反逆シンデレラ - 2/4

【-1週間】

 疲れた。すさまじく疲れた。大きな紙袋を手に、澪は雑居ビルの階段を上がっていく。
 今ほど、フリージアの事務所が2階にあることを恨んだことはない。
 パーティーを間近に控えた今週、紅莉栖はやっと日本入りした。
 久々の再会を果たした二人は、昼食を共にした後ショッピングへ。自分はもう持っているからと、紅莉栖が澪の分の正装を用意してくれようとした、ところまではいいのだが……ああ着せ替え人形にされてはたまったものではない。おかげですっかり遅くなってしまった。
 二度とあいつと買い物には行かない、と心に決め、澪は職場のドアを開けた。
「あら、澪ちゃん。結構かかったのね。先輩と盛り上がったの?」
「いえ、そういうわけでも。遅くなってすみません」
 そちらさえ見ず社長に答え、ソファにどかりと腰を下ろした。
 腕が痛い。なにせドレスだけではなく、靴から鞄からアクセサリーまで一式だ。こんな日にまで配信だなんて、自分の始めたこととはいえ多少はうんざりする。
「なんだ、珍しいな。そんな大荷物で」
 聞き飽きた男の声も続いてきて、澪はいよいよ本気で嫌になってきた。
 視線を向ければ、神成岳志――天下の捜査一課の刑事――が間抜け面で立っている。
「あんたまたここにいるのか、神成さん。警視庁ってのは暇な職場なんだな」
「あのなぁ。俺だって頼まれ事で来てるんだよ」
「また捜査情報の漏洩?」
「隠れ家的和菓子屋の場所」
「暇かよ」
 相手にしなければよかった。そんなのメールか電話で済むだろうに。
 澪はだらりと背もたれに体重を預けた。社長の百瀬と神成が、自分を話の肴にしようとしているのを、止めるのも面倒くさい。
「澪ちゃん、パーティーにお呼ばれでドレス買ってきたんですって」
「へぇ。明日は雪でも降りそうですね」
「私はエスコートする側だ。タキシードでもよかったのに」
「はは。そっちのがよっぽど似合いそうだな」
 澪の自虐に、神成はまるで悪気のない様子で笑った。こういう冗談を真に受けるあたり、あんまり気が利かなくてこちらは笑えない。
「その荷物じゃ帰るのも一苦労だろ。送ろうか」
 そして、この程度のことで気を遣っているつもりでいるところもだ。澪は舌打ちして大袈裟に脚を組んだ。
「私はこれから仕事なんだよ。忙しいんだ、どこかの刑事さんと違ってな」
「なんだよ。今日は一段と当たりが強いな」
 神成は肩をすくめ、じゃあ帰りますと百瀬に声をかけて出ていった。澪にもお愛想の挨拶を残していったのは、嫌味なのか一応の礼儀なのか。
「一緒に来てほしいって、頼めばよかったのに」
 彼の姿が完全に見えなくなってから、百瀬が笑いながら首を傾げた。なんでです、と澪は口を尖らせながら靴の箱を取り出す。
「必要ありませんし、招待客の連れの分際でそんな権限もないです。それより、放送の前にちょっと靴を履いてみてもいいですか」
 店で試着はしたのだが、疲れにくいというインソールを買い足した分、貼った状態で改めて試してみたかったのだ。自宅の床は抜けそうなので、出来ればここで。
 澪の魂胆などお見通しなのか、百瀬はすぐに頷いた。
「どうせなら、ドレスも着てみせてちょうだい。澪ちゃんの綺麗に飾ってるところ見たいもの」
「お断りします。ドレスを見せるだけなら構いませんが」
 あんな一人ではどうにも出来ない服を、職場で身に着ける気は起きない。澪はドレスの袋を百瀬の前に置くと、素足になって新品の靴を履いてみた。かかとが高くて、つま先が圧迫されている。インソールの分だけ試着時よりはややマシだが、ストッキングだとこれよりもう少し滑るだろうか。
 百瀬はドレスを両手で広げて眺めている。
「あら綺麗なワインレッド。随分大人っぽいのにしたのね」
「選んだのは私じゃありませんよ」
「ヒールも結構高めじゃない」
「曰く『たしなみ』だそうで。全く気乗りしませんが」
 ドレスの布地よりやや明るい赤色の靴。数歩動いてみたが、歩きづらいことこのうえない。
 百瀬がドレスを丁寧にしまい直しながら、軽く眉を寄せた。
「その『先輩』、澪ちゃんより小柄なんでしょう? 大丈夫なの、ふらついたとき掴まったりしたら、一緒に転んじゃうんじゃないの?」
「それで神成岳志を杖に? 冗談でしょう。壁のが頼りがいがあって魅力的です」
 ヒールの高さは10cm。澪の身長は175cm。神成岳志は確か、180cmだったはずだ。どうでもいいけれど。

【-1日】

「ねぇ澪、ひとつ質問」
 パーティーの前夜。澪と紅莉栖は広いベッドの上に向かい合って座っている。
 澪は約束の不履行を危惧し、件のレポートの評価を前もって行うことを主張した。
