第六章 太陽と手を携えて - 6/6

SIDE:Ike

 

太陽を愛した勇者

 

「馬子にも衣装」
「お前が言うな、ボーレ。ヨファ、それ袖短くないか?」
「ぼくも言ったんだけどさ、ミストちゃんがこれでいいでしょって」
「ミストはお前のこといつまでもチビだと思ってんだよ、残念だな」
「ボーレうるさい! やっぱり替えてもらってくるね、アイクさん。これじゃおかしいもん」
 アシュナードとの死闘から生還して以降、アイクたちは目の回るように忙しかった。
 誰と会え、話し合え、これを書け、出来ることは全てやらされた気がする。今夜の戦勝祝賀会で一応一段落ということらしいが、当面はことあるごとに駆り出されるだろう。
 しかしこのように正装というのは、今後御免被りたい。グレイル傭兵団の男子にあてがわれた控え室は、半ば仮装パーティである。
「アイク、どうしました? 衣装のサイズが合いませんか」
 チャコールグレイの上下に身を包んだセネリオが歩み寄ってきた。いつもは素足にサンダルだが、今日は革のブーツなので足音が響く。黒髪は、瞳と同じ暗い紅の飾り紐で一つに括っていた。
 アイクの隣にいるボーレがため息をつく。サスペンダーがぱつぱつで、ヨファのことを言えない。
「セネリオ、そうしてっとやっぱ美男子だなー」
「どうも。ボーレもそれなりに美丈夫ですよ」
「おまえな、世辞ならもっと乗せられるような顔と声で言ってくれよ」
 ボーレはぼやきながら、逞しい首に絡みついたタイを少し緩めた。
 そうしてもいいのか、と、アイクは立て襟のシャツのボタンを一つ開ける。
「セネリオみたいに様になればいいんだがな。俺が着てるとどうもお遊戯だ」
「はは、ちげぇねぇな」
「お前もだぞボーレ」
「なんだと」
 睨み合いになるが、こんなところで争っても無益なので、どちらからともなく目を逸らした。
「既に肩こった。早く帰りてぇよ……」
「まったくだ。帰って寝たい」
「えー? その前においしいもの、いっぱい食べていこうよ」
 明るい女の声に、アイクとボーレは揃って顔を上げる。
 ワユだった。繰り返すがここは男連中に用意された部屋である。ボーレが顔を真っ赤にして怒鳴る。
「おまっ、ここ男用だぞ!」
「だってもうみんな着替え終わってるじゃん」
 ワユはけろっとしている。正確にはヨファがまだだが、多分『男』にカウントされていない。
「オスカーさんとシノンさんに髪の毛やってもらったよ。どうかな?」
 手をひらひらとさせる。その仕草はいつものワユなのに、雰囲気が随分違った。
 紫の髪は、編み込まれているところまではアイクにも分かるのだが、その先は見当もつかないような複雑さで後頭部にまとめられている。暖色の服ばかり着ているので、髪色より淡いブルーラベンダーのドレスも新鮮だった。エリンシアが普段着ていたような裾のふわりとしたタイプではなく、スリットの入った身体のラインに沿った形。引き締まった体型のワユにはよく似合いだった。
「悪くないと思うぞ」
「ホント? 大将。ボーレはどう思う?」
「ま、まぁいいんじゃねぇの」
「セネリオは?」
「おかしくはないですよ」
「やったね大成功!」
 ワユはぴょこぴょこ飛び跳ねる。あれではせっかくの晴れ着も台無しだとアイクは思うのだが。
「おい、オレが苦労してセットしてやったんだから暴れるんじゃねぇよ。はねっ毛で短いからなかなかまとまらねぇんだぞ」
 案の定シノンに怒られた。ワユは小さく舌を出したけれど、反省しているようには見えない。
 歩み寄ってきたシノンは、紅い髪を三つ編みにして前に垂らしていた。袖をまくったストライプのシャツに、アッシュグレイのベストを着て(上着はどこかに置いてあるらしい)、小さな鞄を提げている。
「化粧道具借りてきてやったぞ」
 もちろんワユに言ったのだろう。何故シノンが持ってきたのかまでは知らない。ワユはついとよそを向く。
「いらなーい。あたし血色いいもん」
「紅ぐらい引け」
「どうせすぐ飲み食いするんだから取れちゃうよー」
 見る間にワユは走り去ってしまった。シノンが舌打ちする。
「ミストは大人しかったのに」
「ミストの化粧もあんたがやったのか……」
 アイクは言い知れぬ申し訳なさを感じた。仕方ねえだろと言いながら、シノンはにやにやしている。
「ティアマトさんはご本人の化粧が長いんだからよ。その点ミストは若いからなー、手間ァかからなかったぜ」
 それに怒ったという訳でもないのだろうが、セネリオが澄ました顔で言う。
「一言一句違わず伝えておきますね」
