第六章 太陽と手を携えて - 4/6

SIDE:Ike

 

前夜

 

「さて、一年の長きに渡った戦いも……早ければ明日中に決着がつくか」
 王都メリオルを目前にしての軍議。ライの言葉に、その場にいたほとんどが感慨深げに頷いた。
 何であなたが仕切ってるんです、と怒るセネリオをなだめつつ、ライはアイクの方を向く。
「どうだ、アイク。勝てると思うか?」
「勝つ」
 どうこう言われるまでもない。即答する。ライは何か言いたげに口を開きかけたが、結局首を横に振った。
「慣れたよ。うん。お前のその反応」
「だったら分かりきったことを訊かないでください。アイクは今までも勝ってきましたし、これからも勝ちます。いちいち確認するまでもないことです」
 胸を張るセネリオだったが、そうだなお前がいるんだしそのつもりだ、とアイクが言うと、急に大人しくなってしまった。
 ライが苦笑して肩をすくめる。
「でもま、今夜はそのふてぶてしさが頼もしいけどな。軍師殿のお墨付きも得て心強いぜ」
「むしろ、それくらいでなければデイン王に立ち向かうことはできんだろう」
 急に割り込んできた低い声に驚いていたのは、アイクだけではなかったらしい。
 獅子王の影たる彼は、いつも思いもよらないタイミングで滑り込んでくる。あんなに大柄なのに、不思議だ。
「王の名代として参った。お前たちだけでは心許ない」
 ジフカは重々しい声で告げた。対してライの声音は軽やかである。空色の尾がかつてないほど揺れている。
「じゃあ、一緒に戦ってくれるんですか!?」
「その為に来た。……が、姫とアイク殿の了承を得てからだ」
 ジフカの視線がエリンシアに注がれる。心許ないと言った割に厳しさはなく、カイネギスと同じように穏やかな目であった。
 エリンシアは力強く頷く。
「願ってもないことです。度々のご厚情、感謝いたします」
「俺ももちろん歓迎だ。数の多いガリア軍には、王都の正面と東側にある二つの門を押さえてもらう手筈になっている。ガリア軍の総指揮を、あんたにお願いしたい」
「謹んでお請けしよう」
 ジフカは浅く礼をした。その頭が安くないことは分かっている。だからアイクも口許を引き締める。
 その横で、ライが口唇を尖らせて尻尾の毛を逆立てた。
「なんだよ。オレじゃ力不足だったってことか? そりゃ、ジフカ様とじゃ比べ物にもならないけどさ!」
 あまり不平不満を口にしない彼がこれだけ言うのだから、プライドがいたく傷ついたらしい。意外とせっかちな奴だな、とアイクはライを見つめた。
「ライは、俺の部隊に戻ってくれ。いいだろう?」
 くだくだと細かく信頼の言葉を並べ立てるのはアイクの性ではない。
 ライの方も、そういうことかと意味ありげな笑みを浮かべる。
「それなら結構。本隊に混ぜてもらえるのは、光栄の極みだからな」
 セネリオがすかさずライを指差した。
「本隊に入れるかは僕の胸三寸ですよ!」
「ホント手厳しいな!」
「セネリオ、その辺にしといてやれ……」
 アイクが呆れて頭を振ると、くすくすと笑っているエリンシアと目が合った。
 エリンシアは微笑んで首を傾げる。何の問題もないですよ、と言わんばかりの仕種がかえって痛ましい。
「悪い、ちょっと抜ける。……エリンシア姫、少し付き合ってくれ」
 ライとセネリオは変わらずぎゃいぎゃい言い合っていたが、その実視線だけは気遣わしげにちらとアイクを見たのであった。
 黙って天幕からエリンシアを連れ出す。
「あの、アイク様……」
「緊張しているのか?」
 何か言おうとするのを遮って、問う。エリンシアは無理に笑うことをやめ、はい、と頷いた。
「アイク様は……?」
 上目遣いで聞き返される。期待されている答えは分からない。
 だからせめて誠実である為に、正直に答える。
