墜憶の夏天

 一九八一年、新田(にった)総志(そうし)は自分を持て余していた。小学五年生までインターナショナルスクール、六年生から九年生までアメリカにいて、ハイスクールからまた日本に戻った。カリキュラムの程度が低いのはすぐわかったが、問題はその低レベルなクラスメイトとの意思疎通すらままならないほど自身の日本語が拙い、ということだ。
 殴るわけにもいかない。交ざる気も起きない。互いに見下し合いながら『ぎこちない帰国子女』と『親切な級友』を演じる。無意味な日々だ。
 迷い込んだ暗室で、写真部の女の子と顔見知りになった。寡黙な彼女とはあまり話さずに済むから気楽だ。薬液から取り出される印画紙を見守るのが、帰国して初めての娯楽になった。
 桜原(おうはら)太陽(たいよう)と出逢ったのも写真の中だった。
 フェンスに向けてボールを投げるピッチャー。傲慢な孤独だ。孤高とも違う。同情も憐憫も必要とせず、ただ救援だけを許している。そうして具体的な敵を持たない闘志はどこまでも透き通っていた。
 総志は黒縁眼鏡の奥の瞳を輝かせて、友人に尋ねた。
「彼は誰ですか? どこに行けば僕は彼に会えますか?」
「A組の桜原君。目立つ子だからすぐにわかると思うわよ」
 翌日、総志は朝から一年A組のドアを叩いた。オーハラへの取次を頼んだが強張った顔で首を横に振られ、仕方ないので足で捜す。
 予鈴も本鈴も聞き流し軽やかに歩いていく。授業のひとつふたつ出なかったところで支障あるまい。もしあったとしても、父を困らせることができるならそれはそれで愉快だ。自主性を育むためにアメリカの学校へ行けだの、将来の市場を肌で知るために日本の高校へ行けだの、親子とはいえ他人の人生を好き勝手支配する人間は少しぐらい痛い目を見るべきだし恥を知るべきだと思う。
 運よく教師に見つからず外に出た。もしかして登校していないのだろうか? だとしたら住所を押さえたいが、さすがに今職員室に行くのはまずい。
 それにしても、このチープな煙草の匂いはどこから……。ふんふんと鼻に従って進んでいく。中庭を通って校舎の裏側まで。
 ああ、本物のジャパニーズ・コーシャウラ! もしかしてフリョーが群生している? カリフォルニアでの暮らしが胸に甦る。心弾む堕落と暴力の日々。爪の先ほどでもまた味わえるなら幸運だ。
 爛々と目を輝かせて建物の角を曲がる。果たして不良生徒はそこにいたが、群れてはおらず一人きりだった。学ランの前を全て開けた少年が、木の下にしゃがみだるそうに煙草を吸っている。
 彼だ。
「タイヨー・オーハラ……」
「あ?」
 桜原太陽が顔を上げる。何か言われるより早く総志は間合いを詰める。野生動物と同じだ、まずは判らせなければ。どちらが生き物として上の存在かということを。
 総志は桜原の右手から紙煙草を奪い取り、自分の口に当てる。変に甘い味と香りだ。肺まで入れてもさらさらと正体がなく、吸っている心地がまるでない。わざわざ金と時間をかけてこんなものに火を点けるなんて意味不明に尽きる。何と言ってやろう、程度を表す日本語、確か……。
「ズイブン軽いのを吸ってるね」
 そう、『ズイブン』だ。煙を吐き出しながら口唇の端を吊り上げた。一八〇センチは日本では目立つ身長だと理解したうえで、顎を上げて桜原を見下ろした。
 桜原は黒々とした目を丸くして、だらしなく座ったまま総志を見上げた。短くて細い眉は生来のものらしく、みっともない剃り跡はない。制服も無改造。髪も男にしては長いがワックスやオイルで固めてはおらず、無精で伸びているだけに見えた。
 桜原が息を吸う。総志は期待で息を止める。
 吐き出される言葉は何だろう。怒り? 威嚇? 服従?
「これ軽いのか」
 予想のどれとも違う声音だった。平淡だが自然な口調。虚を衝かれた総志に、桜原は苛立ちを含ませて繰り返す。
「軽いのかって。おめェが言ったんだろ」
「そう、だね。僕はそう思います」
「なんだ。そっか」
 桜原は不意に表情を和らげ、左手に握った真鍮(ブラス)のライターを指先でゆっくり撫でた。
「親父に伝えとくわ。少しでも医者に叱られねぇのはどれかって、いつも気にするんもんだからよ」
 総志は思い違いに気付いて顔から火を吹く。
 彼にとって重要なものはライターで、煙草は付属物なのだ。総志はどうでもいいものを奪って粋がっていた――パンそのものを奪わず、得意げにパンくずをついばむハト並みの間抜け。初手から全部、負けていた。
「僕は新田総志といいます。よろしく」
 降伏の証に右手を差し出す。桜原は首を傾げてから、立ち上がることなく握手に応じる。
「新田。お前、野球やる?」
「ベースボール? しないです」
「やろうぜ」
「はい」
 何の脈絡もなかったし理解もできなかったけれど頷いた。彼がやろうと言ったから。
「変なやつだな」
 春の桜の木の下で、自分も大概なことを言いながら桜原太陽は人懐こく笑った。
 きっと彼には一生勝てないだろうと、総志はいずれ事実に変わっていく予感を抱いた。

 

 授業が終わるのを待って、いつも練習しているという公園に向かった。桜原は近所のおじさん(桜原は当時としてもめずらしいぐらい地域の大人にかわいがられていた)を連れてきた。丸々太った神崎(かんざき)のおじさんは、休日に草野球のキャッチャーをやっているのだそうだ。ヨーボー(『陽坊』、桜原太陽のこと)一人じゃ心配だから、とプロテクターの付け方を総志に教えてくれた。
「いくぞぉ!」
 桜原は桜原で自由に身体をあたためていたようで、活き活きした顔で左腕を回している。写真のときは意識しなかったが……。
左利き(レフトハンデッド)?」
「なんだ、悪いか」
「いえ」
 左利きや両利き。アメリカではたまに見たけれど、日本には現存しないと思っていた。矯正されなかった反骨的(ロック)な生き残りがいたのか。
「僕は好きです。左利きの人」
 素直に答えると、桜原は変な顔をして鼻の下をこすった。
 まずキャッチボールから。桜原の放ったボールを受けて、投げ返す。シンプルなコミュニケーションだ。筋がいいと神崎氏は褒めてくれたが、総志はむしろ桜原の技術に舌を巻いた。精確に胸元に返してくるし、総志が投げるあさってな球もほとんど捕っている。
 巧いんだねと褒めたら、フツーだろと桜原は謙遜のようなことをふてぶてしく言った。
「じゃ、本番始めっぞ」
 ピッチャーというのは小高い丘にいるものと記憶していたが、桜原は平たい土の上に立っていた。神崎氏が、座って捕るんだよ、右手は後ろにとアドバイスしてくる。何故座るんですかと訊いたらルールだからといかにも日本人らしい返答をされてガッカリする。
 それも、桜原の球を受けたらどうでもよくなった。
 ボールが手の中に飛び込んできただけ。桜原の指を離れる瞬間から、総志の手のひらに納まる瞬間まで、まるで運命づけられたように美しい軌道で届いたというだけ。
 それだけでいいと思った。それだけで充分だと。
 総志は震えるミット越し、白球を世界から覆い隠すように握りしめる。
 ――そうか。あの写真を見て、彼に会いたくなったのは。
 あの投手のまなざしを、自分が受け止めたかったからだ――。
「捕れたな! 決まりだ。今からお前は俺の相棒」
 桜原はグラブ越しの右手を腰に当て、左手でVサインを突き出してくる。総志はボールを投げ返さず、立ち上がって確実に丁寧に手渡した。
「やるよ。やりたい」
 その役目は僕だけが務めるべきものだ。そして君が望むならあと七人集めてもいいし、二人きりでも僕は構わない。

