楽園追放 ―Children’s AnotherEden― - 4/8

第三章 あなたが欲しいと願うもの

◆◆◆

『九月十日、お昼のニュースです――』
 拓留は寝転がったまま、ラジオのつまみをかちかちと回していた。どこにチューニングを合わせても聴きたい声は届かない。拓留が望んでいる番組はウェブ配信だから。カレンダー代わりにと自分に言い訳をして、目につくたびに電源を入れているが、日付なら起床時のアナウンスでとっくに分かっている。
 スイッチを切って、イヤホンを外す。寝返りを打つと、天井はあの頃よりも薄汚れている気がした。
『一生ここに住め』
 冷たい目で言い放ったきり、久野里は一回も顔を見せに来てくれない。元々期待はしていなかった、むしろこの部屋で彼女に会うことは拒むつもりでいた。だというのに、焦燥感がずっと胸でくすぶっている。
 無為に手を伸ばす。何も掴めない手が空を切って、重力に従い落ちる。落ちる。
 十二番目の画像を作り出した後――拓留は、ある少女の幸福以外、一切の願いを捨てた。家族は、友人たちは、拓留の手を借りずとも未来を歩み始めている。あの少女が己の足で地面に立つことを覚えたなら、いずれお節介な祈りも手折ってしまおうと思っていた。
 そのはずが。
「宮代くん、入るぞ」
 唐突にロック解除の音がして、神成が姿を見せる。返事は絶対に待たないんだよな、と心の中でぼやきながら拓留は身を起こす。
「おはようございます、神成さん」
「もう昼だぞ」
「でもまだ十九日じゃないですよ」
 ここで神成も拓留の嫌味に気付いたようだったが、何も言わずベッドサイドの椅子に腰を下ろした。コガとかいう若い刑事も一緒に入ってきて、軽く礼をする。ドアの傍らにずっと立っている。神成は構わず話し始める。
「いくつか分かったことがあってな。一応報告までに」
「目撃者がいなかった理由とかですか」
「そういうことだ」
 神成は頷き、難しい顔で続けた。
「以前は静謐だった慰霊碑前広場は、最近じゃ中高生のたまり場になっていた。そこまでは君も知っているか」
「はい。泉理から、夜は絶対に近づくなと散々釘を刺されてました」
 その話をするときの泉理はいつも泣きそうな怒り方をしていたのだが、神成に細かく説明してやる必要はない。
 とにかく、十二年は長かった。未曾有と呼ばれた規模の極地型地震。今の十代にとっては覚えがないことか、渋谷に来る前に起こったことだ。彼らは地獄と化した渋谷を知らない。乗り越えられた悲劇は往々にして風化していく。
 拓留の感傷を知ってか知らずか、神成は頭を押さえた。
「あんなところで目立つことをしていれば、流石の悪ガキでも警察に通報したはずだろう。だが今月の頭に、生安課があそこで随分キツいお灸をすえたらしい。おかげで少年少女が被害に遭うことはなかったものの、目撃者は一人もいなかった。深夜なら誰かが通るような場所でもないしな」
「でも、音は? あの辺は静かなんですから、杭なんて打ち付けていたらすぐに分かるでしょう」
 拓留は記憶を手繰り寄せる。昔調べた限りでは、張り付けの犯行時間前後、近隣住民は『金属を叩くような音』を聞いていたはずだ。
 それなんだが、と神成はさらに眉をひそめる。
「君は多分、丑の刻参りみたいな、おどろおどろしいのを想像してるだろうが。杭には打撃痕がほとんどないんだ。どうやら、ハンマードリルか何かで慰霊碑にあらかじめ穴を開けて、そこに被害者の衣服ごと挿し込んだだけらしい。あの辺り、ここ半年ほどずっと工事しているからな。日中に隙を見て忍び込めば、多少騒音が増えてもバレはしなかったんだろう。地味な話だ」
 拓留も思わず黙り込んでしまった。
 あまりに普通。誰にでも可能。即ち、拓留が最も疑っていた、和久井修一――ギガロマニアックスの犯行であるとは考えづらい。
「単なる便乗……?」