「どうだろうな。変に落ち着いた気分だ……。ここまで来たら、もう、デイン王を倒すこと以外どうでもよくなった」
 戦が終われば出世の機会が減ると抜かす兵もいた。腹も立てた。
 だが欲を抱けるのも生きてこそだ。彼らが内心で何を考えていようと、アイクたちには勝利をもたらす義務がある。
「勝てるでしょうか? 私たちは……」
 エリンシアの手は夜風に震えていた。それでも彼女は、『私たち』と言った。
 独りで森に放り出され、頼るものがないと小さくなっていた頃の、か弱い娘とは違う。
 誰かと共に在ること、共に戦うことを、受け入れ覚悟している。
「俺は、勝つ気で戦う。あんたも……ここまで来れた、自分の力を信じろ」
 少なくとも、俺はあんたを信じているから。
「……はい!」
 アイクの心の声が聞こえたのか、エリンシアはようやく、曇りのない笑顔で返してくれた。
 そして天幕に戻る前、肩越しに振り返りこう呟く。
「でも、アイク様、ひとつだけ嘘をつかれましたね」
「俺が? 何を」
 アイクが眉をひそめると、エリンシアの笑顔は儚いものになっていた。
「アシュナードを倒すこと以外、『どうでもいい』だなんて――つまらない嘘、おやめになってください」
「……う、そ?」
 もう目の前には背中しかない。
 手を伸ばすことも躊躇われて、否定することも出来なくて、アイクは俯いて軍議に戻っていった。
 

 

「アイク。ちょっといいですか?」
 軍議が終わり、セネリオが声をかけてきた。顔色から、個人的な話だということはすぐに分かった。
 他の者に退出してもらい、二人きりになる。セネリオは視線を彷徨わせながら、ぎこちなく口を開いた。
「……この戦いも、もうすぐ終わりますね」
「回りくどい話し方はよせ。お前らしくない」
 真正面に立ち、アイクはセネリオを見下ろす。その目が泳ぐことのないように、視界をふさぐ。
「何か言いたいことがあるんだろう? 俺は逃げない。だからセネリオ、お前も正直にぶつかってこい」
「貴方は本当に、いつでも強いですね」
 左右に逃げ場をなくしたセネリオの顔は、そのまま下を向いてしまった。
 アイクは急かさなかった。ただ待つ。やがて観念したように、セネリオは小さく息を吸った。
「アイクは、『印付き』を、知っていますか」
「いや、聞いたことがない。何だ、それは」
 またグレイルが意図的に隠していたことなのだろうか。それならば、聞かねばならない。
 無知で守られていた子供ではなく、知ったうえで判断する者になると、誓ったのだから。
「教えてくれ。俺はこの世界のことを、もっと知りたい」
 セネリオが口唇を噛んだ。両肩はひどく震えていた。とにかく尋常の様子ではなかった。
「ベオクと、ラグズの……混血です。女神の定めし理を犯したために、どちらの種族からも……忌み嫌われる不浄の存在……」
「混血……」
 化身前のラグズと、ベオクの形状はよく似ていると思っていた。どちらも等しく、ひとだと感じていた。
 だとするならば。子がなされる可能性とて、零ではないのではないか。
「貴方は、彼女でいいんですか? その咎を負うことが……恐くないんですか!?」
 セネリオは吐き捨てるように言った。右手の爪が左腕に食い込んでいた。
 レテへの憎悪ではない。彼の激情の元は、もっと違うものだ。
 アイクはそっと手を伸ばし、セネリオの自らを傷つける指を外してやった。
「レテとのことを言っているのなら、俺たちはそういう関係じゃない。ただ俺は、ベオクとラグズが愛し合うことも、その果てに子供が生まれることも、間違っているとは思わない」
「間違いなんです! ベオクが『印付き』と呼ぶものは、ラグズから『親無し』と呼ばれている。存在すら許されていないんです。生まれるだけで大地の破滅が百年近づく、そう言って『いないことにされる』んです!!」
