楽園追放 ―Children’s AnotherEden― - 6/8

第五章 私を月までつれてって

◇◇◇

 神成岳志の手帳には、澪を名指して『俺に何かあったら宮代拓留を連れて病院から離れろ』と書いてあった。英訳したうえに稚拙なアナグラムまで施して、別の人間に伝わる事態を少しでも防ごうとしていたらしい。宮代を訪ねた後、決まって澪にも顔を見せたのは、なにも嫌がらせだけではなかったのかもしれない。
 荷物は宮代がワカギから預かってくれていたから、身支度を整えたらすぐに病院を出た。連れ立ってスーパーマーケットに寄り、やれ病院食は美味くないだの、コンビニ弁当は味が濃いだの、そんな話をしながら買い出しをした。澪の部屋に着いて、やれ散らかりすぎだのお前のトレーラーハウスのがひどかっただの文句を言い合い、小さなローテーブルで昼食をかき込んだ。
 澪がそんな『普通ごっこ』を享受できたのも、結局は連続猟奇殺人に巻き込まれているという非常識のおかげなのだ。
 その後、陽の翳るまで事件の話をした。宮代のノートも随分潤ったように思う。いずれ自伝でも出せばつまらないパートよりよっぽど儲かるだろうにとからかえば、そんな稼ぎ方パートよりよっぽどつまらないですよと、宮代は険のある笑い声で言った。
「晩ご飯、作りますね。泉理ほど上手くはないですけど。押しかけてる分、それぐらいはしますよ」
 宮代が立ち上がって、澪はこの家のキッチンを使った覚えがまるでないことに気付いた。特に火元。湯沸かしには電気ケトルを使ってしまうので、点くかどうかも分からない。
 宮代がコンロのスイッチを押す。手をかざして温度を確かめている。
「入居のとき点検したでしょう? うん、大丈夫ですよ。ちゃんと使える」
 思い出した、あの備え付けの電気コンロは温まるのがいやに遅くて、目玉焼きひとつ作るのに十五分かかった。
「フライパン、と、包丁、はギリギリありますね。まな板……ちょっとこれ一回消毒しないと危険そうだな」
 床に座って宮代の姿を見ていたら、いつかどこかで同じようなことがあった、とぼんやり思った。母親ではなかった。もっと背の低い、自分より年下の女の子。
『ミオもおなかすいたでしょ?』
「久野里さん?」
 はっと我に返る。宮代がこちらに来て、顔を覗き込んでいた。火は止めたらしい。何でもないと答える自分の声が、予想以上にか細くて、かき消すように言い直す。
「本当に何でもない。大した……ことじゃない」
「そうですか」
 宮代はやわらかく呟き、澪の手を取って立ち上がらせた。
「一緒に作ってくれませんか。一人じゃ自信がないので、家主に指図してもらわないと」
 穏やかに微笑まれ、ふと、彼は『不慣れな二人で』料理することが初めてではないのだろうな、と察した。彼を曇りない目で応援していたであろう少女を思い浮かべて、胸がひどくざわついた。
 宮代拓留が自分から彼女について切り出せないのは知っている。折を見て、あいつの周りは百瀬さんが見てくれている、報告も逐一もらっているから安心しろと言ってやらなければならないのも解っていた。
 こうまでなって、澪は     について語れない。自分が黙っていれば、永遠に彼女のことは話題にのぼらないのではという幻想にすがっている。
「放送の準備がある。一人で作ってくれ」
 並び立って笑う余裕がない。二人の少女のことを思い出したくない。片方のことを彼に思い出させたくない。
 そうですか、と同じ言葉を繰り返す口唇から目を逸らし、澪はパソコンを立ち上げた。機械の冷却ファンと換気扇の音が部屋の空気をかき乱す。沈黙が目立たないことだけは幸いだったのかもしれない。
 しばらくして宮代の料理は出来上がった。予想より悪くなかった。カット野菜と豚のこま切れ肉を炒めただけの大皿も、焦げ色の濃い玉子焼きも、それなりに健康な食事だろう。きっと平凡な家庭料理というやつだったのだと思う。
「今は、ここで配信しているんですか?」
 椅子に座ってパソコンをいじっていると、宮代が手を拭きながら寄ってきた。食器の片付けが終わったらしい。澪はいつも使えるものがなくなるまで洗い物をしないのに、真面目なことだ。
