楽園追放 ―Children’s AnotherEden― - 2/8

第一章 君を待っていた

 久野里澪は息を弾ませて駆ける。二〇二一年にもなると、渋谷には人だけでなくロボットまでもうろついていて、どちらも蹴り飛ばしたいぐらいに邪魔。思うだけで実行はせず、薄手のロングスカートを揺らしながら、スクランブル交差点を器用に走り抜ける。澪はこの街が嫌いで、日本の残暑もしつこくて大嫌いだ。初日とはいえ、もう九月なのに。
 未だ日焼け止め以上の化粧を知らない額を拭い、スペイン坂の辺りで足を緩める。急速な発展を遂げる都会にあって、この一角は多少ましな景観を残していた。
 息と前髪を整えつつ、約束のカフェを探す。ビルの影に発見。店先のブラックボードに従いドアを開ければ、宮代拓留が奥の席から手を振ってきた。
「久野里さん。こっちです」
「お前はいつも先に来てるな。暇なのか?」
 澪はテーブルに歩み寄っていく。安っぽい革の長椅子に座ったまま、宮代は微妙な顔で澪を迎える。
「久野里さんがいつも遅刻するからじゃ……それに、女性を待たせるのは失礼だって意識ぐらい、僕にもありますよ」
「四年も待たせておいて、よく言う」
「それについてはもう、申し訳ないとしか言いようがないです」
 小さくなる宮代に満足して、澪はようやく席に落ち着いた。彼が好んだカフェはもうないが、根強く『若者の街』を掲げる渋谷だ。飲食店には困らない。ロボットが接客をする店にも慣れた。
「パート、調子はどうだ」
 澪が問えば、宮代は曖昧に笑って返答を濁す。
「前ほどじゃないです。元々渋谷よりはマシでしたし」
 ふうん、と澪も深くは追及せず、備え付けのタブレット端末を手繰り寄せた。
 『ニュージェネレーションの狂気の再来』。あの忌々しい事件の主犯とされた宮代拓留は、去る二〇二〇年に唐突な逆転無罪判決を受け、晴れて自由の身となった。以降渋谷に戻って再び『家族』と暮らし、区外のスーパーマーケットでパートタイム労働に従事している。
「そういえば久野里さん、伊藤には会いましたか?」
「いや、日本に戻ってからは一度も。お前は度々会っているんだったか」
 タブレットの『メニュー一覧』から『ブレンドコーヒー(ホット) 六〇〇円』の画像をタップ。五分もしないうちにロボットがカップを持ってくるはずだ。人件費を削減しているのに、料金が有人カフェと大して変わらないとは恐れ入る。
 宮代は既に来ていたアイスコーヒーをすすり、眉を寄せた。
「まだ二回しか会えてませんけど。心配してたよりは元気そうで、安心しました」
 よりは、と注釈が入る辺り、心底安心したというのでもないらしい。澪は嘆息して、すり切れた背もたれに体重を預けた。
 宮代拓留を『無罪』にするには、かつて彼を『主犯』にせしめた証拠が捏造であると告発・証明し新証拠を提出すること、また『真犯人』を用意することが必須であった。前者は澪たち電脳班と、刑事の神成が死力を尽くした。後者は、綻びのない『シナリオ』を演じきる覚悟が、関係者全員に要求された。
 中でも重要な役割を担っていたのが伊藤真二で、彼は『佐久間恒に指示された』『宮代も含め、自分たちは佐久間の支配下にあった』『宮代は思想的に洗脳を受けていただけで、自身で手を下した犯行は一つもない』と繰り返し証言した。伊藤の貫いた『嘘でもないが、まるっきりの真実でもない』茶番が、再審を拒んでいた宮代を根負けさせ、ついには逆転無罪へと導いたのだ。
「あいつ、軽そうに見えてすごく律儀だし、頑固だから……。自分がやってしまったことは、理由とか意思とか関係なく許されないことだって、僕が何度『もういい』って言っても聞いてくれないんです」
『ホットコーヒーになります お待たせいたしました』
 ロボットが空気も読まず、テーブルにカップを置いていく。雑な動きだった。制御系のプログラムが甘いのか、ソーサーに跳ねてしまっている。
 ともあれ、澪もそれを潮時として話題を変えることにした。罪と罰に終わりが存在するかどうかなど、議論したところで最後は宗教になってしまう。
