9話 Short-ender - 5/6

高葉ヶ丘の名ショート

 全国高等学校軟式野球選手権大会、東京大会二日目。
 今年度は校数の関係で半数以上が一回戦を免除された。都立塩川高等学校と、都立高葉ヶ丘高等学校も初戦が二回戦となる。
 先攻は塩川。先発のマウンドに登るのは侑志。頭は緊張とは別の気持ちでいっぱいだった。
 潰したい。塩川を、というより椿直也を。
 そんなことをしても何も変わらないのかもしれない。変えられないのかもしれない。それでも桜原や自分が前に進むためには、彼に勝たなければいけないのだ。
 強張っていたつもりはない。だが初球が上ずった。見逃していればボールのはずが、塩川の一番打者は思いきりよくバットを振る。打球が高く上がる。森貞の指示が響く。
「センター!」
 平凡なフライ。欲を言えばもっと浅めに打たせたかったが仕方ない。三石が捕ってくれればワンナウトだ。
「うわっ!」
 と、その三石が悲鳴を上げた。落下点でフライを捕球していたのは、三石ではなくショートの桜原だった。
「ビックリしたー。あれくらい自分で捕れるって、だいじょぶだいじょぶ」
 三石は自分の胸を叩いて苦笑する。桜原は黙って帽子を取った。
 記録はショートフライ。だが明らかに桜原の守備範囲ではない。捕手から指示も出ていた以上、三石が捕るべきだった。
 侑志は首を傾げ二番打者と対峙する。
 サード方向へのゴロ。坂野が声を出したにもかかわらず、捕ったのはやはり桜原だ。無理に飛び込んだせいで送球の体勢が崩れている。暴投。ファーストの八名川が捕れない。打者走者が一塁を蹴る。カバーに入った岡本が相模にボールを送る。二塁到達は防いだ。ツーアウト。
「皓汰!」
 相模のあまりの剣幕に、離れている侑志が縮み上がった。
 堅実な桜原は、相模をここまで激昂させたことはなかったはずだ。
 ――あいつ、完全にテンパってやがる。
 侑志は肺中の息を吐ききり、大きく肩を回した。できることはある。桜原にミスをさせないために、自分が打ち取ればいいのだ。
 次の打者は石巻。闘争心を燃え上がらせるにはちょうどいい。富島にスパルタで仕込まれたチェンジアップを使って、打ち気の石巻に振らせた。
 スリーアウトだ。
「新田」
 ベンチに戻ろうとしたら、坂野に声をかけられた。深刻ぶった表情だ。
「皓汰くんを怒らないでやれよな。向こうには中学時代の先輩がいて」
「知ってます。帰り道で絡まれましたから」
 侑志は棘のある口調で答える。坂野は、そうかと呟いたきり突っかかってこない。
「今投げてて分かったろ? 塩川は選球も走塁判断も甘い。勝てない相手じゃないんだよ。だから」
「勝てない、相手じゃ、ない?」
 侑志はベンチの前で立ち止まった。震える腕に血管が浮き出る。
「バカ言わないでくださいよ。俺はあいつらが二度とナメた口利けないように、徹底的に叩き潰してやらなきゃ気がすまねェ……!」
「そ、そこまで?」
 坂野は蒼褪めた顔で侑志をなだめにかかる。
「何を言われたか知らないけど、スポーツだしあんまり手荒なことは」
「坂野さん」
 侑志は坂野の目を見つめ、他の人間には聞こえない音量で告げた。
「あの石巻ってヤツ。朔夜さんのスカートめくりました」
 坂野の顔がにわかに紅潮した。走っていって、伝説の剣を抜く勇者のように、金属バットを雄々しく引き抜く。
「殺す!」
「サカちゃん、スポーツだからあんまり物騒なことはぁ」
 岡本が情けない顔で坂野の説得を始めた。
 侑志は日陰へ入っていく。装備を整えた富島が立っている。
「ガス抜き行くか?」
「いい。俺まで回る」
 バッティンググローブを握りしめる。
 振り返る先には、傲然とマウンドに立つ塩川のエース・椿直也がいた。

 一回裏、高葉ヶ丘の攻撃。一番三石が出塁し、二番の相模が犠打。一死二塁。
 三番の坂野が打席に立つと同時、侑志は朔夜に呼ばれた。
「新田。お前なぁ、何カッカしてんだ?」
 立ってスコアをつけながら朔夜は言う。侑志は口を尖らせる。
「別にしてねぇっすよ」
「キレて先輩たきつけるのはカッカしてるって言わねぇのかよ」
 外高めのボール。
「あのなぁ、私とか皓汰のためだったらそういうの要らないから。つまんねぇことでイラつくな」