「だけどいるんだろう、そいつは!!」
 気付けば、アイクの方がセネリオの肩を強く掴んでいた。セネリオの目からは何故か涙が溢れている。
 アイクは努めて丁寧に、その赤い瞳に語りかける。
「理を犯す存在は確かにいる。だがそれは、理を犯す生き方をしている――アシュナードや、デインの研究者みたいな奴だ。生まれたことが罪であるなんて、そんなことがあってたまるか。ベオクもラグズもそいつらを認めないなら、俺が認めてやる。生きていていいって、何度だって言ってやる。幸せになっていいんだって、いくらでも手を差し伸べてやる」
「アイク……」
 セネリオの顔はもうぐしゃぐしゃだった。恥も体面もかなぐり捨てて、叫ぶ。
「もし、もし僕がそんな存在でも、貴方は、僕を……!!」
「構うものか。セネリオはセネリオだろう。俺の団の有能な参謀だ。お前がいないと、団はたちまち立ち行かなくなる」
 だからそんなに泣くなと抱きしめてやると、セネリオは子供のように泣きじゃくった。
 思えば人らしい弱さをほとんど見せない少年だった。大きな戦を前にして、ようやくひとつ、彼の心の重石を取り除くことが出来たのかもしれない。
「……話したい人がいるなら、今のうちに行ってあげてください。明日はきっと、余裕がないと思います」
 随分と落ち着いてから、鼻声のままセネリオはアイクから離れた。
 誰のこととは言わないその優しさが、アイクの胸にしみる。
「ありがとう、セネリオ。行ってくる」
 天幕を飛び出す。セネリオが彼女のことを認めてくれただけで、冗談みたいに心が弾む。
「嬉しそうな顔してんなよ童貞」
 外にいたライに水を差されるまでの短い喜びだったが。
「お前、聞いてたのか」
「あの軍師殿があんだけ泣き喚いてりゃ、嫌でも気になる」
 言われて、はっと辺りを見回した。気位の高いセネリオのことだ、今のことを知られたらきっと決まりが悪いに違いない。
 ライが右手をひらひらと振る。
「ベオクなら、軍師殿がお前に声をかけた直後に、エリンシア姫が人払いをしたよ。ラグズも耳のいい奴しか聞こえてないと思うぜ」
「そう、か」
 エリンシアの心遣いに感謝する。肝が冷えた。
「お前も知ってたのか、ライ。印付きのこと」
「大抵の奴は知ってる。知らないことにしてあるだけだ」
 ライの口調は厳しかった。
 セネリオの話通り、彼らのことを嫌悪しているのかもしれない。本当は、ベオクのことさえ。
「それで、レテと俺が近づくのを止めようとしていたのか」
「そうじゃねェよ!!」
 ライは急に激昂した。アイクが反応できずにいるうち、燃えるような目で胸倉を掴み上げる。
「お前は! オレのこと、一体どこまで、暇なお人好しだと……!!」
 だが振り上げられた拳は、アイクに届く前に力なく下ろされた。ライは深く息を吐き、アイクから離れる。
「……もういいよ。そのことは、もういい。忘れろ」
「お前は、本当にレテが好きだったんだな」
 アイクの言葉に、ライは顔を上げなかった。だから、アイクだけは顔を上げていなければ彼に不誠実だと思った。
「ラグズは、ベオクにとっては気の遠くなるような時を生きるんだってな。たとえ俺がレテと共にいたいと願っても、レテにとって俺の存在は流れ星みたいに一瞬のものなんだろうと思う。俺が燃え尽きた後、あいつの傍にいるのはきっとお前だろう。いや、お前であってほしい」
「都合のいいことばっか言ってんなよ」
 ライは乱暴な手つきで帽子を外す。前髪を下ろした彼は、今までの印象よりずっと幼く見えた。
「誰と生きるのかはアイツが決めることだ。与えられた時間が短いからって勝手ばっか言ってると、本気で怒るぞ」
「すまん」
「謝られんのもムカつくわ」
