第一章 そして太陽が目覚めるように - 1/6

SIDE Rethe

 

 

色褪せた頁

 

『此の国は本来、我等が女神より賜った土地ではない。追われた果てに辿り着いた最後の聖域なのだ』

 

「本日はここまで!」
 凛とした声が星空に響く。思い思いに別れていく部下たち。
 今日もつつがなく仕事を終えた、と彼女は溜息をついた。
 ここはテリウス大陸西部、大森林地帯に位置するガリア王国。
 国としての歴史は浅いものの、賢王カイネギスの統治下で発展と繁栄を享受している。
 ここでは『獣牙族』と呼ばれる者たちが日々を営んでいた。彼女はその中でも、『猫』と呼ばれる種族だ。とはいえ、手足を初め基本的な骨格はいわゆる『人間』と変わらない。だが頬に入った模様、白目の少ない瞳、頭の上に張り出した耳、何より臀部から伸びる長い尾は『人間』と彼女たちを区別せしめるものだった。
 そして彼女の名前はレテ。この国で一連隊の長を務める戦士である。
「レテ隊長! みんなで晩飯、食いに行きませんか?」
「いや、私はいい。少し調べ物がある」
「こんな時間からですか?」
「そうでもないと中々時間も取れないからな」
「はぁ……」
 レテの真面目極まりない発言に、部下は少々興醒めしたように耳を下げた。彼女は苦笑して肩をすくめる。
「明日は早いぞ。程々にしておけ」
 気安い口調に部下たちは表情を緩め、はい、と頷いて駆け出した。あれぐらいで生きられたら人生ももう少し楽しかろうと自分でも思うレテだが、性分は易々と変えられるものではない。
 彼らの姿が見えなくなった後、一つ伸びをした。そして軽やかな音で地面を蹴る。空中にある彼女の身体は目映い光に包まれ、再び着地した時その姿は全く違うものへと変わっていた。
 『化身』。レテの全身は今、髪の色と同じ明るい橙の毛に覆われている。地に着いた足は四本。骨格が変化し、まさに猫科動物のものになっている(体積の変化はないので、本物の猫よりは随分大きいが)。
 外見だけではない。五感・筋力などの身体能力は『人型』の時と比べ、飛躍的に上昇している。
 今は移動の為に敢えてこの姿をとった。レテは姿勢を低くして、走り出す。
 うなじで結んだ長い緑のリボンが、その先についた金色の鈴と共に風に流れた。

 