 内低め。ワンストライク。
「朔夜さんこそ、今日めちゃくちゃテンション低いじゃないですか」
「ああ?」
 ワンバウンド。止めた。ツーボール。
「別にいいだろ。私の調子なんて」
「そっちこそつまんねぇこと言わないでくださいよ」
 身体すれすれ。スリーボール。
「朔夜さんのヤジがないと、調子狂うんすよ」
 三石が唐突に走る。椿は既に投球に入っている。坂野が打つ。右方向に抜ける。三石は三塁も蹴る。ボールは内野までしか返っていない。ホームイン。先取点だ。
 坂野は一塁から誇らしげに手を振っている。
「坂野ぉ、絶対帰って来いよ!」
 朔夜が怒鳴ると、坂野は首がもげんばかりに激しく頷いた。
 森貞の安打で一死一・二塁。続く岡本も出塁。一死満塁のチャンスで打席に巻かうのは、六番、新田侑志。
 一礼して、バッターボックスの一番手前に立つ。癖のないスクエアスタンス。
 椿が山の上から睨みつけてくる。捕食者は自分だと威嚇してくる。侑志は冷めた視線を返す。
 二度の首振りの後、内角に直球。根元に当たって一塁側のファールグラウンドで跳ねる。さほど速くはないが思っていたより重い。もう少しステップ幅を広げないと前に行かないか。
 侑志は大きく息をつき、バットを正眼に構えると、肩の辺りまで持ち上げる。
 立ち位置は敢えて本塁寄りにした。投手である侑志には内角を投げづらいだろう。当たれば押し出しだ。しかし椿は果敢に内を攻めてきた。侑志は明らかに外れた球を捨て、他の球は全てカットした。
 フルカウント、七球目。ついに侑志の狙った球が来た。センター方向への鋭いゴロ。不規則に跳ねる打球。センターがグラブの縁で弾く。ライトも追いつけない。ホームインした坂野は大声で朔夜の名を呼ばわっていた。
 追加点だ。
 侑志はマウンドを見た。夏の陽射が荒々しく降り注いで、立ち上る熱気が椿の姿を揺らめかせる。石巻と話す表情には、期待した苛つきの影はなかった。
 続く打者は八名川。左に打ち返す。レフトからの返球は本塁に届かない。また追加点だと思った。だが椿が素早く中継に入り、三塁走者の森貞を刺す。
 侑志は二塁キャンバスを踏み、敵の背番号1に視線をやった。相当荒れた跳ね方だったのに、椿は何の無理もないモーションで、捕球と送球を流れるように行った。
 ――桜原の恩師、か。
 侑志はメットの庇に手をやり、口許を引き締めた。
 打席には今まさに桜原。結果はひどいものだった。明らかなボール球に手を出し、避けられる球に当たってストライク判定。脇腹をかばいながらの三振。スリーアウトでチェンジだ。
 椿は桜原には一瞥もくれずベンチへ戻っていった。
 桜原はバットを引きずりながら歩き出す。侑志が駆け寄っても顔を上げない。
「打てなかった」
 呟く声はかすれていた。今までの試合なら、同じ醜態をさらしてもけろっとしていたはずなのに。
「ヘッド、傷むから」
 侑志はバットをつかむ。さしたる抵抗もなく桜原の指はグリップから離れていく。
「なぁ。俺は気にしないよ、お前が打てなくても」
 何の慰めにもならないと知っていて、言わずにいられなかった。侑志の弱さに桜原は黙って頷いてくれた。
 ベンチでは監督が腕組みをして待ち構えていた。
「皓汰。できないなら下がるか?」
 怒っているというより労わるような調子だった。あまり感情を外に出さない人の、監督とも父親とも知れない心配が透けている。
「やれます」
 いっそう頑なに桜原は答えた。朔夜は何か言いかけて、結局言葉を飲み込んだ。
 行き場をなくした朔夜の左手に触れる代わりに、侑志は桜原の左腕をつかんだ。振り返る表情は逆光でよく見えない。それでも懸命にまなざしを注いだ。
「桜原。こんなこと言って、満足すんのも納得すんのも俺一人かもしれないけど。お前にはいつも後ろにいてほしいって、俺は本気で思ってるから」
 ゆっくりと指を開く。目線を切る。
 自分の台詞でそんな顔をしてくれるなら、侑志はそれで充分だった。

 二回表、塩川高校の攻撃。
 一人目の四番打者は切ったが、続く五番打者がストレートのフォアボール。ムラがあるのは侑志の悪い癖だ。この期に及んで自覚なんてものの役にも立たない。