「の、可能性も濃くなってきた。他の連中はそっちを洗ってる。そうであってくれたら俺たちも助かるんだがな」
 神成は、少しも助かりそうもない声で呟くと、懐から何かを取り出した。煙草の紙パッケージだ。喫煙はしなかったはずだが。拓留が訝っていると、神成は手招きをして後輩にその小箱を握らせた。コガは苦笑して頭を下げる。
「いつもすみません」
「適当に切り上げろよ。高校の頃も部室で吸って殴られただろ」
「あ、あの、人前で昔のヤンチャの話はちょっと」
 そそくさと若い刑事が立ち去り、拓留は神成から距離を取る。
「一般人の目の前で身内を買収するの、やめてもらえません?」
「ただの労いだよ。まぁ、出世に響くから早く禁煙しろとは常々言ってるが」
「神成さんてひょっとして友達少ないんじゃないですか」
「失礼だな君は……」
 この軽口で、神成はようやく目許の鋭さを解いてくれた。拓留の覚えている『神成さん』の空気に、じわりと戻っていく。
「久野里さんと何かあったか」
 やわらかな口調に、かえって拓留はどうしていいか分からなくなってしまった。何もと白を切ろうにも、二度も醜態を見られたのだから徒労だろう。
 拓留は手短に、この部屋での彼女とのやりとりを説明した。
「いきなり無言で首絞めか……」
 神成は今度こそはっきりと頭を抱えていた。問題児を受け持った担任教師みたいだなと思う。拓留も面談中の生徒のようなものだ。大概問題児であることは否定しない。
「久野里さん、あの頃僕に一度も手紙をくれなかったんですよ」
 だが今は、自分の思考を整理する為に、神成に生徒をしてもらうこととしよう。拓留はひどく久しぶりに、一席ぶつ呼吸に入った。
「なのに、ずっとこちら側にいてくれたんです。四年半も費やして、こうして僕を箱の外へ出してくれた。政情次第でどんな努力も無駄になるって、きっと誰より解ってたはずのひとが。利害の一致とか、理由があればまだよかったのに……そこまでしておいて、彼女はそれが何の為だったのか理解していない(・・・・・・・・・・・・・・・)し、理解する必要すら感じていない(・・・・・・・・・・・・・・)んです。そんなふざけた話があってたまると思いますか」
「待て。何の話だ?」
 神成の困惑が手に取るように分かる。拓留は静かに目を伏せる。
「久野里さんは帰国子女ですよね。多言語話者(マルチリンガル)とされる人は、自分の想いを適切に言語化できないことがしばしばあるそうです」
「彼女が言葉に不自由しているようには見えない」
「口が立つのは確かでしょうね。ただ感情面で、彼女はいわゆる双言語未成熟(ダブルリミテッド)の状態にあるのかもしれないって気がするんです」
「それこそ、久野里さんのする話みたいになってきたな……」
 神成が大きなため息をつく。やめますかと拓留は訊いた。俺にも分かるように進めてくれと返され、微笑んで頷く。
「単純化された例え話ですけど。海外出張の多い男女が仕事先で恋に落ち、その国で結婚して子供を授かった。二人は今までどおり各国を回りつつ、互いの母国語ではなく、共通言語である英語で子供を育てた。成長したその子は、『定型発達』の診断を受けながら、同年齢の子たちより発話能力が明らかに劣っていた。どうしてだと思います?」
「まるで講義だな。ええと、違う言語の国を多く回りすぎたからか?」
 口調では茶化しながらも、神成の答えは真面目だった。それも要因のひとつでしょうね、と拓留は我ながら偉そうに肯定。
「一番の理由は恐らく、両親が二人共、英語圏の出身ではなかったからです。発話者の母語でない言語を浴びて育った――だからその子は、母語の獲得が上手くいかなかった(・・・・・・・・・・・・・・・)
「だから。俺にも理解できるようにしてくれ。その例え話が久野里さんと何の関係がある」
「ところで、今どんな気分ですか」
