反逆シンデレラ

【-1ヶ月】

『ねえ澪、お願いったら』
 繰り返される言葉に、久野里澪はパソコンのモニターを睨みつけた。古びた自宅アパート、もったいないので室内灯も点けておらず、今現在の明かりはそれひとつ。
 無料通話アプリでアメリカと繋がっているが、映像は切ってある。それでも彼女には、澪がどんな顔で話を聞いているのか、手に取るように分かっているだろう。
 刹那的で打算的な人間関係ばかり構築してきた澪にとって、成程彼女――牧瀬紅莉栖との付き合いは、長いと言って差し支えなかった。恩義も一応感じている。少なくとも、日本では深夜と呼ばれる時間帯に、通話に応じてやる程度には。
「以前あんたについていったら、そりゃあ散々な目に遭った。懲りずに人身御供になるような被虐趣味は、生憎持ってない」
 しかしそれはそれ、これはこれ。付き合える範囲にも限度がある。
 澪はちらと時計を見た。もう寝たい。明日、というよりもう今日の朝、珍しく時間指定の仕事が入ってしまったのだ。あくびを噛み殺す。
「あんたの先輩に頼めばいいだろ。比屋定博士、だったか」
『真帆先輩は、こっちの学会とバッティングしちゃって……』
 紅莉栖が子供みたいに泣きそうな声を出すものだから、澪も思わず嘆息してしまった。
 なんでも来月、東京で日本人科学者の集まりがあるのだそうだ。
 紅莉栖の活動拠点はアメリカだが、外に出ていく邦人研究者など今日び珍しくもない。先日、ある老教授が世界的科学賞を授与されたのをきっかけに、世界に散った他の日本人もまた一堂に会そうじゃないかと……この辺のことは現在・野良研究者の澪にはよく分からないが、『にほんのえらいひと』が言い出したらしいのだ。
 牧瀬紅莉栖は、若く、女性で、有能ではなく天才という注目度三冠女王。しかも日本での講演実績もある。白羽の矢が立つのも無理からぬことだが、澪には関係のない話。の、はずなのに。
『あなたのドレスとかはこっちの経費で落とせるし、ビュッフェスタイルだっていうから別に肩肘張って座ってなくてもいいのよ? あ、もちろん澪の参加費は私持ちだから気にしないで。それから、ええと――』
 早口でまくしたてるのが憐れったらない。
 澪より5つも年上のこの女性は、作り笑いも世辞も覚えてはいるくせに、使うのが大の苦手。社交パーティーより壁と喋っている方がマシ、と言っていたことすらある。今回帰国してまで出席する流れになってしまったのも、余程厄介なしがらみがあったのだろう。
 話を聞くことや人脈を築くことはきっとあなたの力にもなる、という紅莉栖の説得は確かに一部正しいが、どうせ本音は『独りは心細い』というだけなのだ。彼女がたまに話題にする『狂気のマッドサイエンティスト』も、厳密にはサイエンティストではない。こんなときに連れ歩くには、聞く限り全く役に立たないだろう。
 とはいえ、とはいえ。
「あんたな。いつまでも私が服や飯で釣れると思うなよ」
『そ、そういうつもりじゃ……いえ、そうね。そう取られても仕方ない言い方だった。ごめんなさい』
「いい加減独り立ちしろ、先輩。じゃあな」
『ええ、おやすみなさい……』
 そう、いつまでも甘やかしては紅莉栖の為にならない。
 というか澪はもう寝たい。いつもなら眠っている時間に起きなければならないのだから。
 終了ボタンにマウスポインタを持っていこうとしたとき、紅莉栖は独り言のようなトーンで呟いた。
『澪が、どこにも出すつもりはないって言ってたレポート、見せてもらえるかもと思ったのにな……』
 ぐ、という短い呻きと共に、澪の手が震える。カーソルは動かず、指もクリックを半ばでやめたまま。
 繰り返すが澪は今、野良科学者だ。
 警察と手を組んではいるものの、それは単なる捜査協力であって後ろ盾は何もない。
 専門的な立場から意見を述べてくれる人間もいない。澪が警戒してネット回線に乗せずにいるレポートは、今のところ誰にも理解されないままだ。
 紅莉栖なら、難なくそれを成すだろう。澪の感じている行き詰まりを突破させるような、斬新なアイディアをくれるだろう。天才と呼ばれる、この牧瀬紅莉栖ならば。
 クソッと毒づき、澪は低い声で唸った。
「まず日付を教えろ。詳細は後で送れ」
『え?』
 紅莉栖は自分の口にした殺し文句に気付かぬ風に語尾を上げると、一転嬉しそうに、ありがとうと声を上げて笑った。
 結局こういうことになる。
 あんたのそういうところがいけ好かないんだよ、と澪は頭を抱えて、長い髪をかき回した。