 しかし公共の場で大っぴらに論議出来る内容ではない為、紅莉栖が日本に来る度利用しているというホテルに押し掛けたのだ。
 それに一緒にいれば、予約したという美容院に行くのも忘れずに済む。ちなみに澪の自宅は壁が薄いうえに客を寝かせられる環境ではないので、最初から選択肢に入れなかった。
 紅莉栖はラフな寝間着姿。だが、紙束に落とされた視線の怜悧さは、アメリカの大学で澪が見てきたものと全く同じだった。
「この、文中で『被験者X』とされている人だけが、今のところ『真性』のギガロマニアックスであると断言出来る存在であった、という解釈でいいの?」
「ああ。私が渋谷で抱えている連中の中ではな」
 澪は苦々しい思いで答えた。はっきりそうだと判明していて、頭蓋を開けてやりたい奴はもう一人いるのだが、どうにも見つからなくて苛ついているところだ。
 ふむん、と紅莉栖は口許に片手をやった。
「症候群者は、認知のズレの解消と共に身体症状も改善、特殊能力を発現していた者はその行使の一切が不可能に……というより、能力自体を失ったと考えられる。ここまでは合ってる?」
「ああ」
「じゃあ、何故X氏は能力を喪失したの?」
「あ?」
 澪は顔をしかめる。たった1秒前に自分で言ったことも忘れているのかこの女は?
 紅莉栖は、澪の言外の疑問も承知という顔で続ける。
「カオスチャイルド症候群者内の能力者は、『発生因子』によって疑似的なギガロマニアックスになっていた。だからそれが取り除かれれば、一般的な人間に戻る……そこまでは理解出来るわ。けれどX氏が『本物』だったとするなら、渋谷地震は外部から与えられた『因子』ではなく、元々内にあった力を呼び起こしただけの『引き金』じゃないのかしら。ならば一度発現してしまった以上、罹患していた症候群が寛解したとしても、『ギガロマニアックスである』という根幹の部分が消滅する道理はないはず」
「それは……」
 澪は言い淀んだ。そこで堂々巡りになっていたのは事実だ。
 だが『被験者X』のプライバシーに――そんな倫理観、とうに捨て去ったはずだったのに――深く関わりすぎて、さすがの澪も軽率に相談するのが憚られる。
 逡巡の間も紅莉栖の考察は続く。
「だけどX氏は現在ギガロマニアックスではないと、澪は見ている。そうでなければ、ばらまかれた例の画像によって、症候群患者は全員『真性のギガロマニアックスと同じ脳波を出し、単一能力の疑似ギガロマニアックスではなく、本物の超誇大妄想家と化してしまう』かもしれなかったんだもの。でも事実、あれから渋谷であの規模の不可解な事件は起きていないんでしょう。だったら能力も確実に失われていたと見るのも、妥当だとは思う。ただ途中式が抜けているから、私はどうも腑に落ちない」
「あいつは――」
 澪は観念して、口を開く。結局は澪も紅莉栖も科学者で、分からないことをそのままにするのが耐えがたいから。許せよと柄にもなく心の中で謝りながら、言葉を選んで、議論を進める方を選んでしまった。
「Xは、ある妄想に持てる力の全てを注ぎ込んだ。そのせいで能力を捨てることになったと、別のギガロマニアックスが確かに証言していた。リアルブートされていないディソードを視認出来ないことからも、決定的な事実なんだ。ただあの能力は、捨てようと思って簡単に捨てられるものでもないらしい。それを苦にして、より精神を病んでいくギガロマニアックスもいると聞く。あいつが能力を発現させた『引き金』も、捨て去った『理由』も、最後に放った『妄想』も私は知っているが、それぞれの『仕組み』はほとんどブラックボックスだ。何故あいつは、望みどおり『ギガロマニアックスをやめることが出来たのか』――検証してみようにも、いかんせん臨床データが少なすぎる」
 あるいは、彼は今もギガロマニアックスなのかもしれないと。その仮説だけは胸の内に留めておいた。
 彼の『妄想』が、『現実』として息をして、笑って、涙を流して、『普通に生きている』。それは能力を『捨てた』のではなく、外部に『託した』とも呼べるのではないのかと。それだけは、恩師に近い相手であっても口外出来ない。
 紅莉栖は髪をかき上げ、小さく息をついた。
「それを踏まえてもう一度目を通したいわ。構わない?」
「どうぞ」
 紅莉栖の口調は相変わらず淡々としている。澪の核心から逃げた説明には、全く疑問をぶつけてこなかった。彼女も詳しい事情を知らないなりに、澪の心中を慮ってくれているのだろう。それはそれで癪ではあったが。
 澪が手持無沙汰で紅莉栖の次の問いを待っていると、無造作に放ってあったスマートフォンがシーツの上で震えた。画面を上にしていたので発信者が見えている。覗かなくとも、紅莉栖の目に入ってしまう位置だった。何を勘違いしたのか、くすくすと笑っている。
