第一章 開戦 - 6/6

SIDE:Ike

 

夜明け

 

 ゲバル城は長く使っていなかったらしく、そこかしこに蔦やら苔やらが生えており、全体的にかび臭かった。ガリアの城や砦というものはみなそんなものなのだろうか。
 だがアイクは日頃から、マントさえあればどこでも寝られると豪語している。眠れないのはそのせいではない。
 借りた個室の窓辺に身体を預け、見るともなしに外を眺める。
 思い出していたのは獣牙族のことだった。アイクたちを窮地から救ってくれたガリアの兵たち。シノンの言う通り、全身は毛に覆われ、大きく発達した牙を持つものもあった。
 しかし、彼らはただの『本物の獣』だったろうか。言語を解する、というのは、アイクの想定を軽く超えていた。
 ――あのライという青年。アイクの発した蔑称に気を害するするだけの矜持を持ち、また謝罪を受け入れる度量をも見せた。グレイルの態度に皮肉さえ口にした。ミストたちの感謝に微笑んだ。それだけ感情豊かでありながら、述べた内容自体は役人のように事務的で、彼は結局のところ、個人的な本音など影ほどにしかちらつかせなかったのである。
「あいつと……俺たちと、違うところ」
 それは見た目以外に何があったろうか。少なくとも彼はアイク以上に社会的に、巧妙に振る舞っているように見えた。
 アイクの瞳に、ライという青年は、二本足で立っている限り――人にしか、見えなかった。
 何かを誘うような、深く暗いガリアの樹々。昼の陽光の下と比べて一層陰鬱に映る。じっと見つめていたら、慣れた姿がその奥へ歩いていこうとするのが見えた。アイクは外套と肩当を引っ掴み、歩きながら身につける。少し手間取ったが城の入り口で着け終え、走り出した。
「親父!」
「アイク!? 起きていたのか」
 グレイルが振るる。アイクは頷き、速度を緩めた。
「どうも寝つけなくてな。親父こそこんな時間に城を抜け出して、一体どこへ行くんだ?」
 問うと、グレイルの態度が急に変わった。いつも以上に低い声で言う。
「お前には関係の無いことだ。城に戻って寝ろ」
「いい加減、子供扱いはやめてくれ。どうしようが俺の勝手だろう?」
 アイクも負けじと言い返した。睨み合う。しばらくして、グレイルは呆れたように破顔した。
「頑固な奴だ。少し、歩きながら話すか?」
「ああ」
 グレイルは歩き出した。アイクもそれについていく。
 普段は颯爽と歩くグレイルがいやにゆっくりと、一歩一歩確かめるように歩いている。
「どうだ。少しは傭兵団の戦いってものが掴めてきたか?」
「戦いには……少し慣れた気がする」
 父親からとも団長からとも分からない問いかけをされアイクは、近頃は父とじっくり話す時間すら取れていなかったのだと気が付いた。
 折角だ。少し前キルロイに話したことを、あらためて訊いてみようと思った。
「親父。どうして新米の俺に団のことを任せようとするんだ? そこが理解できない」
「いやに突っかかるじゃないか。反抗期ってやつか?」
「ちゃんと答えろよ」
 茶化すような言い方をされて、思わず語調が荒くなる。
「俺はまだ、傭兵としての仕事もまともにこなせていないんだ。人を動かすのは無理だ」
「それが自分で解っていれば充分だ。一緒に覚えていけばいい、どちらも経験を積めば様になるさ」
「だが、ついこの間まで……親父は絶対そんなことは言わなかった」
 息子の指摘にグレイルは何も言わなかった。アイクは父の顔を覗き込む。似合わないほど思いつめた顔だった。
「何があったんだ? 親父。何をそんなに焦っているんだ?」
 グレイルはやはり答えなかった。黙って上に視線を移す。アイクもつられて空を見る。
 叢雲が今にも月を覆ってしまいそうだ。長い沈黙の後、グレイルはようやく口を開いた。
「アイク。お前、母さんのことを少しでも覚えているか?」
「な、何だよ、いきなり?」
 しかしアイクの予期していた方向とは全く違う話題だったので、思わず声が上擦ってしまった。だがグレイルは話を逸らそうと苦し紛れに言ったのではないらしく、大真面目に問い直してきた。
「どうなんだ?」
 アイクも気を取り直して、母親のことを思い出そうと努めた。
「そうだな。優しい人だった……気がする」
 幼い頃に死に別れたせいなのか、母親の記憶にはいつも薄ぼんやりと、もやがかかっている。
 この間見た夢のような、はっきりとした映像は稀だ。
「よく覚えてない。親父は何も話してくれないし」
 自分の記憶力を棚に上げて、恨みがましい口調になってしまった。はっとして父を見たが、グレイルはそうかと呟いただけで感情を見せなかった。草と湿った土を踏む音だけが耳に響く。
 しばらく並んで歩いていたら、グレイルが突然に立ち止まった。
「親父? どうしたんだ」
「ここまでだ。俺のことは放っておいて城に戻れ」
 グレイルは鋭い目でアイクを見下ろした。その言い様があまりに唐突で癪に障った。
「何だよ、いきなり!?」
「団長命令だ! 城に戻れっ!!」
 グレイルは有無を言わさぬ激しさで怒鳴り返した。こんなところで団長権限を持ち出すのは卑怯だと思ったが、その剣幕に圧されて後ずさる。
「わ、分かったよ……」
 グレイルはずっとアイクを見つめていた。これは戻るまで許す気はないらしいと、アイクは渋々きびすを返して歩き出す。振り返るとまた怒られそうなので、ずっと顔を前に向けていた。
 最近のグレイルの、らしくない気抜けした様子。考え事。アイクへの期待。
 これまで避けてきたはずの、母親の話題。
 思い詰めたような横顔。不自然なほど突き放した態度。
 なんだかそれはまるで、