「どんなって。すごくもやもやしてるよ」
「神成さん、英語も話せますよね。その気分、英語で正しく言えますか。訳してる途中に、本質がズレていくというか、逃げていくような感じがしませんか」
「……ちょっと解ってきたぞ」
 神成は、もやもやすると言った胸をシャツの上からこすった。
「心身に定着していない言語は、意味は理解できても感情からは乖離する。意思疎通に特化した上滑りの言葉は、感情面において自己表現の手段たりえない。回答欄にはこう書いて置けば及第か? 宮代先生」
「さぁ。僕は社会言語学者じゃないし、採点はできませんよ」
「君なぁ……」
 文句が来そうだったので、拓留はやっと問題を久野里に戻すことにした。長々と講釈を垂れたのはその為だ。
「久野里さんのご両親は日本人だそうです。けど本人が、小学生の頃は日本語があんまり上手くなかったと言ってました。それって、家庭内でも日本語でない言語(・・・・・・・・)でやり取りする率が高かったって風にも聞こえますよね」
 あるいは、家ではほとんど誰とも会話をしていなかった。そう付け足さなかったのは、自らと彼女の境遇を過剰に重ね合わせない為だ。今は拓留が感傷に浸る時間ではない。
 神成はいよいよ険しい顔でうめいた。
「久野里さんの情緒的不安定は、母語獲得失敗が遠因じゃないかと?」
「分かりません。でも、長くアメリカに住むきっかけになったっていう渋谷地震のとき、僕らは十二歳でした。言語形成期における、定着のターニングポイントです。それに僕は、自分の存在や言葉というものに何の疑問も持たなかった女の子が、知的好奇心だけで言語哲学(ウィトゲンシュタイン)に傾倒するとは思えないんですよ」
 拓留は自分の喉に軽く手を添えた。まだ残暑も厳しいというのに、ひどく冷たかった指を思い出す。
「信じられますか? 他人の首を絞めておいて、それで初めて、自分は怒っているんだって気付いたような顔をして。冗談じゃないですよ」
「やっと繋がったぞ」
 神成は拓留の真似をするように、自分の首を片手で覆った。
「要するに君は、久野里さんが理由さえ自覚しないまま、取り返しのつかないことをやらかすのを恐れてるんだな?」
「それもひとつですかね」
 拓留は苦笑して、教える口調を捨てた。宙に伸ばす手は相変わらず掴むものを見つけられず。
「僕は。どうしてそこまでしてくれるのか、ちゃんと本人の口から、本人の言葉で、本人の気持ちを聞きたいんです。そうじゃないと、僕も……動けなくなりそうで」
「なら、君が先に『結果』になってやったらどうだ。そうすれば理解できるんだろう? 彼女にも」
 神成は静かに立ち上がった。柔和な笑みは、すっかり拓留の親しんだ『神成さん』のものだ。
「今すぐには無理かもしれないが、そのうち引きずってでも連れてくるよ。君たちは、納得いくまでとことん話し合った方がいい。それこそ、もう表面的な言葉なんて尽きてしまうまでね」
「ありがとうございます」
 長広舌を振るってすみませんでした、と拓留が肩をすくめれば、慣れてるよと誰のことだか神成も背を揺らす。
「また来る」
「はい。気をつけて」
 かつて幾度となく交わされた台詞だった。もう二度とないはずのやり取りだった。あるとすれば、拓留がまた大切な何かを失ったときのはずだった。
 何も奪われず同じ言葉を発していることが、不意に眼の奥を鋭く揺らす。
「神成さん。よろしくお願いします」
 何を、と続けられなかった。多すぎて。重すぎて。託せない。押し付けられない。
 だから、拓留は空を切り続けた手を握り締め、精一杯笑った。
「僕も、また最後まで戦います」
「――ああ」
 神成の拳が拓留の拳に軽く当たる。顔は見せまいとしていたようだが、神成の声は震えていた。
