第二章 渡海 - 5/7

SIDE:Ike

 

一人目

 

 一行は、船が用意されている筈の港に向かうため、ガリア城を発った。
 密林を抜けクリミア領内に入ると、見晴らしのいい草原地帯になる。敵に見つかりやすいが、こちらも向こうを見つけやすい。五感の優れた獣牙族のいるおかげで、ここまでアイク達は戦闘をすることなく進んでくることが出来た。
「港町への道中だし、せっかくだからここに寄り道していこう」
 そろそろ海も近くなろうかというところで、案内役のライが徐に足を止めた。指し示す先には小さな城がある。
「あそこにあるカントゥス城は、デインに占拠されて以降、捕虜収容所になってるんだ。地下牢にクリミアの遺臣が何人か捕らえられている。確かな筋からの情報だ」
 とにかく戦力が不足している一行にとって、訓練を受けた兵士が加わるということはいかにも心強いことだった。
 後々、大々的に旗揚げをする際にも、正規兵の存在はエリンシア――いるはずのない王女の信憑性を高めることになる。危険を冒す価値はあるだろう。
 ライに連れられて、アイクたちは警備の手薄な側に回る。茂みの中に身を隠す。
「さて。突入の前に確認しとこう。問題は、捕虜が閉じ込められている牢をどうやって破るかなんだが――」
 ライは説明の途中で目を見開き、避けろと叫んだ。上だとレテがほぼ同時に怒鳴る。皆が両脇に飛び退く。その空いた場所に下りてきたのは、一人の男だった。
 アイクは一瞬ラグズかと思ったが、耳の形はベオクと同じだ。軽く結んだ口許に無精髭が散らばっている。右手には大振りのナイフがある。
 決して小柄ではないのに、存在感の希薄な男だった。まるで影が独立して動いているかのようだ。
「グレイル殿に用がある。どこだ?」
 重々しいが、その重々しいことしか印象に残らない無個性な声で、男は言った。
 呆気に取られているアイクの代わりに、セネリオが応対する。
「不躾ですね。用件は?」
「本人に話せば分かる。取り次いでくれ」
 男の放つ気が急に濃密になった。不吉な程に紅い瞳が、威圧的な光を発している。
「それは無理な話よ。グレイル団長は、亡くなったわ」
 ティアマトが目を伏せて答えた。事実とはいえ、そう何度も口にさせたくはない言葉だ。
 男は悲しむ風でも同情する風でもなくただ、まいったな、と呟いて頭をかいた。何か訳ありのようだ。アイクが代わりに前に出る。
「あんたは誰なんだ? 親父に何の用がある」
「グレイル殿の息子か」
 呟くと、男はまた炎の消えるように影に戻った。気のない口振りになる。
「だったら、あんたでもいい。俺はフォルカ。グレイル殿に雇われていた情報屋だ、頼まれて調べていたことがある。報告書を渡すから、代金をもらいたい」
「いくらだ?」
「五万」
「……ずいぶん高いな」
 あっさりと言われ、アイクは眉間にしわを寄せた。
 二万を受け取るの受け取らないので揉めていたのは、一体何だったというのか。あれでさえ一国の王女が躊躇する金額だったというのに、法外な価格設定にも程がある。
「それだけの価値はあるさ」
 男――フォルカは肩をすくめた。おどけた動作がかえって浮いている。
 アイクは数秒の沈思の後、声を絞り出した。
「今は金がない。しばらく時間が欲しい」
「ということは、払う気はあるんだな」
「親父が依頼したことだ、それなりの理由があるんだろう。中味を見れば価値は分かる。確認するまでは、俺たちと共にいてもらおう」
 アイクとて、そうですか分かりましたと金を払うほど世間知らずではない。だが、父がそれだけの額を約束してでも欲しかった情報というのが、どうしても気になる。
 あの黒い鎧の男が求めていたのが、その情報に関わることだとしたら――父はその為に命を奪われたのだとしたら。アイクにはそれを知る権利があるし、また、知らねばならぬのだ。
 フォルカは大きく息をついた。
「だが、そいつは金が出来てからの話だろう? 生憎、俺はそれほど暇じゃない。この件は、ひとまずお預けに――」
「待ってください」
 立ち去りそうな気配を見せたフォルカを引き止めたのは、意外にもセネリオだった。フォルカの全身を見ながら、注意深い口調で問う。
「情報屋、と言いましたね。あなたが売るのは情報だけですか?」
「……何が聞きたい?」
「鍵開けは、できませんか?」
 アイクたちは目を丸くしてセネリオを見た。セネリオは緊張した面持ちだ。
 この人数で忍び込むのだから、デイン兵に見つかって囲まれたら逃げられない。早急に捕虜を助けて脱出したいが、牢を破壊するのは目立ちすぎる。看守から鍵を奪い取ることも出来るが、鍵束から合致する鍵を探し出すのも時間がかかる。最良の手は、ひとつひとつの鍵を外してしまうこと――。
 セネリオはそう考えたはずだ。
「一回につき、五十だな」
 フォルカはこともなさげに答えた。請求金額を提示するということは、可能だということだろう。
 しかし鍵開けとしてこれは妥当な価格なのだろうか、それとも足下を見られているのだろうか?
「大丈夫なの? たった今会ったばかりの男よ。こんな状況で、素性のわからない人間を信用するのは、危険すぎないかしら。私は反対」
 ティアマトが難しい顔をして言った。セネリオは首を横に振る。
「捕虜奪還などという行為が、安全に完遂出来るものだと思いますか? 多少の危険は覚悟すべきです。寧ろ、開錠を任せることでリスクが軽減されると考えた方がいい。しかもこの男ははっきりと金を要求している。つまり成立する関係は信頼ではない、契約です。互いの利害が明確である以上、少なくともこの場において、この男は信用に値すると思います」
 信頼は出来ずとも、信用は出来るということか。
 アイクはライにも意見を求めた。ライは困惑した表情でうなじをかいている。
「獣牙族に気付かれずにここまで接近できる男を、危険と取るか頼もしいと見るか――お前さん方次第だろ。オレは口出ししないよ」
 アイクは鍵開けを頼むことにした。フォルカは、金さえもらえるなら異存はないと言った。
「じゃあ、オレは行く。健闘を祈ってるから頑張れよ」
 ライはひらりと手を振った。アイクは眉をひそめる。てっきり手伝ってくれるものだと思っていたのに、と言うと、ライは苦笑して肩をすくめた。
「そうしたいのは山々なんだけど、オレも忙しくてね。終わり次第、また合流するよ」
「そうか」
 アイクは頭をかいた。
 そうだ。自分たちはこうする他に選択肢がないが、彼の仕事はクリミアを取り戻すことではない。
 彼はあくまでガリアの戦士であり、自国の為に優先すべきことは山程あるのだろう。
「ライ。気をつけてな」
「ああ、お前たちもな!」
 ライは笑って、軽やかに姿を消した。
 