 まるで、これから、ひとり死地に赴くかのような

 アイクは戦慄して足を止めた。
 自分の考えた比喩は、実は比喩ではないのではないかと、そんな気がして。
「くそ……!」
 再び森の奥へ走り出す。
「放っとける訳ないだろ、親父の奴……!!」
 怒鳴られてもいい。気のせいなら、気のせいなら。
 妙な心配をするなと怒鳴られてもいいから。気のせいなら――!!
 開けた場所に出て、アイクは速度を緩めた。
 月下。光を浴びて青白く浮かび上がる二つの影。
 一人は数日前に砦で見た、漆黒鎧の男。
 もう一人は、鍔迫り合いに負けて武器を弾き飛ばされてしまった男は。
「親父ッ!!」
「来るなぁッ!!」
 それは命令というよりも懇願に近い、悲痛な声だった。アイクは駆け寄ることを止め、後ずさりした。
 対峙する男と、父。
「この剣を使われよ」
 くぐもっていて聞き取りづらかったが、多分そう言ったのだと思う。
 男は自分の持っていた剣を投げ捨てた。黄金の刃が、グレイルの足下に転がっている古木に刺さる。
「何のつもりだ」
 グレイルが低い声で問うた。男は腰に佩いている剣に手をかけた。
「貴殿との戦いを楽しみにしていた。まともな武器で、全力を尽くしていただこう」
 抜き放った白銀の刃を、真っ直ぐにグレイルに向ける。
「神騎将――ガウェイン殿!」
「……昔、そんな名で呼ばれたこともあったな。だが」
 グレイルはつまらない冗談でも聞くような顔で、横たわる古木に足を載せた。体重をかけて回転させ、引き寄せた剣の柄を掴む。それをそのまま引き抜いて、地面に放った。
「疾うの昔に、その名と剣を捨てた。今の相棒は……これだ」
 大斧を構える。表情は分からないが、漆黒の兜の奥から聞こえる声が訝しげなものに変わった。
「死ぬ気ですか?」
「その声、覚えているぞ。たった十数年で、師であるこの俺を追い抜いたつもりか? ……ふん、若造が」
 グレイルは斧を振りかざし、男に突進していった。
「これでも、喰らうがいい!!」
 一波。二波。三波までも、グレイルの攻撃は片手でいなされてしまう。第四波を払い、漆黒の騎士はようやく反撃に転じた。
 音が――止んだ。
 風。金属の衝突。グレイルの雄叫び。
 その全てが、凪いだ。

 グレイル傭兵団の団長、グレイル。
 比類なき強さを持つ男。そのくせ請けて来るのは、山賊退治だの海賊退治だの荷馬車の護衛だの、庶民的な依頼ばかり。しかも料金まで良心的なものだから、団の台所はいつだって火の車。
 その分、周囲の住民からの人望は厚い。
 家に帰ると割と普通の中年親父で、服を脱ぎっぱなしにしてキルロイやオスカーに面倒をかけたり、物を置いた場所を忘れてセネリオに呆れられたり、シノンやガトリーと飲み明かしてティアマトに叱られたり、喧嘩ばかりのボーレとヨファを捕まえて説教したり、娘にはとことん甘かったり、涼しい顔をして息子をからかうのが好きだったり。
 でもひとたび団長の顔になると、これ以上はないくらいに頼もしくて。
 どんな戦いにだって絶対に負けないとアイクは強く信じられて。
 尊敬していた。憧れだった。目標だった。
 大好きだった。