 

 総志は野球部を設立するために必要なことを洗い出していった。
 まずは責任者の確保。桜原の担任の小笠原(おがさわら)教諭が顧問を引き受けてくれることになった。
 条件は第一に桜原が煙草をやめること、同好会なら合計三人・正式な部なら九名恒常的に活動可能な――つまり最低でも試合を別件で放棄しない程度の――部員を集めること。
 そして。
「正当な理由なく授業を休まないこと、活動日であっても宿題(ホームワーク)は必ずやること、だそうです」
「めんどっくせ……」
 桜原は片手で顔を覆って俯いた。
 放課後のF組。A組の桜原とは授業中接点がないので、落ち着いて話をするときは大抵この時間だ。
「桜原は勉強は苦手?」
「得意に見えるかよ」
「では、ホームワークは僕と一緒にやろう」
「新田もバカそうに見える」
 桜原は指の隙間からうんざりした目で総志を見る。総志は頷いて片手を挙げる。
「問題ない。埋めるだけでいい。正答しろとは言われなかった」
「いや頭いいなお前」
 そのまま教室でやってもよかったのだけれど、家に招いてくれるというので桜原についていった。
 桜原家は歩いていけるほんの近所にあった。風情のある木造建築だ。着くなり桜原は奥に走っていって、総志は玄関に取り残された。しかし日本の家屋はどこも狭くて圧迫感がある。ごちゃごちゃ物が置いてあるし、靴もどこで脱いだらいいのか……。
 階段を下りてくる音がする。素足と着物の裾が見える。
「太陽? 戻ったのか。悪いが一寸(ちょっと)手伝っ……うわっ、あ」
 情けない悲鳴。分厚い本が何冊も階段を転がり落ちてきた。和装の男性がカルガモでも追いかけるみたいな姿勢で下りてくる。
「ああ、大変だ大変だ……」
 確かに大変そうだった。総志は手の届く範囲の本を拾って男性に差し出す。
「やあ、手間をかけるね。すまないすまない」
 いかにも人が好さそうに笑って、細面の男性は本を抱える。猫背でやせ形、ラウンドフレームの眼鏡に和服、まるで明治か大正の写真から飛び出た文豪だ。
「君は、太陽のお友達かな。はじめましての子だね。お名前は?」
「僕は新田総志です。お会いできて光栄です、ミスター・オーハラ」
「ふむ、こちらこそ。失礼でなければお名前の漢字を伺っても?」
「アタラしいタんぼに、スベてのココロザシ」
「よい名だね。私は太陽の父の、桜原(はじめ)です。ハジメというのはザ・ファースト・デイ、ツイタチのことだよ」
 名前の説明をしてきた日本人は初めてだった。どうも親子揃って変わっている。
「玄関先で失礼したね。構わないからおあがんなさい。あれは母親に手を合わせているだけだからじきに戻るよ」
 母親に手? 日々の感謝を伝えているということ?
 とりあえず、靴を脱いで端に寄せる。ついでにかかとの潰れた桜原のローファーシューズも綺麗に並べた。
「親父? 無精していっぺんに持つと、また本落っことすぞ」
 桜原が廊下の向こうから上体だけ覗かせる。
 太陽、としかつめらしく息子を呼ぶ桜原朔はあまり迫力がない。
「そんなことより、お友達を玄関に置き去りにしたら不可(いけな)いだろう」
「ダチ連れで線香あげるのもおかしいだろうが」
 桜原はぞんざいに言って顔を引っ込めた。
 総志は目を丸くして立ち尽くす。こんなに気安く親とやりとりして許される家庭があるとは。
「や、お見苦しいところを。さぁ客間へおいで。太陽にお茶を持って来させよう」
 男性――桜原朔は繕うように笑って、大量の本と一緒に歩き出した。数歩ごとに一冊ずつ落としていくので(まるで『ヘンゼルとグレーテル』)、総志はそのたびに拾いながら後ろをついていった。
「何処でもいいから声に出して読んで御覧」
 桜原の父は畳に正座すると、総志に一冊の本を手渡した。総志も正座して本を開く。『ヤマヒツジの歌』というらしい。漢字が難しくてどれも読めない。気になったひらがなだけ、ゆあーんゆよーんと口にしてみた。変な響きなのに不思議と悲しい。
 桜原は持ってきた茶をトレーごとテーブルに置き、退屈そうに寝転がっている。桜原が天井に向けて投げたボールをキャッチする音と、総志の音読のリズムがリンクする。ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん。
 桜原朔は穏やかな顔で頷いていた。
 総志は他のページを開いて、「れつちまつた」とは何か尋ねた。本当は前の漢字と合わせて「よごれっちまった」と読むらしい。どうして詰まる音なのに「つ」が大きいのか? 自分が汚れたことが悲しいのか、悲しみ自体が汚れてしまったことを指すのか? など総志はいろいろ質問した。桜原朔は全部丁寧に答えてくれた。他の大人の言うような、そんなことも知らないのか、そういうものだ黙って従え、といった類のことは一切口にせず、自身がわからないことも正直かつ誠実に返事をくれた。
「いや、すまない。太陽のお客様だったね。この本は興味があれば貸してあげよう。私は二階で仕事をしているから、ゆっくりしておいで」
 やがて桜原朔は本を置いて客間を出ていった。とんとんとん、と階段を上がっていく音を、総志は視線で追いかける。
「不思議なお父さんだね。お仕事は何を?」
「よく知らねぇ。本を書いたり大学で教えたりしてる」
 教授(プロフェッサー)? アカデミックでいい。少なくとも総志にとっては、父の仕事より魅力的に思えた。
「それより、せっかく淹れたんだから飲めよ」
 勧められて湯呑を手にする。粗雑そうな桜原の淹れたものだからと考えていたのだけれど、オパールグリーンに澄んでやわらかい飲み口のおいしい日本茶だ。
「親父に客があったら茶を用意するのが俺の仕事なんだよ」
「すごいね。僕はそんな信頼をされていないよ」
「信頼? 何が」
「僕の淹れたお茶ではお客様に失礼になるということ。君のお父さんは君のお茶ならおもてなしになると信じているんだね」
「大袈裟だな」
 桜原は指先で鼻をかいて話を切り返してきた。
「お前の親父は何やってるんだ?」
「僕も……よく知らない」
 総志は尻すぼみに呟いた。
 知りたくない、というのが正直なところだった。戦後の荒れた世を、強引な手で渡り歩いて不動産王となった男。恨みや妬みを買った先も一つ二つではない。総志も一度は巻き込まれて生死の境をさまよった。
「桜原はお父さんを尊敬している?」
「まぁな。俺がガキの頃に母親が死んでから、男やもめで育ててくれてる」
 素っ気ない口調だったが、それだけに素朴な親愛が伝わった。
 母が亡くなったら、父は総志を育てるだろうか。育てるだろう。後継ぎだから。だがそれは母の分まで父が、ではなく、母の代わりの人間を探して自分の手間を増やさずに、のはずだ。
 総志はいつも両親に見せている笑顔を桜原に向けた。
「話はここまで。ホームワークを片付けてしまおうか」

