昭和生まれの最後らへん

 刑事の花形、警視庁捜査一課。ひとたび事件が発生すれば犯人逮捕に尽力し、華麗に解決――そんなのはドラマの中の話で、実際刑事のオシゴトというものは地味な努力の連続だ。
 諏訪護は上への報告書の作成に四苦八苦しているし、手際が良い神成岳志は自分の持ち分を既に終わらせ、自習の時間に入っている。事件さえなければ、書類仕事と勉強、思い出したように訓練。刑事部、特に一課の現実などそんなものだ。
 出涸らしのお茶をすすりながら、いかにも仕事をしていますよという風に書類を眺めていた判安二であったが、定時になるや否や立ち上がった。
 今日は何事もなかった。大変大変結構なことだ。首都東京が平和で、日本もなかなか未来が明るい。
「よーし。諏訪、神成。飲みに行くぞー」
 判の言葉に、諏訪はいかにも面倒くさそうに振り向いた。神成は、せめて外で誘ってくださいと無言のまま手振りで示していた。窓際の不良刑事が新人二人をおおっぴらに口説くものだから、周囲の視線は痛いのである。
 もっとも諏訪が退庁後に拘束されるのを嫌がるのは『判だから』ではないし、神成もTPOについて諌めてくるだけで判を避けているでもない。内心で舌を出しながら先に出ていけば、案の定二人は後からついてきた。
「あんまり長居するつもりはないッスよ」
 諏訪は開口一番釘を刺してくる。付き合って三年になるという恋人のことを、彼はとても大事にしているのだ。かつて『3年目の浮気』などという歌が流行ったように、それだけ経てば倦怠期が訪れてもおかしくないようなものだが、諏訪は他の女に目移りする気配すら見せない(下世話に茶化してみせることはあっても)。
 しかし有事の際は解決まで家に帰れず、連絡すらも制限されるこの職業。何事もないときこそ相手との時間を大切にするというのは、とても素晴らしい心がけだった。そんなこと面と向かって褒めやしないけれど。
「どこへ行くんですか?」
 神成は屈託なく首を傾げた。こちらは色気がなさすぎて、まるで判が未成年を悪い遊びに引き込んでいるようである。まぁ、確かにいい遊びとは言えないが。
「虎ノ門。刺身好きか」
「あ、はい。そんなに高くなければどうにか」
「つか先輩のおごりなら大体旨いッス」
「お前らのそういう正直なところ、俺は嫌いじゃないぞぉ」
 警視庁から赤レンガ前を通って歩きで桜田通りを南下、虎ノ門はサラリーマンの飲みの聖地・新橋よりもやや手前。
 日本酒を豊富に扱う大衆居酒屋で、少人数の半個室席を。会話を聞かれにくいが警戒もされにくい、ほどよい開放度だ。
「おつかれーっす」
「うーい」
 気のない音頭と共に中ジョッキが三つ鳴る。諏訪が『とりあえず生三つ』という、勤め人根性ここに極まる発言をしたためだ。
 判は半分ほど、諏訪は一気に全部飲み干したが、神成は舐める程度に口をつけただけですぐにジョッキをテーブルに置いた。
「神成くんってさー」
 諏訪がお通しの塩辛を箸でつつく。
「ビール嫌いッスよね」
「……いえ別に」
 神成はあからさまに目を逸らし(刑事向きではない)、判の頼んだきゅうりの梅和えを早く食べたそうな『演技をしている』(俳優にも向いていない)。
 隣に陣取った諏訪が、神成を壁に押し付けるようにずいと肩を寄せていく。
「知ってるんスよー、神成くんが常に『サブのソフトドリンク』キープしてて、『メインのビール』にはすすめられたときしか手ェつけないのー」
「そんなこと」
「ついで言うと、そのビールも『注ぎ足されないギリギリのライン』いつも探ってるー」
「もう酔ってるみたいな絡み方しないでくださいよ……」
 神成は今度こそ『ふり』ではない目で判に救いを求めたが、判は首を横に振った。
 諏訪の言っていることは事実だし、そんなことを覚らせる方が悪い。これしきの窮地は自分で乗り越えてもらわねば。
「で? ホントに嫌いなのはビール? 酒全体? それともこうやって絡んでくる上司?」