 一人になり、拓留もベッドから立ち上がる。成程、あの日彼女の言ったとおり脚はしっかり仕事をしている。今度は手の番。放置していた荷物から、A5サイズの小さなノートと鉛筆を出す。筆記用具を取り上げられなかったのは僥倖だった。
 あのとき。拓留は碧朋学園新聞部の歴史を、三年ももたせず終わらせてしまった。愚かな最後の部長であり、初代にして唯一の部長。
 もう踊らされず、耳を塞がず、眼前の出来事を見据え記録する。何の役に立つのかいじり回すのは後でいい。今は頭を、手を、可能な限り動かし続けよう。
 深く息を吐いて、短く吸った。
「大分留年したけど。……大仕事、ちゃんと働いて片付けるよ」
 誰もいない部屋で、仲間たちに約束をして。
 さぁ。碧朋学園新聞部、五年以上の空白を越えた、最後の活動だ。

 

◇◇◇

『時刻は間もなく、二〇二一年九月一九日、零時三十分。悔いのない一日が――』
 渋谷にうずをいつもの台詞で締めようとする傍ら、澪はあと数秒を待てなかった。別ブラウザで開いていた『三代目ニュージェネレーションの狂気スレ6』(古いダンスグループじゃあるまいし、どうもネット民はネーミングセンスがおかしい)を更新。目を見開き、口唇の片端を邪に引き上げる。
『この放送はここまでですが、どうやら次の夜も皆様とご一緒できそうです。無事に一日を終えられることを祈っています(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
 地が出ないよう慎重に言って、一分長びいてしまった放送を終えた。番組ページを残したまま、『三代目』のスレを手前に持ってくる。皆がしきりに反応しているある書き込み。安全を確認してから、拡張子のついたURLをクリック。一枚の画像が表示される。
 ――ネットオークションのスクリーンショット。
 二枚目の画像を開く。人が倒れている。
 ――額より上の頭蓋が取り去られている。
「ちゃんぽんするなよ、悪酔いするだろうが」
 吐き捨てながら澪は知っていた。自分が、ずっと笑っていることを。
 ツイぽは即時性の面では有効だが、情報がとにかく『軽い』。癖の少ないSNSに人が流れても、澪が@ちゃんから目を離さないのは、真偽に関わらずここには『重い』情報が落ちてくるからだ。
 死体はまるで植物迷彩装備(ギリースーツ)のように草だらけだった。露出している肌の具合から見て、死後根付いたという風ではない。剥き出しの脳は剣山に見立てられたのか、白と黄色の菊の花が幾本も刺さっている。眼孔にも耳孔にも鼻孔にも口腔にも穴という穴に大量の枝葉が詰め込まれており、これを作為的でないと見る馬鹿などいないだろう。
 結人が不快だと言った、下衆な大喜利はもう始まっていた。二十ほどレスがついたところで、また画像データ付きの書き込み。二枚の画像を投下したのと同じIDだった。
 恐らく、スレッドを閲覧していた全員が飛びついた。澪も。二枚の写真を一つに繋げた画像で、右側が死体を別角度から撮った様子。どぎついピンク色のポップな文字が、昔のプリクラよろしく踊っている。
『草生える』
 事件の名称をそう誘導しているらしい。澪にはどうでもよかった。より重大だったのは、画像の左半分。
「……流石に笑えない」
 急いで、職場のパソコンから抜いたデータをポケコンに転送した。最低限の貴重品だけ持って、薄手のジャケットを羽織り家を出る。
「電話、神成岳志」
 ポケコンに命じると二コールで神成が取った。名乗りすらせず、澪は当たりを付けた方角に早足で向かう。
「協力してやる気になった。現場の位置を教えろ」
『おい、何だいきなり?』
「いいから早く住所なり位置情報なりを送れ、その活け花野郎の名前が知りたいならな!」
 路上で出すには大きすぎる声で怒鳴ってしまったが、気にする余裕もなかった。どうせ警察はまだ身元の特定もできていない。遅い。後手に回っては再来と同じことになる。
『どういうことだ! 心当たりがあるのか』