「待てセネリオ、何が望みだ? 金か? オレの命か?」
 シノンは蒼褪めて、誘拐された悪徳貴族みたいな言い方をした。
 相変わらずこの二人は仲がいいのか悪いのか分からない。
「そんなことよりよ」
 芝居がかった話題の変え方で、シノンはこちらを向く。
「お前ら、そんなボサボサ頭で夜会に出る気じゃねぇよな?」
「だってよ、アイク」
「お前もだバカボーレ!」
 人事みたいなボーレの頭に、シノンの拳骨が飛んだ。アイクは何も言っていない。無罪だ。
「さっさと兄貴のとこに行け! いっぺんに二人は出来ねぇだろうが」
「いってーなぁ、殴ることねえだろー」
 ボーレはぶつくさとオスカーを捜しに行く。シノンはその場から動かず、じろりとアイクを見た。
「なんだよ」
「いや。俺の頭はあんたがやってくれるのか?」
「癪だがな。テメーがグレイル傭兵団の看板を背負ってる以上、泥を塗るような真似はさせねぇよ。あの人に申し訳が立たねぇからな。決してお前の為じゃねえ。勘違いすんなよ」
 淡々と言いつつ、シノンは両手に髪油をのばす。そして真正面からアイクの髪に手を突っ込む。前髪を全部後ろに流された。いつもバンダナをしていて額など出したことがないから、変な感じだ。
 シノンは真剣な目だった。そういえばこんなに近くで顔を見るのは、子供の頃に両拳でこめかみをぐりぐりされたとき以来だと思った。
「なぁ、シノン」
「あの猫娘な」
 何の脈絡もなくアイクの呼びかけを遮りながら、シノンは言った。目を伏せて髪油を手の平に足す。
「お前とはこれきりと思ってるそうだ。様ァねぇな」
「どういうことだ」
 食って掛かる前に、髪をぐしゃしゃと乱された。
「今整えたんじゃなかったのか!」
「あー? オッサンじゃねぇんだから、ガッチガチに固めただけじゃダセェだろうが。少し崩すんだよ、伊達男は」
 そう言われると、詳しくないアイクは黙るしかない。
 シノンはアイクの前髪の房を指先でまとめ始めた。
「お前が自分の人生を差し出してくれると思うほど若くもないし、自分の人生をお前に差し出せるほど青くもないって、オレにはっきりそう言ったんだよ。あの女が」
「だがレテは、ガリアに来いって言ってくれたぞ。全てが終わったら、いつでも気の向いたときにって」
 反論するが髪をいじられながらなので格好がつかない。シノンは鼻で笑う。
「社交辞令真に受けちまって若いねえ、アイク坊やは」
「社交辞令じゃない」
「じゃなけりゃお別れの挨拶だろうよ」
 急に真顔になって、シノンはアイクの左肩を衝いた。無様に転ぶということはなかったが、半歩後ずさる。
 シノンの目はひどく冷たかった。
「『終わり』も、『いつか』も、来ねぇよ。そんなもんは夢よりひでぇ幻だ。見る価値もない」
 脳裏によぎったのは、ティアマトの姿。グレイルが斃れた後、人目を避けて独りで泣いていた。
 ――彼女は父を、愛していたのだろうと、アイクは思う。
 それでも母への遠慮もあったろうし、その感情を表には出さなかった。傍にいられるだけでいいと胸に秘めていたはずだ。
 だからといって、あのグレイルが全く気付いていなかったとも思えない。ティアマトの想いを知りながら、言い方は悪いが、利用した。互いが落ち着いていられる距離に逃げた。その気持ちを断ち切ってやることすらせず、残酷に死んだ。
「胸糞悪ィんだよ。そんなクズみたいなもんに振り回されてる人間は」
 シノンは搾り出すように言った。じゃあ何でそんな泣きそうな顔するんだ、と言えなくて、アイクは口をつぐんだ。
 セネリオが遠慮がちに口を開く。
「すみませんが、アイク。僕もシノンの言い分はある種正しいと思います。いつでも来いなんて――まるで彼女は貴方に会いにも来ないし、傍にいる気もないと聞こえるじゃないですか」
「……そうか」
 アイクは呟いて、手の平を見下ろした。
 珍しく手袋をしていない、素のままの手。何も飾らない自分の肌。
「随分遠回しに突き放されていたんだな」
「どうせバカだから気付かねぇと思ったんだろ」
 シノンは手早く仕上げをすると、立ち去りかけて、思い直したように戻ってくる。
 そして、アイクの左の頬骨を指で強く擦っていった。
「いって……!」
「それでちったぁ男前だぜ!」
 けらけらと笑って今度こぞいなくなる。やはりシノンは、ライより数段扱いづらい。
「セネリオ、今のなんだったと思う?」
「……さぁ。とりあえず彼女に会うまで顔は洗わないことをお勧めしますよ」
 何か含みのある言い方をして、セネリオは肩をすくめた。
 

