第二章 渡海 - 3/7

 

幕間・弓弦

 

 右手で左の手首を掴む。だが押さえるべき手そのものが震えているのだから、震えが止められるはずもない。
 小さな拳で左腕を叩く。その度にびくりびくりと指先が跳ねるが、細かい揺れは未だ治まらない。少年は歯噛みして自分の腕を睨みつけた。
(止まれ。止まれ止まれ止まれ――早くッ!)
 夜闇への怯えではない。皆と離れて座っている寂しさでもない。
 原因を確かめてはいけない。ただ、可及的速やかにこの震えを止めねばならない。それだけだ。
「ヨファ」
 名を呼ばれ、少年は強張った顔で振り向いた。
 長兄オスカーが立っている。ヨファは両腕を後ろに隠す。
「な、なに、どうしたの。おにいちゃん」
「どうしたのじゃない。離れちゃいけないって言っただろう」
 オスカーは難しい顔で言ってヨファの傍に腰掛けた。ごめんなさい、と俯きながらも、皆のところに連れ戻されなかったことに安堵した。
 オスカーの差し出した白湯に息を吹きかける。温暖なガリアとて、この時季の夜は冷える。
「ヨファ? 震えてるのか」
「ちょっと寒いだけ。だいじょうぶだよ」
 そう、少し冷えただけ。だからこれを飲めばすぐに温まるはず。ヨファは自分に言い聞かせるが、水面は絶え間なくさざめいている。喉が渇いて仕方ないのに、手を動かせば誤ってお湯をぶち撒けてしまいそうで、じっと耐えていた。
 ヨファの手元をじっと見ていたオスカーが、やがて顔に視線を転じた。
「そんなに怖いのなら、戦うのはよしなさい」
 ヨファは勢いよく立ち上がった。カップが手から投げ出されて地面を濡らした。握り締めた拳は先程よりも激しく震えている。理由は先程までとは違っていた。
 オスカーは下を向いて、転がっているカップをそっと拾う。ぼくよりそんなものの方が気になるのか、と思った。
「ぼくは……!」
「そう言われるのが嫌でみんなと違うところに座っていたんだろう」
 ヨファは叫びかけた言葉を呑み込んだ。オスカーがこちらを見上げて微笑んでいる。
「どんな戦士にも初陣がある。歴戦の勇者でもそこから始めたんだ。今落ち着かないからといって、お前に戦士としての素質がないという訳じゃない」
「……おにいちゃん」
「押さえつけた恐怖はいつか爆発する。恐くないと思い込むのはよしなさい。自分の心と真っ直ぐに向き合って、乗り越えていかなければ――本当の強さは得られない」
 ヨファは黙って下を向いた。たとえ自分の気持ちを認めるにしても、それを表に出す訳にはいかない。
 怖いと声に出した瞬間、絡め取られて動けなくなる気がした。弱さを他人に見せた瞬間、もう二度と戦場に出してもらえなくなる気がした。
「ぼくは怖くないよ」
 ぼくは何も怖くないんだ、だれかを失うことを別にすればね。擦れた、自分のものとも思われない声で呟いた。
 オスカーは、そうかと変に落ち着けたような調子で答えた。
「悪かった。見当違いのことを言った」
 ヨファは答えない。矜持を保ちながら感謝の意を表すための、ぎりぎりの選択だった。
 ミストが二人を捜しにきた。今戻るよと笑ってみせる兄の横顔をヨファはじっと眺める。
 ヨファが眉間にしわを寄せているのに気付き、どうしたのとミストが声をかけてくる。何でもないよと笑おうとしたが兄のように上手くはいかなかった。
 まだ兄のようには上手くいかなかった。