名前を呼んで

 血液検査の結果なんて、ものにもよるが大概すぐには出ない。今回は割とフルコースなので一時間は軽く待ちそうだった。黙って座っているか、別のことで時間を潰すしかない。それにしたってこの手段は、大人としていかがなものかと神成岳志は思うわけだが。
「『赤紙』」
「『密葬』」
「『羨み』」
「『民間企業』」
 どうして個室で、久野里澪と向かい合って、真顔でしりとりをかましているのか。謎だ。
 大体神成は仕事でここに寄ったのに。それを久野里大先生に『顔色悪いからあんたも採血していったらどうだ?』とか適当なことを言われて。しかも看護師が下手すぎて変なところを刺されたから、神成の左肘はまだ半分ほどしか曲がらない。
 久野里が淡々と続ける。
「『うさみみ』」
「何でここへきて急にかわいい方向に……『民族紛争』」
「あんた『う』が多いな!」
「同じ文字で攻めるのは常套手段だろ。そっちこそ『み』が多すぎだ」
 もうちょっとマシなことも出来るだろうに、今時小学生だってこんな何十分もしりとりしてやしないだろうと、神成は大袈裟にため息をついた。すぐに馬鹿らしくなってやめそうな久野里の方がムキになっているのだから、人間というものは分からない。
 久野里はふむと長い脚を組んだ。
「アプローチを変えよう。『ウラジオストック』」
「『クリスマス』」
「『スタック』」
「『掘削』」
「『屈服』」
「言葉のチョイスが最悪だな君は。く……えー……」
 今度は『く』を重点的に突いてくる作戦で来たか。アンプル何本分も抜かれてやや貧血気味の頭を右手で押さえ、神成は面倒になって目の前の固有名詞を述べる。
「『くのさと』……」
 呼び捨てにしたので怒るかと思いきや、彼女は満足そうに一つ頷いた。ということはだ。
「待てよ。最初の『み』攻勢も、実は自分の名前を俺に言わせるのが目的……?」
「今頃? 察しが悪いと仕掛ける方も大変だな」
 彼女は無表情で言って、じゃあ次は私が『と』からだな、と確認する。目的が知れた以上、というか最初から、神成にはこんなしりとりはどうでもいいのだが。他にすることも出来そうなこともなく、仕方ないので付き合うことにする。
「『逃亡者』」
「俺の嫌いな言葉だ。えーと、『しゃ』? 『や』?」
「好きな方で」
「『薬物違法所持』……」
「それも嫌いなやつじゃないのか?」
 すごく眠い。そういえばあれからカフェインをちっとも摂っていない。うとうとと舟をこぐ。彼女だけが遊ぶ意欲に溢れている。
「違反、までつけると負けるか。じゃあ、『銃刀法』」
「物騒なうえにまた『う』になってるぞ……あれ、『う』を使ってたのは俺か。うー……『烏骨鶏』……?」
「『イカサマ』」
「『丸太』……」
 もう単語の選び方すら小学生レベルまで低下している。あふ、とあくびを噛み殺す。
 そこで神成は、はっと目を見開いた。久野里が立ち上がって歩み寄り、神成の座っている椅子の背もたれに、片手をかけようとしていたから。
「え、なんだよ。いきなりどうし」
「『岳志』」
「……は?」
 急に呼び捨てにされて、怒る気すら起きなかった。状況の読めない神成の顔を、至近距離で覗き込み、久野里は口唇の端を歪める。
「あんたの番だぞ? さっきあんたが私を呼んで。人名はアリだってルールにしたじゃないか。ほら、『岳志』。続きは?」
「し……『死刑宣告』」
 息がかかりそうな距離。まだ脱力して立てずにいる神成の耳許で、久野里は吐息たっぷりに囁く。
「『暗闇』」
 大した単語ではないのに。
「……み……」
 あと一文字を言ってしまえば。『ん』など付かなくとも、神成の負け。
 解っているから、最後の理性で顔を背け、必死に抵抗した。
「『見返りもなしに失職は困るよ』」
「『よくない企み』」
「『未成年者の気紛れ』」
「『冷静に見せかけた、やさぐれた哀れみ』」
「『見境ないガキ』」
「『聞こうともしない意味』」
「『見つからない馬鹿馬鹿しさ』」
「『さも解ったような尻込み』」
「『見透かした気でいるのかな』」
「『なんでも好きなようにする権利を、あんたは有するのみ』」
「『見下してるな、完全に』」
「『憎らしいほどの無理解と、なんてことのない慰み』」
 いい加減頭の回転も鈍くなってきて、気力だけで彼女のからかいに抗っていると。彼女の白衣の胸ポケットで、院内用のPHSが鳴った。彼女は身を起こして通話ボタンを押す。
「結果が出たか。――ああ、そっちに行かせる。私は医者じゃないしな。外来16診察室? 了解。十分ほどで向かわせる。前の患者優先でいい」
 間に合った。神成は大きく息をついて、大袈裟に、まだ左腕は不自由だけれど、肩をすくめた。
「終わり。『魅力不足だ、お嬢さん』」
 今度は神成の負けだけど勝ちだった。『ん』なんか付いたっていいのだ。彼女の狙い通りの二文字さえ口にしなければ。
 悠然と立ち上がり、誇らしげに鼻を鳴らして、ドアの持ち手に手をかける。その背に彼女が、小さく声をかける。
「『Appelle-moi ton amant,』」
「は?」
 神成は思わず振り返った。何語だったのかさえ分からなかった。
 久野里は口唇の片端をいやらしく上げている。
「神成さんって、本当に学がないよな」
「悪かったな。低学歴で」