 

 祝賀会は華やかなものだった。
 ベグニオンの社交界にはやや及ばないが、途中デルブレー城で行われた宴とは規模が違う。何もかもが光りすぎていて目がちかちかした。
 すごいとは思うが、アイクはどうしてもこういうものに馴染まない。
「おいアイク、すげーなぁ! 美人揃いでどこ見たらいいか分かんないぜ!」
 ガトリーは大はしゃぎだった。女・酒・肉、彼の好きなものはここに全て揃っている。窮屈な衣装さえ除けば楽園なのだろう。
 水を差すようで悪いとも思ったが、アイクは彼の意識がはっきりしているうちに聞いておくことにした。
「なぁガトリー。真面目な話、あんたこれからどうするんだ?」
「うん? どの子を選ぶかってこと?」
「真面目な話って言ってるだろ」
 アイクは嘆息した。やはりこんな場で訊いたのが間違いか。いや、ガトリーが浮かれていないときの方が少ないのだが。
「あんたは傭兵団を出て行って、ベグニオン貴族に雇われてただろ。依頼主がクリミア軍に協力するって言うんで、あんたも成り行きで戻ってきてたが……これからどうするつもりなのか、聞いておきたい」
「それなー」
 ガトリーは珍しく真剣な顔で、片手を顎にやった。どこか遠くを見る目つき。
「ステラお嬢様に契約を解除されちまったんだ。彼女、クリミア騎士団に入りたいんだと。これって、主従関係はなくなってもお傍にいてくださいって意味だと思うよな」
「違うと思うぞ」
 アイクは即答した。
 ガトリーの雇い主だったベグニオン令嬢は、賭博中毒のマーシャの兄君をいたく気に入ってしまったのだ。ベグニオンにいられなくなって、クリミアに身を寄せることになった彼を追ってのことだろう。なんであんなのを、と妹のマーシャも頭を抱えていた。
「あっそうそう、マーシャちゃんも、『私エリンシア様にお仕えすることになったんですよ、これでガトリーさんと同じクリミアの民ですね』って笑いかけてくれたんだけど、これプロポーズだよな? おれのお嫁さんになりたい的な?」
「……そっちは知らんが」
 そうだとしたら、マーシャもこんなのでいいのかと問いたい。入れ込んでしまえば一途だが、ガトリーはそれまでの目移りが激しすぎる。
「待て。それって、ガトリーもクリミアに留まってくれるってことか?」
「うーん、二人の女性から求められたらそうせざるを得ないよな……そこでなんだけど」
 ガトリーは急にアイクを向いた。
 女性のことを語るときの、甘くとろけた目とは違う、溌剌と輝く碧眼で。
「なぁ、アイク! また傭兵団やらないのか? おれ、軍隊でも大活躍だったけど、やっぱ傭兵稼業が気楽で好きだからなー。どうせなら、前みたいにみんなでわいわい騒ごうぜ」
「構わんが。『ショボい仕事』ぐらいしかしないぞ、うちは」
 アイクは、一年前の港町でのことでちくりと刺した。
 ガトリーは自分の発言を覚えているのか分からないが、豪快に笑う。
「女の子の傍で戦うのに、ショボい仕事なんてないね!」
「そうか。それがあんたの答えなら、それでいい。またよろしく頼む」
 アイクが右手を差し出すと、おうよとガトリーはその手を強く振った。そのままナンパにくり出してしまったので、アイクは食事でも摂ろうかとテーブルに向かう。
 途中、酒の代わりに葡萄の果汁を給仕に渡され、飲みながら歩を進める。繊細な料理にはあまり興味がないけれど、いろいろな種類の肉を出すというので楽しみだった。
 が、着いたらもう半分以上なかった。
「イレース。あんたの胃袋、本当にどうなってるんだ……」
「あ、どうも」
 イレースは両手に骨付き肉を持って振り向いた。
「今新しいのを作ってくれているそうです。私も安心して食べていられます」
「お手柔らかにな」
 いきなり食糧危機は勘弁して欲しいものである。
 ともあれ、アイクも隣に並んだ。汚れそうな白い手袋を外して胸ポケットに押し込む。
「あんたは、明日からどこへ行くんだ」
「ろうほうらんろみらはんと」
「口の中を片付けてからにしてくれ」
「……行商団の皆さんと」
 イレースは肉を飲み下し、落ち着いた表情で言った。
「一緒にデインに行きます」
「デインに?」
「はい。敗戦で物資が足りないだろうから、商売のチャンスだって」
「たくましいな、商人ってやつは」
 アイクは嘆息し、大皿から肉を取っていった。イレースと違って抱えては食べない。大所帯での習慣が染み付いているのだ。食べ盛りの揃う傭兵団でそんなことをしたら、半殺しで済めばいい方である。
「確かにムストンたちは、俺たちについてきたのだって特需を見込んでのことだったしな。別にクリミア贔屓だった訳でもないだろうし。でも」
 ようやく肉にありつけた。やわらかくて、とろけるようだ。アイクとしてはもっと歯ごたえのある方がいい。
「あんたは、いいのか。モゥディはあんたをガリアに呼びたがってたと聞いた」
「……そうですね。嬉しかったです」
 ガリアにはたくさんの見たこともない果実や他の国には住んでいない獣の肉もあって近海で脂ののったお魚も捕っているそうです、とこれだけ食べながらイレースはなお涎を垂らし、陶然としていた。
 だがすぐに、感情の薄い顔に戻ってしまう。
「でも、私にとっては、あの行商団が貴方にとっての傭兵団なんです。おいしいものがあるからとか、モゥディさんが優しいからとか……そういうので離れられる人たちでは、ないんです」
「そうか」
 それ以上はアイクも言えなかった。アイクとて、レテのために傭兵団を投げ出すことは出来ないのだから。
 イレースはサラダボウルに手を伸ばした。新鮮な野菜も、行軍中にはなかなか手に入らなかったものだ。そして二回目の、でも、を言う。
「モゥディさんたちは、私たちからしたら気が遠くなるほど長生きするんだそうです。だから私、おばあちゃんになっててもいいですかって、聞きました。大切な人たちを見送って、まだ私に日々が残されていたら……貴方に会いに行って、お腹いっぱい食べてもいいですかって。モゥディさん、自分はきっと生きているし、ガリアには私でも食べ尽くせないほど、いろいろなものがあるからって……笑ってくれました。だから私、すごくずるいかもしれないけど。甘えさせてもらうことに、したんです」