 諏訪はにやにや笑っている。しかし酔っているのでもないだろう。中一杯、彼には飲んだうちにも入るまい。諏訪が本気で酔っ払っているのを、判は一度も見たことがない。
「分かりませんけど、確かにビールはあまり得意ではないです……。もしかしたら、酒そのものが苦手なのかも」
「あ、最後の質問、巧妙にシカトした?」
「いえ別に!」
 若造たちがじゃれ合っている間に、判は店員を呼んで追加注文をした。ここに来たからには、味玉と刺身の盛り合わせはぜひ食べなければ。
 諏訪の猛追は続く。
「じゃあお酒飲んで女の子と遊んだりしないの?」
「そんな暇はとても、入ったばかりの自分には」
「そんなお忙しい神成くんはぁ、いっつも隙を見て勉強してまスけど、偉くなりたいの?」
「そういう訳ではなく――」
 たじたじだった神成は、そこで急に落ち着きを取り戻し。
 ――警視庁の検挙率を上げたいです、と。控えめな声でひどく傲慢な願いを口にした。
 諏訪は眉をひそめ、静かに身を引いた。判は黙って、まだ半分残っているビールで喉を潤す。
 警視庁の刑法犯『検挙数』は確かにトップを誇る。ただそれは発生件数が多いことや、互いの目が厳しいということの結果でしかない。認知件数に対する『検挙率』は、全都道府県のうちでも下から数えた方が早いほどなのだ。
 神成は示された数値から、己の属する組織がいかに有能で、同時にいかに無能かを正しく読み取った。それぐらいならば諏訪にも出来たはずだ。だがそこで、『自分が上に立って変えてやる』と言い放つだけの無鉄砲さはない。判もそうだ。それは善悪以前に性質というものだろう。
「神成。ちょっとこれ飲むか」
 判はゆったりとした口調で、向かいに座った神成の前に徳利を押し出した。
 若き野心家は頼りない青年に戻り、曖昧に苦笑してみせた。
「日本酒、ですか?」
「おう、純米酒。試しにどうだ」
 猪口に注いでやれば、神成も断りきれずにお愛想の礼を言ってくる。そして危険物でも扱うように慎重に口許に持っていった。陶器に口を付け、眉をひそめた――かと思えば、ぱっと瞳を輝かせる。
「旨いだろ」
 判が頬杖をついて笑うのにもこくこく頷くだけで、神成は大して中身も入っていない猪口を口唇から離そうとはしないのだった。分かりやすいといったらない。
「日向燗っつってな。常温よりはやや熱い、ってなぐらいのぬるい酒だよ。俺ぁ猫舌だからこれぐらいがちょうどよくてね。お前さんも冷たすぎるのはあんまり得意じゃないだろう」
「あー、なんか無性に悔しい。じゃあ神成くんこれはどッスか、温州みかん酒のお湯割り!」
 諏訪が妙な対抗心を燃やして、あれはこれはと言い出すものだから、判も面白がってこれもそれもと飲ませてみる。
 結果。
「先輩……潰すことないじゃないッスか」
「うーん、こいつお偉方のいる席だと絶対醜態見せんからなぁ。たまには本音の一つでも引き出せりゃ、と思ったんだが。黙って酔っていきなり落ちるタイプとは」
 神成は、聞かれたこと以外の一切――あるいは聞かれたことにすら答えないまま、唐突にごんと額をテーブルに強打してそのまま寝入った。
 諏訪は、起きる気配のない神成の頭を、焼き鳥の串(尖っていない尻の方)でつついている。
「どこまで忠実なコウムインなんだか……ベッドでも同じくらい口が堅けりゃいいんスけど。軽いのもいるから困りますよ」
「はは、床事情に関しちゃ俺らにゃ確かめようのない話だ」
「でス、ね。キョーミもないッスわ」
 諏訪は神成で遊ぶのをやめて伸びをした。
 判は突っ伏した神成の頭を横に転がしてみる。よかった、ちゃんと息をしている。無防備な横顔は、職場にいるときよりなおいっそう、彼を幼く見せていた。もしかしたら、今向こうでハッピーバースデーなどと騒いでいる大学生連中よりも若いのかもしれない。
「なぁ諏訪。神成って平成生まれだったか?」
「いえ、神成くんの学年は、まだ丸ごと昭和生まれのはずッスよ。多分一コ下の早生まれから平成が交じってくるんじゃないスかね」