 

 肩を射抜かれた兵の上げた悲鳴が、石造りの壁に反響していく。直後、ボーレの斧が兵の首を落とした。
「気付かれちまったか」
 ボーレが短く舌打ちする。今の声でデイン兵が騒ぎ出した。このままでは囲まれるのも時間の問題だろう。
「ぼくのせいだ」
 ヨファが真っ白な顔で呟いた。
「ぼくが一撃で仕留められなかったから」
「仕方ねぇだろ、そんな細い矢で。増してお前の腕の力じゃ――」
 ボーレが駆け寄っていって慰めようとしたが、ヨファは首を振ってそれを拒む。兄を遮って発した言葉は、呪文のように不自然な抑揚だった。
「違う弓兵は気付かれたらいけないんだ。一撃で片付けなきゃいけなかったんだ」
 志願兵を誘導していたオスカーたちが戻ってくる。残っているのは正規兵だ。彼らは武器さえ手にすれば共に戦ってくれるだろう。アイクはヨファの頭を軽く叩いた。
「アイク! てめぇ、何す」
「ヨファ。今ので反省は終わりだ」
 ボーレが文句をつけてくるのを無視し、ヨファの髪をかき回す。
「もう気にするな。大人しくしてるのは俺の柄じゃないと思ってたところだ」
「アイクさん」
「まだ戦えるよな?」
 問いかけると、ヨファは力強く頷いた。アイクも小さく頷き、皆を見回す。
「モゥディには殿(しんがり)を任せたい。フォルカは武器庫を探し、可能ならクリミア兵に武装させてくれ。レテは俺と共に魁を頼む――さぁ」
 剣を掲げ、呼びかける。
「強行突破するぞ!!」
 ボーレとワユが、そーこなくっちゃあと声を張り上げた。
 黒い群れが迫る。レテが踊りかかる。アイクが刃と共に駆け抜ける。ボーレが振りかぶる。ワユが舞う。ヨファの矢がデイン兵の眉間を貫く。セネリオの風が肌を切り裂く。イレースの雷が脳天から突き抜ける。
 無謀なことと自分でも思う。しかしアイクはこの躍動に生を感じるのだ。これが未来を切り拓くことなのだと。
「よく来た! 心から歓迎するぞ」
 最奥で、看守長らしい金縁鎧の男が両腕を開いて待ち構えていた。
 大剣を持った大柄な男だ。髪も眉もない肉の塊のような頭部。背後に大勢の獄吏を従えている。アイクたちは足を止めた。
「さあ、お前たちも俺の捕虜となり楽しい獄中生活を送るがいい」
 男は分厚い口唇の端を、にたりと持ち上げる。アイクは胸のむかつくような感覚を抱いた。どう仕掛けてやろうかと柄を握り直す。だが男が注意を向けたのはアイクではない。
「半獣……?」
 男はレテを一番嫌う名で呼び、高らかに哄笑した。
「これはいい! 半獣の囚人は初めてだ。さあ、いい子だな。とっておきの牢を用意してやろう」
 文字通りの猫なで声で言う。レテは以前のように、激怒して男を嬲り殺すことはなかった。
 化身を解き、腕組みをしてただ立っている。心を持たぬ美しい彫像のように、表情一つ変えず立っている。
 アイクは飛びかけた“何か”を必死に繋ぎ留めながら、前に進み出た。男の視線がアイクに向く。
「お前が首謀者か? いいぞ、お前……そのふてぶてしい眼光こそ俺が囚人に望むものだ。その眼が次第に希望の光をなくし濁ってゆく様は、いつ見てもいいものだからな」
「ふざけるな!」
 繋いでいたものが焼き切れた。アイクは雄叫びを上げながら男に突進する。それを合図に乱戦になる。男がアイクの剣をいなす。アイクは間を空けず打ち込み続ける。
 レテは、あんな言葉を掛けられても何も返さなかった。アイクに希望を宿したあの曙の色の瞳から、生きた光が消えていた。
 彼女はベオクを諦めたのだ。怒ることすら無意味だと。殺すことすら無益だと。彼女にとって、ベオクはそれほどまでに無価値なものと成り果てたのだ。
