15話 Never Never Never Surrender - 7/10

冗談じゃねェぞ

 昨日の高葉警察署での顛末を思い出すと、太陽はまだ胸が悪くなる。
 息子が犯罪の被害に遭って、今も身柄を狙われているかもしれないのに、八名川為一の両親は息子を迎えに来るのを拒んだのだ。
 本人が電話して、断られて、坂野刑事が再度電話し直して、ようやく母親が高葉警察署にやって来た。
 容姿だけ見ればとても美しい女だった。息子が二枚目に生まれたのも頷ける。だが太陽の嫌いなタイプの女だ。内股の頼りない歩き方は、男に庇護されることを当然と思っているかのようで、自分を支えようという気概がまるで感じられない。とろんと甘えた焦点の合わない目を見て、柏木(かしわぎ)夢子(ゆめこ)の方がずっと善良だと思った。あの女はきっと他人に吸いついて生きている自覚もない。
 女は――八名川為一の母であるはずの女は、事態の説明を受けるために刑事たちと個室に入っていったけれど、出てきた後も顔色に変わりはなかった。近頃では滅多に声を荒らげなくなった坂野刑事が、あなたの息子さんのことですよと語気を強くしても、はぁ、とゆらゆら揺れているだけだ。いちいち真面目に話を聞き、まともに頭を下げていったのは息子の方だった。父親は仕事を理由に最後まで呼び出しに応じなかった。
 ――あの親御さんじゃあ、大人を頼らなくなるのも道理でしょうな。
 八名川親子が去った後、坂野刑事が呟いた言葉はきっと正しい。同じく息子を迎えに来た早瀬怜二の母親が、八名川を抱きしめながら涙したのは、彼にとって救いでもあり残酷な仕打ちでもあったろう。どんなに優しくされても友人の母親は友人の母親に過ぎず、自分を引き受けてくれるわけではない。
 太陽は女ではないし、母親としての態度なら夢子も相当なものであるから口出しはできない。ただ父親に対し、自分の種で産ませた男が何もしねェとはどういう了見だ、とは思う。
 怒り散らす代わりに黙って八名川の背をさすってやっていた。
 どれほど上手く立ち回れようと、まだ十七歳にもなっていないのだ。手のひらの下の身体はあまりに薄くて細かった。

