楽園追放 ―Children’s AnotherEden― - 5/8

第四章 無音の流血

◇◇◇

 果たして神成岳志は翌朝一番、病院に現れた。
「面構えが変わったんじゃないか、久野里さん」
「それを言ったらあんたもだろ。神成さん」
 今更こんなのも柄ではないが、澪は神成と笑み交わす。
「当面の『やりたいこと』とやらが定まったんでね。ようやく調子も出てきた」
「そりゃ頼もしいな」
 顔見知りということで、澪は上司から神成の対応を一任されていた。被害者のデータ収集はコガが担当。澪と神成は人気のない廊下を行く。
「何か進展は?」
「やはり窒息死だ。後頭部に殴傷、先に気絶させてから、わざわざ被害者の衣服を巻きつけた腕で締めた。例の住所付近で聞き込みを行ったところ、被害者は毎朝五時きっかりに同じコンビニに来店していたそうで、情報さえあれば待ち伏せは容易。十八日早朝の防犯カメラの映像が、最後に確認できた姿」
「やはり犯行を一日前倒したのか。早漏野郎め」
「男とは限らな……そもそも女の子がそういうこと言うもんじゃない」
「言うに事欠いてそれかよ、性差別警官」
「どっちがだ、セクハラ職員」
 澪は神成の抗議を無視して、ある部屋のドアを開けた。入院患者用のカウンセリングルームだ。外来のものに比べて使われていることは少ない。
 澪は手前の職員側に座り、神成は窓に背を向けた患者側に腰を下ろした。
「どうも引っかかるんだ。公園の事件、先の張り付けもどきと同じ犯人だとは、俺には思えない。慰霊碑の穴はきっちり等間隔に開いていた。直接の死因も、両方扼殺とはいえあっちは親指で甲状軟骨を折ってる」
「あんたの言った『肉体が同一とは限らない』ってやつか。少なくとも、几帳面と大雑把の二人格はいるようだ」
 澪は風に揺れる横髪を指で払った。窓が全開になっている。まだ暑いからだろうか。
 神成は座ったまま背後を振り返った。
「今日も騒がしいな。増築だったか」
「精神的不調を訴える患者は増える一方だからな。今は消化器科と同じフロアだろう、収まりきらないんで心療内科専門の新棟をってことだそうだ。人手は足りないのに箱ばかりぼこぼこ建てやがる」
「どこの業界も似たようなもんだな」
 頭を振り、神成は澪に向き直った。
「話を戻そう。どちらも一応『誰にでも可能な犯行』だ。ギガロマニアックスの仕業とは考えにくい」
「和久井のやり方じゃない、とはっきり言えばいい。この図画工作の時間は、過去二回のニュージェネに比べてお粗末すぎる」
 澪は右耳を押さえる。工事の音が響くのだ。気合を入れて五階建てだとかで、もう大体できているらしい。何にせよ早く完成してほしい。
 神成はため息をついて背を丸めた。
「和久井に限らず、能力者でない普通の人間なら、警察も止める手立てはある。二十九日まであと十日しかないが、とにかく片割れだけでも押さえたい」
「えらく消極的で現実的な物言いじゃないか」
 澪の台詞に神成が何か反論しようとしたとき、扉が鳴った。どうぞと澪は投げやりに言う。ワカギが頭を下げながら入ってきた。
「お話中すみません。刑事さん、お茶は?」
「あ、お気遣いなく」
「私は飲む」
「はいはい」
 湯呑が澪の前に置かれた。ちょうど強い風が吹いて、薄緑の水面がさざめく。カーテンが空気を孕んで膨らむ。
「あれ、窓開いてました? 外うるさいですよね。すぐに閉めます」
「いえ、自分がやります。お構いなく」
 奥まで入って来ようとしたワカギを制し、神成が立ち上がる。澪は湯呑に手を伸ばした。
 杭の件もあることだし、今回も委員会絡みである可能性は極めて高い。しかし連中なら既に、能力者を使わない思考操作の手段を持っているはずだ。過去の事件でも実証済み。今回に限って何故それを使わなかったのか、どうしても疑問が――。
 不意に破裂音がした。思考を中断して顔をそちらに向けると、窓辺に立つ神成の後ろ姿が見えた。肩の周囲が変な色に染まっていた。錆びた金属のようなにおいがした。澪は確かにこの異臭を知っていた。
「頭を下げろ!」
 神成が振り向きざま叫ぶ。掴んだカーテンが翻る。何かが布地を突き破って彼の腕を抉っていく。赤が飛び散る。こぼれる。広がる。
 神成の身体が、鈍い音を立てて床に倒れた。
「ワカギさん、人を呼べ!」
 澪は叫び、姿勢を低くして神成に駆け寄った。右の鎖骨辺りと上腕から、鮮血がどくどく流れ出ている。
「くそ……!」
 毒づいてスクラブを脱ぎ、より深刻な肩を布で押さえる。しかし腕の傷も軽くはない、このまま失血し続ければ大変なことになる。既に血圧が低下しているのか、神成の喉は弱々しく震えている。
「くの、さとさ……」
「動くな、馬鹿! 病院に来て死ぬなんて間抜けが過ぎるぞ!」
 神成は澪の制止を無視し、おぼつかない手つきで懐から何かを取り出した。いつも持ち歩いている革カバーの手帳。澪の手に押し付け、白くなっていく口唇でぎこちなく笑う。
「なぁ、やっぱり、あの鍵、やるよ……」
「神成さん!」
 ワカギの呼んだ医療スタッフが何人も入ってきて、澪は神成から引き剥がされた。その場で応急処置が行われ、神成の身体はすぐにストレッチャーで運び出されていく。
 血痕と焦げたカーテン。澪は壁際で手帳を握ったまま、しばらく座り込んでいた。

