伝えない言葉

崩壊の最中に -In the Collapse-

ヒズ・ラボ・コート

 紅莉栖はまれに、サイズの合わない白衣を着ている。
 普段は身体のラインにフィットした服を好むのに、肩が落ちて、袖もまくっておかなければいけないような、右前のを羽織って緩慢に動いている。
 最初は洗い替えかと思ったが、どうやら違う。彼女が男物の白衣に包まれているのは、決まって覇気のないときだ。今は女物。
「紅莉栖。白衣を忘れた」
「無理に着てなくてもいいわよ、私が個人的にあげただけだし。もうみんな、あなたの顔なら覚えてるもの」
 澪は他の研究員にも認識されているが、ちょっとユニフォームを借りてみたところでチームの一員ではない。せいぜいが、なじみの客。確かに白衣なしでも何の問題もない。
「あんた、違うの持ってるだろ。あれを貸してくれ」
 無感情を装って切り出した。紅莉栖の目許がかすかに歪む。
 自分への悪意と取るほど澪も自惚れてはいない。ただ、分を越えた発言であった自覚ぐらい本当は持っている。
「目ざといのね。……いいわ、ちょっと待ってて」
 紅莉栖は抑揚のない声で言い、ふいと背を向けた。すぐに、くたびれた布を手に戻ってくる。案外手近に置いていたらしい。
 澪は黙って袖を通した。ほとんどぴったりだった。これぐらいの背丈なのかと思った。
 ―牧瀬紅莉栖の視線は、久野里澪の肉体を通して別の存在に注がれている。
 普段と逆のボタンを留める前に、澪は他人のサイズの白衣を脱いだ。
「自分のを置いてきた場所を思い出した。返す」
「なんなのよ」
 受け取った彼女がどんな顔をするのかつぶさに観察する趣味はない。澪は鞄に突っ込んである丸めた白衣を、当てもないのに『探しに行く』。

 

アンチ・チョップスティック・レディ

「あんたいつもフォークだよな。食いにくくないのか?」
 澪が問うと、紅莉栖はカップラーメンを食べる手を止め、顔を上げた。
 ときどき冷たく細まっている目を、今はまんまるに開いている。
「全然。お箸の方が食べにくいわ」
「アメリカかぶれも長いとそうなるのかね」
 澪は箸を使って、遅い昼食を口に運んでいく。同じ種類のカップラーメンを一つもらった。
 紅莉栖は頬を膨らませ、フォークで麺をつつく。
「お行儀は悪いくせに、お箸は綺麗に持つのよね。澪だってアメリカ暮らしが長いのに、私ばっかり不器用で不公平」
「私は……」
 母親の顔が頭をよぎった。黙っていれば話は暗くならないのは解っている。
「ちゃんと箸が使えないと、飯も食わせてもらえなかったんだよ」
 にもかかわらず本当のことを言ったのは、ただ紅莉栖を一刺ししてやりたかったからだ。
 目の前の女性は予想どおり気の毒そうな顔をしていた。だが澪を格下に認定する台詞―たとえば『ごめんなさい』は、一言も吐かなかった。
 紅莉栖は、自分の使っているフォークの柄を澪に差し出す。
「ねえ澪、ちょっとこのフォークで食べてみて」
「なんでだよ」
「いいから」
 強引に押し付けられて、しぶしぶ箸を置いた。
 衛生観念がぐずぐずな自覚はあるが、今の今まで紅莉栖の口に触れていた食器というのは何となく抵抗がある。
 一応使っては見せたものの、どうにも不格好な食べ方になってしまった。
「やっぱり食いづらい」
「ふふふ」
 ご機嫌の理由は分かるような分かりたくないような。

 

サマーメルト・バニラ

「アイスクリームが食べたい」
 澪の知る限り紅莉栖がそんなことを言い出すのは初めてだが、真夏に一人残されてデータと睨み合っていれば、壊れるのも無理はないのかもしれない。
「バケツのやつー、抱えて食べたーい」
 紅莉栖は机に左の頬を押し付け、腕をばたつかせた。澪はその辺にあった本(持ち出し厳禁)をめくりつつ横目で彼女を見る。
「途中で後悔するぞ。賭けてもいい」
「可能かどうかじゃないのよ澪、問題は今、私の頭がその欲求に支配されてしまっているということ」
「一時の衝動で体調不良を引き起こし、以降の能率を下げるのは賢明な判断とは言えないな。牧瀬先生」
「先生はやめて。脳が活動するには糖が必要よ」
「ご承知のとおり、菓子類に含まれる糖のほとんどは二糖類のショ糖だ。単一のブドウ糖ならサプリメントの方が早い。もっとも脳がグルコースによってのみ回っているというのも、最近ではおとぎ話になりつつあるが」
「もういい、私の負けでいい……お金出すし、残ったら食べていいから買ってきて」
 財布を取り出してひらひら振る紅莉栖。澪はため息をついて資料を閉じる。
「甘いものよりホットドッグが食いたい」
「この暑いのによくそんな……ああ、別にいいわ、お釣りで買っていいからお願い……」
「言質は取ったぞ」
 澪は立ち上がって紅莉栖のところまで行き、預かった十ドル札をジーンズの後ろポケットに突っ込んだ。冷房で腹を壊さなければいいが……もちろん紅莉栖が。