 ライは大袈裟に首を振った後、ようやくアイクを向く。刺すような憎悪に燃えた瞳ではない。
 だが、いつもの気安い瞳でもない。色違いの双眸の奥には、冷え冷えとした覚悟の光が宿っていた。
「鍛錬ってやつ、しようぜ。お前お得意の」
「構わんが……今は訓練用の剣を持ってない」
 持っているのは、ラグネル一振りだ。
 ライは口唇の端を歪に上げる。半身を開き、両の拳を軽く握る。
「身体があるだろ。オレは化身しない。お前も剣を使わない。この姿のラグズはベオクとそう変わらないんだ、それで条件は五分だろ?」
「……いいだろう」
 アイクも、万が一にも抜いてしまうことのないようラグネルを鞘ごと外し、傍らに投げた。
 腹に力を入れ、相手の動作に備える。
「じゃあいきましょうか――ね!」
 鋭い風切り音。ライの右脚が、一瞬消えたように見えた。それほどに速い。とっさに受けたアイクの腕は鈍く痺れている。速さだけではない、重さのある蹴りだ。
 アイクはライの脚を押し返しながら呻く。
「何が俺たちと変わらない、だ……!」
「変わらないだろ。見えて受けられてる以上は、な!」
 ライは右脚を思い切り引き、着地する勢いで身体を旋回させた。左膝が襲う。今度は受けずに飛びずさる。すかさず距離を詰められる。掌底。半身を開く。頭上を取ろうとしたところに反転の肘。避けた拍子に身体が泳ぐ。
 速い。とにかく一動作一動作が。ティアマトやオスカーも、軍で訓練を受けていたおかげで近接戦闘の心得はあったが、ライのそれは二人とは違う。
 どちらかというと、シノンに近い。我流で癖が強いが、最短距離で相手を屈服させようとする。
 経験と嗅覚を頼みとする戦闘姿勢。訓練だけでは決して到達できない領域。本物の暴力の中でのみ磨かれる技術。
 ――慣れていったのだ、ライは。ベオクに殴られることに。覚えていったのだ。ベオクの動きの癖を。
 その牙を、彼は誰にも剥かなかった。理不尽に自らを傷つける人々にさえ。
 立場もあった。諦めもあった。優しさもあった。全てがあって、赦した。
 それが今、剥きだしの姿でアイクに殴りかかっている。立場を。諦めを。容赦を。全てを捨てて。
「逃げるな! 鍛錬だろ、殴れよ!」
「言われ、なくても……ッ!」
 ならばアイクは、全てを持とう。友情も。恋慕も。責任も。痛みも。全てを我が身に乗せよう。
 足指の付け根に力を入れる。強く踏み留まる。隙など大きくて構わない。右腕を振り抜く。そのことだけに、全神経を、集中して。
「歯ァ食い縛れ、ライ!!」
「上、等、だァッ!!」
 ――ライの脚がアイクの側頭部を払ったのが早いか、それとも、アイクの拳がライを弾き飛ばしたのが早かったのか。
 とにかく二人は二人共、地面に倒れたのであった。
「……驚いた。化身しなくても強いんじゃないか、お前」
「対ベオク格闘術だ。今は試行段階だが、じきに兵科教練に組み込む……いつまでも後塵を拝してる訳にいかないんでね」
 そのまましばらく息を切らせた。
 アイクが言葉を発さずにいると、ライは突然、声高く笑い出す。
「やー、負けた負けた! 不意を衝いて返り討ちじゃ、お話になんないぜ。カッコ悪ィ」
「今度は何だ。ピリピリしたり笑い出したり、最近不安定だぞ」
 アイクは上体を起こし、腰をひねってライを振り返った。ライは、あーそうね、と笑いながら腕で目許を隠した。
「王都が近づいてきて……デイン王の……いや、奴自身というよりは、メダリオンのか? とにかくそれが発する『負』の気にあてられて……全身の毛が逆立ってる。勿論全てをそのせいにする訳じゃないが、虫の居所が悪いところに、オレにとって好ましくないことが重なった。だから、ま、半分は、八つ当たりだったんだな。多分」
「ラグズは敏感だな」