 

 新田の表札がかかった門を抜けて母屋へ。半端に洋風で格好が悪い屋敷だ。無駄に広くて品がない。
「随分遅かったですね。総志さん」
 眉間にしわを寄せた母が玄関に立っている。スプレーで固めた髪に肩パッドつきの派手なスーツ。全然似合っていないのに父の好みに諾々と従っている。
「友人の家に行っていました。一緒に勉強をやっていただけです」
「『お邪魔していた』、でしょう。正しい言葉遣いをしなさいと言っているではありませんか」
 だったら正しい日本語を身につけられる環境に置いてくれ、と思ったが無駄なので言わなかった。黙って頭を下げ、記憶の限り笑ったことがない母親の隣を通り過ぎる。
 アメリカでの生活の方がずっとよかった。寮や学校にもルールはあったが、それらは全体の安全や秩序のためのものであり、総志個人をウェットに拘束するものではなかったから。
 自室のベッドにバッグを放り出して、クローゼットの奥に手を突っ込む。いつもなら行き当るはずの手触りにたどり着かず首を傾げる。クッキーの缶に写真や映画の半券などを詰め込んであって、元気になりたいときは取り出して眺めていたのだが……。
 はっとして部屋を飛び出す。母は食堂で使用人にあれこれ差配していた。
「お母さん。僕の部屋を掃除しましたか……?」
「薄汚れた缶のことなら捨てましたよ。あんな人たちと付き合っていたなんて、あなたの人生の汚点です。早く忘れなさい。あなたは新田の跡取りなのだから」
「跡取り?」
 総志は顔を引きつらせて肩をすくめた。
「それは、成金らしくコンプレックスにまみれて身の丈に合わない服を着たピエロでいろということ? お父さんのように?」
「総志さん!」
 母の声を無視して自室に戻った。もし面白い日本語に触れたくなったらまたおいで、と見送ってくれた桜原の父を思い出す。あの人ならきっと息子をこんな気持ちにはさせないのだろうと歯を食い縛って布団に潜った。

 