 六番打者は、ピッチャー・椿直也。
 侑志は富島のまとめたデータを思い出す。朔夜との対戦では、死球一、内野安打一、投直一。いずれもストレート。
 ちらりとベンチを見ると、朔夜は椿ではなく侑志を見てくれていた。それだけで少し得意になる。
 ――朔夜さんは、ストレートで勝負した。今度は俺が、同じ球でこいつを打ち取ってやる。
 椿は左打席に入った。キャッチャー寄りのオープンスタンス。バットは短め。侑志の速球を意識したものだろう。
 まずはワンストライク。今度は枠内に入った。しかし椿がぴくりとも反応しなかったのが気にかかる。狙っているコースでもあるのだろうか。今のは内だったから、外か。
 森貞のサインを待つ。内、チェンジアップ。外れてもよし。
 侑志は拒否の意を示した。どうせ球種も少ないしコースも不確かなのだから、首など振っている暇があったらテンポを崩さずどんどん投げろ、というのが監督(と富島)の指示なのだが、今はどうでもいい。
 とにかくストレート。正面から潰す。森貞も侑志の意思は分かっているようで、あっさりとサインを変えてきた。
 ――外、ストレート、外れてもよし(笑)。
 ――あ、『かっこわらい』つけやがった。
 侑志は胸中でむくれる。『(笑)』は森貞が岡本のために考案したサインで、特に意味はない。強いて言えば『リラックスしろ』程度だ。
 気を取り直して投球動作に入る。ボールが指先から離れる瞬間に覚る。
 まずい。棒球!
 椿が踏み込む。バットがボールを叩く。弾丸ライナーが侑志に襲い掛かる。とっさに顔をかばい意図せずはたき落とす。森貞が飛び出してきたが、どこにも送球はしなかった。
 侑志は腕を下げて一塁を見た。椿直也が立っている。読唇術などできないが、あれだけはっきりした動きならさすがに分かる。
 ざ・ま・あ・み・ろ。
「新田!」
 逆上しそうになって我に返る。
 侑志を呼んだのは桜原だった。陽気に似合わず青い肌をしていたくせに、必死で声を張り上げていた。
「俺が後ろにいる。思う球投げなよ!」
 そのまま各ポジションから声援が集まる。侑志は背中の10の重みを思い出す。
 そうだ。ここは自分だけの場所ではない。自分だけの感情で立っていい場所では、ないのだ。
 初めて皆の前で投げたとき、後ろから励ましてくれたのも桜原だった。誰より先に、新田侑志という投手を迎え入れてくれた野手。
 大丈夫。お前が声をかけてくれるから、俺はちゃんと投げていける。
 走者を二人背負っているにもかかわらず、侑志は七番打者に全力で振りかぶって投げた。森貞のミットに最短距離で届く。響くストライクのコールとセーフのコール。
 ダブルスチールで一死二・三塁。
「ははっ」
 思わず笑いが漏れた。
 こんなのはただの暴挙だ。戦術的には何の意味もない。ただ侑志が投げたかったから、本気のストレートを投げたのだ。
 監督を見た。怒るどころかにやにや笑っていた。あんないたずらっ子みたいな顔をするんだなと思う。その監督のサインで塁を埋めた。セオリー無視の満塁策。
 八番打者が低めを叩いて球が小さく跳ねる。三遊間。球足が遅い。
「はい!」
 桜原が逆シングルで捕球し、振り向きざま相模を呼びながら送球。相模が二塁ベースから、森貞の指示どおり一塁へ。白球は八名川のミットにまっすぐ納まる。
 六・四・三、完璧なダブルプレー。
 スリーアウトだ。
「よっしゃあ!」
 侑志は両拳を握り締めて叫んだ。それから急に恥ずかしくなって俯いた。
 ちょいちょいと袖を引かれ振り返る。桜原が右肩を少し上げて、くすぐったそうに笑っていた。
「ありがと」
 礼の言い方が姉にそっくりだ。侑志は帽子ごと桜原の頭をぐりぐり撫でてやった。
 二塁ランナーだった椿も後ろにいた。侑志はできるだけ馴れ馴れしく桜原の肩に手を回し、椿に向けて挑発的に笑う。
 うちの名ショートだぞ。どーだ、うらやましかろう。
 椿はかっと頬を紅潮させ、大股でベンチに帰っていった。桜原が胡乱げに侑志を見上げる。
「なに。どしたの」
「なんでもねぇ。早く戻ろうぜ」
 これからマウンドに立つのは椿だが、もう関係ない。
 もうすぐ打順は一回りして、攻撃は二順目に入る。