 

◆◆◆

「宮代さん、無事ですか!?」
 突然飛び込んできた男に、拓留はあらゆる意味で驚いた。今までコガに直接話しかけられたのは挨拶だけだったし、神成抜きで来たのも初めてだ。
「落ち着いて聞いてください」
 拓留の馴染みでない刑事は、全く落ち着いていない口調で言う。
「神成先輩が、この病院の敷地内で撃たれました……!」
「は……?」
 言葉が出なかった。
 神成が。神成岳志がニュージェネレーションの狂気を憎むのは、先輩刑事が撃たれて死んだからだったはずだ。遺体が見つかったのはこの病院だったという。
 そんな、そんな繰り返しがあっていいのか?
「ここは危険です、別の場所へ――」
 呆然としている拓留の腕を、コガが掴む。部屋の外に連れ出されそうになる。
「おい。神成岳志はそいつを動かしていいと言ったか?」
 気付けば入り口を久野里が塞いでいた。黒いタンクトップの上に、彼女はいつものスクラブを着ていない。
「勝手な持ち去りは困るぞ、三下」
 あの頃のように、前を留めずに白衣を引っかけて、口唇を意地悪く歪めていた。
 コガがすっと表情を消す。
「あなたにはいろいろと聞かなければならないことがあります、久野里澪さん」
「奇遇だな。私もお前には聞きたいことしかないよ、コガ刑事」
「ま、待ってください!」
 勝手に話が進んでいくので、拓留はコガを振り払って二人の間に入った。
「どういうことですか、神成さんが撃たれたって一体……!」
「そのままの意味だ。命に関わる傷じゃないが、利き腕をやられて大量出血した。しばらく前線には戻れない」
 久野里は顔さえ向けずに言い捨て、拓留の胸に紙とボールペンを押し付ける。
「書いておけ。後で来る」
「久野里さん!」
 引き留めようとしたけれど、彼女はコガを引きずり出すようにして行ってしまった。
「何だっていつも一方的で強引なんだよ!」
 怒鳴っても聞いてくれる人間はいない。拓留はすぐに虚しくなって、手渡された紙を確認する。退院用の書類だった。表向きは任意入院ということになっているから、拓留が『出たい』と言えば警察にも病院にも止める権利はないのだ。ご丁寧に、医師の承認欄は既に埋まっていた。
 拓留は眉をひそめて、同意者の欄に自分の名前を書きつける。続柄に大きく『本人』と記してやる。印鑑がないのでどうするか悩んで、親指の皮膚を噛み破り、血判を押した。
「って、ここまでしなくても『宮代』って書いて丸で囲っとけばよかったじゃないか……」
 後から気付いてぼやいたが、済んだことは仕方がない。それにこの方が、鬼気迫るような決意を汲み取ってもらえそうだし。
 振り返り、久野里の出て行ったドアを未練がましく見つめる。
 知らなかった。ただ待たされるということが、こんなに歯がゆいのを。拓留はあの日から、ずっと待たせる側にいたから。皆が自分を諦めてくれればいいと思っていた傲慢を、今になって恥じる。
「そうですか、なんて、言えるはずないよな」
 歩み寄っていって、ノブを掴んだ。いくら試みても、錠は無慈悲に拓留を鎖し――。
「ぇあ?」
 変な声が出た。回らないと思っていたものが、あまりに滑らかに動いたせい。
「鍵が……かかって、ない?」
 わざとなのか忘れたのか、とにかくコガも久野里も、この部屋に施錠しなかった。拓留は唾を飲み込み、左手に持った書類を見る。
 許可証はある。ドアは開いている。神成は動けない。ならば。
 ならば選ぶべき道などもう、一つしかないのではないだろうか?