「新田もキャッチボールだいぶ巧くなったな」
「本当? 少しは君に相応しくなれてるかな」
「お前さ、その『君』ってのやめねぇか? 背中がかゆくなる」
「では、そちらにそろえて『おまえ』で?」
 革で覆われたボールがミットに吸い込まれる。キャッチは神崎氏のチームメイトともやってみたが、桜原ほど小気味よくボールを寄越してくる人間はいない。
「おい! いくら放課後だからって、廊下でキャッチボールするんじゃない!」
 桜原の担任の小笠原先生がやってきた。三十過ぎぐらいのひょろりと背の高い男性で、いつも前を開けた白衣を引っかけている。未だその機会はないが、人数が揃えば野球部の顧問を引き受けてくれる予定だ。
 総志は愛想よく先生に話しかける。
「コントロールがよくなるような気がするんですよ。この幅の狭さがちょうどよくて」
「ブルペンじゃないんだよ廊下は」
 小笠原先生はため息をついて白衣の袖をまくった。
「それより桜原、この間の実力テストで赤点取ったから今日は補習だぞ」
「げっ」
 桜原は悲鳴を上げ、左手で総志を指差し訴える。
「新田は? こいつも俺と同じぐらい勉強してねーのに」
「だって僕はテストで結果を出しているもの」
 総志は指折りテストの点数を思い出す。うん、どれも平均点以上だ。
「それなんだが」
 小笠原先生は言いづらそうに額をかいた。
「新田も担任の先生が呼んでらしたぞ」
 すごすごとそれぞれの教室に戻る。担任は、終わったら職員室に提出するように、それまで帰ってはいけないと総志にワークシートを渡し引き上げていく。総志は五分間真面目に取り組み、すぐ席を立ってA組に向かった。
 A組では桜原が一人で頭を抱えていた。運動部の騒ぐ声が無音よりわびしい。総志は桜原の前の席に陣取ってため息をついた。
「まさか二人とも補習なんてね……桜原はどの教科?」
「国語以外全部」
「はは、僕の逆だ」
 笑えない。なにしろ赤点を取り続けるようなら、野球同好会は活動停止だ。
 総志はまっさらな藁半紙を指先でつまむ。
「どうして国語はできるの? 勉強は全部嫌いなのに」
「できるってほどでもねぇよ。とりあえず何を訊かれてるのかはわかるってだけだ」
「僕はそれが一番わからない」
 他の教科で満点を取れないのもそれが理由。総志は手を伸ばし、桜原のワークシートを全て自分の手元に引き寄せた。
「これは僕がやる。その代わり、僕の国語をやってほしい」
「量が釣り合ってねぇだろ」
「このまま作者の気持ちを考え続けるなら、四倍の課題をやった方がマシだ」
 じゃあ、と桜原は眉をひそめて国語のワークシートを引き取ってくれた。野球のことならどんな無理難題をふっかけても当然の顔をしている桜原が、不平等を案じてくれたことがなんだかおかしかった。
 向かい合って、総志は右手、桜原は左手で鉛筆を走らせる。
 飛び石連休も終え梅雨を間近に控えた五月末、快晴の日は三十度に迫るほど気温が上がる。
「前から気になっていたんだけど、桜原はどうして本を読まないの?」
 総志は糊の利いたシャツの袖を肘までまくる。桜原は衣替えのルールを無視して既に半袖だ。
「字を追ってると頭痛がしてくるんだよ。親父にゃ悪いが、とても完読までいけやしねぇ」
 ふぅん、と呟いて総志は桜原の父親を思い浮かべる。道理で、総志が本を借りに行くと喜ぶわけだ。
 とはいえ桜原がときどき口にする耳慣れない言い回しは、父親の言葉を聞き続けて染みついた語彙なのだろう。お粗末な発音とぼんやりした理解で横文字を使いたがる父親の元では、決して身につかない教養だ。
「野球を始めたのは何故?」
 あの父親に育てられて、スポーツに興味を持ったことが疑問だった。桜原邸は何度か訪れているけれど、桜原朔から野球の話が出たことは一度もない。
「お袋」
 桜原は短く答えた後、言葉足らずに気付いたらしい。ワークシートから顔を上げ、自分でも思い出すような調子で続ける。
「お袋の兄貴……伯父貴が野球を好きだったらしい。それでやらせたがったんだ。俺も本よりは楽しかったから」
「その伯父さんも、桜原が野球を始めて喜んだ?」
「さぁな。お袋が嫁に来た年、米軍機の増槽が落ちてきて実家も家族も丸ごとフッ飛んだんだと。よくそっちに向かって手を合わせてたよ」
 桜原はさらりと言った。総志は聞き覚えのない『ゾーソー』という言葉を訊き返せずに黙った。無神経に腰を折り踏み潰していい話題ではないことぐらいは理解している。血を受け継いでもいなければ国籍も持っていない、何年か暮らしていただけの国について責任を感じるのが、出すぎた感傷だということも。
「お父さんの親戚は?」
「誰だかが金にだらしないせいで縁を切ったとかって……俺はよく知らない」
 桜原はやはり他人事の口振りだ。
 総志の胸に大きな塊が兆す。とどめておけなかった分が舌に乗ってこぼれる。
「君には、本当にはじめさんしかいないんだね」
 皮肉のつもりはなかった、いや、あったのかもしれない。全く平気な顔をしている桜原に、少しは傷ついてほしかったのかも、しれない。
 桜原は右手で頬杖をついた。森の湖面のように静かな瞳で窓を見遣る。
「そうでもねぇよ。神崎のおっさんもおばさんも、長北(ながきた)先生も奥さんも、隣のじじばばも斜交いの兄さんも、ここらの人はみんな優しい」
 つられて総志は視線をやった。空だった。雲ひとつない青空だった。総志には何も見えない、あんなに愛しい目をする理由のない空っぽの空だった。
「新田の親戚は?」
「みんな元気だよ」
 総志はうっすらと弧を浮かべた口唇で答えた。桜原は母方のことを語るときよりよほど寂しそうな眼をして、そうか、と言ったきり課題に戻った。総志も無駄口をやめ問題に取りかかる。
 同情は嫌いだ。桜原からであっても癇に障る。一方で、勝ち誇りたい気分でもある。自分は桜原太陽に憐憫を注がれるに足る人間なのだと。
 どうにかこうにか課題を提出し、二人して伸びをしながら校舎を後にした。
 時刻はそれなりなのに頭上はまだ青い。
「頭使ったら腹減ったな」
「どこかに寄っていく?」
 さて、この辺りで夕食に響かない程度の買い食いができる店はどこだったか。話し合いつつ校門を出たら、短ランボンタンの連中に囲まれた。
「おうめぃら、のぉぁいだぁナメたぁとしくさってぇたぁぁ」
 その中の一際大きいリーゼントが、ポケットに両手を突っ込み左右に揺れつつ近づいてくる。総志は二秒ほど考えたが脳内に該当する言語がない。
 桜原が横から翻訳をしてくれる。
「『お前らこの間はナメたことしくさってくれたな』、だと」
「得意なんだね、リスニング」
「決まった鳴き声しかないから覚えればすぐだぞ」
「だらったったんじゃぇあっがぁ!」
 厳密には日本語らしいのだが、顎をしゃくれさせすぎていて何を言っているのか全然つかめない。桜原の言うとおり定型句の中から選んで使用することが多いようなので、パターンを暗記した方がよさそうだ。
 別の金髪が進み出てきて、もう少し聞きやすい発音で言う。
「オレらのバイクに雑草詰め込みやがったの、おめェらで間違いねぇな。おい?」
「雑草とは失敬だな」
 総志は彼らの礼に則り軽く顎を上げて前に踏み出す。どいつもこいつも高いのは髪ばかりで、総志と同じだけの上背は一人もいない。
 モーターバイクと草についてなら心当たりがある。先日総志が桜原家にお邪魔したとき、桜原の父が着物を泥だらけにして帰ってきた。聞けば、道を塞いでいたバイクをどかそうとして力が足りず、挙句に裾を引っかけて転倒したのだという。
 総志と桜原はすぐ家を出た。少し離れたところに滑稽な改造バイクが数台停まっていた。桜原はそれらを空き地に除け一台ずつ丁寧に蹴りを入れた。総志は近所の店で花を買い求め、マフラーにかわいらしく活けて回った。そのときは持ち主たちに遭遇しなかったが、どうにか情報を集めてやっと総志たちにたどり着いたらしい。
「あれはゼラニウムというんだ。君たちにぴったりの花だよ」
 総志はもったいぶって人差し指を立てる。不良どもは雁首揃えて指の先端を見ている。オーケー、素直ないい子たちには施しにひとつ知識を授けよう。
The language of the flower is 《stupidity》(はなことばはボンクラ)――Good boys,you are good listeners(よろしい、みなさんよいこできけました)!!」
 金髪の胸倉をつかみヘッドバットを決める。短ランどもが夜明けのニワトリみたいに吼える。
 開戦。意味不明な雄叫び。対して総志と桜原は声を上げない。桜原は手を使わず、蹴りだけで相手を黙らせていく。総志は桜原から目を離さず、特に思い入れのない拳で他人を殴る。
 人を憎まず恨まず生きている男が、過ぎ去れば剥がれ落ちていく程度の薄い怒りで暴力をふるう様は、わけもわからず美しかった。
 荒く傲慢で、情け深く強靭で、一見矛盾したそれら全ての層を光が突き抜けるほど透明で純粋。
 人生の発端を奪われておきながら、満ち足りた笑顔を浮かべる哀れなまでの善性。
 こんな人間を総志は他に知らない。眩しい。ずっと見ていたい。そのために誰が犠牲になっても構わない。
 眩しい――。
「おい!」
 桜原に呼ばれてはっと手を止める。
 足下でリーゼントが口角に泡を溜め、あが、あが、とやはり何だかわからないことをしきりに呟いている。総志の左手には無意識に奪っていた火の点いた煙草。一服しながら捨てる場所を考える。……ああ、ちょうどいい穴がそこにあった。
「バカ、ヒトの鼻の穴を灰皿にするやつがあるか!」
 桜原が右手で総志の左腕をつかんで走り出す。もう全滅していたんだからそんなに急がなくてもいいのに。総志が高らかに笑うと、お前な、と怒鳴られた。
「前から思ってたけど、加減ってものを知らねぇな⁉」
「まさか。死ななければ加減だよ」
 総志は桜原の手をそっと外した。
 左腕(ききうで)を触られるのが嫌いな桜原は、総志の右腕(ききうで)にも極力触れないようにしてくれる。総志は別に何だって構わないのに。ケンカの現場で名前を呼ばないようにしてくれる配慮だって、本当は必要ない。
「桜原、僕はさ」
 赤みを帯び始めた街をあてもなく駆けながら、総志は短く息を切らす。
「日本人でよかった」
「なにが?」
 桜原は振り返って変な顔をする。総志は首を振って桜原を追い抜く。追い抜かれる。もう一度。
 この国に戻ってきてよかった。はじめさんに文学の面白さを教えてもらって、おまえの無茶を聞いて、僕の無闇を叱ってもらえてよかった。
 夕陽(たいよう)を追いかけた。陽が沈むときが永遠に来ないようにと、馬鹿げたことを本気で願っていた。

 