「おや、じ……?」
 一つに固まったまま動かない二人。
 動かない。動かない、背中から白銀の刃の生えた――父。
「あ……」
 引き抜かれる。グレイルの身体がぐらつく。
「親父ッ!!」
 アイクは駆け寄って父を支えようとした。しかし未成熟な身体はその勢いと重みに耐え切れなかった。一緒に地面へ倒れ込む。
「親父ッ!!」
 アイクは素早く起き上がり、頭を支えてグレイルを抱き起こした。
 返事がない。月光のせいなのか顔色がひどく青白く見える。喉の裂けるほど叫んだ。
「親父! 親父!! 親父ッ!!」
 ただ、叫んだ。
 月が、叢雲に、隠れてしまう。
「アイ、ク……」
 グレイルがようやく目を開けた。アイクはよりしっかりとこちらに引き戻そうと、いっそう声を張り上げた。
「しっかりしろ、親父ッ!!」
「さぁ、渡してもらいましょうか」
 倦んだのか、鎧の男がこちらに踏み出してくる。何を、とは言わなかった。だがグレイルには解っているらしかった。虚ろな目で答える。
「あ、れは……もう、捨てた……」
「捨てた?」
 漆黒の兜から息が漏れた。失笑らしかった。
「あれがどんなものかその身で知っているはずの貴方が、捨てたなどと……もう少し、まともな言い訳を期待しましたが?」
「話は、終わりだ」
 グレイルは乱れた息を吐きながら、口唇の端を歪めた。男が再び息を吐いた――今度は、嘆息。
「どうあっても口は割らぬ、と? 確かに、死人に口はなし……だが」
 抜き放たれたままの白銀の刃が向けられた。グレイルにではなく、アイクに。
「まだしばし時がある。息子の死に顔を見て、なお同じ台詞が言えるか。試してみるのもいいでしょう」
 アイクは剣を抜いた。グレイルを背にして、漆黒の騎士を睨み上げる。グレイルが叫んだ。
「やめろ! ……アイクッ!!」
 それは、一瞬の動作だったのだと、思う。
 けれど紙を一枚一枚めくるようにゆっくりと――男の頭上に刃が振りかざされ、その刃は月の光のように美しい銀色で、三日月のように滑らかな弧を描いて、アイクの――青い前髪を、数本削ぎ取りながら、目の前をかすめて静かに落ちた。
 随分遅れて、ようやく膝が崩れる。地面に刺さった剣先に目を向けることも出来ず、数秒後アイクはやっとのことで喉を鳴らした。動くことはおろか。息をすることさえ、瞬きすることさえ、汗をかくことさえ許されなかった。
 なんという……一閃。
「次は、外さん。例のものを渡せ。大人しく従うならば、息子の命だけは保証しよう」
「やめろ! 息子に、手を出すな……!!」
 グレイルの声を無視し、男がもう一度剣を振り上げた。
 次は、外さない? 外さないということはどうなのだろう、当たるのか。何に? 俺か? 俺に、あの刃が、当たる。と、いうことは。
 死ぬ、のか?
 アイクは男の右腕を見上げていた。
 最期に見る光景としてはあまりにも虚しい。月光が瞳に冷たく刺さる。
 ――凶刃はしかし、下りては来なかった。
 周囲を襲ったのは、轟音……否、咆哮。先日の砦のときと同じ、いや、もっと激しい。
 漆黒の騎士が呟いた。
「『獅子王』か。やむをえん、ここは一度退くか」
 男はアイクに背中を向け、踏み出す。漆黒の金属がぶつかり合って重く響く。その音で我に返り、アイクはかろうじて放さずにいた剣を握り直した。
「逃がすものか……っ!」
 膝を立て、立ち上がる。男がゆっくりと振り向いた。
「お前も、父親と同じ愚か者か?」
 剣を向けては来なかった。だが男の纏う空気は張り詰めている。アイクは剣を正眼に構えた。
 あいつは立ってるだけじゃないか、どこからだって打ち込める。そう思うのに、小刻みな音が耳に障る。筋肉が言うことを聞かない。理性ではない。感情でもない。これは……。
(くそっ、何で……何で俺は震えてるんだ!?)
 圧倒的な暴力の前に、屈服させられた――本能。
「来ないのか? ならば、こちらから……」
「アイクッ!!」
 男が半身を引いた。グレイルが立ち上がるのが目の端に見えた。思わずそちらに注意を向けてしまって、アイクは、あ、と思った。
 持って行かれる。何を、だかは分からないが。確実に。
 だが鋭利な金属はやはり、アイクから何も奪いはしなかった。男もまた余所に意識を向けていたのだ。
 怒りのような響きを湛えた吼え声が、地面を鳴動させた。
「近いな。今、奴らと事を構える訳にはいかん。……命拾いをしたな、小僧」
 男は剣を納め、姿を消した。立ち去ったのではなく、光の中に文字通り消えたのだ。
 アイクは呆然として、男の消えた場所を見ていた。しかしすぐに気が付いて、グレイルに駆け寄っていく。
 息子の顔を見て、グレイルは笑った。ぎこちなく、力のない笑みだった。
「まったく。しょうがない、奴だな……。もっとも、そんな風に育てたのは、この、おれ……」
 不意に、グレイルの喉が天を仰いだ。一拍遅れて、がくり、とくず折れる。
「親父ッ!?」
 アイクはグレイルの身体を支えようとしたが、今度も上手くいかなかった。声をかけても目を開けてくれなかった。腹部はもうどこが傷なのかも分からない程赤く染まりきっていた。
 また、手が震えている。今度は何故なのかはっきりと解った。
 人は――否、生命は。それが『生命』である限り、本能的に『それ』に恐怖する。
 すなわち、その『喪失』というものに。
 滴が頬を濡らした。雨が、降り始めていた。
「ここじゃ何もできない。城に、戻らないと……!」
 口にすることで自分を取り戻すように、アイクは震えたままの手をグレイルの右脇に差し入れた。背中を支え、自分の右肩にグレイルの右腕を引っ掛けて歩き出す。
 重い。引きずりながら一歩一歩、歩いた。重い。あまりに(おお)きくて、重い。
 雨は俄かに激しさを増していた。
 二人で歩いた距離なんてほんの僅かで。追いかけて走った距離だって大したことはなくて。
 それなのに。どうしてこんなに、遠いのだろう。
「アイ、ク……」
 雨音にかき消されてしまいそうな、か細い呟きが耳に届いた。アイクは瞳に光を取り戻し、グレイルの顔を見た。
「親父!? 気が付いたか?」
 グレイルは項垂れて、ぬかるんだ地面を見つめていた。
「仇を討とうなどと、思うな。あの騎士のことは、忘れろ……」
「な……ん、だって?」
 雨粒が緑を叩き、進もうとする足が泥を跳ね上げる。けれど聞こえなかったのではない。聞こえなかったのではなくて。
「ガリア王を頼り、ここで……平和に、暮らせ……」
「親父、喋るな! 体力が奪われる。頼むから……!」
 アイクは必死に叫んだ。
 いつだってそうだ親父は俺の言うことなんかてんで聞きゃしないで自分の都合で好き勝手喋って。
 このときもグレイルは息子の懇願を、最期の最期で、退けた。
「あとのことは、全てお前に、任せた、ぞ……」
「待て……駄目だ、そんなこと言うな!」
「みんなを、ミスト、を……」
 もうすぐ明かりが見える。もうすぐだ。もうすぐのはずなんだ。
「あと少し……っ!」
 これ以上ないくらいに頼もしくて。
 どんな戦いにだって絶対に負けないって思えて。
 尊敬していた。憧れだった。目標だった。
「あと、少しで……ッ!!」

 だいすきだっ た

 