 ガリア王宮、大図書館。
 王の努力にもかかわらず、未だ識字率の低いこの国においては、唯一とも言える公的書庫だ。
 レテはそこの書棚から数冊を借り出してきて、閲覧席の窓際一番奥に腰掛けた。彼女の気に入りだ。ここでないと、どうにも落ち着かない。
 さてレテは、持ってきた中から一冊を開いて、目を落とした。何事にも熱心な彼女。勉学においても例外ではない。
 最近の研究対象はというと、専ら『ニンゲン』――『ベオク』であった。
 この大陸には、『ひと』と呼ばれる種族が大別して二種、存在する。
 ひとつが彼女達、『ラグズ』。もうひとつが、『ベオク』。
 ベオクは、いわゆる『人間』だ。
 耳は頬の横についていて先が丸くなっている。尾も翼も無いし、寿命は酷く短い。五感も極端に鈍く、身体能力の全てがラグズよりも格段に劣る。そしてベオクとラグズの決定的な違いは、『化身をしない』ということだった。
 ただでさえ脆弱な存在であるというのに、能力を高めることも出来ないのだ。
 こんなに下等な生物が大陸中で大きな顔をしている、レテはそれが気に入らない。
 しかし彼女は愚物ではない。ベオクが隆盛を誇っている理由は知っている。
 彼らはひとつだけ、ラグズでは敵わない並外れた能力を持っているのだ。
 知恵である。それは武器を、そして魔法を生んだ。高い文明と優雅な文化を生んだ。ラグズとの間にある不足を補って余りあるものだった。
 その力によって、ラグズはベオクに敗れた。そして隷属を強いられた。
 あのような者達に。辺境に追いやられ、『半獣』という屈辱的な名で呼ばれ。蔑まれ虐げられている。これが理不尽でなくて、何だ。
「よぉ、レテ」
 そんなことを考えながら頁を繰っていると、紙の上に影が差した。耳が頭の上に張り出した、人のかたち。
 レテは何も言わない。一瞥すらせず、読書を続ける。彼は返事を諦めたのか、彼女の正面の席に座った。がちゃがちゃと雑に椅子を動かす音が耳障りだ。
「相変わらず勤勉だねぇ。オマエって」
 他の者の口から出たなら、褒め言葉だと感じたかもしれない。だが彼がこの文脈で、そんなに素直な台詞を吐くはずがないのだ。レテは嘆息し、持って来ていた筆記具を手元に引き寄せた。
『ここは私語厳禁だ』
 青年はレテの手からペンを抜き取り、堅苦しい文字の上部に、縦長で右上がりの癖字を並べた。
『どうせオレ達しかいないだろ』
 な? と声に出して続ける。レテは不機嫌にペンを奪い返した。
 青年の名は、ライという。
 のらりくらりとして見えるが、ガリア王国軍で一番の出世株だ。既に師団長の地位に就き、王に重用されていた。次期、総帥候補――と、噂されているのをよく耳にする。
 単に戦闘能力が優れているというのではない。頭の固い古株や、(嘆かわしいことだが)荒くれ者に毛の生えたような戦士が多いガリア軍で、彼の頭の回転速度は、群を抜いている。それはレテも認めるところだ。
 普段はとても、そんな優秀な者には見えない――少なくとも彼女にとっては。
「またベオクの本か」
 ライは一冊の本を何気なく手に取り、ぱらぱらとめくり始めた。軽薄だった顔に、だんだん難しい色がにじんでくる。
「オマエさ、今ガリアはクリミアと友好を結んでるんだから。……あんまり反ベオクに凝り固まった本、読むもんじゃないぜ」
 ライの言う『クリミア』とは、隣国クリミア王国のこと。
 現国王ラモンとガリア王カイネギスは個人的に親交があり、両国の関係は極めて良好だ――表向きには。
 自分が仕える王を疑う訳ではないが、ベオクはいくつもの仮面を使い分けるという。いつ裏切られるか知れたものではない。いつでも備えているべきだ。そのときの為にも。
『私は』
 レテは顔を上げずに、ペンを走らせる。
『純然たる事実が知りたいだけだ』
 あくまで顔は上げなかった。だが、ライが瞳孔を細めるのは分かった。分かっているから上げられなかったのだ。
 右はレテと同じ、夕闇に似た紫色。左は湖水に似た翠色。色の違う双眸は見る度に宿す光を変えている。彼のその“気まぐれ”さは、時折レテを困惑させた。
 今だって、そう、張り詰めた空気に、背筋が凍てつく。
 ライがレテの手から再びペンを取った。ようやく雰囲気が和らいで、内心胸を撫で下ろす。ライの骨ばった手が、レテの文字に大きなバツ印を重ねた。潰した、といった方が正しいのかもしれない。
『これは』
 先程のように、自分の正面に書きはしなかった。レテから見て正位置になるように書いているので、いつにも増して汚い字だ。
 ライは積み上げた本に向けて矢印を書き、拙い字をゆっくりと綴った。
『ラグズの つくった ものがたり だ』
 レテは目を見開く。ライはお構いなしに、ぐりぐりと何か描き足している。描き終えるとペンを置いて、じゃあなと去っていった。
 舌打ちしながらペンを拾い、レテは紙の上に目をやる。ライの字が目に飛び込んでくる。ぎこちない分、余計に迫ってくる大きな字。
(“物語”――)
 レテの眉間には自然としわが寄っていた。
 承知している。片側から書かれた歴史叙述には、少なからず虚構も含まれることぐらい。往々にして記憶には誇張が入るものだから。
 だがラグズは、意図的な歴史の捏造だけはしない。ラグズはベオクに虐げられた。そして今もそうだ。
 それだけは。『純然たる事実』、という箇所を、ぐるりと丸で囲った。
 ライは何故、あんな連中をかばうのだろう。同じ動作を何度も繰り返すうち、やっとライの落描きに気付く。
 子供のように稚拙な絵。描かれているのは毛を逆立てて怒る猫。矢印を引いて『レテ』と書いてある。
 怒るのもバカバカしくて、丸めてゴミ箱に捨ててやった。何となくもう本を読む気が失せたので、借りたものを返却して帰路に着いた。

