赤を囲う - 2/5

祈りは純白

「どうだった?」
 黒々としたアップライトピアノに、白いレースカーテンが映り込んでいる。和音の余韻の中で、茗香(めいか)が長い髪を揺らして振り向く。徹平(てっぺい)は決まりきった答えを陶然と返す。
「完璧」
 メンデルスゾーンの『我が祈りを聞き給え』。ふと聴きたくなっただけの合唱曲を、即興で編曲して演奏してくれるなんて今日も徹平の恋人は完璧だ。
「珍しいよね。徹平くんが宗教曲聴きたがるの」
「そうかなぁ。クラシックって大体宗教がかってない?」
 乱暴な論で片付けて、徹平はピアノ椅子に尻を片方だけ置いた。茗香は気を遣ってずれてくれたけれど、徹平はこの状態でもピアノが弾ける。といっても長いこと真面目にやっていないから、今は『エリーゼのために』だとか、ベタなものを何曲か覚えているくらい。
 手慰みに鍵盤の上を跳ね回る。茗香も華奢な指で構ってくれる。途中から強引に、全然違うポップスへ変えてもついてくる。徹平の好きなミスターチルドレンの『youthful days』、曲名も意外と過激な歌詞も彼女はきっと知らない。
 三歳のとき初めて行ったピアノ教室で、徹平は姿より先に茗香の音の虜になった。学校が離れて長く会えなかった間も、胸の内でこの音色が響かない日はなかった。
三住(みすみ)茗香さん」
 甘く名を呼ぶ。茗香が顔を上げて、癖のない黒髪が静かに流れる。
 その髪を脇に除ける指先も震えてしまう無様な男だけれど。
「ずっと二人でこういう時間を過ごしたいんだ。オレと、結婚してください」
 不意に無音になる。ピアノの音も二人の声もないままの全休符。
 茗香は白鍵を睨みつけるように俯いていた。
「わたし、この前も断ったでしょう」
「だって茗香の誕生日のときとは違うじゃん。今月でお互い成人したし、茗香が短大卒業したら二人とももう社会人だし、実際にはまだでも約束ぐらいは」
「年齢のことじゃない。まだきちんとした答えをもらってないもの」
 茗香は大声の代わりにピアノの蓋を閉めた。大きな目が真っ直ぐに徹平を映す。吸い込まれそうに深く黒い瞳。ピアノと同じ光沢。
「徹平くんは、どうしてわたしと結婚したいの?」
「どうして、って」
 さっきも言ったのに。自身の希望を繰り返すたび徹平は不安になる。
 何が不当なんだろう。理由なんてどこの恋人たちも似たり寄ったりだろうに。
「ずっと一緒にいたいっていうのじゃ、ダメなのかな」
 おどおどと返す言葉は今日も不正解だった。茗香はゆるゆると首を振って嘆息する。
「ごめんね。今日は帰ってほしい。わたしも、どうしたら解ってもらえるかまた考えてみるから」
 問い詰めたかったが、謝られてまで食い下がるほどみじめになれない。
 徹平は茗香の母に一言残して三住家を後にした。

 