「ああ。風呂だとかは今のうちに済ませろ、物音が入るとまずい」
「確かに、ケイさんの後ろで男がどうこうしてるの勘付かれたら、大炎上で情報収集どころじゃないですね……」
 宮代は指先で頬をかき、視線を泳がせた。そういう態度を取られると、いじめたくなるのが澪の性分だ。
「たとえば」
 宮代の右手を掴み、膨らんだ胸の上に置いた。
「こういうことをされながら、大勢の男たちに向かって媚びた声を出しているとか?」
 澪は自分のバストサイズが日本女性の平均より上であることを自覚している。男の視線がここに集まりがちだということも。
「からかわないでくださいよ」
 宮代は顔を赤らめたが、服越しの指先に力を入れる様子は全くなかった。澪も興が醒めて手を放す。
「着替えは、いくらかあるんだろう。私の分も洗濯してくれるなら、タオルぐらいは使っていい」
「はい。明日洗濯機回しますから、その辺に散らかしたのも集めておいてください」
 互いに業務連絡のようなトーンだった。どんな風なら適切であるのか澪には分からない。口唇を引き結び、やることも残っていないのに、情報の海を雑な手つきでさらった。宮代が服を持ってドアの向こうに去るのを、気配だけで感じていた。
 ポケコンが青葉寮からの着信を告げたのは、それからわずか一分ほど後。
『久野里さん、今時間大丈夫ですか』
 橘結人が潜めた声で言う。澪はキーを叩きながら、ああと片手間に返事した。
『あの、さっきコガって刑事さんが来て、神成さんが大変で動けないとかって聞いて……』
「後で説明してやる。あいつに何を訊かれた?」
『それが、拓留兄ちゃんの居場所を知らないかって。何でそんなことを警察の人が把握してないんですかって、泉理姉ちゃんが怒って帰したんですけど』
 澪は椅子の上であぐらをかき、意味のない作業を止めた。真っ先に青葉寮を押さえに行ったなら、ここにもいずれ手は伸びるだろう。
『拓留兄ちゃん、無事ですか? そこに、いますか?』
 結人の不安に答えるのも一時しのぎにしかなるまいが、嘘をついたところで仕方ない。
「私が連れてきた。が、今は風呂だ」
『えっ……』
 えっ、ともう一度絶句して、結人はあろうことか、すみませんと消え入るように言った。ここまでくると多感だとか耳年増だとかを通り越して、澪はただただ面倒くさい。
「男ってのは放っておくとすぐ下世話に育つな。この陽気なのに風呂が一日おきだっていうんだ、普通に臭うんだよ」
 すみませんとものすごい勢いで繰り返す結人の声は無視。話を進める。
「神成さんなら、そのコガって男に撃たれた。命に別状はないが、こうなった以上病院も安全とは言えない。家族を巻き込みたくないってごねるから、宮代はこっちに移した」
『神成さんが……あ、いえ、ありがとうございます。それで、僕たちは……』
 結人の言葉は錯綜していた。澪は眉をひそめて首をかく。
「南沢の対応のとおりでいい。何も知らない、宮代を見失ったのは警察の落ち度だと主張しろ」
『わかり、ました』
 数秒の黙考の後、結人は小さく、澪の名を呼んだ。
『久野里さん。拓留兄ちゃんのこと、よろしくお願いします』
「何でお前らは、揃いも揃ってあいつのことを私に頼むんだ」
『だって久野里さんは――』
「……結人?」
 思いのほか、長電話になっていたらしい。宮代が素足で歩み寄ってくる。
「もう切る。お前もさっさと寝ろ」
『あ、拓留兄ちゃんにも「久野里さんをよろしく」って伝えてください!』
「伝えるか。じゃあな」
 通話を終了させるが遅かった。宮代は湯上がりで曇った眼鏡を拭きながら苦笑している。
「結人、すっかり久野里さんを『よろしく』できる立場なんですね」
「言うことばかり一丁前になるから困る」
 嘆息し、澪はポケコンをベッドに放り投げた。
「余計な時間を食った。お前が責任を持って手伝え」
「わかりました。何をすればいいですか」
 言っておいてなんだが、特にない。肩でも揉みましょうかと提案されたので、とりあえずそれに乗っておくことにした。