「この間、本屋で結人に会った。相変わらず熱心に学生していて結構なことだな」
「あることないこと騒ぎ立てる奴らから、家族を守りたいんだそうです。本当に立派な弟ですよ」
 宮代は苦笑して、ブラックコーヒーをストローでかき回す。
 橘結人は、塀の中の兄を救わんと弁護士を目指した。今も、法学部に入る為の勉学を怠らない。自分の兄が無事ならいいってものでもないでしょう、と口振りまで大人びてきた。もう十八だ、高校生とはいえ子供でもないのだろう。
 結人より二歳上の山添うきは、姉が卒業した看護学校に在籍している。学費は特別奨学金でまかなっているそうだが、いろいろと入用なこともあるに違いない。
「お前も、私に会っている時間と金があるなら、シフトをもっと詰めたらいい。こっちも生活はカツカツだからな」
 澪はカップを持ち上げ、薄くてまずいコーヒーを飲む。宮代は口を尖らせ頬杖をついた。
「僕は、一応この時間を楽しみに日々の労働を乗り切ってるんですけど。久野里さんは、仕事の方がいいんですか」
「……そうは言ってないだろ」
 あまりストレートに聞かれると答えに困る。澪は空気と自身の舌をごまかす為に、角砂糖を二つコーヒーに放り込んだ。
 事件後しばらく渡米していた澪だが、宮代の釈放を機にまた日本へ戻った。未成年の頃より多少稼ぎもいい分、部屋もパソコンが床を軋ませないクラスに上げた。
 が、そこまで。家賃に圧迫され、他のことに使う余裕はなくなってしまった。この半年、生活必需品以外のものを買った覚えがほとんどない。本やパーツさえ軽々に手が出せない。
 要するに、宮代とこうして茶を飲むのは、月一の思いきった贅沢というわけで。
「泉理が……」
 宮代は注文用のタブレットを手に、どう見ても選んでいない速度でページをスクロールしている。
「お金がもったいないからうちに呼んだら、って毎回言うんです」
「それが嫌じゃないなら外を指定してない」
「ですよね。結人も面白がって、久野里さんはいつ僕の新しいお姉さんになるの、とか言い出すし」
「あいつはどこで、その下世話な冗談を覚えたんだ?」
「今僕の知ってる中で、その手の冗談を言うのは久野里さんと有村ぐらいですけど」
 澪は黙って、ロボットたちの動き回る通路に目を遣った。連中は一定間隔で『ごゆっくりどうぞ』と『ご用があればお申しつけください』を言うだけだ。
 有村と香月は今、別々の大学に通いながらルームシェアをしていたはずだ。澪は二人と自分から会いはしないが、時折見かけて、気まずそうに頭を下げられたりすることはある。
「それで……聞いてます?」
「あ?」
「やっぱり聞いてなかった。あの人のことになると途端に興味なくなるの、全然変わってないですね」
「どの人だよ」
「神成さん」
 その名前を出されると、澪はつい苦い顔をしてしまう。
「前にも言ったろう。もう何年も連絡は取ってない、帰国してからもそうだ」
「僕も、直接会ったのは渋谷に戻るとき送ってもらったきりです。でもこの前、仕事で留守にしてる間、僕宛てに電話をくれたみたいなんです。家の固定電話に」
「お前の携帯ではなく?」
「新しくしてから、神成さんに教え損ねてたんですよ。家のは泉理が出たんですけど、いないならいいって切られちゃったらしくて。帰ってきてから折り返したら、今度は向こうが留守電で……何かあったんですかね」
「さぁな。緊急ならかけ直すなり、南沢に今の番号を聞くなりするだろう」
 宮代は何か言いたげにしていたが、結局黙って顔を伏せた。澪は既にぬるいコーヒーを一気に喉へ流し込む。
 あの刑事は厄介事以外を持ってきた試しがないから、正直あまり関わりたくはない――本人に聞かれたら『あんたに言われたくはない』と憤慨するに決まっている。それも含めて面倒なのだ。
 宮代から店のタブレットを奪い、勝手に『個別会計』のボタンをタップする。ロボットが寄ってきて、寸胴からトレーを飛び出させる。澪は六百円と消費税分を放り込む。宮代は眉をひそめ、革の長財布を取り出した。
「久野里さんって、どうしても奢らせてくれないですよね。そんなに僕に借りを作るのが嫌なんですか」
「女の前で散財したがるのは、前時代的誇大自意識だぞ」