「それで断られたの何回目だっけ」
「高校出てすぐだろ、警察学校出てすぐ、茗香の誕生日、こないだのオレの誕生日で四回目」
 カウントしていて虚しくなってきた。徹平は古い喫茶店のテーブルに突っ伏す。
 茗香に手ひどく跳ねつけられた数日後。徹夜明けの仕事から解放された徹平は、高校同期の新田(にった)侑志(ゆうし)と向かい合っていた。新田とは野球部で共に白球を追いかけた仲だ。
徹平の配属先である高葉(たかば)警察署の管轄区域に住んでいるため、時間が合えば一緒に食事をとるのが習慣になっていた。
「親御さんとかではないんだよな?」
「多分。茗香のお母さんは最初から応援してくれてたし、お父さんもオレが今の会社入ってから手のひら返して……ったらアレだけど、早く話まとめろみたいなプレッシャーかけてきてるし」
「じゃあマジで三住さんの心ひとつなんだ」
 新田は冷静に分析しながらコーヒーを飲んでいる。傍らにはBLTサンド。注文する料理のセンスがまず徹平と違う。
「ていうか、公務員って何故か自分の職場『会社』って呼ぶよな。井沢までそうなると思わなかった」
「新田も先生になればわかる」
 徹平はカツカレーをかき込んだ。職業柄早食いが癖になっている。早さなら新田も大概だが、見苦しい食べ方をしているのは見たことがない。サンドウィッチは魔法のようにすっすっと消えていく。
「三住兄は何て言ってんの。今オフシーズンだろ」
椎弥(しいや)は冬もほとんど実家に帰ってこないよ。自主トレとか付き合いとかいろいろあ
んだろ」
「ふうん。やっぱプロ野球選手って忙しいんだな」
 新田はサンドウィッチの最後の一切れを口に放り込んだ。
 三住椎弥。茗香の双子の兄であり、徹平の中学までのチームメイトだ。別の高校に進学してからあまり顔は合わせていない。向こうが高卒でプロになってからはなおさら。
 さておき、茗香が結婚を渋る理由が椎弥でないのは確かだ。元々茗香と付き合うことに乗り気でなかった徹平を、無理やり焚き付けたのは椎弥である。結婚も後押しこそすれ、妨害するとは考えにくい。
 第一、頑固な茗香が兄に何か言われたぐらいで動じるわけがない。求婚を断るのは明らかに彼女自身の意思なのだ。
 ところで、と新田は遠慮がちな声でソーサーにカップを戻した。
「悪いんだけど俺、ゼミの先輩にレジュメ作り手伝えって呼び出されてんだ。あんまりゆっくり話聞いてやれなくてごめんな」
「お、おう?」
 なんだゼミって、夏の電柱に張り付いてるやつ? レジュメ? なんか湿度高そう。高卒の徹平には四大生の言っていることがよく解らない。
「次の、非番? 休み? だかに、また呼んでくれよ。付き合うから」
 向こうも交番の勤務体系がいまいち把握できないらしい。
 新田は値段を確かめもせず千円札を二枚置いていった。お冷や片手に伝票を覗き見れば、ドリンクとのセット割引で一枚でも釣りがくる。
 新田を見ていると、つくづく世の中は平等にできていないなと思う。
 結局徹平が新田に勝っている点は、先に社会に出たというだけなのだ。わずかなフライングスタート。どうせ大卒の肩書きの前にすぐにかすむ。同じ高卒社会人でも、大勢に応援されている茗香の兄と比べたら全然ぱっとしない。
 徹平はため息をついて、忙しい大学生を窓越しに見送った。

 

「すみません。神崎金属っちゅう会社を探してるんですが」
 立番の最中、徹平は壮年の男性に声をかけられた。道案内はよくある仕事だ。にこやかに説明をしていく。
「この辺り、入り組んでいて分かりづらいですよね。差し支えなければお持ちの地図に目印をつけましょうか」
「助かります助かります。これ、ペンです」
 徹平は渡されたコピー用紙に目印を書き込んでいく。家庭用のプリンターで印刷した地図だ。細い路地がところどころ省かれている。これだけ粗ければ現在地も目的地も見失うだろう。
「おまわりさん随分お若いけど、おいくつ」
「この前二十歳になったばかりです」
「うちのバカ息子と変わらんじゃないの。うちのはろくに学校も行かんでぐうたらしてるってのに、お父さんも鼻が高かろうねぇ」
 ペンを持つ手に余計な力が入る。危うく地図に穴を開けるところだった。筆記具と紙を返しながら、徹平は注意深く笑顔をつくる。
「天国でそう思ってくれてたら嬉しいですね」
 まずいことを言ったと思ったのか、男性は礼もそこそこに立ち去っていった。徹平は無表情で公務に戻った。

 