 

◆◆◆

『わずかな時間のお相手は、わたくし、ケイさんでした。時刻は間もなく、九月二十日、零時三十分。悔いのない一日を始められるよう祈っています』
 久野里がマイクのスイッチを切り、すっと遠い目をして椅子の背もたれに沈み込む。
「め、目の前で見るとやっぱり、すごいですね」
 憧れだったケイさんが久野里であるということは知っていたが、拓留が『ケイさんをしている久野里』を実際目にするのは初めてだ。
「そんなことより」
 流し目で成果を要求され、はい、と拓留は床で正座した。こっちは能動的な情報収集も久しぶりなのだから、少しは手心を……と、久野里澪にそんな慈悲を期待しても無駄だ。言い訳は腹の足しにもならない。世話になる以上、彼女の流儀にできる限り従おう。
 借りたポケコンで、教わったとおりに『抜いた』情報を読み上げる。
「やっぱり、神成さんは中野の警察病院に移されるみたいです」
「現職の警察官が撃たれて、その容疑者が同職だ。余計な情報が洩れる前に回収したくはあるだろうな」
「何か仕掛けるんですか?」
「特に何も」
 つまらなそうに爪の先をいじる久野里。拓留はずっこけそうになった。
「なんだよ。こっちも不自由してる身だ、怪我人抱えて何になる。国家権力が身内を守るって言うんだぞ、賭けに違いはないが向こうの方が分がいい。後は本人の運次第だろう」
「それもそうですけど」
 久野里御大におかれましては今回も荒事の方向、お止め申し上げるも務めと覚悟を決めていた拓留としては、肩すかしの感は否めない。
 久野里は、キーボードの横に頬杖をついた。
「むしろ、何故コガは神成さんを殺さなかったんだと思う? あの距離ならば致命範囲(バイタルゾーン)も狙えたはずだ。肩では、頭からも心臓からも遠すぎる」
「それは……いえ、道徳的な話は一度置いておこうって話ですよね」
 言い方はひどいが言いたいことは解る。拓留は事件ノートを開いた。
「十九日の事件はもう起こしてしまった後だし、だぶらせたくなかったからじゃないでしょうか」
「ならば何故、狙撃そのものを延期しようとしなかった」
「捜査を遅らせる為とか?」
「警察というのは組織だ。一人担当者が抜けたぐらいで回らなくなるほど脆弱じゃない。犯人が排除したかったのは『刑事』ではなく、『神成岳志』だったはずなんだ」
 そこまで言われて、拓留も気が付いてしまった。右手を持ち上げ、久野里の左手を掴む。
「これです。コガは僕に情報が伝わること、もしくは僕らが情報を共有することを防ぎたかったんじゃないですか? 物理的に、僕らの間を行き来できたのは神成さんだけだ。そこに何か変化があったとすれば」
「神成さんは、撃たれる前夜コガの目の前で、宮代の病室の鍵を私に預けた」
「きっとそれが、『何らかのルールに抵触した』んです。だから退場のペナルティはすぐに与えなければならなかった。でも僕でなく和久井に揺さぶりをかけるのなら、神成さんを消すことには何のメリットもないどころか、かえってあいつを動きやすくしてしまう」
「事はそう単純かね」
 久野里が急に肘を引いたので、手を繋いだままだった拓留はバランスを崩した。見ろと指差されたのはパソコンのモニター。
「伊藤が、渋谷にうずにしろ@ちゃんにしろ、自分の話題になると火消しが涌くと言っていてな。私は『釣りたいのは和久井だからだ』と答えた。方向性は恐らく間違っていないが、その仮説は、伊藤が狙われていない証明には何らなっていなかった」
 拓留は目を剥いて声を失った。画面の中、伊藤の話題でソートされたログは、確かに彼が攻撃されては擁護されているように見える。だが巧妙に偽装していても、言い争っていた発言の大半は、同じマシンによる自演だった。
「これの目的が『伊藤はターゲットではない』と誤認させることなら、神成さんが今日死ななかった理由も筋が通る」
 久野里は右手一本でテキストエディタを立ち上げ、澱みなく文字を入力していく。