 出逢ったときと同じように、イレースは切れ切れに言う。そして出逢ったときと同じように、それでも最後まで話し切る。彼女の影は薄いけれど、その意志は決して曖昧ではない。
 イレースは葉っぱを咀嚼して、小さく微笑んだ。
「私たち、きっとガリアでもいいお友達になれると思います」
「え?」
 アイクがその真意を問いただす前に、イレースは見たこともないほど素早く手を挙げた。何事かと思っていると、トレーにたくさんの料理を載せた者たちがやってくる。
「追加が来ました! 食べましょう」
「ああ。そうだな」
 ごまかされたとは思ったが、敢えて乗っておいた。きっと、しつこく訊いてもイレースは黙って食べ続ける。
 アイクが本腰を入れて食べようとしたとき、あの、と後ろから控えめに声がかかった。聞いたことはあるがすぐ分かるほどでもない。振り返ると、立っていたのはエリンシアの忠実なる騎士・ジョフレだった。
 庶民の間では見ない透き通るような碧い髪が、シャンデリアでさらに眩しくきらめいている。その絢爛さとは似つかない実直な瞳は、畏まってアイクを見つめていた。
「アイク将軍。ご歓談中恐縮だが、少しお時間をよろしいだろうか」
「ああ。構わん」
 本当は少し惜しかったが、人より食べ物を優先するほどでもない。イレースが食べ尽くさないうちに話を終えよう、と思いながら切り出す。
「それで、何か?」
「いや。将軍には多大に世話になっておきながら、これまでまともにご挨拶をすることがかなわなかった。まず非礼をお詫びしたい」
「そういうの」
 アイクは後頭部をがしがしかいて、髪を整えてくれたシノンのことを思い出した。慌てて手の平で撫で付ける。
「あまり好きじゃない。俺は業務上必要になったから将軍になっただけの、雇われだ。あんたみたいに将軍になるために騎士になった人間とは違う。堅苦しくなる必要はないだろう」
「……私だとて」
 もっと気楽にと言ったつもりが、ジョフレは何故か態度を硬化させてしまった。眉を寄せて低い声で言う。
「将軍になるために騎士になったのではない。我が一族は代々クリミア王家をお支えし、私はエリンシア様をお護りするために剣を取った。立身出世を目指してのことと思われるのは、心外だ」
「それは、悪かった。知らずにあんたの誇りを傷つけることを言ったのは、俺の非だ。すまなかった」
 物静かな青年だと思っていたが、なかなかどうして胸の内は熱いようだ。
 アイクがすぐに謝ったので、ジョフレの怒りも行き場を失ったらしい。凛々しい眉を下げて考え込んでいる。
「私の方こそすまなかった。それで、私は君に対しどう振舞えばいいだろうか。自分ではこれを平素のものだと思っている。君の望むように出来る自信がない」
「別に、あんたが自分の姉さんやフェール伯にしてるようにすればいいだろう」
 アイクは首の後ろをかいた。王侯貴族というのも大変だなと胸中で呟く。
「俺たち、そんなに歳も変わらないだろ? 自分のこと『俺』って言って、俺のことも呼び捨てにして、自然にすればいいじゃないか。俺も今後はあんたのこと、ジョフレって呼ばせてもらうから」
「わ、かった」
 あんまり分かっていなそうな顔でジョフレは答えた。
「それで、ア、アイク」
「何だ、ジョフレ」
「わた、お、俺は、ずっと君に礼を言いたかった」
「とりあえず、落ち着けよ」
 近くにあった水差しとグラスを渡した。
 ジョフレが水を一気飲みしている間に、オードブルを一つ口に放り込む。確かに水が欲しくなる味だ。
「……俺はクリミアの騎士だが、それ以上にエリンシア様の騎士でありたいと、ずっと思ってきた」
 アイクは飲みさしの果汁で喉を潤したが、それ以上は口に入れなかった。俯いたジョフレの、言葉の続きを待つ。
「それなのに、俺はあの方をお護り出来なかった。デイン兵に襲われて、お姿を見失って……余程自害しようかと思った。姉にも殴られて、殴ることであの方が助かるのならいくらでも殴られていたいと思った。ライ殿が、ご存命の報を知らせてくれるまで……自分が息をしていたのかどうかすら分からなかった」
 気軽に、わかるよとは言えなかった。だが、解る気がした。
 父を喪った直後のアイクも、何をどうしていたのか覚えていないから。
「君が来てくれた雨の日のこともよく覚えている。ようやく姫の御為に死ねると思った……自らの任を他人に委ねてしまった俺には、それが贖罪に思えたのだ。けれどそうではなかった。姫はこの身の無事を祈ってくださっている、ならば今度こそ誰より御傍で守り抜こうと誓ったのに――」
「誓ったのに?」
 言葉を止めたジョフレの為に、アイクは繰り返した。彼の時間が動き出すよう、促した。
「あんたは姫を、誰より果敢に護ってくれた。俺やレテが迷いなく敵陣に突っ込んでいけたのは、あんたたちがいれば姫は大丈夫だと信じていたからだ」
「違うんだ」
 ジョフレは呻いて、自分の利き腕を反対の手でぐっと握り締めた。
「俺はまた自己満足で動いていた。姫の癒しのお力を当てにし、命を捨てるような無茶な戦い方をした。また姫のお心を痛めた……どうしようもなく愚かな騎士だ」
「でもエリンシアは、あんたを赦した」
「そう、赦してくださった。赦されることが出来た。君のおかげで」
「俺の?」
 アイクの疑問に、ジョフレは顔を上げる。さっきまで下を向いていた人間のものとは思えないほど、強い目だった。
「君が姫をお護りしてくれた。お支えしてくれた。それがなければ今俺は、生きながら死んでいた。お叱りを受けることすら出来なかった。君は姫を、クリミアを、間接的ではあるが俺のことも救ってくれた。言葉で贖えるとは思わないが、礼を言う。……本当に、感謝している」
「礼には及ばん」
 アイクは右手を差し出した。信頼を示すときんは、いつもしてきたように。
「あんたが姫を逃がしてくれなければ、どのみち俺たちは保護することも出来なかった。そうしたらクリミアは今でもデインのものだろう。あの雨の日に、あんたたちを助けると決めたのも、俺じゃなくエリンシアだからな。俺たちが出逢ってこうして話をしてるのは、あんたの努力とエリンシアの強さのおかげなんだ。俺からも礼を言う。――ありがとう、ジョフレ。あんたたちの王女は、俺たちの最高の雇い主だった」