「@ちゃんに生前と死後の比較と思われる写真が貼られた。耳の形などから、同一人物の可能性が極めて高い」
 澪は通話を続けながら、保存した画像を拡大する。背後に写り込んだ建物から現場を推測し道を絞り込んでいく。特徴的な場所だ、間違いない。
「……そいつは恐らく、うちの患者だ。今からデータを持っていく」
 神成は即座に、澪の予想どおりの居場所を吐いた。瞬発力はまだ残っていたようで助かる。澪は流していた空車のタクシーを拾い、後部座席に身を滑り込ませた。
「宮下公園まで」

 

 宮下公園は、宮代がいなくなってから行政により再整備された。事件のせいではなく、元々決まっていたことだ。渋谷に集まる人間の質が急激に変わるわけもないのに、『空中公園』だ何だと華やかに作り変えられた。野次馬をかき分けてきた知らない刑事にタクシー代を払わせ、澪は脱いだジャケットで顔を隠し奥へ進んでいった。
「宮代のトレーラーハウスがあった場所か。ご丁寧なことだな」
 神成の前でようやく上着を羽織り直す。挨拶の口上もないのはお互い様だった。神成は黙って手を出してくる。澪は@ちゃんを開いたポケコンを渡してやった。
「そのスレはもう埋まって次スレが立ってる。その次も時間の問題だろう。検証スレも乱立しているが落ちずに残るのは、ニュー速の本スレと、オカルト板に昔からある『その目だれの目』ぐらいだとは思う」
「分かるように頼む」
 神成はお約束の調子で言っただけで、本気で説明を求める様子ではなかった。手袋を右側だけ外し、澪のポケコンのタッチパネルで例の写真を確認している。
「撮影は日中、いや少し翳っているか……解析すれば時刻を絞り込めそうだな」
「そんなに長く死体を放置できるのか、ここは?」
 澪は横から手を出し、別の画像に切り替えた。耳が痛いが、と神成は苦い声を出す。
「昨日の午前中、不審物の通報があってな。それ自体は、炭酸飲料の缶を熱して破裂させるという時限式の悪ふざけだったんだが、安全が確認できるまで、警官と警備員で利用者を退避させたり入り口を封鎖したりしていた。ここから一番遠い区画だ……まんまと陽動に引っかかったようだな。その後も一日、公園全体を見回っていたというから、撮影した後に隙を見てまた隠したんだろう。発見場所はその中」
 神成が顎で示した先は、公衆トイレだった。澪は小さく首を振る。
「宮代の古巣で、ヴァンパイ屋とノータリンの合いの子か。序盤からそんなに飛ばしたら、ネタが足りなくなるだろうに」
「人が死んでいるんだぞ。ネタだとかそういう言い方は――」
「『こんな非常識が蔓延している現場で常識的なことを言うな』」
 ポケコンを奪い返し、澪は神成を睨み上げた。
「この構造すら他の事件の焼き直しだと知っているのは、あんただけだな? 神成さん」
「……何が言いたい」
「別に」
 神成は顔を歪めたが、結局何の抗議もせず、ついてくるよう身振りで示した。タクシー代を払ってくれた若い刑事も一緒に来た。こいつが例のお目付け役か。
「先にこちらの手札を開示する。その代わり、聞いたら知っている限りの情報を提供してくれ」
 階段をのぼりきったところで神成は振り返った。そのまま飛び降りかねないぐらい差し迫った顔だった。それは、刑事の聴取というよりもむしろ。
「分かった。まず遺体の状況から」
 澪が促すと、神成は悄然と頷き、手帳に目を落とした。
「第一発見者は、見回りをしていた巡査。男子トイレの個室が一つ閉まっていたので、ノックと声がけをしたが返事なし。無線で同僚に連絡し、待つ間に隣の個室から中を覗いたところ、被害者が便座に座らされていた。だが全身が植物で覆われていた為、最初は人間であることさえ分からなかったらしい」
「時刻は?」
「本日零時十八分」
「書き込みは零時二十九分だ、そいつが犯人でないならスレッドを見たというわけでもなさそうだな。他には?」