「ってことが昨日あってさ。オレ親父が天国にいるなんてこれっぽっちも思ってないのにね」
 徹平の自嘲を、向かいに座った茗香は真顔で聞いていた。
 新田と会うのにもよく使っている喫茶店。管区からなかなか離れられない徹平のために、茗香が高葉ヶ丘まで会いに来てくれたのだ。仕事上がりで寝ていなくても、それだけで元気が取り戻せる。
「徹平くんは、お父さまのこと好き?」
 紅茶の湯気越しに茗香が尋ねた。徹平はコーヒーで喉を潤す。
「好きなわけないじゃん、あんな親父。人様に迷惑かけまくって勝手にくたばって」
「じゃあ、今のお仕事、好き?」
 思わず眉が寄った。
 どうしたのだろう、急にこんな抽象的な話をして。しかも父親の話と全然関係ない。
「やりがいはあるよ、世の中の役に立つしさ。和世(かずよ)だけでも大学行かせたいから頑張らなきゃだし」
 もうすぐ中学二年になる妹の顔を思い出す。早く働きたいと今から商業高校を志望しているけれど、まだ無限の可能性を秘めている歳だ。大学進学の選択肢も残しておいてやりたい。
「ねえ茗香、これ今話さなきゃいけないことかな」
 徹平はコーヒーカップを脇に除けて身を乗り出した。せっかく茗香といる時間を無駄にしたくない。一緒にいるからには有意義に過ごしたいのだ。
 茗香はティーカップを正面に据えた。茶菓子のないときはいつも角砂糖三個。今日は一度も湖面が動いていない。茗香の声ばかり重く沈む。
「わたし、徹平くんはどう思うか訊いたの。ちっとも答えてくれてないね」
「答えたじゃん」
「違うの。そういうところ、わたしも直してあげなきゃいけなかった。直してあげられるひとと一緒にいる方が、徹平くんきっと幸せになれるかもしれないね」
 茗香は膝に載せているトートバッグに腕を通した。
「なに、それ。全然わかんねぇよ」
 テーブルを叩いてしまってから、徹平は慌てて右手を引っ込める。暴力で移動の自由を妨げるなんて監禁罪と同じだ。努めてやわらかく言い直す。
「場所変えよう。外だし揉めたくない」
 伝票に手を伸ばすが遅かった。茗香は既に立ち上がり、小さな紙を胸に抱えて徹平を見下ろしていた。
「これぐらいは自分で持てます。ピアノ教室のお手伝いでお給金をいただいているから。働いているのは、椎ちゃんや徹平くんだけじゃないの」
 何か言おうと思うのに、徹平の口唇は息も吸えず間抜けに開閉するだけだった。
 オレは茗香と結婚できるはずなんだ。だってオレは茗香を養えるから。同い年の他の男と違ってちゃんと稼いでいるから。
 浅はかな本音を痛烈に自覚して消えたくなった。
「ごめんなさい。わたしも今の徹平くんのこと、わからない」
 茗香の顔を確かめる勇気もない。出ていくきっかけを失って、徹平は長い間同じ席で放心していた。

 