「あまり抵抗してくれるなよ。殺してしまっては、俺の楽しみがなくなる」
「黙れ!!」
 こいつ一人の為に、あんたは全てのベオクに失望するのか。
 こんなくだらない奴のせいで。あんたの中のベオクは全て、闇の中に鎖されたのか。
『ベオクが皆、お前のように我らと普通に接するならば』
 レテの声が頭の中に響く。アイクは剣を頭上に振りかぶった。
 ――だったら、俺が一人目になろう。
 あんたのベオクが今全て、真っ黒に塗り潰されたのならば。
 あんたにとって一人目のベオクに、新しく、俺がなろう。
 目の前で看守長が事切れていた。戦いは終わっていたようだった。
 遺体の数が思いの外少ない。逃げたのかもしれない。
 いつの間にか、階段の上から陽射が注いでいた。神聖ささえ感じさせる光の中で、アイクは自分がおびただしい量の血を浴びていることに気が付いた。
「みんな、クリミア兵を連れて、先行してくれ。俺もすぐ行く……」
 アイクは剣先で出口を示しながら言った。その刃からも粘ついた紅が滴り落ちている。
 そんなに長い間戦ったとは思えないのに、息が整わなかった。
「あのとき何故、前へ出た?」
 レテが先程の姿勢のまま問うて来る。アイクは剣を下ろし、さぁな、と言う。
「俺にも分からん。気付いたらそうしていた。……許せなかったんだろう」
「何を」
 アイクは答えられない。口唇を動かすのはこんなに難しかったか、と思う。
 許せなかった。この間まで自分も同じ呼び方をしていたくせに。
 本当は、あの男が許せなかったのではないのかもしれない。ただあの男と同一視されることに耐えられなかっただけかもしれない。自分は違うのだと、だから認めてくれと、訴えたかっただけなのかもしれない。
 こんな男の血を浴びるのは俺だけで充分だと、そう叫びたかったのは間違いないけれど。
「アイク?」
 レテが訝しげな顔をして、こちらに寄って来ようとした。アイクは左手でそれを制する。
「寄らないでくれ。あんたの嫌いなにおいが染み付いてる」
 自嘲しながら目を逸らした。
 この身の外も中も彼女の嫌いなベオクの血で満ちている。もうこんな姿を見せていたくなかった。
「先に行っててくれないか。あんただって、もう鼻が曲がりそうだろう」
 レテは小さく、分かった、と呟いた。重みをほとんど感じさせない足音が遠ざかる。
「アイク! ダいじょうぶか」
 ふと顔を上げると、モゥディが駆けてくるところだった。アイクは思わず身を引く。モゥディにとっても不快なにおいだろうと思ったのだ。
 だがモゥディは躊躇なく近づいてきて、手にした布でアイクの顔を思い切り撫で回す。
「コれはデインの忘れモのだ、モゥディがニおいをカいだ。汚れてナいぞ」
「モゥディ、なんで」
 アイクは大きな手を振り払った。あまり強く拭かれたので、厚いと言われる面の皮が剥がれるところだった。
 モゥディはしゅんと肩を落とす。
「レテが、アイクは汚れたノを気にシてイると言ってイた。ベオクはキれい好きダから……強くフきすぎたか? アイクは小さいカら、モゥディの力では上手にスるのがムずかしい……スまない。痛かったか?」
 アイクは首を振って、服の汚れていない部分で顔を拭いた。
 モゥディの言うとおりだ。自分は本当に小さい。今はこんなことを気にしている場合ではないのだ。
「ありがとう。みんなはもう脱出したのか?」
「オぉ。もうベオクの気配はシない。ミんな外でアイクを待ってイる」
「そうか。じゃあ、早く行かないとな」
 アイクはモゥディを伴って表を目指した。
 早く行かなければならない。自分の目指すところまで。