 建物の外は猛烈な日射。澪は顔をしかめ、早くもにじんできた汗を手首で拭う。
 紅莉栖の所望した品は、大学の売店にはなさそうだ。敷地が広いから出るのもひと苦労。意を決して歩き始める。前方からアジア系の子供が来て、夏休みで遊びに来ているのだろうかと思いながら素通りしようとする。
「あら、あなた日本人?」
 すれ違う直前、垢抜けない少女は視線を上げ、やけに大人びた口調で言った。日本語だった。何だお前と澪は返しかけ、少女が言葉を続けようとしているのに気付いて待つ。今度は英語が聞こえた。
『ごめんなさい、急に声をかけて。私は比屋定真帆というの。そこの建物で脳科学の研究をしているのだけど……同郷の仲間が増えたのかしらと勘違いして、つい』
「日本人です。英語でも日本語でも構いません」
 澪は日本語でよどみなく答える。危なかった。思いきり悪態をつくところだった。
「久野里澪といいます。紅莉栖……牧瀬さんの、親類のようなものです。ここでいろいろと学ばせていただいています。比屋定さんのお噂もかねがね」
「噂? どんなのかはあまり聞かない方がよさそうね」
 苦笑して、とにかくよろしく、と比屋定は握手を求めてきた。澪も応じた。この陽気では二人とも手の平が湿っていた。
 比屋定真帆。牧瀬紅莉栖より前からヴィクトル・コンドリア大学に所属している才女。こう見えて歳は二十三・四だったはず。引きこもりがちな紅莉栖とは対照的に、学会の他にも積極的に外に出て活動し、着実に研究を進めている。澪とはずっと行き違いだった。
 比屋定の背は澪より三十センチ以上低い。首をぐっと上げて話しかけてくる。
「久野里さんは、もう帰るところ?」
「いえ、おつかいです。紅莉栖が、アイスが食べたいと駄々をこねたので」
 見下ろすのと膝を曲げるのと、どちらが失礼でないか迷う。比屋定真帆からの評価は澪にとって問題ではないが、彼女の機嫌を損ねると紅莉栖の立場に障りがある。
 そう、と比屋定は肩をすくめた。
「土地勘はある?」
「少しは」
 質問の多い人だなと思った。詳しいというほどでもないが、このご時世、マップアプリさえあればスーパーマーケットぐらい難なく見つけられる。
 しかし比屋定が言っているのは、そういうことではないらしい。片手を腰に当てて、いたずらっぽく首を傾げる。
「紅莉栖が涼しそうなものを頬張ってるのを、黙って見せつけられるのもシャクだし。私も行っていいかしら、あなたの分も出すわ」
「……ありがとうございます」
 そうするとこの十ドルはどうなるのか、と考えつつ、澪は紅莉栖の金をポケットのさらに奥まで押し込んだ。

 歩く道は、一人でないというだけで短くも思えたし、余計に暑くも感じられた。
「ちょっと見ない間に、紅莉栖にも気の置けない後輩ができたのね」
「ただの知り合いです。そんなに深い仲では」
「それでもよ。あの子、我が侭なんてほとんど外に出さないでしょう。……いつも遠くの世界しか見えてないような顔をしてる」
 比屋定の言葉にはどこか険があった。澪も眉をひそめて、意外と近くにあった店のドアをくぐる。
「事実そうでしょう。彼女の人間味を周囲にアピールしたいのなら、私は力不足ですからやめた方がいい」
「あなたはそう思うのね」
 比屋定は短く言い、真っ直ぐに冷凍食品の売り場に向かった。
 潔い大股だったが、澪が普通に歩いても追いついてしまう。
「久野里さん。紅莉栖、味はなんて?」
「特に。抱えられるバケツのやつとしか」
「じゃあバニラでいいわね。他のお菓子にも使い回しやすいし」
 冷凍庫のガラス戸は、子供(とそれに類する体型の大人)には重い。澪が開けてやる。
「何クォートいきますか」
「バケツって言ったからにはガロンでしょ?」
「やっぱりこっちの人間は頭がどうかしてる……」
 つい本音をこぼしてしまいながら、取っ手付きの器を持ち上げる。澪も大食らいの類だが限度はある。このプラスチックケースが珍しくない、というのが国際的に見て既におかしい。
「久野里さんは?」
「紅莉栖が途中で残すはずなので余りを食べます」
「あら、思ったより殊勝なのね。箸休めのスナックは?」
「チェダーチーズのやつで」
「了解」
 比屋定に笑われて、自分の舌も大分毒されていると思い知った。
「ねぇ久野里さん。周りにどう思われるかじゃなく、あなたがどう思っているかを優先できるなら、どうかこのまま紅莉栖のそばにいてあげて。……私には難しいから」
 袋菓子のコーナーに向かう小さな背中。
 澪は黙ってついていく。追い越さないように注意深く。

 紅莉栖の先輩は、澪の先輩でもあった。
 牧瀬紅莉栖との適切な距離を知るための、数少ない先輩だった。