 その晩のことはそれ以上よく覚えていない。
 シノンに殴られて壁に叩きつけられたことと、ミストがもうまるで人間ではないような甲高い叫び声を上げていたことだけは何となく覚えている。
 雨の音がうるさいなとただそればかりが印象に残っていた。
 翌朝には雨が上がり陽が出ていた。
 地面を掘った。掘っても掘っても染み出してきた水が土を泥に変えて埋めてしまうので、相当難儀した。
 どうにかこうにか人ひとり入れるだけの穴をつくった。必要なこと以外誰一人口を利かなかった。
 ミストはその間うわごとのように母の子守歌を口ずさみながら白い花を摘んでいた。
 身体をすっかり土で覆ってしまうと愛用していた斧の刃を下にしてその上に突き立てた。
 ミストが編んだ花冠を柄の部分にかけると、するすると滑り落ちていって刃の所で引っ掛かって止まった。
 いつの間にか土は乾いていた。
「日が暮れて、冷えてきた……。中に戻るぞ、ミスト」
 アイクは両膝をついて、ミストを後ろから外套で包んだ。
 ミストは膝を抱えて父の斧を見ていた。否、その方向を向いているというだけで、その目にはこの世のどんなものでさえ映っていないのだろう。
「ミスト」
 もう一度呼びかけた。思い出したように、ミストは白い頬に一粒の涙を伝わせた。
 アイクは目を伏せて、妹の細い肩に額を押し付けた。
「俺は、傍にいたのに親父を守れなかった。すまん」
 ミストの身体が跳ねた。しゃくり上げる度に、栗色の髪と蒼の髪が一緒に揺れる。
「お父さん、いなく、なって……。わたし、もう……どうして、いいか、わかん、ない……」
 アイクは妹の肩を引き、自分の方を向かせた。見開かれた碧い瞳のこぼれる前の滴さえ、引き止めるように強く見つめる。
「俺がいる。俺が団長を継ぐ。親父の代わりに……お前も、傭兵団のみんなも守ってみせる」
「おにい、ちゃん」
 ミストの顔が大きく歪んだ。涙は湧き上がっては湧き上がっては流れ落ちる。
 ミストはそのまま、アイクの胸に飛び込んできた。
「お兄ちゃ……っ、お兄ちゃん、お兄ちゃん、おにいちゃぁん……!!」
 他の言葉を忘れたように、ただミストは兄を呼び続ける。アイクは妹の背中を抱いた。
 父のように。そんな安らぎや温もりは到底自分には与えられないと解っていても。
 父がしてくれたように、妹を抱きしめてやりたかった。
「いや、だからね……。お兄ちゃんまで、何も言わずいなくなっちゃったりしたら、いやだからね……?」
「ああ。約束だ……」
 黄金の陽が樹々に呑まれ、今日もガリアに白銀の月が昇る。

 

