第二章 渡海 - 4/7

SIDE:Ike

 

獅子王

 

 タタナ砦。デイン兵を追い払い、とりあえず一段落着いた。
 しかし、とアイクは考える。デインの目的は一体何なのだろうか。エリンシアを追ってきているのだと単純に考えていたが、先の連中はクリミア王女の件について一言も触れなかった。
「デイン軍は、クリミアだけではなくガリアまで侵略するつもりかしら」
 ティアマトがぽつりと呟いた。セネリオが腕組みをする。
「いずれにせよ、デインは国境を侵したことでガリアといつ開戦してもおかしくない状態になったといえます」
「また、戦争になるのか……」
 アイクは呻くように独りごちた。
 傭兵団は最前線の激しさや隷属の屈辱を直接体験した訳ではない。それでも、もう戦争は沢山だと思えた。
 デイン=クリミア間の戦と違い、デイン=ガリア戦はベオク対ラグズの色合いをも帯びてくる。他の国も当然黙ってはいないはずだ。大陸全土を巻き込む戦となれば、その被害は測り知れない。
 セネリオが組んでいた腕を片方だけ崩し、指先を下口唇に当てた。
「今のうちに我々の動向を決めなくてはいけませんね。どちらに味方するのかを」
「どちらにって……デインに味方する訳、ないでしょう!?」
 ティアマトが頬を髪と同じ色に染めた。セネリオは顔を動かさない。眼球の動きだけで視線を遣る。
「人間である僕らが半じ……ラグズと組んで人間と戦うなんて、それこそ考えられませんが?」
「ベオクか、ラグズか……」
 アイクは半ば無意識に呟いた。
 デインとガリアであれば当然ガリアにつく。だがベグニオンがデインに味方すれば、属国クリミアもデインと休戦し参戦せざるをえないだろう。馴染みのないラグズ国家に、ベオクの自分たちが母国を捨ててまで味方するのも筋が通らない。アイクはじっと目を閉じる。
 選べというのか。罪に気付き向き合っていこうと決めた矢先に。ベオクか、ラグズか、選べというのか。
「まだ起きてもいない戦のことを論じ合うのか。ベオクは余程気が小さいのだな」
 こちらに歩み寄ってきたレテの声に、アイクは我に返った。
 上司の嘲弄する調子をモゥディが咎めたが、アイクはそれをやんわりと制した。ゆっくりと二人の顔に目を遣る。
「あんたたちは、どうだ? 戦になると思うか?」
「デインがガリアの領土を荒らすなら、我らは戦うことを辞さない。王の御決意次第では、すぐに戦になるだろう」
 レテは淀みなく言い切った。モゥディは俯いて首を横に振った。
「モゥディはイやだ。戦いは、沢山の悲しみをウみだす……」
 アイクは沈黙した。モゥディの意見はアイクと似ている。しかし大多数のガリア人はレテと同意見なのだろう。開戦するか否かは、両国の王次第だが――その士気は戦の規模にも影響するに違いない。
 レテは嘆息してこの話題を打ち切ると、窓の外に目を向けた。
「予定外に時間をとってしまった。王宮へ急ぐぞ。日暮れまでに、今夜寝る場所にたどり着かなくては」
「ここじゃあダメなのか?」
「貴様らがその人数でこの砦の警備をまかなえると言うのなら止めはせんがな」
「……悪かった」
 アイクは肩をすくめた。
「王宮へは、まだ遠いのか?」
「ベオクの足ならば、まだ遠い。さ、急ぐぞ」

 

 その後は特に危険なこともなく、一行は数日で王都に到着した。
 石造りの、力強く飾り気のない王城に案内される。庭は周囲の森林をほぼそのまま利用しているようで、手を入れている形跡はあまり見受けられなかった。せいぜい自生ではないと思われる花々が、点々と植えられているぐらいだ。傭兵砦の、ミストやヨファが気まぐれにつくった花壇に似ていて、何となく親近感を覚える。
 玉座の間に通される。柱ばかりで窓がない。
 吹きさらしの大部屋は開放感があり、思っていたほど圧迫されるような印象はない。
