第一章 そして太陽が目覚めるように - 2/6

SIDE Rethe

 

 

身に纏う

 

 随分遅くなってしまったなと、レテは空を見上げた。雲はもう、彼女の毛色と同じ橙に染まり始めている。
 明日は早番だ、さっさと家に帰ろう。今から帰れば夕食の支度も手伝える。
 外に出る。春を迎え暖かくなってきたとはいえ、日が翳った後は少々肌寒い。ふと冷たい風と、そこに載る慣れた匂いに、振り向く。
「ライ。戻ってたのか」
「ああ。ついさっき、な」
 声と共にライが姿を現した。一週間ぶりだ。例の外套を丸めて手に持っているところを見ると、帰ってきたのは本当につい先刻らしい。
「今日、レテの隊は非番じゃなかったっけ。また勉強?」
「いや。王宮で国際情勢について論じ合っていたら、こんな時間になった」
「相変わらずおカタイ余暇をお過ごしで」
 ライは苦笑いを浮かべて、首を横に振る。夕焼け色の帽子が軽く揺れた。
「もう帰る?」
「ああ」
「そっか。――あァ、ちょっと待って」
 ライの言葉に、レテは肩眉を上げた。突き出された右拳を訝しんでいるのだ。
「手、出してみ」
 言われるがまま、両手を差し出す。ライがゆっくりと指を開く。輝く何かが二つ、上向きの手の平に降ってきた。
「これは?」
「買ってきた。やるよ」
 指で摘んで持ち上げてみる。どうやら穴の開いた翡翠のようだが、用途が全く分からない。
「またお前は、クリミアに行く度に訳の分からないモノを買ってきて……。この間の胡桃を割る人形なんて、最強に意味不明だったぞ。自分で割った方が断然早かったじゃないか」
「でもキサなんかツボにハマっちゃって胡桃割りまくって、一体これは誰が食べるんだって話に――って! いいんだよ、そんなコトは」
 ライは眉をひそめて頭をかいた。
「それはぁ、クリミアで買ったんじゃないの! 帰りにガリアの市で買ったのオマエがベオクの作った物あんまし好きじゃないからッ」
「というかそもそも何だコレは」
 不審に思いながらそれを眺め回す。綺麗だとは思うが、美術品にしてはこの穴が気になる。
 ライは目を見開いて絶句している。そして急に自分の太腿をひっぱたき、大袈裟に肩を落とした。
「ットに、オマエって、さぁ!!」
「な、何なんだ一体!」
「あーもういいもういい。もういいから貸してみ」
 手の中から二つの玉をひったくられる。レテはむぅと口唇を尖らせる。
 彼が勝手にやったことではないか。そんな言い方をされるのは、理不尽だ。しかしレテの不機嫌はよくあることなので、ライは今更気にもしない。軽い口調で両肩をつかむ。
「はーい向こう向いて向こう。回りますよ~」
「な、後ろを向いたら使い方が見えないだろうが!」
 首だけでライに怒鳴る。ライは彼女の肩に手をかけたまま、耳元で囁いた。
「いいから」
 低い声と吐息が、耳をくすぐる。
「じっとしてろよ」
 ……卑怯者め。レテは俯いて黙り込んだ。
 ライの指が橙の髪に触れる。どうやら例の玉に毛先を通しているようだった。二回の作業を終え、正面に回り込む。
「お、似合う似合う。やっぱりオレの目に狂いはなかったな!」
「お、おまえ……何で、こんな……髪飾り、なんて」
 何故こんなことで、しどろもどろになっているのだろう。悔しい。
 ライはレテの頭をぐしゃぐしゃと撫でながら、笑った。
「だから似合うと思ったからだって。それ見つけたとき、オマエの顔、思い出してさ」
 だったら髪を乱すなというのだ。レテは激しい動きで彼を振り払った。背を向け、手櫛で髪を整える。
「いくらだ!? 仕方ないから買い取ってやる」
「いいって。女にモノ贈っといて金せびるなんて男じゃないよ。オレ、そんなに野暮に見える?」
「見える」
「即答ですかい」
 振り返ってはいないが、ライが肩をすくめるのが分かった。
「そーだなー、じゃあ野暮ついでにお願いでもしちゃうか?」
「そうしろ。お前に借りを作るのも癪だからな」
「言ったな? それなら」
 とん、と踏み出す音がして。ライは後ろから追い越しざま、呟く。
「つけててくれ。それでいい」
 そして数歩先で肩越しに振り返り、微笑んだ。
「じゃあな」
 ありがとう。聞こえたか聞こえなかったかは知らないが、レテは口の中で呟き返した。
 ライはもう見えない。
 そっと首の後ろへ手を伸ばし、飾りに触れた。冷たい中にも彼の体温がほのかに残っていた。手を下ろしたら肩も落ちて、ついでに口唇からため息も落ちた。
 彼に恋をしているのでは、ないと思う――今は。
 恋と呼ぶにはあまりに拙い想いを寄せていたこともあった。その言葉の、仕種の、視線の、ひとつひとつに心は揺れた。けれど淡い期待はいつも淡いままで、叶うことなく消えていった。黙ってその背を見ているのは、ひどく苦しかった。
 いつからか、幼い夢を見ることにすら疲れ果てていた。
 ――今更。今更だ。どの女にでもあんな態度なのだと、とうに知っているのだから。
 彼の“特別”になりたいとも、思えなくなってしまった。
 自分は弱い、と思う。いつまでこんな風に、夢の名残を引きずっている気なのだろう。
 自分には国を守るという重大な仕事がある。責任あるポストにも就いた。それに魂を燃やせばいい。
 早く忘れてしまえ、こんな感情。
 レテは化身して走り出した。迫りくる夕闇から、必死で逃げるように。