 アイクにも不穏な空気は感じ取れなくもないが、それはあくまで状況に対してのものであり、純粋な気の変質を感知している訳ではない。
 ライもようやく身体を起こす。
「これに反応しないベオクが空恐ろしいよ。どうして平気でいられるんだか……。この威圧感は、ちょっと尋常じゃない」
「もしかして、他のラグズもそう感じているのか?」
 一番に浮かんだのはレテのことだったが、この軍に協力するラグズは彼女だけではない。皆一様に気分が悪いのだとしたら、配慮は必要だろう。
 ライは投げ出していた脚をあぐらに組み、腕をだらりと下げた。
「個人差ってやつは無論ある。だが多かれ少なかれそうだろう。お前たちを不安にさせたくなくて黙ってるのもいれば、弱みを見せたくない奴らだって当然いる」
「そうか。後者、なんだな」
 アイクは呟く。ライが淡々と答える。
「レテは両方だろうさ」
「レテじゃない。お前のことだ、ライ」
 ライは答えなかった。だが背中が肯定していた。ベオクなどにこの醜態をさらしたくはなかったと。
 アイクはそれを弱さとも醜態とも、思わなかったのに。
「俺を、信用できないのか?」
「してるさ」
 即答だった。が、決して明るい声音ではない。喉の奥から絞り出すような潰れた声だった。
「でも、全部じゃない」
「俺が信用に足らない人物だというなら、今はそれでもいい。努力するだけだ」
「いいんだ。それはきっと、お前のせいじゃないから」
 ライはふっと軽い息を吐いた。笑ったようだった。
「オレのほとんどの部分はお前を認めてるが……まだ獣牙の同胞のように、手放しって訳には……なかなかね。これはオレの問題だから、お前に気に病まれるのも正直、困る」
 何を言っても信用には繋がらないらしい。そもそも、言葉で相手を懐柔しようというのはアイクに向かないことである。だからせめて、本音だけを真っ直ぐ伝える。
「俺は信用してるぞ。お前のこと。獣牙族のこと。ラグズのこと」
 アイクを信用しないのがライの問題なら、ライを信用するのもアイクの問題だ。どう思われようと、アイクはもう彼を信用してしまっているのだから、仕方ない。
 ライは、ぽかんと口を開けてアイクを見ていた。夜闇の中で、真ん丸の目がガラス玉みたいに光っていた。
 ややあって尻尾を震わすと、ライは自分の膝を片手で強くはたいた。
「真顔で、さらっと、言ってくれるね。……ほんっと、お前って」
「俺って?」
 アイクが首を傾げると、間髪いれずにライが続ける。
「バカだな」
「何だと?」
「だってそうだろ!」
 急に怒鳴られた。ライはちょうど近くにあった自分の帽子を引っつかみ、立ち上がる。
「そうやって、誰彼構わず信用して、足元すくわれても直りゃしない! 強引で一直線で、『めんどくさい! 突っ走る!』ってどこが作戦だよそれって、そんな将軍がいるかって、呆れるばっかりだ!」
「なんだそれ」
 アイクの方こそ呆れて、立ち上がることも忘れてしまった。ライを見上げて、冷静に返す。
「俺は俺だ。他の誰かと同じでなくても、構わんだろう」
「これだよ。なに? その根拠のない自信は」
「悪かったな」
 これには流石にむっときた。腰を上げようとすると、すっとライの手が差し出された。笑っていた。
「バカだとは思うけど。そういうお前のこと、嫌いじゃない」
「ってことは、お前も馬鹿なんだな」
「違いないね」
 見た目よりずっと力強い手を取って、立ち上がる。上背はいつの間にか、追い抜いていた。
 ライは手を離し、肩をすくめる。いつも通りの彼だった。少しだけ意地を張った、気安いようで気難しいアイクのよき友。
「行けよ。オレの用はもう済んだ。決めるところはしっかり決めてもらわないと、大将?」
「その呼び方はよせ」
「はいはい、アイク大将軍」
「……おまえな」
 立ち去りかけて、アイクは振り向いた。飄々と尻尾を揺らすライに、はっきりと告げる。