「恐らく医療従事者じゃない。少なくとも開頭の知識はないか、使う気がない」
 神成は脇に抱えていたタブレットを操作し始めた。日本警察の独自端末だ。背面に警視庁のエンブレムと、各都道府県警に割り振られたナンバーが刻印されている。先の『居ル夫。』騒動以降セキュリティを大幅に強化し、一般のポケコンとは違う通信方法を使っているはず。剥がれかけた黄色い管理番号シールは、その威厳をちっとも感じさせない。
「確認してくれ。高科史男のときと切断面が全く違う」
 神成がタブレットを澪に見せようとすると、ずっと黙っていた若い刑事が大慌てで割り込んできた。
「神成先輩! あんな写真をこんな若い女性に見せたりしちゃ……!」
「コガ。『それが邪魔だと言われなかったか』」
 顔すら見ず、神成は片腕でコガと呼ばれた青年を押しのけた。澪は肩をすくめて画面を覗き込む。人の台詞を泥棒して教育するとは、神成の皮肉も少しは上達したようだ。
「確かにひどい。ホームセンターの工具でも使ったのかよ、頭皮も骨も論外な処置だ。下穴からして、硬膜を突き破って脳に達してる。死因はこれか?」
「正式な結果はまだ聞いていないが、窒息死だろう。俺の見立てでは背後からの腕絞め」
「まるで脳筋だな。皮膚の草は?」
「これも死後。剣山のようなものを押し付けて大量の穴を開け、そこに挿し込んだらしい。まだ全て特定したわけじゃないが、頭の菊以外ほぼ現地調達だそうだ。作業がいやに丁寧な部分と、雑な部分がある。途中で飽きたのか、時間がなくなったのかまでは分からん」
「そもそも、見つかったのは十九日だが死んだのは十八日なんだろ? 土曜日に青草を与えて、日曜日にはお休みか。ジーザスクライストだな」
「今回は全体に粗いんだよな。どうも」
 神成がうんざりした口調で言った。人を殺そうなんて連中を日頃相手にしていても、ここまで頭のおかしいのは警察も面倒を見るのが大変だろう。
 どうやら聞きたいことは全て引き出せたようなので、こっちの番だな、と澪も自分のポケコンをもう一度取り出した。
「心気妄想という症状を知っているか。簡単に言えば『自分は病気に違いない』という、事実とは異なる確信だ。カオスチャイルド症候群はその特殊性ゆえに、他の精神疾患を持つ人間に『自分の症状も症候群から来たものなのだ』という思い込みを抱かせやすかった。特に復興祭の直後は、そんなので溢れ返っていたんだよ。実際の症候群者が快復するにつれ、そういった愁訴も目に見えて減っていたんだが……この男は、最後まで『自分はカオスチャイルド症候群の患者だ』と言って譲らなかった」
 職場から抜いてきたカルテの画像を、澪は人差し指の関節でこんと叩いた。紐づけていた顔写真が開く。元々書類に添付されていたものではないが、あまりしつこいので念の為どんな奴なのか調べてあったのだ。
「こいつは絶対にカオスチャイルド症候群じゃない。まず四十では年齢があまりに高すぎる。更に言えば、こいつは一年たりとて渋谷に居住した事実がない。住所は江戸川区小岩、おたくらがあんまり仕事をしない地域」
「面目次第もないんだが今は放っておいてくれ」
「国から等級までもらった重度の精神疾患、関係妄想が顕著。症候群に関する思い込みがより強固になったのは、母親が一昨年HUG暴走事故に巻き込まれ亡くなってから」
「待て。それじゃあまるで……」
 神成は何かを言いかけ、後輩刑事の顔を見て言葉を飲み込んだ。まるでこの為に差し向けられたようじゃないか、とでも言おうとしたに違いない。
 澪は嘆息してポケコンをしまった。
「あるいは私の関係妄想を疑っても構わんが。これ以上の情報は病院の内部にしかない、匿名の通報だとか理由をつけて正面から来てくれ」
