3月13日も、もうすぐ終わり。神成岳志は早く帰って眠りたい。
「やる」
フリージアのローテーブルにブルーがかった透明な小瓶をどんと置いたのだって、義務みたいなもので。明日はきっと『荒れる男女が増える』から、本当だったらこんなところで油を売っている余裕なんてないのだ。
久野里澪はさも意外そうに神成の顔を見上げた後、瓶を開けもせずに視線をノートパソコンに落とした。
「これから配信だ。キャンディなんて口の中に残るものを食べていられない」
「だろうな。だと思ったから今持ってきた。それじゃあ」
言い捨てて立ち去ろうとしたら、おい、と横柄な声で呼び止められる。振り返っても、彼女は背をこちらに向けたまま冷たく言い放つだけ。
「このまま帰られたら、後で文句を言うのも骨だろう。味見が終わって一通り私の苦情を聞いてから帰れ」
「チョコもらったのは一応感謝してるけど。俺はそんなに暇じゃないぞ」
「すぐ終わる」
彼女はマイクのスイッチを入れてしまったので、神成もそれ以上の追撃が出来なかった。いつ聞いても気色悪いケイさんの前口上を、眉をひそめて聞いている。
「本日はホワイトデーですね。お菓子業界の陰謀だなんて説も散見されますが、男性の皆様、ここはひとつ目をつぶって。ほんの少しの勇気で、意中の女性に感謝を伝えてみるのもいいのではないでしょうか? それではここで一曲、スタイリスティックスで『Can’t Give You Anything(But my Love)』――皆様の想いが通じますように」
つまらない選曲だな、と神成は立ったまま携帯電話を取り出した。
CMやバラエティでよく聴く曲だ。タイトルは初めて聞いた。そういえば、本当はどういう内容の歌なのだろう? 詞まで気にしたことがなかった。どうせ暇なので、ちょっと検索してみることにする。
その後の番組進行は、大して意味もないような当たり障りないもの。きっとサービス回というやつだ。やわらかな作り声で、『ケイさん』は締めのあいさつに掛かる。
「本日もお付き合いありがとうございました。時刻はまもなく、2017年3月14日、0時30分。悔いのない一日が始められることを祈っています」
定型句が終わり、彼女はマイクを切って伸びをした。神成は久野里に歩み寄っていき、あげたはずのガラス瓶を勝手に開けてしまう。そして中のコーヒーキャンディを片手いっぱいに引っ掴んで、彼女の白衣にポケットに入れた。両側。繰り返し溢れるほどに詰め込んで。
「おい?」
「口に合わなきゃ捨てろ。どうせ貧乏人の安い気持ちばかりだよ」
瓶の中を空にしてしまうと、神成は今度こそフリージアを出る。
「神成さん」
ビルの外に出ると、久野里がにやにやと笑いながら、窓からこちらを見下ろしていた。
先程こぼれるぐらいに突っ込んだキャンディを、片手でぱっと神成に降らしてくる。
見上げる顔は、子供みたいに無邪気だった。
「やるよ。食いきれない」
「……そりゃどうも」
複雑な神成だが、3粒あまりで済ましてくれたことには感謝すべきだろうか。
ネットで調べたばかりの、聞き覚えのあるメロディーに乗っていた歌詞を思い出す。
『僕は平凡な男で ポケットだって空っぽだ
何もあげられないんだよ この愛以外にはさ』
君のポケットを満たせるなら、俺の空っぽで情けないポケットに入れていたなけなしのプライドだって、多少はあげてもいいと思っているけど。
拾ったコーヒーキャンディの包みを開いて、ひとつ口にしてみる。甘くはない。苦すぎもしないが。
『他に何もあげられないけど 生きている限り君にこの愛を』
君のポケットいっぱいに、甘くて苦い菓子を持ちきれないほど詰め込んでやるよ。
口にはせずに背を向ける。舌の上に転がる、少ししびれるような痛みが、きっと自分は嫌いではないのだ。