 八七年でしょ、と諏訪は何杯目かも分からないビールをあおりながら答えた。相変わらず、おごりだと思うと容赦をしない奴だ。
「お前もそんなに変わらんだろう」
「ざーんねん。それが自分は旧カリキュラム世代で、神成くんは新カリキュラム、よーするに『ゆとり』一年生なんス。円周率はおよそ3! あーかわいそー」
 諏訪はけらけら笑いながら、おでんを口に運んでいる。
 判は小さく笑った。酒の力で本音を出せないのは、どうやらこちらも同じのようで。
「例の彼女とはどうだ。仲良くやってるか」
「順調ッスよ」
 牛すじを飲み込み、諏訪は短く答えた。ただ簡潔すぎると気付いたのか、箸先を迷わせながら続ける。
「ただ、なんていうかな。彼女も今はまだ仕事が楽しくて仕方ない時期っていうか、そんな感じで。すぐにどうこうとかは、ちょっと難しいというか」
「こっちもこんな仕事じゃ、所帯持ったところでたくさん待たせて、寂しい想いさせちまうだけなんじゃねぇかって気はするしな」
「先輩、まるで経験者みたいな口ぶりッスね」
「俺の戸籍にバツはねーぞ。前歴も真っ白」
「考えてみたお相手は百瀬さんスか?」
「ばーか。モモちゃんなんぞと一緒になってみろ、待たされるのは俺の方で、給料は全部向こうの腹の肉だ」
「そこはせめて懐って言いましょーよ」
 判は答えずに声を上げて笑った。
 辛口ですすぎたくて、燗の温度を少し上げる。珍しく諏訪も熱燗を頼み、互いに手酌で杯を傾けた。
「……帰りましょっか」
「ん、彼女に会いたくなったか?」
 諏訪が随分穏やかな口調で言うので、判もつられてやわらかな言い方になる。
 それもスけど、と諏訪は隣に目をやった。本当に寝言ひとつ言わない青年の顔。
「神成くん、ちゃんと家で寝かしてやんないと。明日きっとひどいッスよ」
「お前さ、諏訪。その優しさの半分でも、神成が起きてるとき見せてやりゃあいいじゃねぇか」
「別に自分は、いつも後輩に優しい先輩ッスよ?」
 神成は能天気なほど安らいだ表情のまま眠っている。諏訪がべしべしと遠慮なく頬を叩けば、一応意識は取り戻したらしいが多分状況は理解していない。
 判は伝票を掴んで立ち上がった。店員を呼んでもよかったのだが、なんとなく金額を聞かせるのは沽券に関わる気がする。
「済ましとくから、神成持ってゆっくり来い」
「うーい」
「ん、うー……」
 神成の唸り声が聞こえてくる。
 普段あまりにも手がかからないから、たまにはあれぐらい迷惑な方がかわいげもあるというものだ。
 外に出ると、ほどなく諏訪が出てきた。肩を組んで支えられながら――というより引きずられるように、神成も一緒にいる。
「おう神成。自分の住所言えるか?」
「東京都……」
「俺にじゃなくて、今タクシー拾ってやっから。運ちゃんに言え?」
「神成くんち、まだ独身寮ッスよ」
 諏訪は呆れ声でいい、片手で手帳を取り出した。そのまま器用に、神成を落とさず何かを書き留めて千切る。判はこの辺を流していたタクシーを一台停めた。
 ドアが開くなり、諏訪は後部座席に神成を押し込む。先ほどの紙切れを運転手に手渡し。
「すみません、ここまで回してくれまスか。あともう建物の前に放り出しといてもらって構わないんで。これで」
 追加で渡したのは万券。神成は、すみませんとあやふやな口調で言いながら、シートベルトだけはしっかり装着している。泥酔してさえ抜けない彼のクソ真面目は、一体何に起因しているのだろう。
 走り出すタクシーの尻を見送りながら、判は諏訪を小突く。
「カーッコいいね、センパイ」
「……うっさいッスよ、先輩」
 諏訪は口唇を尖らせて頭をかいた。
「先輩は帰らないんスか?」
「俺は馴染みの店によって帰るさ。カノジョさんによろしく」
「どーも。先輩こそ、百瀬さんによろしく」
「……かっわいくねぇの」
 判も悪態をついて、現地解散。
 土産に買った似合わないスパークリングワインを片手に、判は虎ノ門駅へ。渋谷までは乗り換えなしで六駅。