 古城の廊下を歩く。今朝は雲の上を歩いているような足取りだったのが、今はしっかりと石の感触が伝わってくる。何にともなく頷いて、アイクは広間の中に入った。
 気配に気付いて遠慮がちにアイクを見たのは、ティアマトとセネリオの二人だけだった。
「ミストは?」
 ティアマトが問いかけてくる。アイクは手近にあった椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
「部屋で休ませた。キルロイとヨファが看てくれている」
「そう、よかった……。あのままじゃ、あの子まで参っちゃうもの」
 ティアマトは笑顔が半ばで止まってしまったような、曖昧な顔をした。そのまま、ふっとアイクを見る。
「あなたも無理しなくていいのよ、アイク」
 それはあなたの仕事ではないから、と言外に言われた気がしてひどく苦しくなった。アイクはゆっくりと、首を横に振った。
「俺はもう大丈夫だ。どんなに嘆いたところで……親父が生き返る訳でもない」
 その台詞にティアマトが目を見開く。見ていられなくて、アイクは座ったばかりの椅子を鳴らし立ち上がった。
「それより、世話をかけたなティアマト。セネリオも」
 セネリオは右手で左の肘を掴み、いえ、と短く答える。
 いいのよそんなこと、と言ったティアマトはまたあやふやな表情に戻っていた。
「アイク。実はね」
 ティアマトが気まずそうに切り出したと同時、扉が開いた。オスカーだった。
「オスカー、ボーレ、ただいま戻りました」
「振り返りもしないで行っちまいやがった! まったく薄情な奴ら……」
 ボーレが続いて入ってきたが、アイクと目が合った途端に言葉を止めてしまった。口唇が中途半端な状態で固まっている。瞬きを忘れたままの目を見つめながら、アイクは告げた。
「何があったのか説明してくれ」
「シノンとガトリーが出て行きました」
 答えたのはボーレではなかった。我に返ったボーレは咎めるようにセネリオの名を呼んだが、本人は気にする様子もない。
「いずれ分かることです。隠すことでもないでしょう」
「俺のせいだな?」
 アイクが確認すると、みな黙ってしまった。あまり暗い言い方にならぬようにしたつもりが、逆効果だったらしい。ボーレが俯いて、口をもごもごと動かしていた。
「ティアマトさんが、次の団長をアイクにするっつって。それにシノンがキレて……さっき出てったんだ」
「後を追って説得してみたが、無駄だったよ」
 オスカーが付け足した。諦念に満ちた口調――そこにかすかな憤りがちらついていたように思えたが、考えすぎだろうか。セネリオも、苛立ち混じりの冷酷さで言い放った。
「グレイル団長の跡を継ぐのはアイクだと、前から決まっていたじゃないですか。それが予定より早まっただけのこと、納得できない者を無理に引き留める必要はありません。戦力の低下は新団員を募ればいいでしょう」
「そこまで言うことねぇだろ。ずっと一緒に戦ってきた仲間じゃねぇか」
 ボーレが言った。激昂して掴みかかるほどではなく、困惑したように眉をひそめただけだったが。
 アイクは嘆息した。バンダナを忘れたので、前髪が落ちかかってきて邪魔だった。
「シノンたちの行動は当然だ。こんな新米が団長じゃ、命がいくつあっても足りないからな」
「アイク!」
「ティアマト。卑下して言ってるんじゃない、これは事実だ」
 下手なことを言えば、耳かこちらの口を塞がれてしまいそうだったが、構わずにアイクは続けた。ティアマトは肩を落としてしまった。他の皆も何も言わない。
 アイクは誰のことを見ていた訳でもない。しかし俯くことなく、真っ直ぐに前を向いていた。
「だが俺は、それでも団を守る役目を自分から放棄する気はない。親父の遺志を継いで、団長になる。みんながそれを認めてくれるなら」
 ティアマトの顔に、あれ以来初めて朱が戻る。兄弟も笑って頷いてくれた。セネリオは少し離れたところに立っていて、アイクの視線に気付くと、泣きそうに顔を歪ませる。
「アイク。僕は、貴方の力になれますか? 貴方の傭兵団に、僕の居場所はありますか?」
「変な奴だな。俺はいつでも、お前を頼りにしている」
 アイクは歩み寄っていき、細い肩に手を置いた。
「これからも助けてくれるんだろ? セネリオ」
 怯えるようだった瞳が輝き始め、セネリオは力いっぱい首を縦に振った。アイクはそっと手を放すと、皆を見回す。
「みんな、ありがとう。頼りない団長だが、当分は大目に見てやってくれ」
 ティアマトはいかにもやる気に満ちた様子で、手を叩いた。
「さぁ、これから忙しくなるわね。まずは団長として最低限やるべき仕事を覚えてもらうわ」
「何でも言ってくれ」
 アイクが返すと、得たり、とばかりに続ける。
「まずは団における収支の把握、それから団員全員の装備を揃えること。情報収集も欠かしては駄目。地形・敵の配置・どのような戦術を得意とするか。国内外の状勢についても知っておいた方がいいわ、ただこちらはデマも多いから判断力が問われるわね」
「……ティアマト」
「各人の能力を知ることも大事よ、適材適所というでしょう? 対人関係についても知っておくと戦いの指示が出しやすくなるわ」
「ティアマト」
「それから……」
「ティアマト!」
 三度目でようやく気がついてくれたらしい。驚いたように目をしばたかせている。アイクは嘆息して、頭を押さえた。
「何でもとは言ったが、一遍にまくしたてられても訳が分からん。とりあえず、やりながら覚えていきたいんだがそれでいいか?」
「え、ええ。そうね、ごめんなさい私ったら」
 ティアマトはぎこちなく肩をすくめた。アイクは彼女の正面まで歩いていく。ティアマトの方が若干背が高いので、アイクの視線は少々上がる。
「ここからは俺に任せて、あんたも少し休んでくれ」
「私なら平気……」
「無理しないでいい。俺なりにだが、精一杯やるから」
 アイクはじっと目を見つめていた。ティアマトは頭痛を訴える人がやるように、片手で目元を覆った。
「そんなにひどい顔してる?」
「少なくとも、俺たちと同じくらいにはな」
 アイクが答えると、オスカーが苦笑しながら近づいてきた。
「副長。今、夕食を作ります。それまで少しゆっくりしてください」
 ティアマトの背をそっと押しながら、共に去る。
 部屋の中が静かになってから、セネリオがおずおずと話しかけてきた。
「あの……アイク。先程、クリミアから逃げて来たという行商団が来たんです。僕らが傭兵団と知って、行動を共にしないかと持ち掛けてきて。物資も危なくなってきた頃ですし、いつでも売買ができるというのは我々にとってもメリットだと思うのですが……」
「そうか。じゃあ、会って話してみるか」
「では、呼んで来ます!」
 アイクが扉に向かおうするより早く、セネリオが部屋を飛び出していった。走るセネリオ、などというめずらしいものを見送りながら、アイクは呟く。
「どうしたんだ、あいつ……?」
「お前のこと休ませてやりたかったんじゃねぇの」
 まぁ座れよ、とボーレは椅子を引きずってきて、アイクを座らせた。自分も傍にある椅子へ逆向きに跨る。
「なんかギシギシいうなぁ、この椅子」
 ボーレはどうでもよさそうに呟いた。アイクは口の中で答えるともなく答えて、黙った。
 しばらくして、小さなひびの入った床石を見ながら、言う。
「ボーレ。お前な、本当のところはどうなんだ?」
 ボーレはきょとんとした顔をしていた。空とぼけてこういう表情のできる男ではない。
「俺が団長を継ぐことを、あんなに嫌がってただろ? だから、本音はどうなのか聞いておきたい」
「それ、聞いて何か変わんのか」
 ボーレは低い声で問い返した。アイクは口唇を噛む。ボーレは背もたれに顎を載せ、嘆息した。
「そうだな。お前の今の実力を知ってりゃ、危なっかしくて下につきたくはねぇかもな」
 自分で訊いたことであり、解っていたことのはずが、あらためて言われるのは軽いことではなかった。
 俯いたアイクを見ず、ボーレは続けた。
「おれも母親死んじまってるだろ。だから親父が死んだとき……小さいヨファを抱えて一人で途方に暮れてた。兄貴がすぐ除隊して戻って来てくれたけど、生活は苦しくてな。そんなおれたちに、寝る場所と満足な食事、それから……仕事をくれたのはグレイル団長だった」
 ボーレはそこで一度口を閉ざした。そして再び発せられた声は、静かだが明瞭な響きを持っていた。
「お前が団長になるのはグレイル団長が望んでたことだから。おれは何としても、叶えてぇんだ」
 アイクの心は晴れなかった。視線を上げて、ボーレの真意を見定めようとする。
「お前たち兄弟は、団の一員として充分働いてくれたんだ。そこまで恩に着る必要はないと思うが?」
 ボーレは笑った。いつもの豪快な笑い方ではなく、かすかに目を細め口角を上げるだけの笑い方。アイクよりも年上であることを思い出させるような笑みだった。
「恩だけじゃないぜ。団長は、おれたちのことも家族だって言ってくれただろ? その家族を守る為に、おれはお前に協力する」
 アイクはただ、そうか、とだけ呟いた。他にどう言っていいか分からなかった。
 そういうこったと答えてボーレは立ち上がる。
「だから遠慮なんかすんじゃねぇぞ。分かったな!」
 いきなり後頭部をはたかれた。何の構えもしていなかったので歯がぶつかって固い音を立てた。頭と顎と耳が地味に痛い。この野郎と思ったが、口には出さず笑ってやった。
「ああ。はりきってこき使わせてもらう」
「お、おう……! 男に二言はねぇ、どーんとこいっ!!」
 結構凄みのある顔になっていたらしく、ボーレは強張った表情で、自分の胸を右の拳で叩いた。
 アイクはひとつ息をついて、立ち上がる。
「セネリオが戻ってくる前に、バンダナ取ってくる。いい加減髪が鬱陶しい」
「切りゃいいのに」
「そのうちな」
 口も足取りも、少しは軽かった。

