4分の1の純情なビターショコラ

 神成岳志が紙袋を提げて信用調査会社フリージアを訪れたとき、時刻はもう2月の15日近くになっていた。けれど不定休のフリージアは、よく言う平日9時-5時では閉まらない。
「あら神成ちゃん。今年はまた増えた?」
「さぁ……。こういうの贈賄に繋がりかねないから断ってるんですけどね。知らないうちに机だの何だのに入ってるって、ほとんどテロですよ」
 応接用のローテーブルに、紙袋の中身をぶち撒ける。どれも綺麗に包装されたチョコレートだった。
「全部検めましたが、開封されたり賞味期限ラベルの貼り替えなどが行われた形跡はありませんでした。食べてもらって大丈夫です」
「悪いわねぇ」
 社長の百瀬が頬に手を当てて首を傾げるので、神成は苦笑する。
「いえ、そんな。いつも片づけるの手伝ってもらっちゃって――」
「あんた『に』じゃないわよ、あんた『が』」
 冷たく言い放たれ、黙るしかない。
 確かに、厳しい目をかいくぐってまで自分に贈ってくれたものを、横流しするのは悪いとは思うけれど。
「『善意の第三者』と似たような論理でしょう。俺は誰がくれたのか知らない。だったら彼女たちが知らない相手に俺がこれらを譲渡したところで、責任の所在なんてあやふやなままじゃないですか」
「素直に職場恋愛が面倒くさいって言いなさいな」
「別に職場恋愛が面倒なんじゃないです、名乗られない状態では受け取りがたいという話で……」
「ああはいはい、これは名前入りのメッセージカードついてるわよ。出所がはっきりしてるものぐらいは責任取んなさい」
 百瀬が念入りに、小綺麗な箱の、山というほどでもない半端な量を精査して。手元に戻ってきたのは大吟醸入りのチョコレート。包装紙に折り畳んだカードが挟まっていて、『日頃の感謝を込めて』と月並みな文句と共に見知った名前が書いてあった。もう随分会っていない同期。ちなみに記憶の限りでは去年もらっていない。歳が歳だけに焦っているのだろうか、彼女は大卒だから神成よりも年上だ。交通課のくせに酒入りチョコなんて、酒気帯びで点数でも挙げるつもりだろうかと意地の悪いことを思う。
 ばりばりと破いて1つ口に放り込んでみたが、甘いのだか辛いのだか中途半端な味がした。
「だったら普通に酒くれって感じなんですけどねぇ」
「もらっといて文句言わないの」
「すみません」
 百瀬はあれでも、と言っては失礼だろうが、しっかり女性側の肩を持つ。だが職場で直接どうにかするわけにもいかず、かといって捨てるのはさすがに良心が咎めるので――手作りは処分させてもらっているが――ここで引き取ってもらうより他に仕様がなかった。ここ何年かずっとそう。
 気の進まないまま2個目に手を伸ばそうとして、神成は華奢な腕が後ろから伸びてきているのに気が付いた。顔を見ずとも誰だか分かりきった手を、軽くはたく。
「こら。これはアルコールだから未成年はダメ。そっちの好きなの食べろ」
 久野里澪は露骨に舌打ちした。どうせ酒だから興味を持ったのではないのだ、単純に妙なものだったから気になっただけだろう。そういういわゆる『ネタチョコ』なら他にもあった。何も進んで非行に走る必要もない。
 だが久野里はテーブルの上に目もくれず、これは? と神成の鞄からはみ出した、質のいい袋の端を指差してみせた。神成はやはり振り返らないまま、恨みがましく白い手を睨んでいる。
「……目敏い奴」
「あ?」
「何でもないよ」
 短く吐き捨て、鞄から包みを出した。これだけはと紙袋には突っ込まずにおいたもの。
 その小さなチョコレートの缶を、神成は後ろ手に久野里へ突き出した。
「欲しいならやる。ただしちゃんと食え」
「何を言ってる。こんないかにもな本命、他の女が食ったら怨念で胃がもたれる」
 嘲弄されて、神成はその金属製の小箱を引っ込めるきっかけを失ってしまった。
 百瀬が、いつもの訳知り顔で笑っている。
「そうよね。『他の女』に渡せないから、そうやってちゃんと分けて持ってたんだものね」
「……百瀬さん」
「もらってあげなさいな、澪ちゃん。それ、きっと『神成ちゃんの本命』だから」
「百瀬さん!」
 怒鳴ったけれども遅かった。こんなに顔を真っ赤にして大声を上げている時点で、認めているのと同じなのに。だがここで、違う違うと小学生以下の見え透いた否定をするほどみっともなくもなれない。
 百瀬はわざとらしい高笑いで、神成がテーブルに放ったチョコレートたちを回収すると、他のスタッフのいる方へ歩み去っていった。
 しまえないし受け取ってもらえるわけでもない、どうしようもない包みを持ったままの神成は残されて。久野里がどんな顔をしているのかは、やはりどうしても確認出来なかった。
「おい」
「なんだよ」
「百瀬さんに他のを全部持っていかれた。酒のを寄越さないんだったらその持ってるの、寄越せ」
 横柄に言われて、神成は渋々従う。引ったくりに遭ったように一瞬で、小箱はあっさり手の中から消えた。
 彼女の目的が糖分やカロリー摂取だったとしても、別にいい。最初からそのつもりだった、はずだ。何日もかけて池袋や新宿のデパ地下を何周もして、そのくせ結局買ったのは当日のヒカリヲで、このうえファストフード店でぐずぐず悩んでいたから遅くなったとか、そんな高校生みたいに青臭くてくだらない話は聞かせる予定も必要もない。
 とん、と何かが背中に当たった。彼女の背だと気付くまでに時間はかからなかった。包みを開ける気配はない。何を言うでもない。神成からも切り出せる言葉はない。
 伸びてきたのはやはり彼女の手で。別の小箱がスーツのポケットに押し込まれる。コンビニで売っているような、真四角の、きっと4粒ぐらいしか入っていないもの。それでも一応、普段の売り場では見ないもの。
「くれるのか?」
「胃もたれしないならな」
 回りくどい言葉は、空気より背骨を揺らして伝わる。
 神成はその包みを取り出して、まじまじ眺めた。落ち着いたダークブラウンに、キャメルのサテンリボン。値段はそう高くないのだろうけれど、プレゼント然と光っている。裏面の成分表示シールには、『大人の味わい ビタートリュフ』と商品名が記されている。
 神成の、ありがとうという言葉を遮るように、久野里が乱暴に包装紙を引き裂く音が響く。少し力を入れて缶を開けるのも。咀嚼の振動までもこの距離ではあまりに近くて。
「まずい」
「そうかよ」
「あんまり酸味の強いのは好きじゃない」
「じゃあフルーツ系はもうやめておく」
「3月14日に期待しよう」
「なんだよそれ」
 そのくせお互いに顔は見られなくて。こんな風に背中合わせに立ったままチョコレートを食べて、なんだよそれと、他にどう言えばいい。
 神成も酒入りのチョコレートを脇の棚に置いて、彼女がくれた箱を丁寧に開けた。案の定、内容量は4粒。そのうちの貴重な1つを口に含んで。噛み締める。
「俺はこれ、好きだな」
「そうかよ」
「そうなんだよ」
 帰ると、そろそろ言い出さなければいけないけれど。
 あと少し。もう3粒。君に体温を預けていたい。