 小さい頃、三住茗香は本当によく泣く女の子だった。そのうえ口下手で、傷つく理由も少し変わっていたから、本音を聞き出すのにはいつも時間がかかった。
 くまのぬいぐるみの腕が取れたときも、茗香は静かに泣いていた。壊した椎弥が平謝りしたり、大人に直してもらおうと誘ったり、おこづかいで新しいのを買うと提案したりしている間も、肩が外れたくまをじっと抱いていた。徹平は茗香の手を握って、彼女の言葉をずっとずっと待った。
 めいかね、
 おいしゃさんじゃないの、
 かなしい。
 三時間待ってその台詞を引き出せたとき、徹平はぱっと立ち上がった。裁縫が得意な自分の母を引っ張ってきて、茗香が『くまのおいしゃさん』になれるよう先生をしてもらった。
 茗香は、物がいつか壊れることぐらい知っていた。兄の過失を責める気もなかった。今このときも、これから同様のことが起こったときも、くまを直してやれない自分の無力が悲しいと言ったのだ。
 いつから茗香の言葉を待たなくなっていたのだろう。茗香の台詞の意味をきちんと受け取ることをさぼっていたのだろう。茗香はきっと、徹平の壊れた箇所を直そうとしてくれていたのに。
 今のオレって多分、綿の出たぬいぐるみ以下だ。
「なんつー顔してんだよ」
 顔を上げると新田がいた。大学名が入った二つ折りのビニール袋を小脇に抱えている。徹平はその丈夫そうな深緑の袋を指差す。
「それ、正式名称なんていうの……?」
「え、クラッチバッグだと思う。今それ要る?」
「調書、正式名称で書かないといけないから。職業病……」
「わかったわかった、一回仕事脇に置け。井沢巡査」
 外ではあまり階級で呼んでほしくなかったが、もうどうでもいい。
 新田は折り畳み傘をしまいながら正面に座った。
「何でここにって言われる前に言っとくけど、三住さんから『いつもの喫茶店で落ち込んでると思うから』って連絡もらった」
「そっか。茗香、交友関係狭いもんな」
 よりによって、徹平が一番劣等感を覚える新田を寄越すなんて。
 新田が大袈裟に眉を寄せる。
「お前だよ?」
「なにが」
「井沢の交友関係が狭いから、共通の知り合いが俺しかいないんだっつの」
 そういうことか。確かに徹平は友人が少ないし、知人にも茗香を自分から紹介したことはない。新田と茗香に面識があるのも偶然のようなもので、それだって二・三回挨拶を交わした程度のはずだ。連絡先を交換しているなんて思いもしなかった。
 徹平は口唇を噛み締める。
 世界で一番自分を知ってくれている相手とも、思うほど共有していないのだ。人も、気持ちも。遠い知り合いから連絡を受けただけで、雨の中情けない同輩を迎えに来てくれた友人の心だって、きっと。
 いつか先輩の妹に偉そうに説教したくせに、悪い癖が本当に抜けない。
「オレ、茗香の言ってること全然わかんなくてさ。茗香もオレのことわからないって言うんだ。そろそろ捨てられそうだし未練がましいなって気もするけど」
 徹平は茗香の頼んだ紅茶を引き寄せた。すっかり冷めきっている。溶けもしない角砂糖を三個放り込んで、一気に飲み干した。苦みと渋みの後にざらついた甘みが残る。
 中・高・短大と女子校育ちの茗香。家族や徹平以外の男に自分から連絡するなんて、とてつもない勇気を振り絞ったはずだ。茗香が徹平を『直す』ために新田に繋いでくれたのなら、もう無駄な迷いも安いプライドもいらない。
 まとまりきらない味をまとう舌で、徹平は真っ直ぐに言葉を紡いだ。
「まだ遅くないなら解り合いたい。相談、乗ってほしいんだ。新田」
「そのつもりだよ」
 新田の微笑み方があんまりやわらかくて、やっぱりちょっとずるっけぇなと思った。
 新田は徹平の話を一度も遮らなかった。徹平の言い分も、徹平が聞いた茗香の言い分も、しっかり目を見て深く頷いていた。
「井沢。俺が家庭教師と少人数指導塾のバイト掛け持ちしてるの覚えてる?」
 クラッチバックからルーズリーフを取り出す新田。今度は徹平が頷く番だった。
 新田は教員を志し教育学部に在籍している。現場に近い環境に身を置くため、学外でも子供たちに教えるアルバイトばかりしているという。
「俺はまだ経験も浅いし、確かなことは言えないけどさ。『もう遅い』かどうかなんて、本人も意外と分かってないもんだよ。本当に届かないのかどうか、ちゃんと自分に訊いてみる価値は充分にあると思う」
 新田は淀みなく言いながら、黒いボールペンと定規で表を作っていく。カラフルなクリップで端を留める。その紙束をはいと渡された。
 大きく余白を取って、
・三住さんに言われたこと
・実際に答えたこと
・本当に言わなければいけなかったこと
 の三項目に区切ってあった。新田が指差しで確認してくる。
「この紙は宿題。こっちはスライドクリップ」
「宿題はさすがに知ってんよ」
「そっかそっか」
「うっぜ」
 憎たらしいのに笑ってしまった。徹平は新田から借りたボールペンをくるりと回す。
「新田先生、今日これから予定は?」
「この後は何も」
「じゃあ補習付き合ってください」
「授業料、コーヒー一杯な」
 新田がスタンドからメニュー表を取る。徹平は宿題に目を落とし左手を振った。
「オレも紅茶。角砂糖三個で」
 新田は閉店まで付き合ってくれた。今度会ったときに提出する約束をして、徹平は宿題を持ち帰った。
 さんざん身勝手を言ったから、わがままついでにひとつだけ付け足したい。
 今夜はどうか呼び出しが入らないでほしい。これが終わったら、どんな現場が続いても弱音を吐いたりしないから。
 向き合う時間をください。オレが、オレの本音と向き合う時間を。
 徹平は星空の下を走りながら、とても久しぶりに神に祈った。

 