「そういう表現はアレですけど。たまには格好つけさせてくれてもいいじゃないですか?」
 ロボットは宮代のアイスコーヒー代を飲み込むと、形式ばかりの礼とレシートを吐き出した。澪は麻のトートバッグを肩にかけ直して立ち上がる。
「知らないのか、宮代。私は元々、他人の金で飲み食いするのを何とも思ってない。男のことは基本的に、タダ飯を食う道具ぐらいにしか思ってない」
「もう少し人権をください」
「ついでに、必要もないのにスカートをはくのも好きじゃない。じゃあな」
 白いロングスカートを揺らし歩き出す。宮代も紺の鞄を引っ掴んでついてくる。
「って! じゃあ何で僕の財布は頑なに拒むんですか? 僕に払わせることは『何とも思ってない』わけじゃない、ってことですか!」
「わざわざ訊きに来るなよ。だからお前は童貞なんだ」
「か、関係ないでしょう、それは」
 澪は足を速める。宮代は強いて追ってはこなかったが、僕は似合うと思います、と大声で叫んだ。澪が振り向いたとき、彼は肩をいからせて反対方向に歩き出していた。ああスカートのことか、と気付くのに手間取った。澪は息を吐いて、普通の足取りで帰路につく。
 次の約束はしていない。毎度そうだ。宮代が思い出したように、次はいつにしますかと言うのが常で、澪がこの馬鹿げた茶会のセッティングをしたのは最初だけ。宮代から日取りを訊かれるまで、次があるのかどうかをずっと考えている。
 ポケコンにメールが来た。誰かと思えば宮代。
『せっかく脚が長いのに隠すのはもったいないと思うんですけど、出したら出したでタダ飯の道具がうんざりするほど寄ってきそうなので、やめた方がいいかもしれません』
「いつまで引っ張るんだよ、その話題」
 スカートをつまんでみた。今日は宮代と会う以外の予定はない。回りくどい自覚なら、当然ある。
 何となく気忙しくなり、家までの道を急いだ。向かいから来た男にぶつかりそうになる。そいつは危なげもなく、澪の眼前できっちり止まった。
「渋谷に戻っていたとはな」
 少しかすれた声。以前と同じような青いストライプのネクタイ。
「……今更何の用だ、神成さん」
 澪が睨み上げても、神成は眉一つ動かさなかった。最後に会ったときよりも仕立てのいい、暗い色のスーツ。ジャケットを開け、内ポケットからスマートフォンを出す。
「顔見知りの安否を確認しただけだ、そう警戒するなよ。連絡がつけられなかったからな。番号を変えたのか」
 澪は返事をせず鞄の紐を握り締めた。
 そこで話している男は確かに神成岳志だ。声も顔のつくりも体型も間違いない。だが平板な口調も、口許以外を動かさない表情も、かつての彼とは似つかない。持っているのが二つ折りのくたびれた携帯電話でないということさえ。
「宮代に電話をしただろう。そのくせ応対した南沢に言伝を頼まなかったのは、本人以外には聞かれたくない件だからだ。違うか?」
「耳の早さと勘のよさは相変わらずだな。ならこれも覚えておいてくれないか、久野里さん」
 くのさとさんと自分を呼ぶ調子だけが昔と同じで、かえって気色悪い。
 澪は何も答えていないのに、その男は一方的に話を進める。
「このままでは、また始まる」
 こいつがこの時季に姿を見せた時点で察していた。否、宮代と接触しようとしたと聞いた時点でもう解っていた。
 にもかかわらず、澪は愚かに問うてしまう。確かめてしまう。
「何が?」
 神成の答えは聞く前から決まっていた。澪は目を閉じて、地獄を受け入れる覚悟をする。
 十二年。世代はとっくに入れ替わった。入れ替わったからこそ、繰り返す――。
「ニュージェネレーションの、狂気」
 くだらないゲームを、繰り返す。

 

◆◆◆

 拓留は自室のベッドに寝転がって、以前と変わらない天井を見つめていた。一度目のリハビリのときも、二度目のリハビリのときも、もう一生分寝たと思っていたのに。やはり人間は、寝床と縁を切ることができないらしい。