 集団ダイブ  5人 
 妊娠男    1人(嬰児を除く)
 張り付け   1人 
 ヴァンパイ屋 1人
 ノータリン  1人
 美味い手   1人
 DQNパズル 3人

「名のある犠牲者は合計で十三人。今回は既に二人死んでいて、残りは十一人。少し順番を入れ替えるが……残りの被害者の選定が、こうであったらどうする?」

×張り付け   1人 大学准教授
×ノータリン  1人 AHの患者
 妊娠男    1人 伊藤
 ヴァンパイ屋 1人 川原
 DQNパズル 3人 神成さん・百瀬さん・私
 集団ダイブ  5人 南沢・山添・結人・有村・香月
 美味い手   1人 

 そこで久野里の酷薄な指先は止まり、最後の名前は口頭で告げられた。
「残るのは――尾上世莉架。最初の二人が数合わせで、神成さんは別の事件で消さなければ計算が合わないと考える方が自然なんだ。これでお前は社会的な寄る辺を失くし、和久井を頼る以外に生きる術がなくなる。世間から完全に孤立する」
「それ、僕のせいで……みんな殺されるって、ことですか」
 血の気が失われていくのが分かった。久野里の、拓留の手を握る指に力がこもる。
「そうだ。今回、お前には何の非もないが、この面子が死ぬとすればほぼ確実に、お前と縁が深かった以上の理由はない」
「なん、で」
 拓留はうずくまり吐き気をこらえる。
 どうして。こんな。赦されたいとも逃げ切れるとも思っていない、自分を差し出す覚悟ならいくらでもできているのに。自分と関わったというだけで、美しかった何もかもを闇に染めようというのか。そんな。そんなことは最早断罪ですらない。ただの。
「そんなの、ただの、こじつけの人殺しじゃないか……」
「ああ。理由があろうとなかろうと変わらない。人殺しは全て等しく、ただの人殺しだよ」
 久野里が椅子から下りてきて、床に両膝をついた。拓留の手を離さず、もう片方の手で強引に顔を上げさせる。
「宮代。お前が誰も喪いたくないなら、猶予はもうない。二十九日までに、先手を打って犯人を潰す。そうしなければ、誰かが死ぬ」
 この地獄のような絶望の中で、彼女の瞳は爛々と光っていた。飾りけのない口唇は、明瞭に抗いの言葉を紡いでいた。
「嫌なら全力で手伝え。死なせるよりも、死ぬ気を出す方がお互い性分だろう」
「……久野里さん」
 拓留は空いていた左手を、自分の頬にある彼女の右手に重ねた。微笑みがこぼれた。
「おかしいでしょう、そんなの。その仮説が正しいなら、僕は土下座してでもあなたに協力を頼まなくちゃいけないのに。……手伝えだなんて」
 両目の炎が揺らいで、久野里は黙って視線を伏せた。こんなときでさえ、無自覚な優しさは攻撃的な言動に隠れる。
 彼女に触れていると、拓留は遠い日に手離したディソードを思い出す。鮮麗な外観は近寄る全てを斬り裂きそうで、そのくせ存外な脆さは現実の密度に耐えかねる。外界を否定し、妄想の中でのみ不可侵を誇る凶器。慟哭を重ね、自己矛盾の刃はどこへ行きつくのか。
 命に優劣はつけられない。大切に想う者たちならばなおのこと。それでも拓留は、この猛々しくも繊細な女性を喪う悲劇に耐えられないと、確かに認めている。
「お願いします。一緒に止めてください」
 いずれあなたの見る相手が僕でなくなっても。
 今このとき、あなたも僕を喪いがたいと思ってくれているのなら。
「僕は、あなたの願いを、遂げたい」
 言葉の届かない向こう側まで叶えられるなら。今の僕にできる全てを、あなたに預ける。
 決定的な台詞を拒絶するように、久野里の口唇はまた拓留の口唇を塞いだ。今度は驚かなかった。深い傷の残る夜になるだろうと、拓留は静かに目を閉じる。

 