 ジョフレが顔を歪めたのは、どうやら不快だからではなかったらしい。
「ありがとう、アイク。君は誠の英雄だ。あの方のお傍にあったのが、君のような人で本当によかった」
 アイクの右手を包んでくれた両手は、繊細だがしっかりした熱だった。
 ジョフレとアイクの握手を見て、他のクリミア人が集まってきた。瞬く間に人に囲まれてしまう。イレースは我関せずで食べている。なぁ食ってからでいいかと言う隙を与えられず、アイクはもう誰と話しているのかも分からないぐらいの会話に巻き込まれていた。
 こういうのは向かない。腹は減っているのに頭が破裂しそうだ。
「悪い。ちょっと通してくれ」
 誰かのところで少し休ませてもらおう。ラグズは端で固まっているようだから、ちょうどよさそうだ。
 出来ればレテに会っておきたい。あまり衣装には興味がなさそうだが、今日ぐらい少しは装いが違うだろう。
 そう思って抜け出した先に、彼女がいた。花嫁衣裳みたいに真っ白な服を着た、彼女がいた。
「レテ」
 思わず右手を出す。
「疲れた。連れ出してくれ」
 叱られるかと思ったのに、レテは笑ってアイクの手を引いた。
 さっきまで動けずに辟易していたのが信じられない。レテは簡単に集団の間をすり抜けていく。狭い路地裏を駆け回る街っ子みたいだ。
 階段を下りて連れて行かれたのは外だった。折れた噴水はまだ直っていない。砕かれた石畳もそのままになっている。
 けれどこの不完全さは、確かにアイクたちが血を流した証だ。飾られて浮世離れした宴より余程強く、掴み取った平和を実感させてくれる。
「助かった、ありがとう。……飯を食わしてくれるのは嬉しいが、ああ挨拶ばかりじゃ腹に入れてる暇がない」
 暑くなって、アイクはシャツのボタンをもう一つ外した。夜気が襟の隙間から滑り込んできて心地いい。
 レテが肩をすくめる。珍しくリボンのない首に、革のチョーカーが巻きついていた。
「外に出てしまっては、いよいよ食べ物にありつけんぞ?」
「面倒な社交辞令から解放されただけでも僥倖だ」
 アイクは髪をぐしゃぐしゃとかき回す。シノンに怒られるだろうと思ったが、もうどうでもいい。これ以上付き合いきれない。
「その衣装、ガリアのか?」
 アイクが問うと、ああと頷いてレテは右袖を持ち上げてみせた。袂が大きく垂れていた。
「親友が届けてくれた。……似合わないか?」
 問われたので、正直に答える。
「いや。ただ、いつもと雰囲気が違うから驚いただけだ」
 褒めたつもりが伝わらなかったらしい。レテはぎこちなく笑う。
「本当は、これはその年、集落で一番美しい娘が着るんだ。妹のものでね。借り物だから落ち着かないが」
「――そうか」
 道理で居心地が悪そうにしている訳だ、とアイクは天を仰ぐ。
 彼女は自分の美しさを知らない。自分がどれだけ他人を惹きつけるか、解っていない。
 アイクはレテに歩み寄り、一歩引いたところに立った。今度こそ通じるように言葉を選ぶ。
「そういうことなら、よく似合ってる」
 レテは真っ赤になって俯いてしまった。解ってくれた、ということだろうか。少なくともアイクの気持ちは。
 なのに気忙しく耳を動かしながら、よその方を見てこんなことを言う。
「お前は、その、それでベオクの女と踊ったのか?」
「まさか」
 今度はアイクが肩をすくめた。
 エリンシアが前もって言い含めてくれたのだ。将軍は浮薄なことが苦手だから決して踊りに誘わぬように、と。嘘ではないが本当でもない。恥をかかせぬようにしてくれただけ。
 一番身も蓋もない言い方をするならば、つまり。
「俺は踊れない」
「そうか。私もだ」
 レテは明るく言ったが、その衣装を見るとどうもそうは思えないのであった。
 アイクはレテの左袖に触れる。
「国でも踊らないのか? こういうのは踊りの衣装に見える」
「そうだな、国では踊るな」
 レテは何でもないことのように答えた。アイクは思わず袖を握り締める。
「ライと?」
 猫の青年を思い浮かべながら問うた。器用そうだから、きっと上手いこと女性をリードするに違いない。あれだけ想いを寄せていたのだし、冗談に紛れて誘いもしただろう。
 しかしレテは意外そうにアイクを見上げた。
「いや? あいつは女を取っかえひっかえだが、私はあいつと――というか基本的に父以外の男と踊ったことがない。いつも男装で妹たちと踊っていた」
 いろいろ言いたいことはあったが、差し当たりやめた。
 本命を誘えないライもライだし、『基本的に』の埒外の父親でなくライでもない男性が気になったし、妹と踊るのはいいとして何で男装だったんだ、とか。まぁ、さぞモテただろうことは容易に想像がつくが。
「あんたらしいな」
 アイクは呟き、袖を放した。入れ替わるようにレテがアイクの手を握る。
 油断していた蒼の瞳に、無防備な紫が飛び込む。
「踊るか?」
「だから、踊れないって」
 アイクは顔を背けたが、振り払えなかった。レテは、そうかとは言わず別のことを言う。
「ガリアの踊りならモゥディも出来るぞ」
 むっとした。別に、モゥディに出来て俺に出来ないことはない、ということではない。こんな夜に――まぁ先にそれをしたのは自分だけれど――他の男を引き合いに出してほしくはなかった。
 こうなったら踊れるようになるしかない。アイクの気負いを見てか、レテは笑う。
「簡単だ。我らの踊りは、恵みを感謝し勝利を称えるだけのものだから」
 足を踏み鳴らす。手を打つ。ガリアの踊りは確かにシンプルだ。ベオクのダンスのように、上半身と下半身で気をつけることが違ったりしない。何とか見よう見まねでついていける。
 アイクが慣れてくると、レテは地を踏むときに腰を揺する動きを足した。小ぶりの尻が動くのに合わせて、飾り紐の先の宝石が跳ねる。
 見とれて真似するのを忘れた。馬鹿みたいに下がった腕に、レテが白い腕を絡める。
「ここで一周」
 囁かれるままその場で回った。一歩離れて一礼。上体を起こす。
「以下繰り返し」
 二回目からは、アイクもあまり遅れなかった。
 レテと近づいたり離れたりしながら足踏みする。