 

 夕食には、しばらく姿を見せずにいたワユも来た。ティアマトの目が赤いことにはみな気付いていただろうが、誰も何も言わなかった。ミストは出て来ず、キルロイとヨファが付き添って別室で食べたようだ。
 食後アイクは、ミストの様子を見に廊下を歩いていた。
 ふと物見に少年がいることに気付き、足を早める。
「ヨファ? お前、こんな所で……」
 ヨファは椅子の肘置きを掴んで、床に両膝をついていた。近づいてみて、目を閉じて椅子に座っている青年に、付き添ってやっているのだと分かった。
「キルロイ? 何をしてるんだ」
 アイクが控えめに呼びかけると、彼はすっとまぶたを上げ、視線を動かさぬまま答えた。
「祈ってた」
「親父の為に……?」
「そう。団長、の……」
 キルロイはどこか漂うような口調で言って、首を動かした。アイクと目が合う。
 虚ろな瞳。段々と戻ってきたと思った光は、溢れて頬に零れ落ちた。
「ごめ……っ、君の方が、つらい筈、なのに……」
 それ以上は声にならず、代わりに雫ばかりが流れていった。叫ぶように、激しく。
 アイクは屈んでキルロイの手を握った。
「随分昔、親父に聞いた。死者は、そいつの為に流された涙の分だけ、女神から安らぎを与えられる、らしい。俺は、何でだか泣けないみたいだからな。キルロイが、俺の分まで泣いてくれるなら……ありがたい」
 アイクはキルロイの手に額を押し付けた。冷たい。干からびた胸の、ひりつくような熱が止んだような気がした。
「ありがとな。親父の為に……ありがとな」
 嬉しかった。たとえ染み入る雨の雫が、更なる痛みを伴っても。
「ヨファ。……ミストは?」
 キルロイが落ち着いてから、アイクは立ち上がった。
 ヨファはアイクを見上げる。瞳を濡らしていはいなかった。
「ミストちゃんなら、さっき眠ったよ」
 静かな声だった。揺るがぬように重いものを括りつけている、そんな声。
「そうか……面倒をかけたな。もう夜も遅い、お前も寝た方がいい」
 アイクが言うと、うんと頷いて立ち上がったものの、動こうとはしない。黙って俯いている。
「ヨファ? どうしたんだ」
「アイクさん」
 ヨファは顔を上げた。今までヨファが見せたどんな顔よりも、しなやかで凛々しい表情だった。
「ミストちゃんは、だいじょうぶだよ。アイクさんがいるから、だから、だいじょうぶ」
 それだけ言うと、ヨファは顔を背けてしまった。
「じゃあね、それだけ! おやすみなさい!」
 早口で言うと、見る間に駆け出していく。アイクは呆然と立ち尽くして、小さな背中が闇に消えていくのを見つめていた。
「……ヨファがね」
 声に振り返ると、キルロイが立ち上がりローブの裾を払っていた。角度のせいか微笑んでいるように見える。
「ミストに言ったんだよ。『お父さんが死んだとき、ぼくはまだそれがどういうことなのか、よくわからなかった。グレイル団長がぼくらの家族になってくれて、やっと今、わかったんだ。だからいっしょに泣かせて。ぼくのお父さんとミストちゃんのお父さんの分、いっしょに泣かせて』……って。ずっと泣いてた。二人で泣いてた」
 キルロイは椅子の背もたれを持つと、アイクに笑いかけた。
 涙はもう、瞳を潤すのに必要な分だけになっていた。
「おやすみ、アイク」
「ああ。おやすみ……」
 椅子を引きずっていくキルロイをぼんやりと見送ってから、持っていってやればよかったな、とアイクは少し後悔した。

 

