの。このままいくの。だってお菓子を粗末にする人は、お菓子のお化けにずっとずっといじめられる地獄に落ちるのよ」
 エリーゼがマークスの腰元にしがみついてくる。マークスはお菓子のお化けを信じてはいなかったが、ピエリの言いたいことの半分ぐらいは解っているつもりだった。
 資源の乏しい暗夜で、こんなに大量の物資――特に小麦粉や砂糖や果物といった高級品――を捨てることは、法が裁かなくとも大罪だ。きっとピエリはピエリなりの理屈でそれを理解している。だからこんなに、勇ましい顔をしているのだろう。
「お菓子は少し間違えるとすぐにダメになっちゃうの、本当なのよ? でも一番ダメなのは――それを途中でえいってしちゃうことなの。だから焼くのよ。美味しくなくても、ゴミにはしないの。まずくても、これは最後まで『お菓子』にするの!」
「よく言った、ピエリ。それでこそ私の臣だ」
 マークスは世辞でなく、心から頷いた。
「それで? 今度こそ私は一手も間違いたくない。ご指示を願おう、ピエリ先生」
「はいなの! マークス様もエリーゼ様も、キッチンではピエリにひれ伏せなのー!」
「その意気だ!」
 その後の作業はどうにかこうにか『順調』と言いえるもので、不恰好ながらマークスたちは何とか『チェリーパイのようなもの』を完成させた。

 

「わぁ……!」
 その不恰好なパイもどきを見て、サクラはうっとりと顔を紅潮させた。
「キラキラしていて、すっごく綺麗です!」
 マークスは目を逸らした。仕上げの艶出しは『マークス様とってもがんばったから、ごほうびなのよ』と、未熟な生徒に代わってピエリ先生がやってくれたのである。
「これ、本当に私なんかがいただいてしまっていいんですか?」
 サクラは遠慮するような言葉を選んでもいるものの、目は『絶対に食べたい、すぐにでも食べたい』という気持ちを隠せていない。マークスがこの少女のこんなにあけすけな欲求を見たのは、これが初めてだ。本当に余程甘いものが好きなのだろう。
 ぎこちなく肩をすくめて――彼はおどけた動作が、彼女の上の兄君以上に下手だった――マークスは苦笑する。
「ああ、このひどい出来では味も知れているだろうが。初めての暗夜の菓子なら、本来もっとしっかりした品をお出しするべきなのにな。……私程度の焼いたものではなく」
 押し付けがましく自己主張するのは嫌で、しかし自分が作ったと伝えなくては皆の努力が無駄になると、そんな葛藤が中途半端で卑屈な台詞を生んでしまった。サクラはその大きな目を更に丸くして、菓子に熱視線を送るのをやめマークスを見上げた。
「マークスさんが焼いたんですか? お一人で?」
「いや、ピエリたちに手伝ってもらって……」
「どうして?」
 サクラの核心を突きすぎる質問に、マークスはぐっと口をつぐんだ。マークスの心中を察したようには見えないが、言いづらいことを訊いてしまったことだけは理解したのだろう、サクラは肩をすぼめて身を小さくする。
「すみません、出すぎたことを。忘れてください」
「いや、全く出すぎたことではない。あなたが……」
 喜んでくれるのではないかと期待した、と言いかけたけれど言えなかった。サクラがあまりにも無邪気に首を傾げるから。
 結局マークスは視線を泳がせ、いつもの逃げ口上に走った。
「この前、ピエリがあなたに『自分の食べたものを美味しいと食べてもらうのが好き』と言っていたから。私も経験してみたかった。あなたならきっと私の失敗を笑ったり吹聴したりしないと思ったので、申し訳ないが付き合っていただくことにした」
「そういうことでしたら」
 サクラは自分の胸を押さえて、やわらかく微笑む。
「いつも私の特訓に根気強く付き合ってくださって、マークスさんには本当に感謝しています。だけどあなたは隙がなくて、私がお手伝いできる特訓なんてないと思っていたから……私の食いしん坊がお役に立つなんて、不思議な気分ですけど嬉しいです」
「あなたにはそう見えて……いや、そう思ってくれていたのか」
 視線が自然とサクラの方に戻った。彼女に初めの頃のおどおどした影はない。それほどまでに自分を信用してくれる。偶像を、マークスを『完全』と呼ぶ噂を純真に信じてくれている。
 だからこそ、マークスはそれを自らの手で叩き壊さねばならなかった。彼女の指導者だとか、見本だとか。高いところから見守るのではなく。同じ地平で同じものを見る為に。
 握り込む拳には必要以上の力が入った。
「私には何も出来ない。私に出来るのは、私が王子として教育されてきたことだけだ。他人を使うこと、従えること、威圧すること。そんなことばかりで、私自身が成せることなど、平民にも劣る」
「そんなこと……」
 サクラは泣きそうに自分の身体を抱いた。きっと、マークスを慰めるための言葉をいくつも探してくれているのだろう。それを思いつくまま精査もせず口にしない慎重さが、マークスには微笑ましかった。ゆっくりと、首を横に振る。
「勘違いをしないでほしいのだが、私は己に価値がないと思っているのではない。平民に出来ず、王子としての私にしか出来ないこともまたある。大切なのは、『何が出来て』『何が出来ない』のか知ること、互いの『出来ること』を最大限発揮出来るような場を整えることだと、強く実感した。こんなことを言ってもぴんと来ないかもしれないが、あなたのおかげで気付けたのだ。理解しなくてもいいから、礼だけは受け取ってもらえまいか」
 サクラは何も言わなかった。聞きたそうにしていたけれど、黙って笑って、小さく頭を下げた。
「マークスさんは、素敵な王様になられるのでしょうね」
 彼女が顔を上げたとき、やわらかなピンク色の髪が揺れた。
 暗夜ではお目にかかることの出来ない淡い色。光満ちる国を彩る花。
「そう思ってくれるのだろうか?」
「はい、必ずなれますよ。民を幸福に導く王様に。だって、今」
 ――私はとても幸せですから、と。
 その笑顔が眩しすぎて、そろそろ食べようかとしかマークスは返せなかった。不器用な手つきで、誇らしく情けないチェリーパイを切り分けていく。
 勝算がないと動けない臆病な自分だけれど。
 果たしてこれが勝算と言い切れるかどうかも分からないけれど。
 ただ、次こそきちんと告げよう。ありふれた、それでいて絶対の真実の言葉を。
「おいしい」
 蕾のほころぶように笑う、あなたに。
 一切れずつ食べて残りは皆に振る舞おうと思っていたチェリーパイが、あっという間にサクラの小さな身体に丸ごと収まって、「次は一緒に作ろうか」とマークスが言わざるを得なくなったのは、また別のいつかのお話。