「これからも、よろしく頼む。ライ」
「は?」
 ライは虚を衝かれた顔をした後、夜の暗がりの中でさえ分かるほど真っ赤になって、腕で顔を隠した。
「こ、の、早く行け、バカ!!」
 軽い調子で流さなかったのは、きっと思ったよりも深くに届いたからだろう。
 レテそっくりだぞ、と思いながらアイクは賢明にも、黙って逃走したのだった。
 

 

「アイク将軍! この度は……」
 レテを捜しに出た途端、知らない兵士に声をかけられた。知らないと言ってもクリミア兵なのだが、なにしろその全員を覚えているのではない。ああ、と曖昧に相槌を打ちながら、アイクは何とか彼を認識しようとする。
 一人が話し始めると我も我もと群がってくる。アイクを救国の英雄と信奉している者もいれば、近づくことで復興後の地位を得ようと画策する者、純然たる好奇心で若き将軍の素顔を見たがる者もある。
 アイクとしては、彼らをあまり邪険にする訳にはいかない。エリンシアの顔もあるし、個人的な性根もある。
 それに自国を失うことも初めてならば、取り戻すことも初めての彼らにとって、アイクと話すことが慰めや昂揚になるのなら、付き合ってやるのも将の務めだ。一人一人に多くの時間は割けなくとも、無視は出来ないのが現実だった。
 何とか折り合いをつけてクリミア兵から逃れると、今度は興味津々のガリア兵に囲まれた。ただしこちらは、レテを知らないかと問うと、驚くほどすんなりと道を空けてくれたのだが。
 人気のない場所まで教えてくれた。親切が逆に怖い。
 近くにあった木々を抜けると、小高い丘が目の前にあった。登ってみる。降ってきそうな星空が頭上を覆う。
 各地を転々としている頃、キルロイが教えてくれた。クリミアとは星の位置が違うね、クリミアからしか見えない星もあるみたいだよ、と夜空を指差していた。
 アイクには星の違いは分からない。けれど同じ国、同じ季節に見える星々が同じなら、一巡りしてようやく同じ空の下に帰ってきたことになるのだろう。
 そのとき、どうやら星の命も永遠という訳ではないらしい、とオスカーが言っていた。
 私たちには分からないぐらい緩やかに、星々は死に向かっているそうだよ。あの光が胸を打つのは、命そのものの輝きだからなのかもしれない。そう思えば、瞬きの間しか生きられない私達も、精一杯自分の存在に向き合わなければならないという気になるね。
 ヨファが呟いた。それならぼくはお星さまにはずかしくないように生きたい、と。
 ミストが笑った。お星さまが、照らしていたいと思うように生きなきゃね、と。
「アイク」
 木の陰から、アイクの太陽が、現れた。
 ――太陽も、星のひとつだという。ずっと変わらないように見えるけれど、感知できないほどのスピードで死にゆく光の星。同じ場所に立っているようで、一年前とは違ってしまった自分。
「鍛錬か?」
 今まで馬鹿みたいに繰り返した言葉を投げた。ライとやり合った直後だが、最後に汗を流すのも悪くない。
 レテは苦笑して、肩をすくめた。
「やめておこう。お前も今宵ぐらいは大人しくしておけ」
「珍しく逃げ腰だな」
 断られたのは初めてで、ついこんな口を利いてしまった。レテは気分を害した様子こそないものの、アイクの無意識の挑発に乗ってくる。
「休息も仕事だと思ったがな。力が有り余っているのなら相手をするぞ。お前はこのところめざましい成長を見せているからな、私も負けてはおれん」
 しかしやはり何だからしくないことを言われた気がして、拍子抜けしてしまった。何だ、とレテが眉をひそめるので、いや、と口許に手をやる。
「あんたに褒められるのは、嬉しいもんだな」
 嘘でもごまかしでもない、真実だった。当然の評価を捻じ曲げてまで、否定論に固執するのは愚か者のすることだと豪語していた彼女が、褒めてくれた。当然に評価されたことがただ、嬉しい。
