もう名前も呼べない貴方へ

「おめでとうございます、女王陛下」
「まこと喜ばしいことで」
「これからの治世にもきっと――」
 エリンシアはその手の台詞を朝からずっと浴びせられて、正直辟易していた。
 やっと少し戻れた自室で椅子に座り、天井を仰ぐ。かつての仲間たちが本心で告げてくれるそれは素直に喜べたが、貴族たちの心にもないお追従には、愛想笑いを返すだけでも疲れる。それも役割の一つだと思うから、律儀にこなしているだけ。
 数年前とは何もかも違ってしまった両手を見下ろした。
 この手に、両親のくれたささやかなプレゼントを抱えて、ルキノの焼いたケーキに歓声を上げて、ジョフレの生真面目だが正直な祝いの言葉を聞いて、ユリシーズのリュートと歌を聴いて、叔父が遅れて駆けつけてきて。それだけで彼女は満たされていたのに。
 より多くの人間が、エリンシアを認識し、めでたいと言ってくれているというのに、どうしてこんなにも虚しいのだろう。
 どうして? そんなこと、とっくに自覚している。エリンシアは自嘲気味に微笑んで、両手を祈るように組んだ。
 ――本当に祝福してほしい人間は、もうどこにもいないから。
 エリンシアの人生に不意に現れて、同じように不意に消えてしまった。一度もその言葉をくれることのないまま。きっと、エリンシアがどの季節に生まれたのかさえ、彼は把握していない。
 こんな過去に浸る忘我は女王のものではないと知っていた。だから自室でしか考えない。
 この国のどこでも考えるべきではないのかもしれないけれど、離宮の代わりに、この小さな箱の中でだけは、既に女性となった彼女も、少女を思い出していたかったのだ。
 ふと、扉が鳴った。ルキノだとすぐに分かった。符丁ではなく、単なる叩き方の癖だ。どうぞと力なく返事をすれば、生まれた頃よりの親友は苦笑しながら入ってきた。
「お疲れですわね」
 エリンシアは曖昧に笑った。ルキノに嘘をついても仕方ないが、言葉に出して肯定してしまう訳にはいかない。とかく女王とは不自由な立場であった。
 ルキノは承知の顔で何も言わなかった。ただ、くたびれた封筒を、丁寧な手つきでエリンシアに差し出す。
「中は検めていませんわ。安全だと分かりきっておりますので」
「え……」
 思わず受け取る。『エリンシア殿』と、女王とも陛下とも付けずに素っ気なく書かれた宛名。裏返してみても差出人はない。けれど、この独特の文字は。
 何度周りが教えても直らなくて、最終的に右腕の少年さえ『僕は読めますから支障ないでしょう』と匙を投げた悪筆は。
 エリンシアは逸る気持ちを抑え、ルキノから受け取ったペーパーナイフで、殊更慎重に封を切った。中からはやはりくたびれた便箋が一枚。署名すら見当たらず、ルキノが気付いてくれなければいたずらとして捨てられていたっておかしくはない。
 綴られていたのはただ一行。
『人としての生が幸せであるよう』
 エリンシアは、滲む視界にその文字列を収めながら、笑ってしまった。
 これはもう祝いの言葉ではない。願いだ。
 ――それでも、ああ。エリンシアは、彼の一言だけを、きっとずっと、待っていた。もう手の届かない、軽率に名を呼ぶことすらも許されない彼の。言葉足らずの、この不器用な一言だけを。
「……ルキノ。晩餐会の用意をして。着替えます」
「はい」
 余計なことは言わず、ルキノは退室していく。
 エリンシアは立ち上がり、窓に歩み寄る。硝子に息を吐いて、白く曇ったところに、初めて彼の名を書いてみた。
『お手紙ありがとうございました』
 しかしその続きはどうしても書けなかった。一行に全てを込めてくれた彼だ、こちらも無駄な美辞麗句を添える必要などない。
 女王としてでなく、道具としてでなく。人としての生が幸せであるよう。何もかもその通りにはいかぬだろうが、出来る限り彼の望んだとおり、生きてみよう。指図されたからではなく、己の心でそれを受け入れるために。
 掌で、届かない返事をかき消した。エリンシアはまたひとたび、クリミア女王に戻る。
 人としての、少女の想いと青年の願いは、この箱に大事にしまっておこう。