「新田ー、現国終わったぞ」
「僕も数学が終わったから写していいよ」
 真夏の桜原邸は、蝉の声ほどに暑苦しくはなかった。障子の開け放たれた縁側は、適度な光量、適度な風量で過ごしやすい。
「俺の間違いだらけのやつ見なくても、もう自分で解けるだろ」
「僕はおまえの答えが知りたいんだよ」
「なんだそれ」
 眉をひそめる桜原。総志は笑って受け流した。
 正答することに興味はない。出題者の意図より桜原の解釈を理解する方がよほど意義深いし、それを間違いだと教育が断ずるのなら桜原の間違いにこそ総志は殉じたい。
「あれ、ジッポどこいった」
 桜原の手がテーブルの深い飴色を撫でる。総志はくわえている煙草を歯で揺らす。
「はじめさんが持っていったよ。僕の火を使えば?」
「んー」
 ケントをくわえた桜原が身を乗り出してくる。総志は火の点いた同じ煙草を近づける。どちらの趣味でもない、桜原の父親の買い置きから失敬した銘柄だ。
 煙草はただ火元に接触させただけでは点火しない。桜原の吸うタイミングで総志も息を吸い、(きざみ)を燃焼させる。まっさらだった先端に赤い熱が移る。
 野球部活動の条件である『禁煙』は制服を着ている間のみ適用される、というのが桜原と総志共通の認識だった。元々、ワルを目指すため意気込んで煙草を手にしたわけではない。桜原は家で日常的に吸っていたし、総志はアメリカでの習慣が戻っただけだ。小笠原先生が教師の中でも『おカタイ』という時代だった。
「太陽、新田君、来て御覧。立派な西瓜を頂いたよ」
 庭から桜原朔が声をかけてくる。浴衣の袖を襷でまとめて、水を張った大きな桶を抱えている。桜原が慌てて立ち上がる。
「危ねぇな。腕ぶるぶるさせやがって」
「手伝いますよ。はじめさん」
 総志はサンダルを勝手につっかけて、桶ごと西瓜を受け取る。意外と重い。桜原朔はうなりながら腰を後ろに反らした。
「や、ありがとう。本より重いものを持てない腕にはつらくてね」
「随分大きいですね。僕、スイカを丸のまま見るのは初めてです」
「そうかいそうかい。切りたてが一番美味しいよ」
 縁側に鎮座するお西瓜様。桜原の父は腕組みをしている。
「さて、この為におカヨさんを呼びつけるのもなんだな」
 おカヨさんは、桜原家に出入りしているおばあさんだ。家事のできない父子の代わりに、隣家から朝夕やってきて桜原家の食事を作っている。
 うん、と桜原朔は大きく頷く。
「悩んでいても詮無いな。私が切り分けよう」
「絶対やめろ」
 間髪入れず桜原が止めた。桜原の父親は芸術すら感じるほどの不器用なのだ。息子も利き手のせいで包丁を上手く扱うことができない。総志も大概なので名乗り出るのはやめておいた。
「仕方ねぇ、スイカ割りみたいに棒で叩くか。それなら血も出ねぇだろ」
 桜原は台所に麺棒を探しに行ったが見つからなかったらしい。結局、汚れないようにビニールを巻いたバットで西瓜を手頃なサイズまで砕いた。人の頭を殴っているみたいな絵面だった。
 左から桜原、総志、桜原の父と三人並んで縁側に腰かけ、赤くて甘い果肉にかじりつく。ラジオからは高校野球の中継が流れている。
 ――抑えましたバッテリー、これで三者凡退――
 ――××高校止まりません、破竹の連続タイムリー――
 桜原が静かな声で苦笑する。
「来年は俺たちもあっち側にいてぇな」
 どうにか入ってもらった部員はみな掛け持ちで、本来の部活動と日程がかぶるために夏の大会にはエントリーもできなかったのだ。
 総志は桜原の顔を覗き込む。
「試合したい?」
「そうじゃなきゃ何のために練習すんだよ」
 桜原は出来の悪い子を教え諭すようにゆっくりと言った。
 何のために。総志の理由は決まっている。桜原と向き合い肩を並べるため。それ以外の何でもない。だからこそ、桜原が結果を望むなら出してみせる。
「秋には実績を挙げよう。そして新入生を専任で入部させる。コンスタントに試合を組める頭数を揃えるんだ」
「入るかねェ、後輩」
「らしくない弱気はよせよ。入らせるだろう?」
「お前も随分日本語が達者になったな」
「タッシャ? 日本語の能力がどこかへ行ってしまったということ?」
「逆だ。上達してるってこと」
 風が吹く。二つの風鈴が揺れている。
 ひとつは黒い南部鉄、キィンキィンと突き抜ける高い音。もうひとつはずんぐりとした銅製、りぃんりぃんと包み込む低くやわらかい音。別々に作られたものたちが、まるで一揃えで使うことを想定していたかのように調和している。ピッチャーとキャッチャーみたいに。
 いい機会だから、以前からの疑問を桜原にぶつけてみた。
「そもそも、どうして君は野球がしたいのに野球部のない高葉ヶ丘を受験したの?」
 さらに言えば学力レベルも合っていない。赤点にならない学校を選ぶこともできたはずなのに、何故わざわざ進学校で下層に甘んじているのか。
邦克(くにかつ)いるだろ。長北邦克」
「ナガキタ……ああ」
 正式に野球部を立ち上げるとなったとき、桜原が最初に声をかけた少年だ。幼なじみとかどうとか、協力的だった割に練習に顔を見せないし興味がないので忘れていた。
「あいつが『通学時間が短い方が練習時間が長くなる』っていうから近所のタカコーにしたのによ、二人とも野球部ないの知らねぇなんて間抜けだわな」
「はは」
 総志は毛ほども感情の入っていない笑い声を上げた。
 まったく桜原太陽というやつは素直すぎる。
 桜原の父が庭に向け西瓜の種を高く飛ばす。めずらしい無作法が不快でなく似合っていた。総志も真似をしようとして膝に黒い粒を落とす。左で桜原が手本を見せてくる。
 赤と緑の西瓜。青空に雲。汗ばんだ肌と、言葉はなくとも響き合う風鈴。
 どうしてこの夏は総志のものではないのだろう。間借りした場所はこんなに居心地がいいのに。

 

 桜原が左肩を気にし出したのは、紅葉も散り始めた冬の手前だ。
 部室がないからと着替え場所にしていた体育倉庫の裏で、桜原は目を合わせずに呟いた。
「ちょっと試合続いてたからな。大したことじゃねぇよ」
「でも、本来野球は一人の投手が何もかも投げるというものでもないんだろう?」
 高葉ヶ丘の野球同好会には、ピッチャーができる人間が桜原しかいない。いたとしても意固地な桜原はマウンドを譲らないはずだ。
「桜原、少し休もう。もう寒くなったし、そろそろ相手にも困ってきたところだ」
「相手がいねぇんじゃ仕方ねぇか……」
 桜原は他の誰にも触らせない左肩を、自らの右手で何度もさすった。
「邦克ンとこ行くよ。親父さんが医者先生でな、産まれる前から世話になってる」
「僕も一緒に行っていいかい」
「いいが、面白いモンじゃねぇぞ」
 週末訪れた長北医院は、いかにも『町のお医者さん』といった風だった。入口があまりにも民家なので総志は通り過ぎそうになったほどだ。休診日のため他に患者はいない。
 小児科と婦人科がメインなようで、中は絵本やおもちゃで溢れている。ワンダーランドに迷い込んだアリスにしては、総志と桜原は少し大きすぎるが。
「新田君。ちょっといいかな」
 診察が終わるのを待合室のソファで待っていると、長北邦克が現れた。黒い髪を六対四ぐらいでざっくりと分けた、垢抜けない雰囲気の少年だ。
「僕に何か用ですか、長北君?」
 総志はうさぎのぬいぐるみを顔の高さまで持ち上げ、軽く揺らした。長北は猫なで声で続ける。
「太陽のことなんだけれど。きちんと話しておかなかった俺も悪かったと思ってさ」
 扉の向こうから、桜原と医者の談笑が漏れ聞こえている。長北邦克は誇らしそうに診察室に目を遣る。
「あいつをあんまりけしかけるの、やめてもらえないかな。太陽は中学のとき野球で肩を壊してるんだ。日常生活はともかく激しいスポーツはさせたくないんだ。だから――」
「だから野球部のなくなった学校を勧めたのに、残念でしたね」
 総志は口角を吊り上げて腰を浮かせた。
 純朴な桜原はだませても、総志の目はごまかせない。
 長北が後ずさったのに合わせて距離を縮める。壁際に追いつめる。総志は長北の頭上に拳を置き、ずいと顔を近づける。
「君は桜原を思うとおりにさせたいだけだろ。それが上手くいかないからって、僕を使って結果だけ得ようとするのはよせよ」
 長北はかっと頬を染めたが手は出してこなかった。つまらないやつだ。どうせ病院なのだから、殴りかかってきたら相手してやるつもりだったのに。
「新田、終わったぞ」
 診察室のドアが開き桜原が姿を見せる。長北に気付いて首を傾げる。
「邦克? この時間にめずらしいな。塾いいのか」
「っ、今から行くところだよ」
 長北は総志たちから視線を外して靴脱ぎ場に下りた。総志はうさぎを抱えてお見送りする。お出かけする坊ちゃんに前脚をかわいくふりふり。
「頑張ってね。今よりお勉強ができれば、さっきの夢も自分で叶えられるかもよ」
 長北は答えずガラス戸を叩きつけて出ていった。
 桜原が怪訝そうな顔をする。
「お前らそんな青春みたいな話してたのか?」
「まぁね」
 会計を終え、昼食の相談をしながら長北医院を後にした。陽射の割に体感温度は低い。じきに筋肉や関節の動きも鈍くなるだろう。人間も冬には眠るのがいいのかもしれない。
「新田は年末年始どうする?」
「予定はないよ」
「じゃあ初詣行こうぜ。次の夏は上手くいくようにってよ」

