第六章 こんな空の下でさえ - 1/6

SIDE Rethe

 

 

朝に焦がれる

 

 難所と呼ばれたマレハウト山岳を越え、レテはついに同胞との再会を果たした。
 単純に見知った顔が集うのが嬉しくもあったが、それだけではない。この中の全員が親ベオク派でないことは、レテ自身が痛いほど解っている。彼らにアイクたちを紹介出来る、つまりラグズとベオクの橋渡しが出来るかもしれないことが、レテにはとても喜ばしかったのだ。
「ライは?」
 手近にいた友人に訊くと、軍議軍議と軽く手を振られた。ということはアイクも軍議だろう。つまらん、と子供じみたことを思いながら鼻を鳴らした。
「レテ」
 同胞と談笑をするレテへ、控えめに声をかけたのは、意外にもムワリムだった。周囲を見回しながら、慎重な声色で言う。
「坊ちゃんが、ラグズの群れだと喜んで突っ込んで行ってしまわれたのだが、その……危険はないだろうか? 私はこんなに大量のラグズと接したことがないので、鼻がよく利かない……」
「ああ、大丈夫だろう。いくら反ベオク派の連中といえども、子供を問答無用でぶちのめすような馬鹿はいないさ」
 大体、トパックの得意魔法は獣牙の天敵だろうが、とまでは言わなかった。
 猫の感覚は虎よりも鋭い。ざっと探してみたが、特に問題はなさそうだった。
「何だレテ、随分明るくなったと思ったら男が出来たのか」
 同僚が肩に手を回してきた。レテは苦笑しながらムワリムの腕を叩く。
「友人だ。ベグニオンで知り合った。お前が勘ぐるような仲じゃない、なぁ兄弟?」
 ムワリムは顔を真っ赤にして硬直していた。こういう冗談に慣れていないらしい。レテは苦笑したが、同僚はもっと呆れていた。
「ライ隊長も可哀想にな」
 何でそこでライの名前が出てくるんだ、と言ったら、お前の頭も可哀想だなと心外な返し方をされた。
「まぁいい、トパックも呼んで何人か紹介しておこう。見識も広まるだろうからな」
 レテなら、見知った同胞の中からベオクの匂いを嗅ぎ分けるなど造作もなかった。
 こうして皆と歓談している間に、アイクたちが天幕の中でどれだけ深刻で残酷な話をしていたか。このときのレテたちには、知る由もなかった。

 

