気化する絶望

 新聞部の部室前。ドアのガラススリットから光が漏れており、見回り途中の和久井修一はため息をついた。ここの部員は本当に面倒な生徒しかいない。
「誰だーい、こんな時間まで居残ってるのは。下校時間はとっくに過ぎているよ」
 いかにも模範的な教師らしいことを言いながら、自分が『顧問』をしている『ことになっている』部の占有部屋に踏み入る。高校生に与えられたにしては豪勢な――ただし彼らは恵まれた環境に対する自覚はない――設備に囲まれて、彼はすやすやと寝こけていた。
 宮代拓留。校正の途中で眠ってしまったらしい。赤ペンを握ったまま、ゲラの上で突っ伏している。和久井が先日、キーボードで打つのと手で書くのでは脳の使い方が違うからたまには媒体を変えてみるといいよ、と適当に叩いた軽口を、真に受けたのかもしれない。
 完全な嘘でもないけど、やっぱりキミはちょっと簡単に他人を信用しすぎるな。内心で呟きつつ、和久井は純朴な『少年』の肩を揺する。
「起きてくれよー、宮代くん。残ってる生徒がいるとさぁ、僕も帰れないんだよ」
「……はぇ? あ、ご、ごめんなさい!」
 宮代は跳ね起きて、口許のよだれを片手で拭った。フレーム曲がってないかい、と和久井が自分の眼鏡を指先で叩けば、宮代は眼鏡を外して形状をチェックし始めた。特に変形していないことを確認して、安堵の息をついてかけ直す。
「すみませんでした、和久井先生。すぐ帰ります」
「そんなに慌てなくていいとも。それより、忘れ物をしないようにね」
「はい」
 他の『教師』とは上手く話せないこともある宮代が、自分とはすらすら会話する。和久井はそれが無性におかしくて、時折、声を上げて笑い出すのを必死でこらえねばならなくなる。
「宮代くん、まだ進路を決めかねているんだって? 生徒会長様は随分やきもきしておられるようだよ」
「え、あ、その……」
 宮代は急に口ごもった。だが頭の中の葛藤は筒抜けだ。和久井は知った風に『見えるような』頷きで話を続ける。
「その歳で将来のことを考えろといきなり言われても、迷うよね。でも僕は、存分に迷ったらいいと思うよ。それって若者の特権だからさ」
「はぁ」
 宮代は曖昧に答え、この人にも若い頃ってあったんだよな、と失礼千万なことを考えている。同時に、将来について茫漠としたビジョンを巡らせている。和久井は腕組みをして黙って見ている。
 白状してしまえば、『教師ごっこ』はそれほど嫌いでもない。自分たちに『将来』があると無邪気に信じ思い悩む『生徒たち(ガラクタ)』の話を聞いてやるのなんて、滑稽で憐れでついつい『親身』になってしまう。
「ただ―」
 和久井は口唇の端を吊り上げた。廊下に、出来損ないのディソードの気配を感じながら。
「キミはきっと、面白い『未来』を生きることになるよ。僕はそう確信しているから」
「そう、ですか」
 宮代はその言葉をよくある大人の方便と理解して、静かに鞄を背負った。
「じゃあ、帰ります。さようなら、先生」
「うん、さようなら。気をつけて」
 背後でドアが閉まり、『少年』と少女の声が遠ざかる。和久井はくつくつと喉を鳴らし、虚構の部屋を見回す。肺に送り込まれる空気すら、真っ赤な偽物であるなどと『生徒たち』は知らず。
「ああ、まったくもって興味深いな!」
 無害な背景と誤認された男はせせら笑う。