 アイクが感動を噛み締めていたその間を、レテはどうやら勘違いしたらしかった。
「ひょっとして……最初に会った時のことを、根に持ってるのか?」
「そういう訳じゃない。あんたは強いからな。強い奴に褒められるのは、単純に嬉しいだけだ」
 確かに初対面で言われたことは散々だったが。
 思い出して恥ずかしいのか、レテはいつになく尻尾を震わせながら、ふんと腕組みをする。
「えらく買いかぶられたものだ。私以上の戦士など山程知っているくせによく言う」
「あんたより力のある奴ならいない訳じゃない。でもあんたは、力だけでなく、いろんなことをひっくるめて強い。そういう奴はざらにいるもんじゃない」
 アイクの血を沸き立たせるような戦士が、生涯に何人いても。魂を惹きつける戦士はきっと、父とレテだけだ。
 レテはこれ以上感情的に否定することはなく、黙ってしまった。
 思えば、たくさんの沈黙が二人の間には流れてきた。
 意図するもの。しないもの。気まずいもの。心地よいもの。
 無心だったり。抱えた想いが多すぎて口に出来なかったり。
 望んで打ち切ったり。偶然途切れたり。
 鍛錬は有意義だった。会話は距離を縮ませた。
 だがそれだけでは足りなかった。沈黙にも確かに意味はあった。
 すれ違う時の中で、その時間だけは二人にとって等速だったから。
 ある意味、永遠だったから。
 けれど、ずっと一緒に留まることは出来ない。どちらかが踏み出せば、容易く永遠は終わる。
「なあ、アイク」
「何だ?」
 未練など残すまい。星は死にながら光る。ならば人も、死に向かって歩き続けるだけだろう。
 同じ朽ちるならば、アイクは少しでも太陽の近くで終わりたい。
「この戦いが終わって……全てが終わったら……」
 レテの声が震える。風が吹く。木々が鳴る。
 アイクは静かに目を閉じる。両の拳を軽く握る。
 ――お別れだなと、あんたが言うなら。もう少しだけ、足掻こう。
 全てを手に入れたいとは言わない。
 ただせめて見ていてほしい。ここに生きているちっぽけなベオクのことを。
 俺が死ぬまで、わずかな間。
 アイクがそっと目を開けたとき、レテは上ずった声で言った。
「ガリアに来ないか?」
 唐突過ぎて、何を言っているのか分からなくなる。
 ガリア、といえばあのガリアだろう。レテの故国。記憶にはないが、アイクの生まれた地。
「ガリアで鍛錬すれば、お前はもっと強くなれるはずだ。ガリアの環境は、ベオクにとっては生きていくのも厳しい地だと聞いた。しかし、だからこそその地でお前は自身の父から受け継いだという剣技を……更なる極みへ導くことが出来ると思うんだ」
 父がかつて絶望のうちに去り、今は眠る場所。
 レテがあの国にベオクを迎え入れたのは嫌々だった。発つのだって不機嫌で。
 そこに、来てもいいと言う。ベオクが、脆弱な身を鍛えてもいいと言う。
 アイクはぐっと下口唇を噛んだ。ここまで言ってくれた。ここまで譲ってくれた。
 だからもう遠慮なんて――元々あまりしていなかったけれど、本当にしない。どこまでも図々しく迫ってやろうと、半歩前に踏み出す。
「……鍛錬の相手は、当然レテがやってくれるんだよな?」
 橙の尻尾が跳ねた。思ってもないという反応だった。自分から誘った負い目からか、レテは渋い顔をして頷く。
「お、お前が、それでいいなら……私に異論はない」
「なら、ガリア暮らしも悪くない」
 勢いかもしれなかったが、いい。レテは本当に嫌なら嫌だと言う。そうしなかったのならば、信じられる。
「よし、じゃあ約束だ。いつでもお前の気の向いたときで構わない。私はその時を楽しみに待っているからな」