 

◇◇◇

 澪とコガは、大きな机を挟んで向かい合っていた。神成が撃たれた部屋の隣、患者の家族と医師の面談室だ。本人からまともな同意を得られないときの為と言うが、滅多に使われていない。
「神成先輩が狙撃されたとき、部屋まで案内したのはあなたでしたよね」
 コガは身を乗り出して、俳優のように整った、それだけのつまらない目許を吊り上げた。窓側を拒否してドア側に陣取った澪は、背もたれに軽く体重をかけている。
「確かにあちらの部屋を選んだのは私だが、上司には『カウンセリングルームのどちらか好きな方』と言われた。選択肢が自由にあったわけじゃない。窓を開けたのが私でないことも、あんたたちのお仲間が調べればすぐに分かる」
「そもそもおかしいじゃないですか、先輩はどうしてあなたのような部外者に……」
「『そもそも』?」
 澪は両手で机を叩き、腰を浮かせた。額が接触しそうな位置まで前に出て、至近距離からその男の両目を覗き込む。
「そもそもお前は、何故神成岳志が怪我をした後(・・・・・・・・・・・)宮代拓留を気にした(・・・・・・・・・)? いや、もっとシンプルに言おうか。何故、神成岳志が狙撃されたと知っていた(・・・・・・・・・・・・・・・・)?」
 窓を見遣る。カーテンが挟まったまま閉められたガラス。向かいに覗く建築中の新棟。
「世間一般の人間は、自分が撃たれるなんて思っちゃいない。ましてここは日本だ、減音された銃声なんて、そうと言われてもピンとは来ないだろう。現にあの場で、撃たれたとすぐに気付いたのは神成さんだけだった」
 澪は男に視線を戻した。何の挙動も見えない。訝しみながらも話を続ける。
「居合わせたワカギさんが外したのは、医療スタッフを呼びに行くわずかの間だ。駆け付けた連中は別の誰かに構ってる暇なんてなかったし、その後、私たちは神成さんの容体を気にし行動を共にしていた。お前が詳細を訊きに来る隙がどこにある? いつ狙撃だと確信した?」
 男が何か言おうとしたのを、けたたましい電子音が遮った。澪のポケコンの電話着信だ。机の上に出して、断りもせず音声だけで繋げる。南沢の声が聞こえてくる。
『久野里さん? 今、お時間大丈夫ですか』
「ああ。伊藤から連絡でもあったか」
 澪が半笑いで返すと、向こうで南沢が息を止めるのが分かった。間もなく言葉が戻る。
『というより、訪ねてきたんです。どうしても久野里さんに、自分で訊きたいことがあるって……替わっても構いませんか』
「中身のない挨拶を省くなら、と条件を付けろ」
 わかりましたと南沢の声が遠ざかり、あの、と記憶より沈んだ声がする。以前と調子こそ違えど、間違いなく伊藤真二のものだった。
『すみ、ません。急に。弁護士さんにも、みんなとは極力接触しないよう言われてるのに』
「中身のない口上は省けと言ったろう。今回の件でお前が感じたことを、簡潔に話せ」
『……はい』
 伊藤は少し間を置いた。その刹那も、コガと澪は瞬きもせず睨み合っている。
『俺、この事件ずっと、何がしたいのか分からないって思ってて。さっき、副部長……南沢から事情聞いて、余計おかしいって思ったんです。神成さんが宮代を気にするのは分かるんですけど、くそ、なんていうか、その……なんで宮代なんですか(・・・・・・・・・・)?』