「アイク様! 皆様っ!」
「エリンシア姫」
 不思議なものだな、とアイクは思う。エリンシア姫の緑の髪は、この王宮にそぐわないどころか、とても似つかわしいものにすら見えるのだ。ベオクの国で育ったベオクの姫が、ラグズの存在すら知らなかった自分にそう思わせる。それが不思議でなくて何なのか。
 アイクが黙り込んでいるのをどう解釈したのか、エリンシアは口許を押さえて俯いた。
「グレイル様のこと、うかがいました。あの、私、何と言えばよいのか……」
「気を遣わないでくれ。大丈夫だ。俺たちは、なんとかやっている」
 アイクは素っ気なく答えた。嫌味のつもりではなかった。実際なんとかやっているし、なんとかしていくしかない。父の不在を思い知らされる方が、かえってつらかった。
 それに父が死んだのは彼女のせいではない。恐らく、彼女とは何の関係もないのだ――父が、あの鎧の男に殺されたのは。
 エリンシアは沈痛な面持ちでアイクの傍に立っていた。今にも祈りの言葉を口にしそうだった。ありがたいが聞きたくはない。アイクが話題を変えようとしたとき、ガリア王の到着が告げられた。
 だがアイクが奥に視線を向けたのはその声を聞いたからではない。
 空気が圧倒的な質量を持ってアイクの全身を打った。続いて姿が現れる。大柄だった父のそれを遥かに上回る体躯。顔の輪郭を覆う雄々しい髭。それだけならモゥディと変わりはないだろう。
 だが違うのは、燃え盛るような紅の、炎のように揺れるたてがみ。ひとつ歩を進めるごとに、金の刺繍を施された外套が翻る。風さえも道を譲り、虫さえもかしずき、木々さえも頭を垂れるようだった。
 王が玉座の前に辿り着き、こちらを見下ろしたとき、アイクは身体を強張らせた。
 黒い鎧の男に感じたそれが恐怖だとするならば、目の前の男に感じるものは、畏怖だった。
「ガリア王宮へよく来てくれた」
 男は玉座に腰を下ろすと厳かに口唇を開き、荘重な、だが深い慈愛を込めた声で言った。
 彼が。この男こそが、全ての獣たちの王――。
「ガリア国王、カイネギスだ」
 王はそのように名乗った。アイクは眉間にしわを寄せた。
 何を訝っている訳でもなかったが、どこでもいいから動かさないと固まってしまいそうだったのだ。
「……グレイル傭兵団、団長のアイクだ」
 低い、ひっくり返すことを警戒した擦れ声で、答えた。カイネギス王は両の口角を軽く上げる。
「たくましく育ったな。見違えたぞ」
 アイクの虚勢を笑うというよりも、いとし子を見守るような笑い方だった。
 小さな努力はこれで全部吹き飛んだ。アイクは思わず目を見開いて、歳相応のまだあどけない顔をさらしてしまった。
「ここにいた時は、まだ、小さな子供でしたから」
 くすくすと笑いながら言ったのは、ティアマトだった。王が親しげな視線を向ける。
「ティアマトか。よく来てくれた」
「おひさしぶりです、カイネギス殿」
 ティアマトがどこかおどけたように礼をした。一度二度会ったという感じではなかった。
 セネリオを振り返る。彼は少し首を傾けただけだった。当然だ、後から傭兵団に入ったセネリオが事情を知っている訳がない。
 アイクの困惑に気付いたのか、王はティアマトとの世間話を切り上げた。
「グレイルについて、アイク、お前に話しておくべきことがある」
 その後で、レテとモゥディに席を外すよう命じた。一緒に部屋を辞そうとしたエリンシアのことは引き止める。
 アイクもティアマトとセネリオの同席を求め、承諾を受けた。
「さて、何から話したものか」
 王は豊かな髭を撫でた。
「ティアマト。グレイルは、どこまで息子に話していたのだ?」
「アイクは、ガリアのことを何も知らずに育ちました。ここにいた記憶もありません」
 ティアマトが先程までの和やかさを捨て、堅苦しい口調で言った。