 かつて児童養護施設であった青葉寮は、同じ名称を保ったままアパートメントになった。といっても、管理人におさまったのは泉理。入居者は拓留・うき・結人だけ。家賃と光熱費ぐらいは拓留も払っているものの、四人の生活費のほとんどは泉理の稼ぎだ。学生を終えても、女帝の治世に陰りはない。うきと結人も――。
「拓留兄ちゃん、帰ってる?」
 ゆったりと落ち着いた声と共に、扉がノックされる。拓留は起き上がり呼びかけた。
「開いてる。入っていいぞ」
「じゃあ、おじゃまします」
 姿を見せたのは、高校三年生の弟・橘結人。手も足もすらりと長くなった。本人の望んだほどは伸びなかったようだが、まぁまぁ平均程度には。声変わりも劇的ではなく、幼さの残る甘い響きだ。
「うき姉ちゃんがクッキー焼いたよ、食べる? 久野里さんとのデートの日だし、何かつまんでくるでしょって僕は言ったんだけど……なんか余計ムキになっちゃったみたいで」
 顔つきは小学生の頃とまるで違う。いつも縋るものを探していたような瞳は、話す相手をきちんと捉え、言いさしては震えることの多かった口唇は、明確な意思を己の言葉で告げる。拓留は座ったまま、弟を見上げてため息をついた。
「言うようになったよな」
「なにが?」
「久野里さんに言われたんだよ。結人は下世話な冗談をどこで覚えてくるって」
「そりゃあ、あんまりいつまでも『かわいい結人くん』でいられないよ」
「ほら。普通、自分でかわいいって言うか?」
 拓留が首を振れば、そこは久野里さんに似たんじゃないのと結人は屈託なく笑った。その表情はまだ『かわいい結人くん』だ。本人のプライドの為に指摘しないでおく。
「うきのクッキー、居間かな」
「うん。けど二人で話そうと思って、ちょっともらってきた」
 結人は、後ろ手に持っていた小皿をちらちら見せた。拓留は座る位置をずらす。結人が入ってきて隣に腰を下ろす。本当はベッドでものを食べると泉理が烈火のごとく怒るのだけれど、ばれなければいいのだ。
「学校、どうだ」
「拓留兄ちゃん、ときどき言い方がおじさんっぽいよ。順調。そっちこそ久野里さんとは?」
「異議あり。今のは『順調』という言葉を引き出す為の誘導尋問です」
「あはは、気付かれちゃった」
 まだほんのりあたたかい、うきお手製のおからクッキーを二人でかじる。ヘルシーで材料費は格安。この家の女性陣はクッキーといえばこればかりだ。
「結人こそ、どうなんだよ、カノジョとか。結構モテてるんだろ?」
「どうかな。去年、大学見学で社会心理学の講義を聴いたけど。そこの教授は、『好かれたい対象以外から好意を向けられる状態を、【モテ】と定義してよいものか』って大真面目に言ってた」
「面倒くさい教授だな……。で、お前の『好かれたい対象』って?」
「うーん、僕の場合は、お姉ちゃんたちがレベル高いから。かわいいなって思うぐらいの子はいても、ずっと一緒にいたいとまでは思わないかな」
 結人は何げなく言って伸びをしたが、拓留はぐっと口唇を噛んでしまった。
 わざとなのか無意識なのかは知らない。だが結人が名前を付けずに、ただ『お姉ちゃん』と呼ぶのは一人だけだ。ずっと結人を守り、あたため、光のある方へ引っ張り続けた存在。今度は僕がと言えるほど強くなっても、結人の『お姉ちゃん』はいまや永遠に年下。
「でも、久野里さんは好きだよ。頭もいいし、優しいし、綺麗だもん」
 結人が兄の顔を覗き込み、意地の悪い声で言った。せっかくの気遣いだ、拓留は口許をほどいて苦笑する。
「じゃあ、僕をけしかけてないでお前が口説いてこいよ。よっぽど気に入られてるだろ」
「拓留兄ちゃんが譲ってくれるんなら、頑張ってみようかな」
「譲るとか譲らないとかって、そんな権利僕にはないし、そもそも久野里さんはものじゃないだろ」
「だけど、兄ちゃんは本気で久野里さんのこと好きなんじゃないの?」
 不意に、結人がふざけた調子をやめた。ベッドの上に片膝を引き上げ、傾げた頭を軽く載せている。癖のある前髪が流れ、隙間から真剣な目が瞬いている。
「ねえ。責めないよ、もう誰も。久野里さんも……あのひとも」
 拓留は何も答えられない。結人が誰のことを言っているのかは解っていた。解っているから否定も反論もできなかった。小賢しく、論点をずらす。