「そうだな。今のあいつは世間的に無罪が認められている。新しい事件に自分が関係しているかもなんて思い込むのは、私からすりゃパラノイアみたいなもんだ」
『そうですよ。そうです。渋谷にうずとか@ちゃんとか、宮代叩きのコメは盛り上がるのに、俺の名前が出ると火消しみたいのが涌いて、毎回話を逸らしてて……最初久野里さんがやってくれてるのかと思ってたんですけど、それにしちゃやり口が露骨、ていうか』
 伊藤は泣いているような笑っているような声で、あまりにも痛ましい問いを放つ。
『今日の事件、宮下公園、ですよね。どうして俺んちとかじゃないんですか(・・・・・・・・・・・・・・・・・)?』
 澪は黙って目を伏せ、ポケコンを見下ろした。画面に伊藤の顔はなく、不機嫌な自分の顔が映っているだけだ。
 澪や神成は真相を知っていた分、何より先に『和久井による宮代への報復』を警戒した。伊藤のことは、思考誘導をされていただけだからと手薄にしてしまった。
 だが冷静に、世間の目を考えてみたらどうだ。同じ『佐久間に洗脳を受けた子供』でも、思想で威張り散らかしていただけとしか見えない宮代と、実際に少女を手にかけた伊藤では、罪の重さが違う。法の措置が証明している。
「犯人の狙いは宮代じゃない。殊更にニュージェネを強調したかった相手は、私たちでも警察でも大衆でもなかった」
 澪はもう一度視線を上げ、人差し指でコガの心臓を示した。
「これは、宮代拓留を気にしている別の男――和久井修一に対する、釣りだ」
 その指を画面に落として通話を切る。目の前の男に獰猛な笑みを向ける。
「そうだろう? 委員会の犬」
 男が動いた、澪が視認できたのはそこまで。唐突な痛みに顔を歪める。男は澪の前髪を掴んで、瞳孔が異常に開いた目を近づけてきた。
「今更必要のない頭脳だと聞いていたが。破棄するには少し惜しい」
 今までの好青年ぶった口調とは全く違ったトーン。低く空虚な声色。
「まだ生きていたいか?」
 澪の心臓が激しく暴れた。瞳もきっとおかしな動きをしている。
 死にたくないか、と問われたらいくらでも突っぱねられたのに。生きていたいかと、そう問われて答え方が分からなくなった。つまらない言葉遊びで、何故こんなにも頭がかき回されるような――。
「わ、たし、は……」
 網膜が光を上手く受け取れない。肺が上手く酸素を吸収できない。
「そのひとに触らないでください」
 けれど耳が。その声を捉えた、瞬間に。全ての身体機能が正常に、清浄に、戻っていく。
 男が手を開く。澪の顔が机に叩きつけられる。助け起こしてくれたのは、宮代拓留の腕だった。
「おまえ、どうして」
「こっちの台詞ですよ! こんなところで何やってるんですか!」
「声がデカい……」
 宮代はまだ何か文句を言っていたが、澪は担がれるようにして部屋を出るのに精一杯で、ほとんど聞いていなかった。
「何やってたんですか、本当に。聴取にしたってあんな乱暴な」
「あいつは、まともな刑事じゃない。神成さんを撃ったのは、あの男だ」
「……聞きたいことだらけですけど、とりあえずどこかで休んだ方がよさそうですね」
「じゃあ、寝床の確保……頼んだからな」
 澪はふっと目を閉じる。誰かの体温を感じながら意識を手放すなんて、いつ以来だったか思い出せない。