 王は、そうか、と大きく息を吐いた。高い天井を仰ぎ、じっと目を閉じる。それはまるで追悼の、哀悼のような、仕種。
 目を開けると、王は再びアイクを見つめた。
「では、わしの知る全てを話した方がよいだろうな。……もっとも、あまり多くはないのだが」
「いや、どんな小さなことでも構わない。親父のことを聞かせてくれ」
 今度はしっかりと答えた。
 どんなときも相手の目を見てはっきり話せとアイクに教えたのは、グレイルだった。
「父親と同じ、良い目をしているな」
 王は微笑んだ。そして、淡々と話し出した。
 友好的に接してくれるカイネギス王だが、まだベオクを心から信用してはいないのだそうだ。
 だがアイクの父グレイルと、エリンシア姫の父ラモン、そしてラモンの弟レニング、この三人だけは(敢えてつけ加えるならばティアマトも)別格で、信頼に足る人物だったという。
 クリミア王家との付き合いは外交上のことがきっかけだが、グレイルと知り合ったのは、彼がガリアの傭兵として働いていたことがあったかららしい。アイクとミストが生まれたのもこのガリアだった。ほんの短い間ではあったが、二人はこの土地で育ったのだ。
 アイクの記憶には全く残っていなかった。その『短い間』というのがどれくらいかは分からないが、三つか四つの頃であれば覚えていなくとも不思議はないのかもしれない。
 幼くして死に別れた母親の記憶も、おぼろげにしかないのだし――。
(あ、れ)
 一瞬、息が止まった。アイクの頭の中で疑問が渦を巻き始める。
 待てよ。俺は母さんのことは覚えてる。ガリアのことは覚えてない。
 だったら、母さんはいつ、死んだん、だ?
「アイク。大丈夫? やっぱり後にした方がいいかしら」
 ティアマトが、抱えるようにしてアイクの顔を覗き込んでいた。
 アイクは首を横に振って、ティアマトの腕から逃れる。
「大丈夫だ。先を聞かせてほしい」
 アイクは暑くもないのに噴き出してくる汗を、乱暴に拭った。王が頷いて、続ける。
 グレイル達は、何か重大な秘密を抱えており、それ故何者かに追われているようだった。
 そして十数年前、ついにグレイルの妻――アイクたちの母エルナが殺された。カイネギス王は、絶望に暮れるグレイルに、何もかもを打ち明けるよう迫ったそうだ。友人を救いたいという純粋な想いからだった。グレイルにもそれは解ったようだったのに。
「だがあやつは礼の言葉だけを残し、お前たちを連れてこの地から消えた」
 汗が止まらない。喉が渇く。呼吸の仕方が分からなくなる。アイクは胸の辺りを握り締めた。
 死んだんじゃない? 殺、された? 秘密、って、どういうことだ。俺は覚えてない――そうだ、思い出せないんじゃなくて。
 知らないみたいに、何も出てこないんだ。
「それで?」
 アイクは唸るように言った。何か声を出さないと、自分自身に呑まれてしまいそうだった。
 王は肘置きの上で左肘を立て、大きな手の平に頭をもたせかけた。
「あやつが再びガリアに現れたと聞いて、わしは、今度こそと思ったのだがな。あのときもう少し、早く駆けつけておればと、悔やまれてならん……」
「そうか、あの時の声は……あんただったのか」
 アイクはようやく現在に引き戻された。ここ最近起こったことならば、混乱せずに思い出すことが出来る。
 鎧の男の凶刃からアイクを救ってくれた咆哮。確かにあの男はあの声を、【獅子王】だと言っていた。
「あの傷では助かるまいとわかったのでな。……残されたわずかな時間を邪魔するまいと思い、姿を現さずにおいた」
 王は身を起こし、前に乗り出した。眼差しは真剣を通り越して、悲痛ですらあった。
「アイクよ。あやつは最期に、お前になんと告げた? あの黒鎧の騎士の正体を、お前は知っているのか?」
 アイクは首を横に振った。静かに。