「学歴じゃなくて教養がないって言ってるんだよ。シェイクスピアぐらい読んでおけ」
 そう言われても、神成はあのやたら台詞の長い戯曲を読んでいると眠くなるばかりなのだが。とりあえず、浮かんだ疑問を口にする。
「これ、しりとりだろ?」
「表向きは。ただ、ゲームが終わったから種明かしをしている。そういうものだろう?」
 しりとりに見せかけて名前を呼ばせるゲーム、以外の意味があったのか。二重にも三重にも罠が仕掛けてあって、本当に油断ならない。神成は嘆息して、左肘の可動域を確かめた。少しは動くようになってきているようだ。
 神成は話を終わらせるつもりで冷たく言い放つ。
「悪いけど意味が分からないから。謎が増えただけ、でも俺は理解する気も努力する気もない。悪いな、『学がなくて』」
「All right then, I translate back into the original version for you.」
 だが彼女は歌うように続けた。英語なら、神成が聞き取れるのを知っていて、やわらかに目を閉じて。
「『Call me but love,』――私は『ハムレット』の方が好きだがね。あとは自分で探せよ。これ以上あんたの脳に怠惰を許す気はない」
「俺だって……別に、知りたくなんか、ないよ」
 吐き捨てて彼女の病室を出た。指示された外来の病室に向かう。
 やや貧血の傾向があること、γ-GTPが基準値内だがやや高いので酒を少し減らすべき、など聞かされて、眼前の薬局で鉄剤の処方を待つ間に、外で携帯をいじる。
 久野里が言っていたのは『ロミオとジュリエット』の一節らしいと、ネットから何とか辿り着いた。確かに彼女に似合いの作品ではない。日本語の概要を見ていくと、このシーンは有名な、『あなたはどうしてロミオなの』のくだりであることが分かった。
 ジュリエットはロミオが政敵の息子であることを嘆き、『ロミオ』であることを捨ててほしいと願う。身勝手な女だなぁと神成は個人的に思うが、十四にも満たぬ娘らしいので仕方ないのかもしれない。ロミオはそれに対し、ジュリエットの言う通りにしようと語りかける。『ロミオ』であることを捨てようと。これもこれで軽率な気がしなくもない。ちっとも感情移入出来なかった。
「『私をただ、恋しい人と呼んでください』」
 ――ただこの訳文だけは、胸に引っかかって。
 彼女はしりとりがしたかったのでも、謎かけがしたかったのでもなく。『久野里』とも『澪』とも呼んでほしかったのでなく。ただ。ただ、そうだったのだとしたら。
「なんなんだよ、本当に」
 毒づいて、神成は院内に戻った。確か割と大きな本屋が入っていたような気がするのだが、目当ての本はあるだろうか。
 鉄剤を受け取って。ビタミン剤も出されていて。袋に入っていない買ったばかりの本を手に、神成はしかめ面で彼女の病室に取って返す。初めてノックもしなかったので、パソコンに向かっていた彼女は意外そうに振り返った。何かを言われる前に、その辺の台に今買った本を置いていく。
「シェイクスピアも結構だがな。古文も勉強しとけよ、帰国子女」
 そう言って、返答を待たずに出て行った。
 残していったのは、小倉百人一首の簡易本。なるべく少女漫画みたいなかわいい絵柄のを選んだつもりだけれど、彼女にどこまで効果があるのかなんて分からない。ただ、元良親王(作者名は神成も今日認識した)の歌にだけ、控えめに付箋を貼って。
『わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ』
 あんな小娘に馬鹿馬鹿しいけれど。悩むこと自体、もう囚われているのと同じことだから。澪標みたいに――身を尽くしても、会いたい。そうじゃなきゃ、仕事を口実にしてまで約束なんて取りつけやしない。
 病院を出て、今日は車で来なかったことを思い出した。第一この状態で運転などしたら恐らく事故だ。電車かバスで戻ろうと時刻表を携帯で確かめていたら、ちょうどメールが来た。彼女からだった。柄にもなく心臓が跳ねる。
 情けないことに指が震える。やっと開いたメールには、一行だけ――。
『これ不倫がバレてdisられたときの歌だろ?』
「確かにそうだが!」
 下がアスファルトでなかったら携帯を叩きつけるところだった。怒りに任せて返信しそうになったが、やめる。バス停まで歩いていって、待ち時間にミネラルウォーターを飲みながら、一字ずつ言葉を打った。
『まだ、子供という枷に囚われている君に。事件にばかり好かれる俺でも、たまには横恋慕や浮気ぐらいいいだろう?』
 返事はなかった。これでやっと完全勝利。神成は上機嫌で、折よくやってきたバスに乗り、渋谷駅を目指す。そこからは少し歩いて帰ろうと思った。
 バスの中は運転手以外誰もいない。一番後ろの奥に座り、つまらない景色をぼうと眺める。
「みお」
 たった今、無意識に敗北したことにも気付かずに。続いて乗ってきたご老体たちのおしゃべりから逃れるために、神成は目を閉じる。
 出来れば今度は、あんな挑みかかるような声音ではなく。やわらかく、慈しむように呼んでほしいと。本人が聞いたら鼻で笑いかねない希望を、夢のようにふわふわした意識に抱いて。がたがた揺れながら、バスが出る。