 近くの村の収穫祭にお邪魔して、ミストやヨファが踊っているのを見ていたけれど。
 二人が子供だから楽しいのだと思っていた。供される料理の方が楽しみだった。
 今なら、少し解る。
 ヨファがしきりにミストを誘ったのも。シノンが適当な女を引っ掛けて踊ったのも。ガトリーが涙目で相手を探していたのも。村の恋人たちが満ち足りたようにステップしていたのも。
 もちろん、鍛錬の方が好きだ。自分には無骨な方が似合っている。
 けれど。けれど、今の彼女にはこちらの方が似合いだから。
 無垢な衣装が揺れる。深いスリットから白い太ももがこぼれる。
 夢みたいに綺麗だった。今すぐにでもさらっていきたかった。
 ――この戦いが終わって、全てが終わったら。
 この戦いは終わったのに。何が終われば、二人は別れずに済むのだろう。
 儚い永遠なんて矛盾したものを捨てて、共にいることを選べるのだろう。
 こんなに愛しい手を離さずにいられるのだろう。
『さぁ踊れや かわい あの子の 手を取り』
 澄んだ歌声が響く。よく通るこの声はライだ。
 遠吠えの調べは高く伸びる。やわらかく包み込むようでいて力強い、獣牙を象徴する旋律。
『一歩二歩 尾を振り 三歩四歩 足踏み』
 獣牙の民が現れ、手拍子をしてくれた。彼らはアイクを拒絶していない。少なくとも今宵は受け入れてくれている。アイクがその文化に身を即すことを。
 だからレテにもやめてほしくなかった。驚いて止まろうとするのを、強引に踊りに引き戻す。
『火の粉 空に 舞い散り 星に なって 歌う』
 ライの声は切なさを帯びて夜空を焦がした。芸術の良し悪しなどアイクには分からないけれど、きっとガリア一の歌い手だと思った。
 音がこんなにも魂を震わすことを、アイクは今まで知らなかった。
「アイクー! レテちゃん抱っこしろー! お姫さま抱っこー!!」
 バルコニーからガトリーが叫ぶ。隣でシノンがニヤニヤしている。
 やってみてもいいか、とアイクは思った。
 何しろ気分がいい。アシュナードを倒してから戦闘もしていないから、体力も余っている。これまで何度も失敗したけれど、今度こそは。
 アイクはレテの肩と、膝の裏に腕を回した。
「……ふッ……!!」
 悪いがやっぱり重い。簡単には持ち上がらない。
 だが今夜は引き下がりたくない。レテが真っ赤になって暴れる。
「無理するな! 腰を痛めるぞ」
「黙って……ろ!!」
 ――もう少しで、いけそうなんだから。
 歯を食いしばって、一層両手足に力を入れる。汗も吹き出るし血管は切れそうだったが、確かにレテの身体が宙に浮いた。地面すれすれでもちゃんと持ち上げた。
 格好よく抱き上げることなんて出来やしなかったけれど。押し潰されそうになっていた頃とは違う。
 自分は変わった。成長した。少しでも、彼女に相応しい男になれた、はずだ。
「もういいから下ろせ!!」
 怒鳴られた拍子に、アイクの身体は限界を叫んで崩れ落ちた。
 それでも何とかレテを地面に叩きつけることはせず、下敷きになる。みんな大爆笑だったが構わなかった。
「そのうち、あんたを抱えて戦場を駆け回れるようになるな」
 得意げに言うと、レテは笑って、アイク、と名を呼んでくれた。
 愛しげに呼んでくれた。それがとても嬉しかった、のに。
「――ありがとう。お前に出逢えた奇跡は、私にとって一生で一番の宝物だ」
『【終わり】も、【いつか】も、来ねぇよ』
 不意にシノンの声が響いた。
『そんなもんは夢よりひでぇ幻だ。見る価値もない』
 半開きの口唇で間抜けに息を吸った。
 そのうちすらも、許してもらえない。アイクは今夜で、レテにとって過去のものになる。
 彼女の未来に自分はいない。一瞬姿を見せたとしても、それは懐かしむためのただの装置。
 ――そんなことに、耐え切れるものか。
 レテの身体を引き寄せて、口唇を塞いだ。誰が見ているだとかここはどこだとか、もう関係がなかった。
 初めてのときの、赦しを請うような口付けではなく、貪りながらレテの脳髄に自分を刻む。
 喰らうように、愛を喚ぶ。
「出逢ったことが、一生で一番、だと」
 その紫にそんな弱さを認めるものか。
 夜が寒いなら熱を与えよう。朝が遠いなら月を落とそう。雲が厚いなら俺が斬り裂こう。 
「そんなもの、いくらだって書き換えてやる。持ちきれないほどたくさんの宝物をあんたにくれてやる。だから」
 だから輝くことをやめるな。
 あんたは俺の黎明。ただひとつの、太陽だから。
 レテは背中を弓なりに反らし、アイクの頬に触れた。月光に縁取られた姿は、まるで化身する前触れのように、美しかった。
「続きは。太陽の下で、聞かせてくれ」
 そう言われては、アイクも黙るしかなかった。逃げるのかとなじることも出来ない。
 この夜は暗すぎると告げられて、否定の言葉も浮かばなかった。
「今日のお前は、獣牙の兄弟みたいだったよ」
 レテの指先が、アイクの頬骨をそっとなぞる。
 シノンのいたずらの跡。獣牙の模様のように走った、一筋の朱色。
「楽しかった。おやすみ、アイク」
 この色が消える頃には、アイクも今宵のレテを永遠に失うのだろう。
 そして彼女の純白は、また元の色に染まる。誰もこの夜には留まれない。
「たーいしょー! お料理持ってきたよー!!」
「おー、お前らまた何かケンカして……って、いちゃついてんのか。飽きねぇなー」
 ワユとボーレが騒ぎながらやってきた。
 頃合だ。アイクもいい加減、『団長』と『将軍』に戻らなくてはいけない。
 レテもきっと、『連隊長』に戻らなくてはいけない。
 立ち上がった彼女は、いつもの『戦士』の顔だった。
「飯だ! ありがたくいただくぞ、兄弟!!」
 レテが煽ると、獣牙族はわっと料理に群がっていった。
 アイクも、そういえばほとんど何も腹に入れていなかったことを思い出す。
「あっ、おい、俺の分!」
 アイクは慌てて腰を上げたが、急に態度を変えたレテのことが気になった。
 レテはそれさえお見通しのようで、微笑んで手振りでアイクを促す。
 これ以上は話してもくれないようだった。闇に溶けるように、彼女は消えてしまった。
 もういくらも残っていない夜の中に。
 