 

 明くる日もガリアはよく晴れていた。レテも通常通り、時間より早く出勤する。
 王宮内、訓練場の一角に、大男が座り込んでいた。レテには馴染みのある後ろ姿だ。大方、虫でも眺めているのだろう。
「モゥディ」
 レテの声に、男は骨ばった髭面に似合わぬ優しい目で、微笑んだ。
「レテか。ドうした?」
 いい加減抜けない訛りに、どうということもないがとレテは微苦笑した。
 男の名は、モゥディ。レテと同じ獣牙族で、顔の模様と長い尾を持つ。だが猫ではない。大きな体躯と頬の横についた耳は、虎の特徴だ。機敏さは猫より劣るものの、体力と腕力は敵うところではない。
 さてその虎のモゥディは、レテの直接の部下。昨日の訓練の様子も、当然把握している。
「最近、随分動きが良くなってきたな。感心した」
「ホんとうか?」
 レテは自分にも他人にも厳しい自覚があるが、その分褒めるときも偽りのない言葉を述べるようにしていた。モゥディはいっそう顔をほころばせる。
「嬉しいぞ。コれで、もっとタくさんのモのを守れるようにナる」
「……そうだな」
 ふっと目を伏せ、レテは呟いた。
 本当のところ、彼は戦いには向いていないというのが、レテの判断ではあった。能力が、というのではない。性根が優しすぎるのだ。そんな彼が田舎から出てきたのは、有事のときに大切なものを守る為だという。
 誰かを傷つける為に、彼の力を使わざるを得ない状況が来なければいいと――レテはそう思うのだ。
「近頃、デインはあまり芳しくない動きをしているらしいからな。ともすれば、我々も動かなければならない事態になるかも知れん」
「デイン……。ラグズのコとが嫌いな国だ。攻めてクるのか?」
 モゥディが不安そうに見上げてきた。さぁな、と肩をすくめる。
「元々武を重んじる気風ではあったが、現国王――アシュナードになってからは、殊更それが顕著になっている。何か良からぬ事を考えているのでなければいいが……。まぁ直ぐにガリアに対してどうこう、ということはなかろう。クリミアが緩衝体になっているからな」
「カんしょ、ウタい?」
「かん・しょう・たい。何というか、そうだな。クッションのようなものだ」
「クリミアは、肉球か! デインがジめんだ」
「それは……ああまぁ、モゥディにしては上出来か」
 レテは小さく嘆息し、モゥディの横にしゃがみ込んだ。木の枝を拾って、地面に小さな円を描く。
「いいか、これがデインだ」
 デイン、と中に書いた。左斜め下にもうひとつ円を描き、その下にもうひとつ。
「これがクリミア。その下がガリアだ。デインがガリアに攻め入るには、クリミアを通らなくてはいけない」
 デインの円から、クリミアの円を突き抜けてガリアに線を引く。デインはクリミアに西進し、更にガリアへ南下するということになる。
「クリミアとガリアは友好を結んでいる。見す見すデイン軍を通しはしないだろう。まぁクリミアの浅薄なベオクが、利を見て裏切る可能性もない訳ではないが……。そうなれば、宗主国のベグニオン帝国が黙ってはいないだろうからな」
「ソ、うしュこク?」
「そう・しゅ・こく。親分のようなものだ」
「ソうか、ワかった。コこにはベグニオンがアる、親分が攻撃サれればクリミアも怒る。ダから、デインはコっちからも攻めナい」
 モゥディは、デインからクリミアの下をくぐってガリアに線を引いた。頷いてレテは、三つの円に接する大きな円を描いた。ガリアの東に位置するベグニオン帝国だ。
「クリミアの手を借りずとも、ベグニオンは大陸最大領土を誇る大帝国だ。いかにデインが軍備を増強しようとも、勝てる相手じゃない。どちらを通るにせよベグニオンが栄華を極めているうちは、ガリア侵攻はないと見ていいだろう。……我が国の平和がベオク次第だというのも癪な話だが」