 

 年始に祈願した通り、二年の夏は順調だった。最高だったと言ってもいい。
 後輩も入り同好会は部へ昇格した。桜原も少しは我慢を覚えて(『後輩にも経験を積ませるべき』というお題目があればガキ大将もたまにはマウンドを譲った)、身体的な不調も鳴りを潜めていた。
 よくなかったのはメンタルだった。
 桜原は部活に遅れることが増えていた。放課後になったから迎えに行ったのに、廊下で追い返されることもザラだ。
「また先生から呼び出し? この間はじめさんが来て三者面談したんじゃなかったの」
「何も考えてねぇ親父を一人足したところで、二人して黙ってるだけだろ」
 桜原はむくれて腕組みする。
 一年次の担任だった小笠原先生は桜原のやりたいことにも理解を示してくれたが、二年次の担任教師とはとにかく相性が悪いようだった。こればかりは総志も手助けが難しい。
「進路なんてそんなに悩むこと? 進学しないなら就職するだけだろう?」
「ちゃんと具体性を持たせろって言われるんだよ。なんだ具体性って。食えるぐらい働くってだけで充分じゃねぇのか」
 また随分幼稚な悩みだな、と総志は内心で肩をすくめた。労働というのは需要に合った商品を提供して報酬を発生させるものだ。自己の商品価値は把握できていないが何となく労働するから金をくれ、というのは対価の要求ですらない。子供のお手伝いだ。
 とはいえ、今すぐ自己を分析しろというのも酷な話かもしれない。総志は桜原を追い詰めないよう、なるべく穏やかな声で猶予期間(モラトリアム)の提案をする。
「桜原は野球が好きなんだし、それを活かせるような道は? 例えば野球部ある大学や企業に――」
「お前、勉強はできるくせに頭は悪いよな」
 桜原は総志を視界に捉えもせず、失望もあらわに吐き捨てる。
「あんなの意味のねぇ遊びだよ。続けて価値が産まれるもんでもない」
「は?」
 いつも桜原の喉から出ているような音が自分の喉から漏れた。
 総志は無言で桜原の左腕をつかむ。桜原はかっと目を見開き肘を引く。
「何しやがる!」
「それが本音だろ? ちょっと触られただけで怒り狂うものに、意味も価値もないなんてことがあるか」
 主張がぶれている自覚はあった。まがりなりにも野球というものをやってきて、桜原太陽に投手としての市場価値がないことぐらい総志とて解っている。
 だが、違う。桜原太陽にとってだけは、新田総志にとってだけは、桜原太陽の左腕は無欠の宝石でなくてはならなかった。
 桜原は途方に暮れた顔で脱力する。その目を覗き込みながら、総志は一本ずつ慎重に指をほどく。
「左腕はおまえの人生の半分だろう。桜原」
「だからって」
 桜原は左手をだらりと下げたまま、何の感情も感じさせないまっさらな表情で言った。
「どうなるんだ。俺の決めた価値は世間の価値じゃない」
「世間の価値なんか今までずっと蹴っ飛ばしてきたじゃないか」
 市場による相対的な評価と自己の絶対的な誇りは混同するべきではない。桜原の培ってきた努力はこれからも彼をかたちづくる。野球と関係のない未来を選ぼうといつまでも。
 桜原の目は光を失ったままだ。
「だからそれをもう終わらせろっていう話をここずっとし続けてるんだよ」
「それは」
 総志は口ごもった。
 もちろん夢はいつか覚める。子供は万能感を閉じ世界と自分を馴染ませようとする。だが、その瑕疵に気付くことと自己否定はイコールではない。
 だから、
「桜原には、いつも自信満々でいてほしい」
 こぼれたのは言うつもりのない言葉だった。その分泣きそうなほど本心だった。
 桜原は眉のひとつも動かしてくれない。
「新田は、進路面談でなんて答えた?」
「え――普通に、進学と言ったよ」
 総志は短く答えて、胸の中で続きを唱えた。
 商学部に進んで、父は卒業後に自分の会社に入れと言っているけれど、新卒のうちに若い会社で刺激を受けておきたい。それから父の下で一部上場企業のやり方を学んで、いずれは自分の信念に基づいた会社を立ち上げる。夢とも目標とも呼ばない、やると決めて歩んでいる道だ。
「普通にか」
 桜原は怒りにすら届かない侮蔑の視線を総志に注いでいた。
「お前こそそれが本音だろ。最初からただ通り過ぎるつもりなら、悩むことも惜しむこともないもんな」
 総志は拳を震わせたまま何も言えなかった。見抜かれていた以上に、口に出されたことがショックだった。いつか終わるからこそ夢を燃やしているのだと、通じ合っているがゆえにそこには触れずに来たはずだったのに。
 桜原は総志に目もくれず自分の教室に戻った。総志も俯いてきびすを返す。
 だったらもうやめようと言えればよかった。協力してくれた人たちに頭を下げて野球部を解体するなど造作もないことだ。大学を受験するだけなら高校の卒業資格さえあればいい。出席日数が足りるように、単位を落さないように過ごすだけ。違うクラスの桜原太陽との関わり合いも終わる。
 それができないのは――。
「相棒だって、言ったじゃないか」
 誰もいない廊下の隅で呟いた言葉は、子供みたいに頼りなかった。洟をすすって目許を拭う。
 僕が普通で何が悪い。おまえが『普通』とズレてることぐらい僕にだって解る。だから一緒に悩みたい、惜しみたいのに。
「僕を許可(ゆる)してよ……」
 足が遠のいている桜原邸を想った。はじめさんに相談すれば親身になってくれると確信していたのに、実行に移すことがどうしてもできなかった。

 

