残照

 アイクがテリウス大陸を発つと聞かされて、エリンシアは反対が出来なかった。
 もうここは彼には狭すぎると、彼女にも薄々解っていたから。
 せめて最後に挨拶をと願い出たものの、女王の手の空く時間は少なくて、二人きりになるのは日の傾く頃になってしまった。エリンシアが上がっていくと、アイクは城の屋上の弓狭間から、遠い空を見ていた。
「あんたと初めて会ったのも陽暮れ時だった。ドレスも夕焼けで染めたみたいな色に見えたな」
「――夕焼けなんて、なんだかとても寂しいみたい。闇を切り裂く、力強い夜明けの方が、きっと皆も頼もしいでしょう」
 風になびく横髪を押さえながら、エリンシアは苦笑する。それぐらいしか術がなかった。
 そうか? とアイクが振り向く。相変わらず嘘のつけない瞳だった。
「俺は全てを露わにしていた陽射しが、優しく暮れていくのは嫌いじゃない。少なくとも、俺とミストは、その仄赤さに救われたと思う。夜は俺たちを休ませてくれるが、いきなり暗くなるんじゃみんなもあんまり不安だろう。ゆっくりと幕を引いてくれる茜色が、俺は好きだった」
 ああ、そして、やはり何でもないことのように、彼は茜色わたしを好きだったと言った。
 エリンシアは目を閉じて両手を組む。
 思えば恋人らしいことの何も出来ない二人だった。想いを告げ合ったところで、指を絡めて勇気を分け合うだけで、傍らに在ることすら叶わぬ二人だった。深い青色と共に笑えたのは彼女が茜であった頃だけ。
 夢を見るための予感の色。安らぎの前の、幼い期待。
 全ては、彼女の幸せの斜陽から始まった。両親と祖国を失い、真っ暗な中に放り出されて。
 けれど夜明けは、闇からしか訪れない。真昼の陽光から暁は生まれない。去りゆく眩しさに人は寂しさを覚えるけれど、朝焼けに似た赤い空は安らぎと、再び訪れる光への約束を感じさせて。彼女がかつて昼と夜を繋いだことには、確かに意味があったのだと――そう思わせてくれるのだ。
 どんな未練の言葉も、互いの枷か呪いにしかならない。だから決して口にはしない。
 アイクが少女を女王にしたように、エリンシアが少年を英雄にした。それを否定することは、二人の生きた証と未来を軽んじることだ。何人たりとも許されない。だからエリンシアは、瞼を上げてアイクを見つめる。
「私はクリミアを照らす、沈まぬ日輪で在らねばなりません。だから白を。これからは真昼の衣装を身に纏います」
 けれど貴方だけ、日に一度だけ思い出してくれますか。
 あの頃、貴方に手を引かれた少女がいたこと。貴方に惹かれた、小さな娘が、笑っていたこと。
「もう、夕暮れですね」
 この色が、遠い空の下で、未来の貴方にも届きますように。既に茜を捨てた、今の私の分まで。
「ああ。それでも朝も昼もまた来るさ。茜色だって、何度でも来る」
 アイクはひどく優しい声で微笑んだ。エリンシアは、上手く笑い返せていたろうか。
 頼ることをやめた名を、喉を震わせず、口唇だけで呟いて。
 彼女はこれから、青空の色をした姉弟と共に、永遠の昼を生きていく。