 

◆◆◆

 退院の手続きは思った以上に手早く終わった。院内にATMもあったので、自分の口座から全額引き出して精算も済ませた。
 久野里を捜そうと彼女の働いている部署に向かったら、今は席を外していると言われた。ワカギという名札を首から提げた男性が、刑事さんと一緒にいるはずですよと、拓留の立ち入ったことのない部屋を教えてくれた。そこで彼女は、若い刑事から暴行を受けていた。今は閉鎖病棟のベッドで眠っている。
 拓留は脇にある椅子に座り、仕切りのカーテンを見た。向こうには神成がいるはずだ。事が事だけに、一般の病室に寝かせるわけにはいかないらしい。幸い弾は残留していないが、貫通の衝撃で鎖骨にひびが入ったと医者は言う。後々まで引きずる怪我ではないものの、出血もひどくしばらくは安静とのこと。本人は麻酔でまだ意識がないようだ。
「お目覚めになりませんか、久野里さん」
 看護師の女性が入ってきた。ええ、まぁ、と拓留は曖昧に言葉を濁す。大した外傷もないし心因性のものだろうからじきに、と言われて二時間経つ。
「すみません、窓を開けてもいいですか。……なんだか寒そうで。手も冷たいんです」
「あら大変。冷房止めましょうか?」
「そこまでは。神成さんは暑いかもしれませんし、軽く換気だけさせてください」
「ええ、どうぞ」
 礼を言い、拓留は窓辺まで歩いていった。鍵を開けガラスをスライドさせようとして、五センチほどで引っかかる。
「この区画は、患者さんの安全の為にあまり窓が開かないんですよ」
 振り返ると、看護師がお愛想の笑みを浮かべていた。そのルール自体は、長く暮らした拓留も知っている。ただ当時とは対策が変わって、ある箇所までガラス板がくると、センサーでロックがかかるシステムになっていた。
「素朴な疑問なんですけど、サッシの掃除とかするときはどうしているんですか?」
「院内のコンピューターからなら解除できるんです。患者さんがご飯を食べてたりする時間に、担当の職員が大きく開けてますね」
「そうすると、風でカーテンが邪魔にならないんですか? 見たところ、いつもまとめてないですよね」
「でも、タッセルをつけるといろいろ危ないですから……」
 しゃべりすぎたと気付いたのか、看護師の口が急に重くなる。拓留は笑みをつくって、ちょっと不思議に思っただけなんですと窓をまた閉めた。
 ベッドの様子を確かめた看護師は出ていき、拓留は眠っている二人と共に病室に残る。
 昼間の呑気な陽気と、自分の置かれた異常事態とが上手く噛み合わない。
「久野里さん」
 脇に立ち、指の背で軽く頬に触れてみる。滑らかだった。十代の頃と何も変わっていないのではないかと思う。あの頃触れたことはないけれど。
「久野里さん」
 浅く呼吸する口唇は小さい。あれだけの大言を吐いているなんて想像もつかないほど。
 彼女は悲しいぐらい、ただの二十三歳の女性だ。
 美しく、幸せになるべき女性だ。拓留より半年ほど年下の。
「くの」
「しつこい」
 いきなり不機嫌な声が聞こえて、拓留の指は圧迫される。久野里が片手で握ったのだ。その力さえ今は弱々しい。
「コガはどうした」
 久野里は拓留の指を放し、上体を起こした。まだ寝ていろと言って聞きそうな相手でもない、拓留もひとまずは彼女の疑問を片付けてしまうことにする。
「すみません、見失いました。でも別の警察の人が調べてくれて、工事中の病棟から、銃を撃った跡が見つかったって」
「恐らく市街地用の消音狙撃銃だろう。亜音速(サブソニック)弾なら、あの音の小ささも、神成さんの右腕が無事に繋がっているのも頷ける。後者は悪運もあるだろうが」
「……かもしれないです」
 すらすら述べられたところで拓留は正解を知らない。
「それより、お前、まだこんなところにいるのか」
 久野里はだるそうに首を振り、乱れた前髪の隙間から拓留を見た。
「退院の手続きはしてやったろ。早く家に帰れ」
「勝手に入ったんだから、出てくときも勝手にしろって言ったのは久野里さんじゃないですか。お言葉に甘えて勝手にさせてもらってます」
 拓留は身を乗り出して、長い前髪を手櫛で整えてやった。せっかく綺麗な瞳なのだから、きちんと見えていた方がいい。
「青葉寮に戻れば泉理たちが危ない。ここにいても僕自身が危ない。行くところなんかありませんよ。……あなたの隣以外」
「は?」
 もうちょっとかわいく驚いてもらえると拓留も嬉しい、のだが、しかし。一度顔を背けて息を吐いてから、再び久野里と向かい合う。
「僕も一人じゃ危ないし、久野里さんも一人じゃ危ないことをする。だから一緒にいればいいっていうのは、合理的判断じゃないんですか?」
 久野里は俯いて黙り込み、やがて消え入りそうな声で、かってにしろと呟いた。
「はい。勝手にさせてください」
 拓留は苦笑して肩をすくめた。
「勝手でいいから、そばにいさせてください。今はそれが、僕のやりたいことなんです」
 やっぱり白衣のが似合ってますねと指差したら、着替える出てけと殴られた。