「出てあげなさいよ。それとも私、席を外した方がいい?」
「そんな格好でどこに外すんだよ」
 足をさらけ出した寝間着を指差す。とはいえ、澪もどこかに行けるような服ではなかった。身なりにはあまり頓着しないものの、くたびれて胸が透けかけているシャツで人前に出るほど恥知らずではない。だらしないを通り越してただの痴女になってしまう。
 出来れば無視したかったが、しつこい相手なので何度もかかってくるかもしれない。議論が白熱したところに水を差されるよりは、今のうちに黙らせた方がまだしもと、澪は電話を引っ掴んでバスルームの方へ向かった。
「なんだ。切るぞ」
『出ていきなりそれはないだろ』
 神成岳志は律儀にツッコミを入れてきた。そちらこそ非礼を詫びるなり挨拶するなりしろというのだ。澪は短く促す。
「用件」
『せめて文章で話してくれないか。いや、その……ちょっと訊いていいのかどうか、分からないんだが』
「じゃあ訊くな。切るぞ」
『分かった訊くからまだ切るな』
 神成は煮え切らない様子でもごもご何か言った後、急に刑事らしい声で尋ねてきた。
『そこ、君の家じゃないな。フリージアでもない。今どこにいる?』
「外だが」
『いや、屋内だ。防音の……。もしかして誰かと一緒か?』
「訊きたいことというのはそれか? だとしたらホテルの一室、連れがいる。以上だ」
 このスマホの集音性能でよくそこまで勘づくものだとうんざりしながら、澪は通話を切ろうとした。わざわざ、ものすごく誤解させるであろう言い方をして。ああ待った待った、と神成が焦った声で止めてくる。
『だったら可及的速やかに済ませるから! 今誰と一緒に?』
「そんなこと、あんたに何の関係が……」
『ないよ、だから訊いていいのかって言ったんだろ! 仕事じゃなくて個人的に気になってるだけだから不愉快なら切れよ!』
「……何であんたがキレてんだよ」
 あんなにどうでもよさそうだったくせに。澪は壁に寄りかかって答える。
「先輩だ、パーティーに連れていかれる話をしただろう。会場とは別のホテルだが、私が明日ばっくれないようにと前泊してる」
『――ッ、あー……』
 舌打ちのような音をさせた後、神成は呻いた。眉間を押さえているのが目に浮かぶ。澪も眉間にしわを寄せる。
「何か?」
『何でもない、自分の詰めの甘さを呪ってるところ。ありがとうおやすみ』
「ちょっ」
 どういうことだと問おうとしたが遅かった。一方的にまくしたてられ、通話は切れた。
「なんだあいつ!」
 澪は怒鳴りながら歩き回り、一人がけのやわらかい椅子にスマホを投げつけた。
 丸まって震えている背中を見て、ここが自室でもなく一人でもないという、先程口にしたばかりの事実をはっと思い出す。
「ごめんなさいね、デートのお誘いを先約で断らせちゃって」
 紅莉栖は指の背で涙を拭いながら、半笑いで言った。澪はスマホを拾い上げ、椅子にふんぞり返る。
「あいつはそういうんじゃない。職場の取引先みたいなもんだ」
「でもさっき、『仕事じゃなくて個人的に』って聞こえたけど?」
「地獄耳かよ」
 紅莉栖に毒づいてみるが、本当に罵りたいのは神成岳志だった。声がでかいから、よそからでも聞こえるのだ。警察官ならもう少し配慮するべきではないのか。
 紅莉栖は目を輝かせてなおも何かを言い募ろうとしたものの、呑気な着信メロディがそれを遮った。むーと口唇を尖らせて、ごまかし用の上着とスカートを、素早く身に着けていく。
「ごめんね、私も電話。今度こそ外すわ。すぐ戻ると思うけど」
「どうぞ奥様、ご主人によろしく」
 投げやりに手を振り、澪はテレビのリモコンを掴んだ。
 そんなんじゃない! と顔を真っ赤にしながら、紅莉栖は電話と鍵を持って部屋を出ていく。
 澪は立ち上がり、置き去りにされた自分のレポートの傍にごろんと横たわる。点けたテレビは国営放送すらバラエティで、正視に耐えうるものがない。すぐに消してしまって、スマートフォンをいじった。神成岳志にかけ直してみようかとも思ったが、あの調子ではどうせ『何でもない』の一点張りでまた切られるだろう。
 大体、どうして自分があの男のことを気にしなければならないのか。今は紅莉栖のお守りのことだけ考えていればいいはずだ。
「ああクソッ」
 何に苛ついているのかもよく分からず、その事実にすら腹を立て、澪はベッドを殴りつける。やわらかくて何の手応えもない。
 この際、知的なやりとりでなくてもいい。早く紅莉栖が戻ってきて、くだらないお喋りのひとつもしてくれればいいのにと、いつもと違いすぎる天井を睨んだ。