 晴れやかな表情で言われて、アイクの心も軽くなった。差し出された手を握り返す。
「分かった。約束しよう」
 緊張していたのか、レテの手のひらは少し湿っていた。
 やわらかく小さな手。白くて細い指。年端もいかぬ少女の腕。
 この手にいつも助けられた。支えられた。だからアイクもこの体温を、裏切りたくない。
「レテ」
 もっと近くで感じていたくて、抱き寄せた。身体より心の温度を知りたかった。
「……鍛錬は、しないのか。アイク」
 レテの指先が鎖骨に触れるのがくすぐったかった。アイクは腕に力を込める。
「ガリアに行くまでとっておく。今はあんたの、匂いとか、かたちとか、重さとか、全部、覚えていたい」
「私もだよ」
 レテの声は不吉なほどの慈愛に満ちていた。何故だか遠い記憶の中の母の歌声に重なった。
 滑らかな肌が、アイクの頬に触れる。今の彼女なら、きっと何も拒みはしないだろうと思った。
 だからこそ怖くて、殊更優しく口唇を重ねる。探り探り伸ばした指が絡まる。心臓が軋む。
 こんな風に、父は母を愛したのだろうかと、ぼうっと、感じた。
「難しいことは、言えない」
 顔を離し、アイクはぽつぽつと呟いた。自分を赦す紫の瞳を見つめる。
「けど、こうしたいと思った相手は、あんたが初めて、だから」
「わかってる」
 このときアイクは、気付くべきだったのだろう。
 レテの態度の変化は、甘やかな感傷ばかりではなかったことに。
「私にも難しいことは言えない。ただ、お前の気持ちはとても嬉しい。――愛している、アイク」
「え?」
 レテは後ろに飛び退いた。絡まっていた指は呆気なくほどけた。
 期待していた訳ではない。それでも言われたら嬉しいはずの言葉なのに。
 少しも心躍らなかった。焦燥ばかり募った。
 けれど月光に照らされる彼女の笑顔は、これまでで一番無邪気だった。
「もう休め。明日はしくじれないぞ」
「あ、ああ」
 何かが変だと思ったのに、何故そのまま見送ってしまったのか。
 伸ばしかけた手は空を掴んで、力なく落ちた。
 それでも夜は明ける。この世界には平等に明日が来る。
 
 運命の、一日が始まる。

 

「やー、結構結構! いやご立派だった、アイク将軍!」
「おまえな……」
 大喜びで手を叩くライを、アイクはじろりと一睨みした。
 決戦を前に、エリンシアが兵を鼓舞し、アイクも柄にもなく激励の言葉などかけた後である。軍の士気はこれ以上ないほど高まっていた。つまらない茶々で、一応は大将であるところの人物のやる気を削がないでもらいたい。
「そう怒るな。『与えられた器に応じて大きく』なっていくお前を見て、感動してただけさ」
 つい先頃アイクが口にした言葉で追撃される。アイクはもう答えないことにした。
「……そろそろ兵を前進させます。待つならこれが最後ですが」
 セネリオが口を挟む。何を、とは言わないが、アイクに近しい者ならばすぐに分かるだろう。
 レテがいない。この戦いで、常に最前線に立ち続けてきたレテが。
「しょうがないな~、オレがひとっ走りして呼んでく……」
 ライが化身しかかったとき、橙の猫がするりと滑り込んできた。
 青い光を纏いながら、ゆっくりと人の形を成す。
「無用だ。私はここにいる。逃げもしないし、投げもしない」
 こんな時になんだとはアイクも思うが、化身を解く最中のレテは実に美しいのだった。
 くんと胸を張り、二足で立つ。普段は見えない、形のいい素足や、小さな額が静かに覆われて少女になる。厳かな紫の瞳だけが、長い睫毛の奥で変わらずに在る。
 胸を射抜かれるような神秘だ。
「待たせてすまなかった。行こう。全て終わらせなければならない」
 その輝きが今日はどうやら曇って見えたのは、錯覚だった、のか。
「ああ、行こう。最終決戦だ」
 アイクは迷いを振り払い、雄々しく宣言した。