「騎士の正体は、分からん。親父は、俺に傭兵団を任せると……カイネギス殿を頼り、このガリアの地で平和に暮らせと、言った。全てを忘れろ、と」
「そうか」
 王はまたそう言った。だが続く沈黙は先程よりもずっと短い。すぐに視線をアイクに戻す。
「では、お前達がここでの暮らしを望むのであれば、わしはそれを許そう。住まいと土地を与える。父と同じように、傭兵として働いてくれてもいい」
 アイクには、王が本気で言っているようには思えなかった。
 無論、アイクが頷けば王は出来る限りのことをしてくれるだろう。
 だがアイクが本当に、そんなことを心から望むとは、考えていないだろうと感じたのだ。
「王の気持ちはありがたい。だが俺は、このままここで安穏と生きる気にはなれない。俺は親父の仇を討ちたい。このまま忘れるなんてできない」
 王が友人の死を悼み、遺児に誠意を尽くそうとしてくれているように。
 自分もまた、父の為に果たさねばならない責任がある。
「でも、アイク! それは……」
 ティアマトの止める気持ちも解らないではない。遺される者の悲しみも痛みも、アイクは間近に見てまた、体験もした。これ以上、無為にそれを重ねるつもりはなかった。
「今の俺には、力がない。親父ですら勝てない相手に敵う訳がないんだ。だから今は強くなることに専念する。親父の遺した傭兵団をまとめながら、いつか来る機会に備えるつもりだ」
 あの男はあのとき、言った。
『お前も父と同じ愚か者か?』
 父は愚かなどではなかった。それを証明するためには、自らが愚かであってはならない。
 アイクは冷静に動かねばならぬ。――必ず、あの男に膝を折らせる為に。
「賢明な判断だ。もっと直情的に動くように見えるが、流石、血は争えんな」
 王は冗談めかして破顔した。ティアマトも笑っている。
「成長したわね、アイク。ついこの間までは、ほんの子供だと思っていたのに……」
 アイクはバンダナ越しに額をかいた。嬉しくないでもないが、きまりが悪いのだ。
 王が助け舟を出すように、やんわりと話題を変える。
「そこで、提案したいことがある。アイクよ、お前の傭兵団の力――このエリンシア姫に貸してやってはくれぬか?」
 思いがけない言葉にアイクは、吸いかけていた息を詰まらせた。振り返る。エリンシアも目を丸くして固まっている。
「わし個人の心情で言えば、エリンシア姫の後見となり、クリミア再興に尽力したいところだ。しかし我がガリアにおいて、反ベオク感情が高いのも事実なのだ。クリミア王女を保護したことが、デインがガリアを攻撃するための絶好の口実を与えたのではないかと、危ぶむ重臣も多い」
 王は険しい顔つきで言った。アイクは腕組みをして王を見上げる。
「つまり、ガリアは、エリンシア姫の力にはなれない……そういうことなんだな?」
「残念ながら、そうだ」
 王はきっぱりと答えた。突き放す為の潔さには見えない。
「確かに、ガリアとクリミアの間には同盟が結ばれている。だがそれは王族同士のもので、民間にはほとんど浸透しておらん」
「クリミアでガリア人を見ることなんてないでしょ? 友好国であっても、ラグズに対する理解はほとんどない。『半獣』なんて差別的な呼び方が普通にまかり通るようにね」
 ティアマトが苦々しげな顔で補足した。エリンシアが躊躇いがちに頷く。
「父は、そのことに心を痛めていました。歴代の王とは比べ物にならないほど、ガリア王国との国交を深めることに心血を注ぎ、それで……」
「……それ故、反ラグズ運動の根強いデインに狙われたのかもしれん」
 エリンシア自身の口からは言い難いことを、カイネギス王が引き継いで話を締めた。
 ガリア故にクリミアは滅びたのかも知れず、今度はクリミア故にガリアが危険にさらされるやもしれぬ――そうは言わなかったが、そういう側面もあるということだけは、アイクにも伝わった。