 きびすを返す。居座っても死体の現物は見せてもらえまい。澪の洗った限り遺族は既になし、神成はまた最速の手段で司法解剖に回すはずだ。見張りがいては、あの頃のように立ち合わせろとは言えない。
「久野里さん」
 重苦しい神成の声に振り向く。小さな板を投げ渡される。
「協力者への謝礼だ。明日ぐらいには取りに行くから、そのとき返してくれ」
 カードキーだった。あの個室のだ。
 澪は、ここが死体発見現場であるのも忘れて笑ってしまった。
「謝礼の返却を要求する奴がいるかよ」
「あんたにとって、返したくないほど価値のあるものなら返さなくてもいい」
「いいや、返すよ。利子を付けられたくはないからな」
 謝礼の鍵をジャケットのポケットに突っ込む。
「やっぱりあんた、神成さんだな」
 面倒くさい質問を食らう前に、澪はさっさと現場から離脱した。マスコミのいそうな出入り口なら把握していたし、ビッグデータから人の密度を割り出すアプリも入れていた。見咎められず出ていくことは難しくなかった。
 これをどうしようか悩む。違う、自分への体裁として悩んだふりをした。
足はもう代々木へ向かっていた。もらった権利は使わなければ、損だ。

 

◆◆◆

 開錠の音がした。布団の中にいた拓留は、ラジオを止めてイヤホンを外す。
 神成だろうか? まだ事件の報道はないが、日付ではもう起こっていてもおかしくない。それにしてもこんな深夜とは、よほど緊急の――。
「起きてたか、宮代」
「……久野里さん」
 入ってきた久野里澪は、どうやら機嫌がいいように見えた。足下の非常灯しか光源のない部屋でも、顔が上気しているのが分かる。何かあったかと問おうとして中途で詰まった。死体が出たと返されたら、彼女の胸倉を掴まずにいる自信がない。
 とりあえず起き上がりベッドに座った。
「どうやって入ってきたんですか?」
 質問を変えれば、見りゃあ分かるだろうと久野里はカードキーを掲げる。銀色に緑の線が一本。病院の職員用ではなく、外部の人間――今回なら神成だけが、特例で持っているはずの鍵だった。
「情報料として渡された。明日には返せと言われてはいるが」
「そうですか」
 まただ。会話は成立しているが意思の疎通ができていない。拓留が黙り込むと、久野里は大股で歩み寄ってきてイヤホンのコードをつまんだ。
「よく許可が下りたな。閉鎖病棟では基本、紐類と鋭利なものは持ち込み厳禁だぞ」
「僕は希死念慮のある患者じゃありませんし。ペンの類は仕掛けをするかもって止められましたけど、鉛筆なら持たせてもらえました」
 拓留が苦笑すると、久野里の瞳の色が変わった。どこか浮ついた様子だったのが、平素の涼しい光に戻っている。安堵したような落胆したような気持ちで、拓留はノートを手元に引き寄せる。
「見ますか。神成さんと会ってるなら必要ないですかね」
「いや」
 どちらとも取れる返事をしながら、久野里は拓留の膝の上からノートを持ち上げた。白い指が表紙を開き、静かな目が拓留の綴った文字列をなぞっていく。
「宮代」
 不意に、久野里は細い声で拓留を呼んだ。視線は紙に落としたまま。
「お前、あのまま『普通の高校生』でいられたら、何になりたかった」
「え――」
 てっきり事件のことを訊かれると構えていたのに、予想外すぎて面食らってしまう。返事に窮していると、何にもないのか、と久野里は短く息をつき拓留の右隣に腰かけた。
「私もだ。目の前に『負かせてやりたいもの』はあっても、『やり続けたいこと』というやつが特になかった。というか、今もない」
 膝にノートが戻される。結局これは、彼女の役に立ったのだろうか。勢い込んで書き始めたのに、確かめる勇気が出て来ない。
 拓留はノートの表紙に右手を置く。
「僕に『やりたいこと』が明確にあったなら、あんなことにはならなかったでしょう? いつも場当たり的に生きてるだけですよ。ずっと……今だって」