「おはよう、お兄ちゃん」
 翌朝、食堂に行くとミストが笑いかけてきた。
 大丈夫か、という言葉を呑み込んで、アイクは席に着く。
「おはよう。ミスト」
「ねぇお兄ちゃんも早くご飯食べちゃってよ。片付かなくて困っちゃってるんだから」
 ミストはくすくすと笑っていた。アイクは答えるでもなく口の中で呟きながら、テーブルの上の皿を引き寄せる。食べ始めると随分腹が減っていたらしいということに気が付いた。
 食べ終えて広間に行くと皆が揃っていた。騒がしいのが苦手なセネリオだけはいなかったが。
 アイクはティアマトに歩み寄った。
「おはよう。もういいのか?」
「おはようアイク、もうすっかり元気よ」
 ティアマトは微笑んだ。明るい声音に昨日のような白々しさはなく、よかった、とアイクは頷いた。
「ガリア王宮から連絡はあった?」
 ティアマトが思い出したように問う。アイクは首を横に振った。
 食料を届けてくれたラグズの話では、そろそろ来てもいい頃だと思うのだが。
 アイクが思案していると、セネリオが来客を告げに来た。
「大変です、窓の外を見て下さい!」
 全員が窓に駆け寄る。目に飛び込んで来たのは待ち侘びていたラグズではなく、招かれざる黒い兵たちであった。クリミアのみならず、ガリア王国領にまで乗り込んで来るなど正気の沙汰ではない――決死隊ということだろうか。
 セネリオはゆるゆると首を横に振った。普段のまま、冷静なまま絶望を告げる。
「完全に囲まれています。逃げ出すことは……不可能です」
「だからって、やり合っても負けが見えているわ」
 ティアマトも沈んだ声で俯いた。皆がまた下を向いてしまう。顔を上げたのは、アイクだけだった。
「それでも……やるしかない。全員、戦闘準備を!」
 たったこれだけの傭兵団でも、ゼロではないのなら。抗わねばなるまい。
 力の届く限り、生に手を伸ばさねばならない。それがグレイルの遺した命令なのだから。
 諦めてじっとしている余裕など、ないのだ。
「ミスト、ヨファ! お前たちは商人達と一緒に隠れてろ」
「でも、お兄ちゃん……!」
 ミストはその場から動こうとしない。駄々に苛立ったアイクが妹の手首を掴むと、二人の手にまた別の手が重なった。ヨファだ。ヨファがアイクの顔もミストの顔も見ず、ただ黙って二人の手に触れていた。
 アイクはゆっくりと息を吐いて、力を緩める。同時にヨファの手も外れた。左手でミストの頭を抱え、アイクは栗色の髪を撫でた。
「大丈夫だから。な?」
「お兄ちゃん……」
 身体を離すとき、ヨファと目が合った。ヨファはアイクに微笑むと、ミストの手をやんわりと取り、行こ、と促す。不安げな顔ではあったが、ミストもそれに頷いた。
「気をつけてね、お兄ちゃん……」
「ああ。心配するな」
 二人を預けると、今度はワユのところへ。アイクに気付くと、ワユは寄りかかっていた壁から身を離した。
「あたしは出て行かないから」
 真剣な顔だ。読まれていたらしい、と思ってもアイクにはそれを口にするしかない。
「関係のないあんたをこれ以上巻き込みたくはない。抵抗しなければ命までは取られないだろう」
 ワユは答えずに俯いた。そのまま黙っていた。アイクが言葉を継ごうとした瞬間、唐突に顔を上げる。目の前が激しく鳴る。
 思わず後ずさったアイクを、ワユは両手を打ち鳴らした格好のまま睨み上げた。
「あのさぁ、大変なんでしょ!?」
「あ、あぁ……」
「猫の手も借りたいんでしょ!?」
「そう、だな……」
「だったら変な意地張らない遠慮しないっ!!」
 ワユは自らの剣を抜いた。切っ先を窓に向け、不敵に笑う。
「手伝わせてよ。恩も義理もあるんだから。関係ないなんて言わないでさ」
「ありがとう」
 アイクは顔の筋肉を少し緩めた。
「準備が整いました!」
 セネリオの声に頷き、皆を見回す。
「グレイル傭兵団、出撃だ!!」

 