「アイク様」
 エリンシアが顔を上げる。俯きがちだが、下を向いたまま黙ってやり過ごすということは、決してしない娘だった。
「カイネギス様は、クリミアの再興を目指すのであればベグニオン帝国を頼るべきだとの助言を下さいました。宗主国であるベグニオンに正式に申し立てをして、後ろ盾になってもらうべきだと」
 確かに、大陸最大の版図を誇るベグニオンがクリミア側に付いたとしたら、いかなデインといえど簡単に手出しは出来まい。
 しかしガリアから陸路でベグニオンを目指すとなると、『女神の造りし要塞』とも呼ばれる山脈を踏破しなければならない。そんなことは不可能だ。
 海路で迂回するならば、鳥翼族・鷹の民の国フェニキスと、竜鱗族の国ゴルドアの領海を通過しなければならない。護衛もなしに行かせるなど、一国の王女を差し出しているようなものだ。
 アイクはため息をついた。元より、他に選択肢などないのだ。
「ティアマト、セネリオ。俺は王の申し出を受けようと思うが、構わないか?」
 二人が頷いたのを見てから、アイクは王に向き直った。
「グレイル傭兵団は、これよりクリミア王女護衛の任務を請ける」
 エリンシアが大きく息をついた。身の安全が確保されたことよりも、グレイル傭兵団がついてくることを喜んでいるようだった。
 それは勿論、数ヶ月の船旅だ。気心の知れた――とまではいかないが、多少なりとも見知った顔のある方が、安心には違いない。アイクは肩をすくめる。
「エリンシア姫、これから長い付き合いになりそうだな。よろしく頼む」
「あ、ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします!」
 長期任務の傍らに在るとして、文句のつけようのない笑顔だった。
 
 

 

 石の回廊にブーツの足音が響く。獣牙族の者が歩くときは静かなのに、とアイクは苦々しい顔で自分の足許を見た。傭兵砦でもこれくらいの音はさせていたはずだが、今朝は妙に耳障りだ。
 それでも足を止めて庭を見ていると、何故か心が安らいだ。王に聞かされた話を思い出す。頭は覚えていなくても、感覚が懐かしがっているのだろうか。
「アイク様!」
 エリンシアが向こうから駆けてきた。昨日こそ見知らぬ服を身にまとっていたが、今日は初めて会ったときと同じ橙色のドレスを着ている。
「アイク様も朝のお散歩ですか?」
「まぁな、そんなところだ。あんたもか?」
「はい、あまり一人で歩き回ると、レテ様に怒られてしまいますけれどね。ふふふ」
 エリンシアは両手を後ろで組んで、小さく笑った。何がおかしいのだかアイクにはさっぱり分からないが、ミストにもときどきこういう時がある。
 本人にとっては内容よりも笑っていることが大事なのだろうと、アイクはただ、そうかとだけ返事する。
「レテ様とはお話になりましたか?」
「ああ、素っ気なくされたけどな」
 アイクが自分のことを棚上げしてそう言うと、エリンシアは今度は口許に手をやって笑った。
「でも、あの方とてもいい方です。とても真面目な方」
「そうだな」
 アイクも微苦笑をもらした。
 緑の髪に、橙の服。橙の髪に、緑の服。そういえば、二人はまるで互いを反転させたような見目をしている。性格も全く逆の少女たちだが、案外仲良くなれるかもしれない。
「よぉ、アイク! 聞いたぜ、ベグニオンに行くんだってな?」
 また一人、今度は芝の方からやってきた。機嫌がよさそうに尻尾を振っている。
「ライ」
 アイクは回廊を出て、彼に歩み寄った。だがライはアイクの横をすり抜けていく。驚いて振り向くと、庭に出ようとしているエリンシアに手を貸しているところだった。
 その腕に軽く掴まりながら、エリンシアはそっと地面を踏む。姫が微笑んで礼を言うと、ライも笑顔で小さく頭を下げた。ベオクの田舎傭兵より、ラグズのエリート軍人の方がよほど礼儀正しい。