 ――お父さまのこと好き?
 わからない、というのが虚勢を剥ぎ取った本気の答えだった。ただ、憎くとも嫌えたことはないのだと思う。
 人生のピークが十八歳にあった人だった。ドラフトでも注目された甲子園のスターは、年下の恋人の妊娠発覚を受けて球界入りを辞退した。
 徹平の母は井沢の家の一人娘。父は他に親類縁者もなく、母方の祖父は男児である徹平を家に置きたいがために父を入り婿にした。世間から遠ざけられた父はやがて酒浸りになり、暴力が目立ち始めた。妹の和世が生まれる頃には、独り離れに置かれていたほどだ。
 他界したのは徹平が中学三年生のとき。部活中、担任から『運転中の事故で』と聞かされ、ああ飲んだなと思った。警察が充分に検証をしてくれたおかげで、父は事故前の少なくとも三日間は飲酒していなかったこと・事故原因は道路補修を請け負った業者にあることが判明したが、そうでなければ徹平は今でも父の潔白など信じはしなかっただろう。
 飲んでいないときの父は、一緒に野球をしてくれた。大きな手で徹平の頭を撫でてくれた。思い出す顔が笑みばかりだから、なおさら許せなくなる。
 ――今のお仕事、好き?
 自分たち家族を救ってくれた警察には感謝していたし、志望動機を訊かれた際にも父のときの恩を述べるようにしていた。けれど自分をその職場に放り込む本当の理由ではないことは、茗香も教官たちも見抜いていたはずだ。
 警官でなくともよかった。家族が後ろ指を差されなければ、自分を追い込める場所ならばどこでもよかった。理由と素質が一番合致しているのがここだっただけだ。父とは違うと誰かに証明したかった。世の役に立っていると誰かに反論したかった。
 ――徹平くんは、どうしてわたしと結婚したいの?
 一緒にいたい。一緒にいることを誰にも悪く言われたくない。茗香に触れたくて、近づきたくて、世間の許しを一刻も早く欲しがった。母が何を言われてきたか知っていたから、茗香だけは絶対に同じ目に遭わせたくなかった。
 そうか、と徹平は同室の先輩も眠った深夜の宿舎で息を吐いた。
 四回も指輪を持っていって、オレは一回も『茗香と結婚したい』なんて言っていなかった。性懲りもなく『父さんみたいになりたくない』って繰り返してた。だから茗香は絶対に頷いてくれなかったんだ。頷かないでくれたんだ。
 徹平は携帯電話を手に取った。朝になったら送るために、メールの下書きを一文字ずつ打ち込んでいく。

『三住茗香様
 他ならぬあなたから罪のゆるしを得る機会をお与えください。
 明日、教会の礼拝堂でお待ちしております。
 井沢徹平』

 茗香に『教会』と言えばどこだかすぐに伝わるはずだ。彼女には授業があるかもしれないが、徹平は朝から待ち続けるつもりで教会に向かった。仕事柄何時間も待機するのは慣れている。
 礼拝堂には人がいなかった。気合を入れすぎだろうかと思ったけれど、やはりスリーピースのスーツで来てよかった。厳粛な空気には格式高い服装が相応しい。
 歩いていって信徒席の一番前に座った。真っ白な壁も空へ向かうアーチも、ステンドグラス越しに射し込む光も、掲げられた被昇天の聖母の絵も記憶のまま。変わってしまったのは徹平だけだ。
「徹平くん。待たせてごめんなさい」
 ほどなく現れた茗香は、スーツに似た短大の制服を着ていた。まさかさぼったわけではないだろう。徹平と同じように正装で来てくれたのだ。
 茗香は白いスカーフを揺らして、座ってもいい? と控えめに微笑む。徹平は穏やかに頷いて隣を示した。
「懐かしいな。茗香と並んで座るの」
「そうだね。この前、司祭様にも徹平くんのこと訊かれたの。健やかにしていますかって」
「今は合わせる顔がないよ」
 自然と互いの指先が触れる。
 幼い頃はいつも茗香を真ん中にして、左手が椎弥、右手が徹平で、三人連なって聖母を見上げていた。男女の別を知る前の徹平は、御言葉も音も色も全てを曇りなく受け入れられた。
 あの頃に戻れはしない。これまでを消せはしない。
 だから今新しく、息を吸う。
「茗香が好きだよ。一番好きだ。誰のせいでも誰のためでもない。君を想うだけで、ただオレ自身が幸せなんだ」
 茗香は真剣に聞いてくれていた。遮らず、拒まずに。
 徹平もごまかさず誠実に、己の祈りを告げた。
「他人が認めるかたちじゃなくてもいい。君自身が心から笑える方法で、これからの人生を一緒に歩んでくれませんか。三住茗香さん」
 茗香の瞳から雫がこぼれる。ガラス色の光を含んで静かに落ちる。
 徹平は白いハンカチで、黙って彼女の涙を拭った。茗香はゆっくりと口唇の端を持ち上げ、やわらかに声を発する。
「井沢徹平さん」
 その先にどんな言葉が続こうと、最後まで聞き届けよう。彼女の想いを全て受け取るまで、ずっとずっと待ち続けよう。
 胸の内で彼女の奏でるピアノの音が鳴る。世界で二番目に好きな音。
 耳で聴くのは世界一好きな音。茗香の声は、ぽつり、ぽつりと静謐な空気に溶けてなじんでいく。