 

 涼やかな音が鳴る。入り口に吊るされた、来客を告げる鈴。
 レテが次に享受した休日は雨で、前々から予定していた仕入れに出た両親に任されるまま、レテは実家の奥で先日読み損ねた本などめくっていた。
「いらっしゃいませー!」
 栞が見つからないので、ページを開いたまま伏せる。立ち上がり店の方に駆けていった。
 王都から程近い老舗の織物屋は、レテの生家だった。
「よぉレテ。珍しいな」
 軽く右手を上げたのは、長年の得意先。レテは聞こえよがしに嘆息した。
「何だ、ライか。……急いで来て損した」
「『何だ』ってオマエ。オレ、お客さんだぜ?」
「何も買わずに父さん(てんしゅ)と喋ってるだけの奴は、客とは言わない」
「手厳しいなぁ。今日はちゃんと買い物だって~」
 けらけら笑うライに肩をすくめ、レテはカウンターに腰掛ける。
「『証』か? いつもより早いな」
「んー。キナ臭くなってきたからなぁ、念の為。いざって時にぶっ千切れたら縁起悪いだろ?」
「色は」
「いつもの」
 ライは無遠慮に、上がり口へ腰を下ろした。
 レテは棚まで歩いていって、上から二段目の引き出しを開ける。彼女のリボンと同じ、深緑色の細い布が入っている。『証』と呼ばれる代物だ。
 仕組みは自分たちもよく知らない。だがラグズには、化身すると身につけている物を取り込んでしまう性質があった。服も何も消えてしまい、そうなると他種族から見ると獣と判別が付かなくなってしまう。
 故にラグズは、自らがラグズであるという『証』を身につける。『化身よけ』という特殊加工を施した、化身しても同化されない布だ。この技術を持っている職人は極めて少ないが、レテの父親はその一人だった。
「街で安売りしてるのは質が悪いんだ。一回ここのを使ったら、もうアレは使えないね」
「当然だ。伊達や酔狂で家業にしてる訳じゃない」
 ぱん、と引き出しを閉める。
「長さは?」
「いつもと一緒。金、ここに置くぜ」
「毎度。巻いてくか?」
「ああ、頼むわ」
 レテはライの前に膝をついた。料理も裁縫もろくに出来ない、普段は不器用なレテの指。包帯や証を巻くときだけは、くるくると綺麗に動く。
 ライは自分の足を回る細い指を見つめながら、不意に呟いた。
「コレ巻いてやるのって、客だけ?」
「他に誰かいるか?」
「んー、まぁ、いいや」
「妙な奴だな」
 逆の脚も出せ、とレテは言う。言い方が横暴だねぇ、と不平を口にしつつライは素直に従う。
「……なぁ。オマエさぁ」
 頭上から声が降ってきた。レテは作業を中断せず、続きを待つ。やや間があってから、ライは再び口を開いた。
「『証』贈りたいヤツとか、いないの?」
 レテの手が止まった。だがすぐまた動き出す。
 お前がそれを言うか、馬鹿野郎、と危うく怒鳴るところだった。
 『化身よけ』の加工には二つのやり方がある。一つは作り手の印を焼き込むこと。そう難しいことではない。一般的な方法で、流通している『証』のほとんどはこうして作られている。