 

 

 
 翌日は、たくさんの者を見送った。
 早朝から遠方の仲間たちに挨拶をし続け疲労困憊のアイクを見かねたのか、隣国ガリアの民は昼を過ぎてから発つと言ってくれた。 おかげでようやく一心地つける。アイクは用意された部屋で一人、椅子に腰を下ろした。
 腕を目元に押し付けながら、隙間から空を見上げる。生憎の曇天だった。あの雲の向こうにあるのは知っていても、太陽の下でというレテの出した条件には合わない気がする。
 別に、天候が悪いから言い分を聞かないとか――そんな風にはされないと思うが、気分が重い。
 頬に触れる。あの朱色は水で洗ったら簡単に落ちた。アイクが彼女の同胞であった奇跡は終わった。
 今日からアイクはまた、クリミアの一介のベオクだ。
「失礼します、アイク様」
 エリンシアが入ってきた。籐の籠を提げたジョフレを連れている。
「お疲れでしょう? ルキノが軽食を作ってくれましたから、今のうちに召し上がってください」
 エリンシアに促され、ジョフレが一礼して進み出た。どうも、と短く述べて、アイクは籠の中の包みを受け取る。
「あんたの姉さんは、俺のことが嫌いなんだと思ってたが」
「まさか。あのひとは、気に入った相手にほど手厳しいだけだ」
 ジョフレは苦笑して、水を注いでくれた。アイクは、自分好みの分厚い肉を挟んだパンにかじりつく。
「俺の周りには、そんな連中ばかりだな」
 エリンシアが口許を押さえてくすくす笑っていた。もう憂いのない笑顔。
 アイクはパンを胃の中に押し込んで、ソースのついた指を舐める。
「エリンシア。随分待たせたが……やっと、あんたとの約束を果たせた。これで任務完了だ」
 アイクが手を拭いて立ち上がると、エリンシアはすっと笑いを引いた。仰々しく頭を下げてみせる。
「お疲れ様でございました、アイク様。クリミアの民と、今は亡き父母と叔父に代わり……このエリンシア・リデル・クリミア、貴方に心から感謝を申し上げます」
 ジョフレも深々と頭を垂れた。アイクは頭をかきながら、とんとんと爪先で床を叩く。
「……なぁ、それ、やめにしないか?」
「え?」
 エリンシアが顔を上げる。見開かれた琥珀の瞳は歳相応で、せめて自分やジョフレの前でぐらいそのままでいればいいのに、と思う。
「俺も色々、貴族の風習ってのには慣れてきたつもりだが……その『お辞儀』ってのだけはダメだ。ヘソのあたりとか足の裏とかがかゆくなってくる」
 あながち誇張でも冗談でもないのだが、エリンシアは笑ってくれた。
「アイク様ったら。そうしたら私、どうお礼を申し上げたらいいか分かりませんのに」
 アイクは微笑んで右手を差し出した。
 いつだって、誰にだって。こうやって信頼と感謝を表してきた。
「クリミアの自慢の女王になってくれ、エリンシア。俺はそっちの方が嬉しい」
「……ありがとうございます」
 だがエリンシアは手を取ってくれなかった。下を向いて、両手をすり合わせている。
「でも、不安なんです。私は国を背負う者としての教育も受けていない。そんな私が、本当に王位についていいのでしょうか? 今更と思われるかもしれませんが……国民は私を認めてくれるでしょうか?」
「なら聞くが、俺たち傭兵を雇う教育は受けていたのか?」
 アイクは一歩エリンシアに近づいた。えっ、とエリンシアが声を詰まらせる。
 もう一歩踏み込む。
「散り散りになっている臣下を集める教育は? 失われた国を取り戻す教育は?」
「ですが、それとこれとは……」
「違わないさ」
 こちらから、掴んだ。小さな手。これからのクリミアを担う手。己だけを抱きしめるには、あたたかすぎる手。
 だから、誰かと分け合うことを知ってほしい。
「これまで立派にやってきたじゃないか。これからもやっていけるさ。あんたの傍にはいつもジョフレたちがいる。俺たちだって、きっと力になる。いつでもまた雇ってくれ、絶対に駆けつけるから」
 ジョフレも頷いて、エリンシアの右手に触れた。
 エリンシアは震えていた。泣いていたけれど、笑っていた。
「……はい! 私、ジョフレやルキノが、貴方のことが、とても大切だから……頑張ります。誇っていただけるような者に、きっとなってみせますから」
 宝石のような涙がこぼれる。アイクは右手を離し、手の甲でエリンシアの頬を拭いてやった。
「泣くなよ。レテたちが待ってる。そんな顔で行ったら笑われるぞ」
「だっ、大丈夫です! 顔を洗ったらすぐに行きますから、お先に行ってらしてください。ジョフレ、ごめんなさい、ルキノを呼んで」
「は、はい!」
 二人がばたばた去っていって、アイクはまた一人になった。
 部屋を出て広い廊下を歩く。思えばたくさんの廊下を歩いた。かびくさいものも豪華すぎて息苦しいものも。
 彼女に拒絶されたことも。見とれたことも。
 嫉妬したことも。求めたことも。
 受け入れられたことも。突き放されたことも。
 一歩ごと、全てが頭をよぎる。
 彼女を知らなかった。ラグズを知らなかった。恋を知らなかった。
 もう一度この国に戻っても、あの頃の自分には戻れない。
 元通り暮らしていくことなど出来ない。
 会いに行く約束ですら、この喪失を埋められないのなら。自分は彼女に、どんな言葉をかければいいのだろう。
 窓の外を見た。
 雲は相変わらず厚くて、狂王と戦った日のようだった。