◇◇◇

 もっと自分を大切にしろだとか手垢のついた説教をくれるのかと思えば、宮代が囁いたのは全く違う台詞だった。
「声を、聞かせてください。言葉で、どうしたいのか、ちゃんと教えてください」
 そうか、と澪は天井を仰ぐ。自分たちはもう大人で、誰に許可を取る必要も、後ろめたく思う必要もない。意思ひとつでどうにでもなれるわけだ。
 言葉で、という注文が意外に難しかった。誘導したい方向はあるのに、手を引いていってはいけないとは。視線をめぐらせ使えそうなものを探す。
 閉め忘れたカーテンから覗く月は、満点とは言えないまでもそこそこに輝いていて――。
「『私を月までつれてって』」
「……『月が綺麗ですね』よりはマシですけど」
 言い換えれば、使い古された言い回しに頼ったの結局澪の方だ。
 やわらかいフローリングもどきにゆっくり倒れ込む。ぎこちない指先の代わりに澪は自分でシャツのボタンを外す。宮代は剥き出しになった澪の肌に触れ、これ、と気遣わしげに言う。肩の古傷だった。
「それは、大事な傷なんだ」
 澪は背を反らしながらこぼす。小さな歯形。だんだん落ち着いていく呼吸と、ひんやりした耳の感触は、今も身体が覚えている。
「私の、友達が遺してくれた」
 綺麗な金髪の、華奢な娘だった。利発な女の子だった。愛に飢えながら、恋も知らずに逝ってしまった。ぬくもりだけを遺して。それすらも、澪は上手く活かしてあげられない。
 宮代は傷にそっと口唇を落とす。そうして優しく、何度も、想い出の痕をなぞった。肩ではない場所が痛くて涙がにじんだ。宮代の背に両腕を回してしがみつく。思っていたより広いなんてずるい。
「抱いてくれ」
 今度こそ飾らずに告げる。懇願する。
 忘れさせてほしいなんて都合がよすぎる。けれど今夜、いや、この瞬間だけは。
「めちゃくちゃにして……麻痺させて」
 宮代の言葉はなかったけれど、向こうから口を塞いでくれたことで随分と安堵した。
 澪は自分が母親に似ていると思ったことはない、思いたくはなかったが、浅慮の血は争えないのかもしれない。成程これだけ頭を空っぽにできるならこの手段に溺れたくなる日もあるだろうし、自分のような存在を抱え込む事故だって起こり得るだろう。
 孤独な夜を短くする代償。甘やかな体罰を求める卑しい火はベッドに移っても消えない。傷が分からないほど切り刻まれたい。猥雑な不協和を引き裂いて、偽りの夢を無残に壊し尽くしてほしい。幾度も、幾度も、渇いた喉に熱砂を流し込まれたようにむせ返りながら、それでも悲鳴は贖罪の悦楽に跪く。
「名前、呼んで」
 青年の声に必死で抗う。その響きは罪人に許されたものではないから。舌に乗せた瞬間、彼の抱いた幸福がきっと崩れ去ってしまう。濡れた吐息に乱して溶かした。
「澪さん」
 切なげに呼ばれた刹那、澪の脳裏を染め上げたのは赦しを乞う言葉だけだった。

 

◆◆◆

 初めてのベッドの上で拓留は目を開ける。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。隣に久野里の姿はない。シャワーを浴びているのかなとぼんやり思い、服を手繰り寄せて身につけた。
 手持無沙汰で、更新されたばかりのノートを読み返す。神成が撃たれたときの状況は久野里の証言が全てだったが、自分の考えも少しは加えてみようか。いろいろと思いをめぐらせているうち、拓留は二つの重大な事実に気付いてしまった。
 まず、コガ一人であの狙撃は成立しないこと。そして――。
 今この家の浴室からは(・・・・・・・・・・)まるで水音がしないこと(・・・・・・・・・・・)
「久野里さん!」
 怒鳴りながら開けたドアの向こうは予想どおり空だった。栓をした洗面台に、この部屋のものと思しき鍵が光っている。
「くそ、ベッド抜け出して一人で出ていくとか……映画の観すぎだろ!」
 判断が甘かったのだ。拓留が彼女を繋ぎ留めようとして行ったことは、結果として最後の糸を断ち切った。ならば泣いて嘆くかと言われたら、冗談ではない思う。己の為したことに対して責任と贖いを。拓留が六年、ずっと胸に決めてきたことだ。
 外へ飛び出した。彼女の行く先なら解っている。何をしようとしているのかも。
 だからこそ、間に合ってほしいとそれだけを願った。