 エリンシアは長いドレスの裾を優雅に持ち上げ、思いがけずしっかりとした足取りで歩いてきた。乗馬や剣も嗜むらしいとミストも言っていたし、芝の上は慣れているのかもしれない。
 二人が傍に来たところで、アイクは改めて口を開く。
「お前には礼を言おうと思ってたんだ、ライ。旅立つ前に会えてよかった」
「義理堅いねぇ。気にすんなよ、仕事だからさ」
「レテにも同じことを言われた」
「ははは、アイツの場合はちょっと意味が違うけどな」
 大袈裟に腹を抱えてから、ライはふいに真顔になった。
「そういや、お前、ここの生まれなんだってな? おかしいと思ったんだよ。ベオクにしてはいやに懐っこいなって。っと、ベオクってのはだな……」
「知ってる。俺たち、人間のことだろ?」
 アイクはライの言葉を遮った。知識をひけらかしたかったのではない。説明の手間を取らせたくなかったのと、単に同じことを二度聞かされるのが面倒だったからだ。
 お、知ってたか、とライは面白がるような顔つきになる。
「じゃあついでに教えとくと、オレたちが『ニンゲン』って言葉を使うときは、お前たちの言う『半獣』ってのと同じ意味だと思って間違いないぜ」
 その軽薄な表情は、深刻な内容を和らげる為の配慮だったのかもしれない。伝えるべきことを伝えつつ、アイクたちに気を遣わせない為の。
「……知らなければ、何も気付かないだろうな」
 心遣いを無下にしたかもしれない沈んだ口調に、ライは少し困ったように声を落とした。
「もしその言葉を使うラグズに出会ったら気をつけろよ。絶対、敵意があるからな」
「分かった、ありがとう。肝に銘じておく」
 アイクが頷くと、ライはおどけた様子で肩をすくめ、エリンシアに視線を送った。エリンシアは苦笑している。アイクにはその無言のやり取りの意味が分からない。
 アイクが問う前に、さてと、とライは話題を移す。
「じゃあ本題といくか。……エリンシア姫! 少し、よろしいですか?」
 ライの口調は真面目なものになっていた。彼の色違いの双眸は、眼窩の中をころりと転がしただけで容易く彩度を変える。 
 エリンシアがおずおずと返事する。ライは彼女の前に進み出て、先程から肩に載せていた皮袋を、両手でエリンシアに差し出した。
「我が王より姫への贈り物です。どうぞお納め下さい。ベオクの共通硬貨で二万ゴールド入っています」
 アイクにはいまいちピンと来ない額だった――今の団の所持金とは比べるべくもないが、年収と比べてどんなものなのだろう。
 しかし王女の金銭感覚からしてもそれは高額だったらしく、エリンシアは困惑した表情で首を横に振った。
「カイネギス様には、もう充分よくしていただきました。ですから、本当にお気持ちだけで……」
 ライは首を傾げて微笑んだ。エリンシアの左手を取って、そっと袋の上に置く。
「王は、御自らが貴女の後ろ盾となれないことを、申し訳なく思っておられるのです。それを、どうかお察し下さいませんか?」
「でも」
 エリンシアはすがるようにライの目を見た。ライは急に、その瞳にいたずらそうな光を宿す。
「なら、『クリミア王女をガリアまで無事に送り届けた分の報酬』として、このゴールドは全て、姫のお手からアイクの傭兵団へ支払われる――こういうのはどうでしょう?」
 エリンシアの顔が俄かに輝く。アイクは眉をひそめてライを小突く。
「いくらなんでも、報酬としては高すぎる」
「いや、むしろ安すぎるくらいだ」
 ライはまた不意に、実直な口調に戻った。
「一国の王女の命は、こんな金額で購えるものじゃない。それに、傭兵団が失った命の分を考えたら……この数十倍、数百倍もらってもおかしくない」
 アイクは答えなかった。ライの言い分に納得した訳でも、命を金額で計算しようとする態度に反発した訳でもない。