「――ざっと要約するとそういう話なんだが」
 そう締めるアイクの顔は疲れきっていた。
 レテがアイクの天幕に呼ばれて聞かされたのは、メダリオンのこと。両親の過去。父の仇。どれをとっても重い話ばかりだった。彼はその全てを一人で抱え込んで、憔悴した素振りを周囲に極力見せず過ごしてきたのだ。
「ティアマトやセネリオにも、ミストにも話した。これを機会にあんたにも、きちんと説明しておこうと思った」
「……おい」
 レテは低い声でアイクを睨み据えた。殴りたいのを必死に我慢して問う。
「デルブレー城で様子がおかしかったのも、それが原因か?」
 アイクは渋々といった具合に頷く。聞けばアイクは宴の前に、件の父の仇に一騎打ちを挑んだのだという。全く歯が立たず、再戦のヒントを与えられ――女神の祝福を受けた剣を持ってこいと、軽くあしらわれたと。
 アイクは胡坐をかいたまま、深々と頭を下げた。
「今のは本当に、他の誰にも言ってない。……すまん。あんたにも話すべきじゃなかったかもしれない。迷惑なら忘れてくれ」
「忘れろ、って……」
 出逢った頃のレテなら、忘れてほしいくらいなら私を巻き込むなと突き放しただろう。
 大分前までのレテなら、どうして早く言わなかったと怒鳴っただろう。
 少し前までのレテなら、よく話してくれたと手を握っただろう。 
 そして、今のレテは。
「なら、鍛錬だな」
 そう言って静かに立ち上がった。アイクに歩み寄り、頭をぽんと叩く。
「お前はそのとき、現状では勝てないと知って退いたのだろう。それはそれで賢明な判断だ。だがそこから動かないのは愚行だ。そうだろう?」
 顔を上げたアイクの瞳を見下ろす。少し淀んでいるが、相変わらず深い海の色だった。
「希望があるなら、その切っ先を己の牙にしろ。その重みを自身の腕としろ。勝手が違うので返り討ちに遭いました、では誰も納得せんぞ」
「……そうだな」
 アイクは頷いて、簡易的な革の鞘に納まった大剣を取り出してきた。億劫そうなところはない。いつも通りの自然な動きだった。
「流石に抜き身でやる度胸がない。鞘に入れたままでもいいか?」
 話し方も平素のものだ。これしきで乗り越えたとは言えないが、現状に向けて心身の方を合わせていくのはとても大事なことだ。
「ありがたい申し出だな。女神の思し召しで輪切りにされるのは、私も好かんよ」
「俺もあんたの肉は食べたくないな」
 レテの飛ばした面白くもない冗談に、面白くもなさそうにアイクは返す。レテは大袈裟に肩をすくめた。
「流石のお前でも?」
「からかうな」
 アイクは左手を軽く振った。
「あまり目立ちたくない。ラグズにはバレるかもしれんが、せめてベオクに気付かれにくい場所を選ぼう」
「分かった。探してみよう」
 レテがアイクを連れて来たのは森の広場のような、少しひらけた場所だった。
 月明かりが強い。これならベオクの視力でも問題ないだろう。
「よし。始めるか」
 レテはいつも通りに言った。燐光に包まれ、化身が終わるときが合図だ。
 アイクも背に負った剣を、鞘に入れたままベルトから外し、上段に構える。
 いつになく熾烈な鍛錬だった。最早本当の『戦闘』と呼ぶに相応しいほど、二人は本能の命ずるまま互いを削り合った。
 レテはアイクの背後を取り、予備動作に入る。完全な死角のはずだ。噛み付く寸前で止めてやろう――。斜め後ろからレテが飛びかかろうとしたとき、脇に激痛が走った。走る、では生ぬるいかもしれない。その痛みはまるで食い破るようにレテの身体を、神経を重く襲った。
 思わず化身が解ける。
「レテッ!!」
 アイクが剣を放り出して叫ぶ。おいお前の牙だろう、そう簡単に捨ててくれるなよ――ひどく冷静に思っていながら、レテは右肩から地面に叩きつけられた。咳が止まらない。その度に骨が軋む。
「すまない! 大丈夫か? どこを傷つけた?」
 アイクが膝を折ると、レテは力なく乳房の下に手をやった。かすれた声が漏れる。
「あばらが何本かいった……かな」
「すまない、本当に……すまない」
 アイクは項垂れて、謝罪の言葉を繰り返した。また泣きそうな顔をしているな、とレテはぼんやり思う。
 いっそ泣いてくれればいいのに。そうすれば、慰めるという選択肢が出来て、お前にしてやれることが増えるのに。
「すぐ衛生兵を――」
 立ち上がろうとしたアイクの腕を、レテはぐっと引いた。自分でも驚くぐらいに強い力が入った。
「ライが、来るから」
「え?」
 アイクが聞き返すのとほぼ同時、化身したライが駆けてきた。人型に戻りながら二人の傍らに立つ。
「何があった」
 声が硬い。確実に怒っている。
「鍛錬で俺がやりすぎて、レテに怪我を……」
 アイクが言うと、ライは無表情でレテの前に膝をついた。色違いの両目に宿る光は、刃の返す光にも似て。レテは目を閉じ、歯を食い縛った。
 音高く頬が鳴る。痛みは別の箇所が強すぎて感じなかった。ただ熱い。ライの視線が冷たいのでちょうどいいくらいだった。
「殴られた理由は解っているな」
「……はい。師団長」
 レテは普段使わない敬称でライを呼び、力なく答える。
 解っていると言われたことを、再確認するようにライは淡々と述べた。
「一国の命運を担う軍の総司令を、一介の兵士の判断で鍛錬と称した戦闘行為に連れ出した。挙句自身が負傷した。治癒魔法の使えるベオクの軍隊だから許されるようなものだ。我らガリア軍にその失態を埋める者はいない。いきなり主力戦闘員が前線から退いたらどうなると思う?」
「戦線は、混乱します」
 レテは脂汗をかきながら、短く答えた。
「浅慮です。申し訳、ございませんでした」
「そんなこと言ってる場合か!!」
 アイクは立ち上がり叫んだ。そうだ、やることがあるだろうとレテは自分の身を起こそうとするが、動けない。
 今すぐにでも、アイクの投げ捨てた剣を拾いにいって、馬鹿者と叱ってやりたいのに。
「お前が言うのか! レテを巻き込んで、こんなに傷つけたのは誰だと思ってる!!」
 そういう義憤とかはいいから、お前らはもう早く杖使いを呼んで来てくれとレテは言いたい。何しろ本当に痛いのだ。戦闘中のように気が昂ぶっていないので余計神経に響く。
 レテの願いを聞き届けて、という訳でもないだろうが、この一年ですっかり鼻に染み付いた匂いを風が運んだ。ややあって、アイクが呟く。
「……エリンシア姫?」
 嗅ぎ慣れないのも一緒にいる。護衛の姉弟だろうか。
 エリンシアはライにもアイクにも目もくれず、倒れているレテへ一目散に駆け寄ってきてくれた。治癒の杖を持っている。聖句を唱えてもらうと、鈍い感覚がなくなり、すっと痛みが抜けていった。
「どちらですか」
 レテが礼を言うのを待たず、エリンシアは低い声で呟いた。振り返り、きっと二人を睨み据える。
「レテ様のお顔を叩いたのは、どちらですか」
 答えられないアイクの前で、ライが小さく手を挙げた。
 レテが嫌いな無表情である。全ての感情を更地にしたような顔。
「軍律違反を犯した部下を叱責しました。それについて、謝罪の必要はないと考えます」
「そうですか。ではレテ様の上官としての謝罪は求めません」
 エリンシアは立ち上がり、つかつかとライに歩み寄り、向き合ったと思ったらいきなりライの左頬を平手で張った。ライも流石に驚いたらしく、色違いの双眸を見開いて固まっていた。
 エリンシアは杖を握りしめ、震えた声で言う。
「レテ様、はっ、今はクリミア軍が、お預かりしている方です! 友軍のガリア軍代表のライ様より、わた、しの方がっ、上位命令権を持っているはずです! 謝ってください、レテ様に!!」
「……ごめんなさい」
「私にではなくて、レテ様にです!!」
 曖昧な謝罪を許さず、エリンシアはライに詰め寄った。
 ライは参ったという顔をして、頭をかきながら耳を下げる。
「悪かったよ、レテ。オレも頭に血が上ってた」
「構わん。お前の言ったことは大方正しい」
 レテはようやく起き上がり、倒れたときについた土を払った。
「訂正するなら、私が負傷したのはアイクのせいじゃない。避ける実力のなかった私の非だ」
 立ち上がろうとしたところに誰かの手が差し出された。レテは何の疑問もなしにそれを取ったが、握った瞬間にアイクだと気付いて少しだけ緊張した。
 初めて触れる手ではない。それなのに胸がざわめく。レテは立ち上がるとすぐに手を離して、エリンシアと向き合った。
「お手数をおかけしました。おかげで助かりました」
「いいえ、手数だなんてそんな」
 はにかむエリンシアの言葉を遮り、ところで、とアイクが周囲を見回す。
「どうしてここが?」
 確かにここは、そう簡単に突き止められる場所ではなかったとレテも思う。ただあくまで『ベオクになら』だ。
「将軍がいらっしゃらないので、ラグズの方々にご協力を仰ぎましたの」
 忠臣の姉の方――ルキノといったか――も、不機嫌そうにそう言った。
「そちらの方ばかり責められておいでですけど、将軍にも多大な非があるのではなくて?」
 レテが彼女の名前をおぼろげにしか覚えていなかったのと同じく、ルキノもレテの名を知らないようだった。
 無理もない。彼女がクリミア軍に復帰してこっち、レテはほとんどエリンシアに近づいていない。
「やめて、ルキノ。その話をしに来たのではないわ」
 エリンシアは強い声でルキノをたしなめ、アイクの目をしっかりと見つめた。
「アイク様。実は――」