 また雨が降っていた。どうやらガリアは激しい雨が短時間降り(スコールと呼ぶらしいことをセネリオが教えてくれた)、かと思えば唐突に晴れ渡るということを繰り返す気候のようだ。
 アイクは左手と口を使って、剣を右手に紐で結びつけた。そうでもしないと滑ってすっぽ抜けてしまう。
「アイク!」
 オスカーが濡れ髪を後ろに撫でつけながら駆け寄ってきた。視界が悪いので兜を外している。
 アイクは水を吸って重くなった長靴を引きずりながら、オスカーに近づいた。
「どうしたんだ?」
「デイン軍の中に、不審な人物がいるんだ」
 話によると、黒い鎧を着ていない人間がいるということだった。魔道部隊とも違う服で、しかもアイクと同じくらいの少女だというのだ。何か訳ありなのではないか、とオスカーは囁いた。
 アイクはオスカーにその場を任せると、彼の持ち場だった場所に走った。ボーレが一人で通路を押さえている。アイクは抜き身を携えて、その隣まで駆けた。
「悪い、遅くなった!」
「おれはいいって! それより……」
 ボーレが顎をしゃくる。武骨な黒鎧のデイン兵の中に、明らかに異質な、線の細い少女が交じっていた。藤の髪と似た色の服で、雨に溶けそうな様子で佇んでいる。
「ボーレ。あと少しだけここ、任せていいか?」
「おうよっ!」
 デイン兵に押し出されるようにして少女が近づいてくる。数えて二人目。アイクは前に踏み出して眼前の兵士を斬り捨てた。ボーレの投げた手斧が少女を迂回し、その後ろにいる兵の首に喰い込む。
 少女が驚いて振り返った一瞬の隙に、アイクは折れそうな手首を掴んだ。そのままボーレの背後まで引き寄せる。あっ、と小さな声が上がる。
「あんたは何者だ?」
 アイクは口早に誰何した。しかし少女は答えず座り込んでしまった。慌てて少女の顔を覗き込む。
「お、おい。大丈夫か?」
「雨が、冷たくて……」
 さむい、と少女は消え入りそうな声で呟いた。剥き出しの腕を抱いて震えている。
 気休めにしかならないだろうが、アイクは少女の左肩をさすってやった。片手を塞いでしまっているのが今はもどかしい。
「顔色が悪いぞ。どこか悪いのか?」
「……優しいんですね」
 少女は少しだけ顔を上げ、ほのかに笑みのようなものを浮かべた。調子が狂う、と思いながらアイクは問うた。
「あんた、デイン兵じゃないだろう。奴らに協力してるのは、何か事情があるんじゃないのか?」
 その言葉に少女は自分の腕を一層強く抱き、俯いた。
「私、イレースというのですけど……一緒に旅をしていた商人達とはぐれてしまって……。雨宿りしようと思って、ここに来たら、黒い鎧の兵たちが、私のこと……クリミアの残党だろう、って……。違うって言っても、信じてもらえなくて……だから、あの人たちの仲間になって……あなたたちに攻撃を……しました」
 ごめんなさい。と、少女――イレースは泣いているかのような声で言った。
 だが途切れがちであっても、言い止さず最後まで事実を述べ切った。この少女は、決して弱いだけの存在ではない。
「気にするな、誰だって命は惜しい。それよりその商人、ムストンたちのことじゃないのか?」
「は、はい! その人たちです……!」
 イレースの顔にやっと血の気が戻った。アイクは肩を支えて立ち上がらせる。
「中にいる。早く顔を見せてやれ」
 すぐにでも頷くと思ったのだが、イレースは意外にもはっきりと首を横に振った。
「いえ……私も戦います。森の中にもまだ伏兵がいるんです。だから……」
「だったら尚更だ」
 アイクは入り口の方に、イレースの背をとんと押した。
「ヤバくなったら呼ばせてもらう。それまでに身体を温めておいてくれ」
「はい……!」
 イレースは小さく礼をしてから、城の中へ駆けていった。
 アイクも剣の柄を握り締め、ボーレの隣へ戻る。ボーレが正面の敵を斃す。
「おれが言うのもなんだけどよぉ、ホント甘いのな、お前!」
 アイクも、間髪入れずに突撃してきた兵の武器を跳ね上げた。
「性分らしいな」
 斬る。一瞬の休息も許さず押し寄せる黒い波。斬る。刃に脂がまいて切れ味が鈍くなっている。最早斬っているのか殴っているのか判らなくなってもまだ、剣を振る。
 突然、ボーレの手が不自然に停止した――限界を超えた筋肉がいうことを利かなくなったのだ。アイクはとっさに剣を薙ぎ、ボーレの前の敵を昏倒させた。
「くそっ! 全員、城内に戻れ! 繰り返す、一旦城内に戻るんだ!!」
「ちくしょう……ッ!!」
 ボーレが背を向けて走り出した。アイクの命令を叫び伝えている。
 アイクも隙を見ながら下がっていき、防衛線を狭めていく。その途中また幾人ものデイン兵を向こう側へ送った。
「愚かな……指揮官自ら殿(しんがり)を務めるとは。指揮官の死は軍の敗北を意味するというのに」
 アイクに言ったのは、他の兵より上等そうな鎧を着た男だった。口ぶりからして指揮官らしい。
「戦いは兵に行わせ、自分は指揮に専念する。それが軍隊の戦い方というものだ!」
「生憎だが、俺は指揮官なんて大層なもんじゃない」
 アイクは男に視線を向けた。同時に向けた切っ先よりも鋭い視線を。
「団員と同じ場所で戦い、同じだけの血を流す。それが、グレイル傭兵団団長の戦い方だ!!」
 アイクの踏み出した右足が黒い飛沫を飛び散らせた。振り下ろした剣は槍の柄を滑り流れてしまう。すかさず繰り出された穂先をかわす。雨のカーテンが斬り裂かれていく。ティアマトたちが制止する声も聞かず、少年は雫を弾き無骨な演舞に身を投じる。
 男の槍がアイクの肩に触れた。右肩の皮膚を削ぎながら表面を走り抜ける刃に勢いを殺されることなくアイクは突き出した剣先を狙いを定めたときの激しさのまま鎧の隙間に突き入れた。
 脆くなっていた刃が、男の首の中に烏帽子を沈めたまま、その身を分けた。
 音が止まる。
「デイン、王、国、に……栄こ……あ……」
 最後の一文字の代わりに、男は血液の塊を吐き出した。
 アイクは飛び退く。男は後ろに二歩、前に三歩動いた後で、どうと倒れた。
 その勢いで首の背面まで突き抜けた刃が、雨に濯がれて銀色に光っていた。
「この人数で我々の将をも討ち取るとは、敵ながら……見事」
 副官らしい男が言った。
 アイクは気にもせず剣を固定していた布を解き、用を為さぬ柄を投げ捨てた。
「だが、それももう終わりだ。……かかれ!」
 デイン兵の号令が響く。
 団員が自分の名を呼びながら飛び出してくるのを感じながら、逃げる訳にはいくまいとアイクは太腿に提げていた短剣を、すっと抜いた。
 雷鳴が、轟く。
「なん、だ?」
 デイン兵が呟く。アイクがそれを聞くのは初めてではなく、三度目にしてみれば最初よりも理解に達するまでの時間も短く済んだろうが、それでもやはりデイン兵の叫ぶ方が早かった。
「ガリアの半獣……ッ!?」
 水色の獣がすさまじい勢いでデイン軍を蹴散らしながら、駆け上がってくる。まるで氾濫した川。
 アイクはその様子を子細に確かめるべく、防壁の際まで走り出た。別の方向からも獣が駆けてくる。ライと同じかたちの細身の獣。
 その毛色は、鮮やかな橙。黒き波を平伏させるその圧倒的な力は、まるで夜闇を薙ぎ払い全てを照らし出すかのような、陽光。
 猫はアイクたちの近くまで来ると、軽やかな音をさせて飛び上がり、櫓の上から彼らを見下ろした。
 曙のような紫色の、瞳。硝子のように冷たい輝きを宿す。
 空は暗く。雨は容赦なく身体を叩き、その熱を奪っているというのに。
 ――長い夜が、明けたような気がしていた。

 

To SIDE Rethe

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