 もう一つが、特殊技術。装備者とは別の者の、身体の一部――大体は毛を、織り込む方法だ。レテの父が扱うのはこちらで、強者のものの方が効果が高いというので、軍関係者によく融通してもらっている。見返りとして一部を上納。よく言う『御用達』というやつだ。
 ライは軍用品の色が気に食わないというので、わざわざ個人的に買いに来るのである。
 一方で、昔からこんな言い伝えがある。
 『愛する者の毛で化身よけした証をつけていれば、必ず生きて帰れる』、というもの。贈った物をつけてもらえればカップル成立、突き返されたらゴメンナサイ。分かりやすい図式だ。
 だから若い男は意中の娘の証をもらおうと必死だし、娘はどうにか受け取ってもらおうと必死になる。
 レテも一度だけ、こっそり作ろうとしたことがあった。とても使える代物にはならなかったので、全部捨てた。
 もう二十年近くも前の話だ。
「お前はヒトにどうこう言う前に、自分の身辺をどうにかしろ」
 ライのふくらはぎを叩く。あいたた、という声は、肉体的ダメージか精神的ダメージか。
「最近はイイコにしてるって。確かに朝帰りは増えたけど、それはオシゴトの都合ってヤツで……」
「どうだかな」
「ホントホント。遊んでたら身体もたないし、真面目に」
 ライは立ち上がり、伸びをした。
「今日もこれからまた、お国の為にオシゴトですよーう」
「またクリミアか?」
 釣銭を投げる。器用に受け取って、ライは首を横に振った。
「軍幹部の臨時会議。おかげで朝から胃が痛くてね」
「お前の胃腸がそんなに繊細とは思えんが」
「言ってくれちゃうね~。オレってば胃も心も繊細なんだから、そんなコト言われたら傷ついちゃうよ? レテに傷モノにされたって言いふらすよ?」
「誤解を招く言い方は止せ!」
 真っ赤になって怒鳴るが、ライは取り合わない。ドアを開け、肩越しに振り向く。
「んじゃな。レテ第三連隊長殿?」
「……お勤め御苦労様。ライ第六師団長殿」
 お互い大層な肩書きだねぇ、と笑いながら店を出て行った。レテは黙ってその背を見送った。
 親ベオク――というと多少の語弊はありそうだが、ライがベオクに同情的であることは確かだった。軍の上層部、ある程度の年齢の者になると、ベオクに虐げられたことを肉体の記憶として持っている者もある。
 そうでなくとも国内では、反ベオク感情が強いのだ。ライが軍会で孤立するであろうことは、容易に想像出来た。そしてそれを恐れて持論を翻す……などということは決してないだろう、ということも。
 基本的には渡世が上手いくせに、ある所では妙に頑固なのだから――全く不器用なものだと呆れる。
 まぁ、本人にそれを言ったら、オマエに言われたかないよと苦笑されるところだろうが。
 取りとめもなく考えていたら、両親が帰宅した。
 ここで自分が考えていても詮ないことだ。そう思って、もうやめた。