 

「まさか、姫まで参戦とはな……」
 アイクは天幕への帰り道、ため息混じりに呟いた。呆れというよりは感慨に近いようでもある。
 無理もない。レテもあの終始何かに怯えていた風だった姫君が、剣と杖を取り自らも戦う、と言い出したときには、雛の巣立ちを見守る親のように思ったものだ。
「それだけお前の戦い方には、人を動かす何かがあるということだろう」
 アイクは右の人差し指で鼻の頭をかく。珍しく照れているらしい。こういうところは歳相応(といってもベオクのよく年齢は分からないので、見た目相応、というべきか)の少年なのだが。
 ただ本陣に帰る。それだけのことだが、ライたちが余計な気を利かせてくれてよかった。レテの立場では、多忙なアイク将軍と二人きりになる時間はあまりせがめない。かける言葉は何も見つからなかったが、構わなかった。これ以上多くを望めば、きっと壊れてしまうから。ベオクの少年に抱いた、淡い想いは。
 だというのに、女神は彼女にもう一歩踏み込んだ祝福を与えてくれた。先程の詫びと言わんばかりに。
 アイクの左手が突然に、レテの右手を握った。耳と尻尾の毛が総立ちになる。だがすぐに、いやきっと深い意味はない、流石のアイクも弱気になっているだけなのだ、そうに違いないと自らに言い聞かせ、平静を装った。
 アイクは何も言わない。レテも何か言おうとしたが、結局俯いたままだった。
 二人は手を繋いだままずっと黙って歩いていたが、もう皆の声が聞こえる頃になって、レテはようやく呟いた。
「討てよ、仇。そうでなければ許さんぞ」
「――ああ。それで絶対前に進むさ」
 宣言した少年の横顔は、初めて並んだときとは比べ物にならないくらい逞しかった。
 どちらからともなく、手が離れる。
 もう私の庇護などとっくに要らないのかもしれないな、とぼんやり思った。
 レテはその晩眠れなかった。右手の温もりを思い出しては背を丸めた。
 肩の震えを持て余しながら、一つの名を呼び続けた。焦がれる朝は恐ろしく遠い。