 冬頃から桜原は欠席が目立った。部活動だけでなく授業にもあまり出ていないようで、姿を見つけることも容易ではなかった。
 その日、桜原はやっと与えられた部室に一人佇んでいた。
 元々桜原の願いを叶えるための集まりだ。彼の動きが鈍い今、他の面子が顔を出す頻度は激減している。用具の手入れや生徒会との折衝、部室を共有しているのボランティア部との交譲、活動場所を探して徘徊する同好会の撃退などで、たびたび出入りしていたのは総志一人だ。とはいえ、今日のように夕暮れ間近まで残っていることは少ない。桜原はそこまで知ってこの時刻にやってきたのだろうか。
「どうしたんだい。こんな時間に」
「片付けに来ただけだよ」
 桜原はほんのりと笑みを覗かせる。足下の鞄には無造作に詰め込まれた私物。縄張りを示すようにあちこちに置き去られていたものたちが、あんな小さなところに集められている。一番上のグラブは鞄からこぼれかけて、床に転がっているも同然だった。他人に触らせることも、自らが適当に置くことも嫌がっていた大切な、大切だった革細工が、床に。
 総志はふらふらと学生鞄に近づいて膝を折った。両手でグラブをすくい上げ、どうしてか右耳をつける。当然脈は聞こえない。それが正常なのにひどく悲しかった。
「お前も、もういいから。一人で好きなことやれよ。付き合わして悪かったな」
 鼓膜を揺らす音が誰の声なのか、何を言っているのか、右肩に添えられた手が何を意味するのか理解できない。喉が詰まって息が苦しい。
「きみが、やろうと言ったんだ」
 レンズの内側に水滴がたまる。傍らの桜原を見上げても、濡れた板越しではぼやけて姿がわからない。
「すきなことなんて、きみと……おまえと過ごすことぐらいしか、ないのに」
「ンなこたねぇだろ」
 桜原の影が大きく歪む。眼鏡を取られて、苦笑している顔がやっと見えた。
「泣くなよ。オトコマエが台無しだぜ」
「そんなこと言ってくれるの、おまえだけ、だよ」
 総志は学生服の袖で涙を拭う。桜原はシャツの裾でレンズをこすり、眼鏡を総志にかけてくれた。ワイパーの短い車のフロントガラスみたいに、視界に水の線が丸く広がっている。
 並んで壁際に座って、床に走る赤い斜線を見ていた。
「高校を、辞めようかと思ってる」
 桜原はとても静かに呟いた。何度も何度も決めてきたことなのはすぐにわかった。総志は体育座りの膝を胸元に引き寄せる。
「結論から話すところ、僕は嫌いじゃないけど。できれば順を追って話してほしい」
 桜原は浅く息を吸って、左手の指の背を口許に当てた。総志は待つ。避けられているよりは、隣で伝えようとしてくれている方がずっといい。いくらでも心安く待っていられる。自分の左手首を耳許に近づけ、目を閉じて秒針の音を聞く。
 桜原が再度口を開いたのは一四六秒後だった。
「親父、病気かもしれない」
 その言い方があまりに乾いていて、言葉が見つからなかったわけではないと悟ってしまった。
 桜原は左手で、夏より伸びた前髪を握り潰す。
「何度言っても医者にかかりゃしないんだ。いつもなら世間話ついでに、軽く長北先生のとこに行くくせに……。飯も食わなくなってるし、ずっと咳して、血も吐いてる、のに。あれじゃまるで」
 その先を言わず、桜原は口唇を強く噛んだ。
 どう反応するのが正解か総志はわからなかった。わからないなりに、誠実に尋ねた。
「高校を辞めるというのは、治療費を稼ぐためなの?」
 桜原は黙っていた。今度は話を再開する気配はない。それ自体が無残なほどの肯定だった。
 床に爪を立てる桜原の右手を、総志は手の甲側から包み込む。
「一年二年を争いそう?」
「……わかんねぇ」
「僕の意見を言わせてもらうね。できれば、高校だけは出ておいた方がいいと思う。気が急くのはわかるけれど、中卒と高卒では就ける仕事も違うし、生涯の稼ぎにかなり差がついてしまう。重い病気ならばなおさら、少しでもいい給与の職で貯えを増やしておくべきだと思うんだ。どうかな?」
 はじめさんが亡くなるかもしれないならなおさら、と、とても言えない一句が一番の本音だった。間に合わない可能性の高い命のために、桜原の人生全てを狂わせるわけにいかない。桜原太陽は桜原朔の人生から独立して幸福になるべきなのだ。
「今は落ち着いて、どうするのが一番いいのか、焦らずしっかり考えよう。僕も一緒だから」
 優しげな言葉をかけると、桜原は頼りなく総志の左手を握り返してきた。総志は暴れ出したい欲求を押し殺して、大丈夫だよと何度も声をかける。
 桜原には母がいない。親類とも縁が切れている。それでも父親がいた。彼には父親が唯一で全てだった。この地球上からヒトが一体失われるというだけのことが、桜原太陽には足をつけるべき大地が崩れ落ちるに等しいことなのだ。
 総志が家族を失ったとて、父のいない世界に遺された桜原ほどに孤独ではないだろう。こんなに、こんなに救いたい友人を救えなかったとて、天を裂く慟哭は彼ほどに悲痛ではないだろう。
 替われるものなら替わってやりたい――不可能だからそんな無意味な自己満足が浮かぶのだ。自分の下劣さに嘔吐しかけながら、総志は桜原の頼りない背を支えた。
「僕はおまえのそばにいるよ。だから、最後までいこう。高校生活も、野球部も。どこまでだろうと僕がおまえを連れていく。自分がどれほどのものだったのか、おまえ自身に証明してやる」
 夕焼けが弱まっている。桜原の夢見た部屋に暗闇が侵食してくる。総志はその境界をまばたきもせず睨みつける。
 今は偽善でもハッタリでもいい。結果さえもぎ取れば、嘘も打算も全部踏み潰せる。
「好きなことをしろと言ったね。やるよ。僕はおまえに、最後で最高の夏を見せる」
 総志は大袈裟な言葉を並べた。そうでなければ怖気付いてしまいそうだった。桜原は淡く微笑んで、頷きながら目を閉じる。
 最後の赤が音もなく、今際のように奔って、消えた。
 訪れた夜の中で、総志は深く息を吐く。帰ろうと笑いかける前の束の間、桜原の冷えた手に体温を分け続ける。
 大丈夫、難しいことではない。日々の全てが父親の命に変換される前に、桜原太陽に己の生を実感させる。記憶させる。そのために、負けるまで勝ち続ければいいだけだ。
 たとえ、その先に待つのが何だったとしても。

 