 拓留が今願いたいものは家族や仲間の幸福で、それは自分を介さなくても十二分に叶うものなのだ。いや、拓留が関わることで叶わない可能性が高まりさえする。
 はは、とひどく乾いた笑い声がして、それが自分のものだと気付くのに時間がかかった。
「不謹慎な話、僕が迷いも疑いもなく目標に向かって頑張れたのって、ここで久野里さんと画像を作っていたときだけかもしれませんね。一緒に考えて、立ち向かって、叱られながら練習して。僕が本当に努力した時間があるのなら、あのときだけだったのかも」
「嘘をつくなよ」
 ノートの上の右手に久野里の左手が重なる。台詞は厳しかったが、手つきは撫でるようにやわらかい。
「好きだったんだろ、新聞部。頼まれもしないのに記事をまとめるぐらいには。何の努力もせず、熱意もなかった人間が、ここまで書けるわけがない」
 拓留は口唇を噛んで俯いた。そうでなければ、みっともない姿をさらしてしまいそうだった。
「ずるいん、ですよ、久野里さんは」
「なにが」
「普段がひどいから、ちょっとしたことが、すごく、優しく思える」
「褒めてるのか?」
「文句言ってるんです」
 華奢な手が逃げてしまわないように、拓留は指を絡めて強く握った。冷たい肌だった。
 今『やりたいこと』が、急に確かになって胸を占める。たとえそれが場当たりでも、お節介でも、傲慢でも、何だっていい。
「久野里さん。ここを出たら――」
 あなたにも特にしたいことがないのなら。やるべきことがないのなら。
 ――それを言ってしまっていいのか?
「宮代」
 一瞬の躊躇を衝いて、久野里が顔を近づけてきた。ゼロ距離。何の甘さもない、黙らされただけの口付け。
「相談料。お前のファーストキスなら悪くない」
 久野里は疲れた調子で言う。
「お前も、ノートの閲覧料、私のファーストキスで文句ないだろ」
「ないわけ、ないでしょ」
 深夜でなければ大声を出しているところだった。
 本当に、どこまで行動が先に出てしまう人間なんだ? 限度ってものがあるだろ。
 拓留は立ち去ろうとする彼女の腕を掴み、強引に引き寄せた。
「責任、取らせますからね」
「安心しろよ童貞、キスで子供はできない」
「もう、ちょっと黙っててください!」
 強く強く抱きしめる。手は冷たかったが胴はあたたかい。拓留より背が高いけれど、細くてちゃんと女性の身体だった。
 久野里澪は、拓留にとって大切な仲間であり、一人の女性なのだ。
「ここを出たら、聞かせてください」
 彼女の顔を見ようか少し迷った。逃げたら資格がなくなる気がして真っ直ぐ見つめた。
「何年もかけて僕を助けてくれた理由。毎月お茶してくれた理由。奢らせてくれなかった理由。スカートをはいてきてくれた理由。全部、ちゃんとあなたの声で、聞かせてください。……軽々しくこんなことした責任、取ってください」
 久野里は瞬きもせず拓留の目を覗き返していた。やはり自分の感情を判じかねているのか、頼りない表情だった。
 拓留はゆっくりと腕の力を抜く。ごく自然に、二人の肉体は離れていく。接触した事実など最初からなかったように。
「勝手に入ったくせに、勝手を言うな」
 久野里は口唇に触れながら、押し殺した低い声で言った。
「訊きたいことがあるなら、勝手に出てこい」
「そうします。いつまでも流されてばかりでいられませんし」
 待っててくれますかと尋ねたら、勝手にしろと吐き捨てて久野里は出て行った。乱暴なのにどこか軽い足取りだった。
 拓留はドアに歩み寄り、額を押し付ける。硬い。遠い。けれど必ずこの向こうに戻って。
「そのときは僕も、あなたに言います。やりたいこと、届きたい場所、全部」
 もう躊躇わずに、何もかも打ち明けます。
 仄明るい病室。カーテンを開ける自由も許された部屋。彼女の呼んだ『虫籠』。
 今夜はラジオを聴かずに寝ようと思った。できるだけ長く、耳の奥に彼女の声を残しておきたかった。