「誰のオかげでも、戦争はナい方がイい」
 モゥディの口から切実な一言が漏れた。
 その通りだ。戦士の自分が言うのもなんだが、戦など何も生みはしない。しかしどうも、心から賛同する気にはなれなかった。
「オぉ」
 モゥディが急に声を上げる。何事かと思ったら、彼は例の図を指してこう言った。
「肉球だ」
 小さな円が三つに、大きい円がひとつ。確かにそう見えなくもない。
 で、それが何だというのか。呆れて言葉を失っていると、木の上から音が聞こえた。いる、ということには最初から気付いていたのだが。
 喉の奥で笑いを堪えているらしい彼に、レテは言った。
「何か用か。ライ」
「いやいや?」
 首を巡らすと、ライが枝の上に座っていた。にやついた顔をしている。
「レテ先生の授業を聞かせていただいてたら、あんまり素晴らしいもんで感動しちまって」
「よく言う」
 レテが吐き捨てる横で、モゥディは笑顔で立ち上がった。
「ライ! ヒさしぶりダな」
「よぉモゥディ。元気してたか?」
 ライの方も上機嫌に手を振る。
 ライは人懐こい割に、なかなか他人に心を許さない――皆あまり気付かないが、レテはそう感じていた。モゥディはそんな彼の、数少ない親友なのだ。
「モゥディはイつも元気だぞ。今日のライは、嬉しそうダな?」
「ん? まぁ、ちょっと」
 ちらり、とレテの方を見遣る。訝しんで見上げていると、ライは満面の笑みでこう言った。
「いい眺め」
 レテはライの普段の言行やその表情、自分を見下ろす角度などから全てを察した。
 胸元だ。手近にあった石(少し大きめの物を選んだ)を、全力で投げつける。
「ぅおぁあッ!?」
「降りて来いこのクソ助平猫、その浮ついた性根を叩き直してくれよう……!!」
 左手で包んだ右拳から、パキパキと小気味よい音が響く。ライは冷や汗をかいて木の幹に背中を押し付けていた。
「いやッ、ちょ、ちょっと落ち着こ、なッ!? 悪かった、オレが悪かったって!!」
「しかし降りてくる気はないか……。いいだろうならば引きずり降ろすまで」
「すみませんッした! ホントすみませんッした! もうしません!!」
「……ふん」
 掲げた拳を下ろす。ライは安堵のため息をついていた。
「ライ。出かけるノか?」
 モゥディが何事もなかったかのように尋ねる。彼にはこの手の冗談が理解出来ない。
 ライは、そ、と頷いた。くすんだ土色の布地。大きな帽子がついていて、裾は長い。あの外套だけで、レテは勘付いた。
「クリミアか」
「だいせいかい」
 ライは大仰に頭を下げた。
 あの耳と尾を隠す為の服は、ベオクの中へ行くのでなければ必要ない。レテは口唇を軽く噛む。何が友好だ、笑わせてくれる。こんな自衛手段さえ講じなければならないのに。
 しかし遣わされる当事者は、特に気にしていないようだった。
「だっからさ~、レテさんに『行ってらっしゃい』のちゅーでもしてもらおうかと思って?」
「するか馬鹿が。早く行け。そして暫く帰って来るな」
「つれないねぇ」
 ライは苦笑して木から飛び降りた。ととん、と軽やかに着地する。
「んじゃ、ま、行きますか!」
「気をツけろ、怪我をスるなよ」
 モゥディが言った。モゥディの言葉は常に心からのものだ。
 流石のライも、いつものふざけた態度は出来ないらしい。神妙な顔で頷いた。
「大丈夫だ。ちょっと行って帰ってくるだけさ」
「油断はするなよ」
「ああ」
 レテにも心持ち低い声で返す。化身して一鳴き挨拶をすると、振り返らずに駆け去っていった。
 俄かに、彼にとっては向かい風になるであろう風が吹き始めた。レテが見上げる空にも雲がかかる。
「面倒なことが、起こらなければいいが」