 金品で埋められる損失などでは決してないと知りながら、こう言わざるを得ないライの心中を、ガリアに落ち度など何もないのに、心を痛め償いの術を探すカイネギス王のことを考えたら、何も言えなかった。
「私、やっぱりご厚意をお受けします」
 エリンシアははっきりとした声で言って、ライから皮袋を受け取った。
 そのまま身体の向きを変えて、両手をアイクの方へ突き出す。微笑む。
「アイク様……受け取っていただけますね?」
 アイクはため息をつき、わかった、と手を出した。
「ありがたくもらおう」
「はい」
 エリンシアは満足そうに頷いた。
「さて、丸く納まったところで次だな」
 ライはまるで丸くはない表情で呟いた。どうやら次の話題は、二万ゴールドどころの重さではないらしい。
 いよいよ、ベグニオンに向かう具体的な方法のことだった。ガリア王国は漁船程度なら所有しているが、ベグニオンへの航行に耐え得る大型船は持っていないのだという。船を用立てるには、デイン監視下のクリミアに戻るより仕方がない。
「デイン軍の裏をかくとしても、いくらかの戦闘は免れないだろうから……それは覚悟しておいてくれ」
 ライの言葉に、アイクは頭をかく。
「せめて戦支度は念入りにやっておくつもりだ。戦力不足は今更どうしようもないからな」
「戦力については、わずかながらも提供しよう。……姫はお部屋にお戻り下さい、後でお引き合わせします」
 ライは軍人の顔でアイクに目配せしたが、世話になるのだから自分も挨拶するとエリンシアが言って聞かなかったので、一瞬だけ相好を崩した。
 その後すぐに真顔に戻って歩き出す。連れて来られたのは王宮の一室だった。
「アイク!」
 モゥディが駆け寄ってくる。エリンシアがきょとんとしていたので、レテの部下だ、とアイクは説明した。
 エリンシアはドレスの裾を持ち上げ、身体を軽く沈ませる。
「そうだったのですか。私、エリンシアと申します」
「オぉ、モゥディだ。モゥディは、オまえタちと行くぞ」
「はい! よろしくお願いします、モゥディ様」
 二人のやり取りを微笑ましく見つめながら、アイクは窓際に歩み寄った。モゥディの上官が、腕組みをして壁に寄りかかっている。
「本当に、いいのか? あんたたち」
 アイクが小さく問うと、レテは聞こえるか聞こえないかの音量で舌打ちした。
「他の者は皆、ベオクと行くことを嫌がったんだ。私だって、ベグニオンに行くのは震えがくるほど嫌だが……王のご命令とあらば、従う他あるまい」
 あんたほどの戦士でも震えることがあるのかと、軽口を叩こうかと一瞬思って、やめた。
「それでも、助かる。獣牙族の戦闘力の高さは、何度か見せてもらったからな」
「そうだ我らは戦力補強の為に行く。それ以上の接触は無用だ」
 レテはようやく、夜明けの色をした瞳をアイクに向けた。
「馴れ合うつもりはない。心しておけ」 
 アイクはその色を間近で見ると胸が疼く。
 初めて逢った日の、何よりも強く求めていた、黎明の色。
「まぁ、コイツの憎まれ口は許してやってくれ」
 ライがやって来てレテの肩に手を回した。レテは顔を歪ませて振り払う。ライは苦笑いだ。
「オレは、王に報告を済ませたら戻ってくる。アイク達は、それまでに出発の準備を完了しといてくれるか?」
「ああ。分かった」
 アイクはエリンシアを伴って歩き出した。
 部屋を出る前に、もう一度レテの方に視線をやったが、彼女はこちらに背を向けていた。
 自分の支度を終えて、例の通りぶらついていたら、回廊に座っているレテに気付いた。こちらが気付くくらいだから彼女はもうとうに分かっていたのだろうけれど、反応はしてくれない。
 アイクは黙って近づいた。しかし距離を詰めても、彼女はあくまで無視するつもりらしいので、とうとうアイクの方から口を開いた。