「部長会議の後始末ってのは、こんなに時間がかかるもんか?」
 思わず口から出た疑問に、生徒たちは顔を見合わせた。
 今日は定例の部長会議とやらがあったらしい。太陽は現役のとき、その手のことを全て新田に任せていたので、未だに仕組みをよく知らない。多分主将や副主将が出るはずのもので、そこで出た意見を部員たちと共有するために開かれるのがこのミーティング、のはずだ。
 だというのに肝心の主将(やながわ)副主将(ゆうし)が来やしない。
「電話してみますか?」
 昨日のこともあってか、早瀬は部員の中でも一際落ち着きがなかった。既に握られている携帯電話をしまわせるのも気が引けて、頼むと口にしようとする。だが実際に声になったのは、た、までだった。
 講義室の扉が乱暴に開く。新田は新田でも父親だ。スリーピースのスーツ姿で、脇目もふらず太陽に歩み寄ってくる。そのまま胸倉をつかまれて部屋から引きずり出された。
「新田? お前今日仕事じゃ」
「黙って」
 その後に何か英語が続いたので、太陽は言われたとおりに黙った。昔から新田は、日本人に聞かせられない罵詈雑言を吐くときは英語になる。
 新田は手近な資料室に太陽を放り込み、後ろ手に内鍵をかけた。
「――侑志が誘拐された」
「は?」
 重々しく告げられた言葉の意味が理解できず、太陽は間抜けに口を開けた。
 侑志が? 八名川ではなく?
 新田は整えていた自分の髪をがしゃがしゃとかき回す。
「事情は分からない。八名川君と一緒のところを二人ともさらわれたらしい。侑志の携帯から僕の携帯に話が回ってきた。八名川君を返すことはできないが、侑志のことはある男と交換ならば返しても構わないと……聞いた特徴からして、その男とは恐らくおまえだ。桜原」
 太陽もようやく合点がいった。
 八名川は、授業が終わって部活が始まるまでの短時間に、昨日の一味に拉致されたのだ。侑志は運悪く巻き込まれたのだろう。華奢な八名川はともかくあのデカブツをよくもまぁ、と呆れる。
「俺たちのシマで随分好き勝手やってくれてんじゃねえの」
 口唇の端が笑みに歪む。
 無論高葉ヶ丘は太陽個人の縄張りではないし、家としても父の代から住んでいる程度の新参だ。それでも、太陽が町を歩けば今も『櫻井先生』の話をされる。父が息をして広げていった繋がりに土足で踏み込まれるのは、心から面白くない。
「俺が行くのはちっとも構わんけどな。お前のことだからもっと別に悩んでることがあるんだろ」
 太陽は、乱雑に積まれた資料を崩さないよう金属ラックに寄りかかった。新田は内鍵に手をかけたまま顔を伏せている。
「桜原が行ってくれるなら、返してもらうのは八名川君にしたい」
 かつて、太陽の何倍も手が早かった新田と同一人物とは思えない声のかすれ方だった。なんでだ、と半ば答えを知っている問いを放てば、新田は乱れた髪を直しもせずに息を吐いた。
「侑志には日頃から心構えを説いてる。足手まといになるとしたら八名川君だ。彼の安全をまず先に確保したい」
「いいのか」
「よくはないよ。おまえにだから隠し立てせずに言うけど、僕は美映子さんの子供が無事なら他の誰の安全を放棄してもいい」
 自分の子供、と言わないところが新田らしい。新田は額を押さえ沈んだ顔で続けた。
「けど、美映子さんも侑志も僕にそんなことは許さない。僕はあの二人に許されるための道を取りたい。それだけなんだよ」
 太陽は頷いてラックから背を離した。相変わらず底抜けの馬鹿だが、そうでなければこちらもやりがいがない。
「警察はいいんだな」
「僕がこの手のことで警察を頼ると思うの?」
「思わねぇから確認したんだ」
 新田は黙って左の腹に手を当てている。太陽もあの傷なら何度も見た。一生消えないであろう刺し傷だ。
 遠い昔、総志少年が身代金目当てに誘拐されたとき、父たる新田康志(こうし)はすぐに警察に相談したそうだ。その警察が犯人グループを刺激したために、少年は刃物で刺され生死の境をさまよった。
 遅くに生まれた一人息子の命である。新田氏は血塗れの我が子と引き換えに多額――具体的には五〇〇万の金を支払ったという。間もなく息子を海外に出したのも、取引に応じる実績をつくってしまったため、模倣犯が出現するのを恐れたかららしい。
 戦後、揺れ動く不動産の流れを上手くつかんだ成功者の汚点。
 太陽にとっては全部聞いた話、出逢う前の話だ。
「父は僕よりよほど侑志がかわいいようだからね。あの子が帰ってくるなら、また五〇〇でも一〇〇〇でも気前よく出すだろうさ」
 いつも若々しい新田が、今日は年相応以上に老け込んで見えた。太陽は新田の指ごと鍵を外し、埃がたまった資料室の引き戸を横にずらした。
「ガキ共を解散させてくる。お前は東門に車回せ。正門と裏門は人目につく」
「桜原、僕は」
「黙ってろ。お前が思うより複雑な問題なんだよ」
 坂野刑事の話では、八名川を狙っている黒川というのは、一大繁華街・壮花(わかきはな)の足下で細々と動いているヤクザの女だそうだ。昨日、八名川のもとに差し向けられた野郎共は、組にも入っていないような下っ端らしい。黒川はそういった連中を使って児童売春の斡旋等を繰り返しており、壮花署でも既に多数の捜査員が動員されているという。
 合同捜査になるかもしれない、とテレビでしか聞いたことのない話をされた。坂野刑事との付き合いも長いが、あんなに張り詰めた顔を見たのも初めてだ。
 そして太陽は、付き合いというほど濃いものではないものの、高葉地域に古くから根を張る筋者たちともそれなりに面識があった。堅気相手では愉快な酒飲みにしか見えない彼らも、同業の筋の通らない振る舞いには恐ろしく冷たい。父の頃には比喩でなく血で血を洗う抗争もあったという。このまま礼儀知らずの糞餓鬼が無法を続ければ、野球部どころかこの一帯の学生生活が脅かされる。
「冗談じゃねェぞ」
 独り言は思った以上に重い声になった。
 新田ではないが、太陽だって朔夜と皓汰をまともに学校に行かせるためなら、どんなドス暗い野郎だろうと叩き伏せる。