 

「ジフカ殿、あんたにも世話になった」
 差し出した手を握り返されたときは、危うくひっくり返りそうになった。ライがげらげら笑うのでよっぽど怒ろうと思ったのだが、その前にジフカ自身に拳骨を喰らっていたのでアイクはタイミングを逃した。
「ガリアは俺にとって大事な場所だ……また、ちょくちょく遊びに行っていいか?」
 レテの祖国だというだけではない。
 グレイルが眠る場所。記憶はないながらも、アイクとミストの生まれた場所。両親が幸せに暮らした場所。ガリアをめぐる想いはたくさんある。
 ジフカは重々しく頷いた。
「いつでも来るがいい。王も喜ばれるだろう」
 その後ろから、ライが軽い調子で顔を出す。
「あ、そうそう。オレにはすぐ会えるぞ。ガリアはクリミア復興にも、助力を惜しまないって話だからな。大勢の労働力引き連れて、すぐに戻ってくるから、期待してろよ」
「労働力はありがたいが、お前とはもう向こう三年ぐらい会わなくても……」
「なんだとぉ!」
「冗談だよ。楽しみにしてる」
「アイク! モウディもクリミアの復興を、手伝いにクるぞ。力を、イっぱい貸すぞ!」
 今度はモゥディがアイクの手を握り、上下にぶんぶんと振った。
「ありがたい」
 肩が外れる前にやめてくれるともっとありがたい。
「いつになるかわからんが……例の約束、果たせるといいな」
 レテは穏やかな顔でそう言った。アイクには返事が出来ない。
 約束は何が何でも果たすつもりだ。けれど、昨日の続きは、どう頑張っても出てこなかった。
 伝えたい言葉は全て吐き出してしまったはずで、今更中身のない挨拶でごまかすこともしたくなかった。
 やがて、時間切れだというように、レテが深く嘆息した。
「では、またな」
「ああ、また。……元気でな」
 もっと交流の少なかった者にすら、まだましな文句が言えていた気がするのに。
 ガリアの民が去っていく背を、アイクはバルコニーからじっと見つめていた。
 ライやモゥディは時折こちらを向いて手を振るが、レテは前しか見ていない。
 永遠の別れではないのに、とどかないな、と感じた。
 あの小さな背に、もう一度だけ触れたかった。橙の髪を指ですきたかった。
 未練がましいとは思うけれど。
 あの紫で、もう一度射抜いてほしかった――。
 触れられないのに、腕を上げる。せめて太陽が見たいと願った。
 言えなかった言葉の代わりに、せめて彼女を照らす光がほしい。
「レテ」
 気がつけば口唇は彼女の名を呼んでいた。今日顔を見て一度も口に出来なかった音。
 声にした瞬間、二度と動くまいとさえ思えた雲が突然に割れた。光が射した。穢れない色が、空から皓々と――。
 レテが振り返る。これだけ離れていながら、あの紫の瞳に輝きが宿るのが分かる。
 天啓のように言葉が降った。アイクは手すりに駆け寄り、落ちるぎりぎりで腹の底から叫んだ。
「レテ!!」
 俺はあんたを愛してる。
 立場とか、種族とか、今すぐどうこう出来ない問題が山積みなのは分かってる。
 けど、親父が『ガウェイン』を捨てて『グレイル』として母さんを愛したみたいに、俺もあんたを選びたい。
「全てが終わって、クリミアにも、傭兵団にも俺のいる必要がなくなったら……俺は残った何もかもを、あんたにやりたい! おっさんになってるか、じいさんになってるかも分からないが、それでもまだあんたが俺のことを愛してくれていたなら……」
 あんたの全てをくれなんて、言わないから。大切なものは全部、俺から隠していても構わないから。
 せめて。これだけ許してくれないだろうか。
「共にいてくれ! ……俺と手を携えて、生きてくれ!!」
 小さな身体を照らす天からの光。
 彼女こそ、彼にとっての太陽だった。終生燃え尽きることのない、永遠の。
「私の気持ちは変わらない」
 こんなに遠いのに、レテの声ははっきりと通った。
 アイクは息を止めて続きを待つ。
 やがてレテは両手を一杯に伸ばし、誰よりも眩しい笑顔でこう言った。
「楽しみに待っている。ずっとずっと、待っているから!!」

 

 この後彼らは、大陸全土を巻き込んだ戦いに、再び身を投じることになる。
 女神に弓引き、世界の存亡に儚い命を懸けることとなる。
 そしてテリウス大陸は全ての種を越えて、末永い平和を享受した。

 以降蒼炎の勇者は、傍らにあった橙の猫とともに、ふつと歴史から姿を消す。
 さまざまな憶測が流れたが、その真実を知る者はついに現れなかったという。
 太陽を愛した勇者は、地平線の向こうに姿を消した――。
 語られる伝説はいつも、こうして締めくくられるのだ。

 

To SIDE Rethe

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