「憂鬱そうだな」
「当たり前だろう。くだらないことを聞くな」
 即答される。彼女は口許以外の箇所を一切動かさなかった。
 アイクは二人分程、離れた位置に腰を下ろす。レテはぴくりと耳を揺らしたが、何も言わなかった。
 互いの無言がそのまま沈黙になる。
「……さっき、ガリアの兵士に道案内を頼んだんだが」
 レテは答えない。アイクの方も相槌は期待していないので、大して間を空けずに続ける。
「離れて歩いてくれと言われた。受け継がれた血が、ベオクに受けた仕打ちを覚えているからと」
「そうだろうな」
 レテは短く言った。それきりだった。恨みつらみでもいいから何か聞かせて欲しかったのに、とアイクは思う。
 怒りであって悲しみのようでもある、深い感情の根底を為すものを、もっと詳しく知りたいのに、と。
 ややあってレテは、遅い、と低い声で毒づいた。
「まだ揃わないのか? ベオクというのはどれだけ愚鈍なんだ」
「悪いな。あんたたちみたいに、身一つで動ければ楽なんだろうが……武器の用意なんかは手間取るんだ」
 アイクは首を振った。事実を伝えているだけなのに、自分が口にするとどうも言い訳がましい。
「『鉄』の武器か」
 レテは鼻を鳴らした。
「ベオクは軟弱だ。あれがないと、まともに戦えないのだからな」
「だが、あんたも短刀を持ってるじゃないか。その足につけてる鞘はそうだろう?」
 アイクは、レテの左脚を指差した。この位置からは太腿に巻いた革のベルトしか見えないが、確かに銀色の柄を見た覚えがある。
 これは、と呟いた後、レテはため息をついて首を横に振った。
「戦い用じゃない」
「じゃあ、なに用なんだ?」
 アイクの問いに、レテはすぐには答えなかった。
 背中を丸めて膝の上で頬杖をつく。尻尾がS字型に持ち上がって揺れる。耳がくるりと回ったとき、薄い皮膚が血液の色を映して、桜色に染まっているのが目に入った。
「肉を食べる時に小骨をとったり、果物を口に入れる大きさにしたり……。なかなか重宝するんだ」
 レテは、重宝という言葉を殊更無感情に言った。アイクはレテの耳の毛の生えている部分と生えていない部分の境目を眺めている。
「なんだ? 言いたいことがあるなら、はっきり言え!」
 レテが顔ごとこちらに向けて怒鳴った。まさか『耳が』と言う訳にもいかず、アイクは別の『言いたいこと』を口にする。
「ベオクが嫌いでも、ベオクの作るものを使うんだな?」
「いいものは、いい。当然の評価を捻じ曲げてまで、否定論に固執するのは愚か者のやることだ」
 レテは意外にも思える程はっきりと答えた。耳の角度が今までと違っている。
 アイクは耳をそばだてたまま、瞳を使って彼女の気持ちの断片を探し続ける。
「私だって、ベオクのすべてを否定している訳じゃない。ベオクが皆、お前のように我らと普通に接するなら、きっと……」
「レテ」
 彼女の話を遮るべきではなかったのかもしれない。
 それでもアイクは彼女の名を呼んでいた。『ラグズ』でも『ガリア人』でもない、彼女自身を指す唯一の名で、彼女を呼びたかった。
 顔を上げた彼女は、先程アイクを案内してくれた青年と同じ目をしていた。
「く、くだらない話をしてしまった! 私はもう行くからな」
 レテは早口で言い捨てると、逃げるように駆け去ってしまった。アイクは伸ばし損ねた手をゆっくり下ろす。
 気になっているのに、どうしても訊けなかった。
 あんたは、そんなにも『ベオクが嫌いだ』と繰り返すくせに。
 ――ただの一度だって、俺たちを『ニンゲン』と呼んだことはないな、と。
 半獣・人間、ラグズ・ベオク。
 彼女は後者を使うことを選んでくれた。無神経にあの呼び名を使い、自らの蔑称に対してすら無知だった、自分たちにも。
 選んでくれたのだと、アイクは強く拳を握った。