 野球部を立て直した。散っていた部員を集め直し、試合が組めない時季も無駄にしないための練習メニューを組んだ。
 長北がまた詰め寄ってきたが総志は意に介さなかった。嫌われるのを恐れて本人を直接諌められないやつよりも、総志の方がよほど桜原のことを考えている。
 そうして日は過ぎ、二月の半ば。その日は朝から雪がちらついていた。
「部活がねぇと面白くねぇなぁ」
 桜原はローファーの靴先で、ぐずぐずと道を濡らすみぞれをいじっていた。この天気でも傘を持ちやしない。総志は肩を濡らしながら桜原の頭と左肩に傘を差しかける。
「その割には機嫌がよさそうだね。雪は好き?」
「これぐらいじゃ雪たぁ呼ばねぇよ」
 桜原は笑って、三つのときの大雪で母親と庭にかまくらを作った話をしてくれた。その頃は総志も日本にいたけれど、何をしていたか全く記憶にない。
「アメリカって雪降るのか?」
「僕がいたところはめったに降らないよ。雨や霧はしょっちゅうだったけどね」
「もし積もったら雪合戦しようぜ」
「すごく魅力的なお誘いだけれど、肩を冷やすといけないからやめておこう」
 学校から駅に向かうのに、わざわざ桜原家の前を通るのも自然になった。自然なこととして、部活がない日も毎日桜原は一緒に下校してくれた。繰り返した話題も、避け続けた話題も、全てが平等に愛しかった。
 温まっていくかと訊かれたが、雪がひどくなると困るからと泣く泣く断った。冬の桜原邸にはこたつという魔物がいて、気を抜くと飲み込まれて時間を吸われるのだ。
 自分の家のない街を行く。息は二人で歩くときより白く濁る。忘れようとしていた現実が傘を突き抜け両肩に降り積もる。総志は柄を握る手に力を込める。
 メンテナンスの甲斐もなく桜原の左肩の調子は悪い。今までが――総志と出逢う前も含めて、無頓着すぎたのだ。最悪夏を待たずごまかしきれなくなるかもしれない。
 桜原は、肩だけではなく心もいい状態とは言えなかった。総志に対しては明るく振る舞っているが、急に恋人をつくったりと最近の行動はバランスを欠いている。
 仕方がないのだろうか。一番の懸念である父親の病については、何も進展していない。近頃は家にお邪魔しても留守ばかりで、桜原朔とはまともに話せていなかった。部外者の総志が何か言ってどうなるものでもないが、世話になった手前状態ぐらいは聞いておきたいのに……。
 向かいから懐手の男が歩いてくる。雪を被った頭は不規則に揺れて危なっかしい。破れた綿入れに包まれたなで肩が誰のものか気付いたとき、総志は右手を伸ばして男の腕を強くつかんでいた。
 総志の黒い傘が道に落ちる。
「こんなところで何をしているんですか。はじめさん」
 桜原朔は呆と虚空を見つめた三秒後に、ようやく視線を上げて総志の顔を見た。焦点が合うまでにまた四秒要った。
「新田君。うちの帰りかね」
 息がアルコールくさい。息子の言によれば酒には耐性があるはずだが、上限を超えて飲んだらしく足が覚束ない。そこまで泥酔しておきながら顔色は雪のように蒼白だった。黒かった髪も色のない髪が目立ち、総志の父より十以上も若いのにずっと老け込んで見える。
「ご病気なんですね」
 総志は腕をつかんだまま真顔で切り込んだ。社交辞令に付き合う気はない。
「診察を拒んでいるということは、自覚も確信もおありなんでしょう? 何故治療をなさらないんです。太陽を悲しませているのを知らない貴方でもあるまいし」
 桜原朔は、無様な作り笑いを頬に貼り付けていた。
「君は、本当に日本語が上手くなったね」
「ええ。おかげさまで」
 総志は右手を開き、落とした傘を拾い上げた。
「家までお送りします。そのままでは別の病気になってしまう」
 傘を差しかけると、桜原朔は緩く首を振って一人で歩き出す。十メートルも行かないうちに電柱に寄りかかる。
「いい機会なんだ」
 助け起こそうとした総志に構わず、彼は筋の浮いた拳を握りしめて前を睨んだ。
「太陽に、もう私は必要ない。怯懦な私もやっとこの世を去れる」
 何を言っているのか解らない。解らないながら、否定しなければいけないことだけはわかる。総志は男の衿をつかんで無理やりに自分を向かせる。
「太陽を独りにするつもりなんですか? 彼には貴方しかいないんですよ!」
 正しいことを言ったつもりだった。事実正しいはずだった。けれど手応えがない。総志の本音は軽薄で無意味な言葉として、男の両目に空いた洞に吸い込まれて消える。
「もう許してくれ」
 男の耳に総志の声は届いていなかった。天に指を伸ばし、何とも知らぬものに祈っている。
「もう彼女に会わせてくれ……後生だから」
 手が震えて男の衿を放す。思い上がりを自覚して、総志の心身を走り抜けたものは羞恥と絶望だった。
 桜原朔を救えると思ったわけではない。
 それでも桜原太陽を救う手立てはあると考えていた。ない。そんなものは八年前からとうにない――男の妻がこの世を去ったときから、既に。
 総志は傘をかなぐり捨て、淡雪の落ちる街を駆け抜けた。
 桜原朔は、桜原太陽にとって守るべき『世界』ではない。癌だ。我が身であった記憶を無視して切り捨てねばならない病巣だ。あの感傷に巻き込まれれば、桜原太陽の人生は確実に再起不能になる。
 ひと夏の満足のために肩を使い潰している場合ではない。
 桜原太陽がすべきことは、可能な限り心身にダメージなく高校生活を終わらせ、今後の人生にひとつでも多くの選択肢を残すことだ。新田総志がすべきことはそうなるように全てを図ることだ。
 破滅ではない。心中ではない。
 たとえ、たとえ。
 目的地のガラス戸を激しく叩いた。『本日休診』の札がガタガタ揺れた。
「新田⁉ 何やってるんだ」
 二階の居住区域から長北邦克が顔を出す。
 総志は汗だくの額を上に向け、冷えた喉から痛みを絞り出した。
「君が正しかった。桜原太陽を、一緒に止めてくれ」
 ――たとえ桜原太陽が、そんなことを一切望みはしないとしても。

 

「なんだよ、棄権って」
 マウンドに降り注いでいたのは暴力的なまでの陽射だった。
 夏、最初で最後の公式大会。桜原は初戦を完投し、明くる試合の先発で三十三球を投げた。
 彼の見た夢はそれで終いだ。
「聞いてのとおりだよ。この試合は僕らの負けだ」
 育てていた後輩投手は、桜原と仲を違えて夏を目前に部を辞めてしまった。エースにして唯一の投手・桜原太陽の腕が上がらないならば、試合の続行は不可能ということになる。
 桜原は右手のグラブで、プロテクター越しに総志の胸を衝いた。
「誰が決めたんだよ。そんなこと」
「僕だ。小笠原先生と話し合ってもう主審に申し出た。長北たちとも、絶対に無茶はしないと約束していたはずだろう」
「まだ負けてねぇだろうが! 俺はまだ……」
「まだ? まだ、なんだって?」
 泣きたかった。代わりに笑って、総志は大袈裟に両手を広げてみせた。
「投げられるとでも言うつもりかな。僕につかみかかる力も残っていないやつが?」
 (バイザー)の下で桜原の黒い瞳がぎらときらめく。
 こうまでなって総志は桜原の敵意を綺麗だと思った。顕示の濁りがない純粋な欲求は、鋭く脆く胸を刺し抉った。
 その輝きをずっと見ていたかった。その光にずっと日々をくべて生きたかった。
 そんな願いを何もかも捨ててでも、君の明日を祈りたかった。
「僕とおまえの三年間はね。もう、終わってしまったんだよ。桜原」
 桜原が叫んでいた。突き飛ばされて地面に倒れた。三年間いろんな連中を殴ってきたけれど、桜原と白球を介さずに向かい合うのは初めてだった。
「やめろ太陽、新田が――死――太陽!」
 マウンドに寝転がり、暗くなっていく視界に太陽を探す。
 桜原、おまえ、僕を憎んでくれないか。
 この愚かな裏切者を、おまえを置いていく薄情な父親の、何倍も何倍も憎んでくれないか。
 そうして忘れて幸福になってはくれないか。執拗な孤独もやっと呆れて逃げ去るぐらいに。
 僕はおまえを殺してでも生かし続けたかった。僕の追った影が死んでも、知らない君が歩んでくれる未来を選び取りたかった。
 太陽を堕とした日。愛よりも深く胸を穿った夏の記憶。