「久野里さんは、僕のことなんかどうとも思ってないよ」
 かすれた笑い声は、それでも純粋な本音だった。
 久野里と会うのを楽しみにしているのは事実だ。拓留は今も昔も、気心知れた友人が少ない。家族以外と構えずに話をする時間は、毎回新鮮で楽しかった。彼女が大切な存在であると、その一点に関しては素直に首を縦に振る。
 だが久野里澪が何を考えているのか、今の拓留にはよく分からない。病院で共に計画を練っていたあの頃、少しは通じ合えたような気がしていたのに、最近はてんでダメだ。
 恒例の茶会が、情報交換の場として成り立っているとは思えない。それこそ茶飲み話に類する身近な話題か、重要な事項さえ、彼女が本気を出せば調べがつく範囲のことばかり。どうして向こうから誘ってこないのか、こちらの誘いを断らないのか、短時間で切り上げるのか、奢らせてくれないのか、好きでもないスカートをはいてくるのか。何ひとつ拓留に分かりはしないのだ。
 結人が首を反らし、天井に向かって長い息を吐いた。
「やっぱり変わってないよね、拓留兄ちゃんは」
「どういう意味だよ」
 拓留は問い詰めようとしたが、近づいてくる足音に口をつぐむ。どんな展開にしろ、女きょうだいに聞かれたい話ではない。
「ユウー? どこ行ったの、紅茶冷めちゃう……」
 うきの声だ。拓留は立ち上がりドアを開けた。
「結人ならここだよ」
「え? びっくりした、帰ってたんだ」
 うきは驚きに目を丸くした後、すぐにやわらかく細めた。身びいきかもしれないが、結人がそこらの女に目もくれないのも道理だなと思う。
 渋谷に戻ってきたとき、印象が一番変わっていたのはうきだった。あの頃は高く括っていた髪を普段は下ろし、幼さを押し付けられることのなくなった身体も、歳相応に育った。
「あのね、クッキーを焼いたの。お夕飯まで時間があるから、兄さんお腹が空くかもって思って」
「ああ、何枚かもらった。うまかったよ」
 以前の癖で頭を撫でそうになって、もう嫌がるかと手を引っ込めた。うきは上目遣いで口を尖らせて、首を前に出してくる。髪に軽く触れてやると、妹はまた頬を緩めた。
 うきの要求する対価はいつだって、拓留からすればひどくささやかだ。それでも、きちんと何かを欲しがってくれるようになった。
「うきも結人も強いな。僕と違って」
「……兄さん、ユウと何かあったの?」
 うきは、眼鏡の奥の瞳を曇らせる。銀縁の眼鏡。なんでも、兄さんがいつ戻ってきても私と分かるようにしていたい、と作り変えるときも似たデザインしか選ばなかったそうだ。
 はっきりと変えていたのは、家族の呼び名だった。『拓留さん』ではなく『兄さん』、泉理は『姉さん』、結人は『ユウ』――彼の肉親であった少女と同じようにしている。
「兄ちゃんは、いつ久野里さんに告白するのって話」
 いつの間にか結人が真後ろに立っていた。こ、こくはく? とうきは真っ赤になって両手をばたばた泳がせる。
「あ、あの、私は、兄さんがそれで幸せなら……!」
「おい。勝手に話を進めるな」
 全く妙なところばかり似て、と拓留は頭を抱え、それも姉の癖だと気付き慌てて手を下げた。弟も妹も、そっくりな目で兄の次の台詞を待っている。
 拓留は腹にたまっていた息を、空になるまで吐き出して、やっと口を開いた。
「久野里さんとは、本当にそういうんじゃない。何でもないんだよ」
 床を睨みながら、思い知った。拓留はこのままでいたいのだ。見抜かれている。都合のよい関係だけを続けていたい浅ましさを。だからきっと彼女は、表層の話しかしない。
 ――ならば久野里澪にとって、宮代拓留とは?
「兄さん、あのね」
 うきに服の裾を引かれ、拓留は我に返った。妹は泣きそうな顔でこちらを見上げていた。
「私は、『巻き込まれた』って、思ってないから……久野里さんも、多分、そうだから。そんな顔、しないで?」
「ありがとう、うき」
 拓留は妹の頭をもう一度撫でてやる。他にどうしてやったらいいのか分からなかった。そういうことじゃないんだよと賢しげに論破したところで、誰も幸福にならない。
 ただ、頭の中に一言。遣る瀬ないなと、とそう浮かんだ。