15話 Never Never Never Surrender - 8/10

煙草の香りがした

「にゃーさん、大丈夫ですか?」
 大丈夫なわけねーだろ、と思いつつ、為一は一応頷いた。
 強烈に覚えているコンクリート打ちっぱなしの部屋。為一は両手を後ろで縛られている。強引に巻かれたガムテープが肌に痛い。暴れた新田は足首も拘束されているのだが、それにしてはけろっとしている。
 ちょっと飲み物を買いに出たぐらいで後輩ごと拉致されるとは思わなかった。もう誰も巻き込むまいと勇気を奮い立たせたはずがこれだ。コーチに何と詫びよう? まず無事に帰れるかどうか怪しいけれど。
「ていうか移動時間、どれぐらいでした」
「二十分ちょっとかな、三十分はかかってないと思う……正確には分かんないけど」
 為一は少しでもマシな座り方を模索しながら答える。
 連れ去られる車中、新田は為一にもたれかかるふりをして早口に囁いた。
 ――着くまでの時間、計っててください。
 スモークガラスの内で他にできることもなかったから、為一は言われたとおり六十秒が何セットあるのか必死に数えようとした。途中、他の思考がよぎったりしたのであまり自信はない。
 新田は真面目な顔をして、ガムテープで固定された手首を幾度も自分の尻にぶつけている。
「高速乗った感じはなかったですよね。聞き覚えのある、フーゾク? の宣伝トラックの音してたし、方角的にも多分壮花方面だと思うんですけど。参った、あんま土地勘ねーなぁ」
「それよりキミ、なんでそんな平然としてんの?」
 為一は正直に言って苛ついていた。何故、何度も危険な目に遭わされた為一より、今日まで平穏無事に生きてきたはずの新田の方が落ち着き払っているのか。
 平然というか、と新田は一際強く手首を自分に叩きつけた。
「うちの親父、昔誘拐されたことあるらしいんすよね。『あの人の孫である以上、君もいつさらわれてもおかしくないから覚悟だけはしておきなさい』って、ことあるごとに対策叩き込まれてて。まぁ俺、祖父さんが何してるかもよく知らないんですけど。なんつーか、あ、誘拐ってマジであるんだなーって感じっす。おっし取れた」
 ばつん、と音を立てて新田の手首の拘束が外れた。いてー、と舌を出しながら、新田は肌に残ったテープを剥がし、足首も自由にしていく。
「すみません、痛いかもしれないですけど失礼します」
 為一のテープは自分のより丁寧に取ってくれた。話しかける声もやわらかい。こんなときに気なんて遣わないでほしい。
「本当にすみません。巻き込んじゃって」
「違うよ。キミは、キミが――巻き込まれただけ」
 絞り出した言葉に返事はなかった。空気に触れた肌が涼しくなって、すぐにひりつく感覚で上書きされる。
 新田が赤くかぶれた為一の肌をそっと撫でて、聴き取れないくらい小さく何かを呟いた。続く台詞は多分その同情とは違う。
「ばれないように後ろ回しといてくださいね。脱出できそうなタイミングで合図出します」
 新田は部屋の中を見回してから、再び冷え切った床に転がった。テープを引き千切った跡を巧妙に隠して。
 ほどなく見張り役が三人姿を見せ、新田との会話はできなくなった。グラサン男を含む、最初に為一に接触してきた男たちだ。新田はずっと壁を見つめている。男たちの会話に集中しているのかもしれない。為一も自分なりに状況を整理してみる。
 まずこの連中は黒川と繋がっている。
 狙いは八名川為一、居合わせた新田侑志が激しく抵抗したため、やむなく二人とも拉致。
 この場所は恐らく、中学のときも連れてこられた壮花区のビル。あのとき泣き叫んでも誰も来なかったし、今も猿轡をされていないぐらいだ。音で助けを求めるのは絶望的。
 為一をさらったのは身体目当て――自分でもぞっとする表現だが――なので、連中は取り上げた携帯電話で両親に連絡はしなかったようだ。代わりに監督の連絡先を訊かれた。黙っていた為一が殴られそうになると、『俺の親父に連絡すればいい』と新田が声で割って入った。昨日監督にコーラを注がれた銀髪が、新田の携帯でコーチと話したらしい。
 そして察するに、どうやらコーチは監督を連れてここに向かっている。
「細い方を先に返せって?」
 為一はびくりと肩を震わせて新田を見た。新田はその要求に全く動じていないように見えた。最初から織り込み済みのように。
「そうすりゃデカいのを返すとき、二〇〇万寄越すっつー話だ」
「でも姐さんたちはこいつを欲しがってんだろ?」
 靴先で突かれてバランスを崩しそうになった。新田の身体に支えられてどうにか持ち直す。
「何を寝惚けてんだよ。本末転倒だろうが」
 ドアが開く。姿を見る前に声だけで為一の息は詰まる。
 黒川真希那。人間の女の皮をかぶった悪魔が、むせ返りそうな香水の匂いを振りまいて入ってくる。いつか為一を熱心に撮影していた男を引き連れて。
「ああ無傷じゃん、やるぅ」
 黒川がにたにた笑いながら歩み寄ってくる。逃げ出したい。逃げ出したい。逃げ出したい。だが逃げられる算段などないし、第一。
「どう? 二〇〇万より高値つけられて。あんたホンモノのオヒメサマだよ」
 今動いたら、新田が拘束を解いたことが知られてしまう。
 為一は唾をひとつ飲む。
 思い出せ、八名川為一。他人の背にかばわれてばかりの、臆病で、情けないオマエが誰にも負けないと言いきれるたったひとつのこと。それは。
 どんなときも後輩には格好つけるって、その見栄の張り方だろう。
「オレ、プライド高いから。いまさら浮気するっつっても許さないよ」
 ふんぞり返るようにして新田の足元を隠した。黒川が目を眇めて為一の顔を覗き込む。逃げるな、と自分を怒鳴りつけ媚びを含んだ笑みを浮かべる。
 みぞおちに灼熱感。咳き込んでからまた蹴られたと気付いた。
「許すとか許さねぇとか決めんのはテメーじゃねえだろ。イキッてんなよ」
 発作に近い勢いで喘ぎ、ようやく頭がすっきりしてきた。
 これ以上新田に手は出させない。
 コーチに金も出させない。
 どうにかして、自分でここを切り抜けてやる。
「で、ナメた真似してくれたオッサンって?」
 黒川が煙草を取り出すと、見張り役の一人が火を差し出した。なるべく煙を吸わないよう為一は呼吸を浅くする。
「向かってるそうです。どうしますか?」
「いたぶってバラせ」
 ひゅっと喉が鳴る。制限していた息が一気に入ってきて、為一は肺が破裂しそうな咳を死ぬ気で圧し潰した。
 どうのこうの言いながら、為一は自分が汚らわしいことを我慢すればいいのだと思っていた。多少殴られたり、考えたくもないことをされるだけだと。だが黒川はあっさりと、あまりにもあっさりと監督の……殺害を、指示した。
 歯の根が合わなくなる。抑え込むほどに耳の奥でけたたましく鳴る。
 常識が違う。出し抜くなんて無理だ。いや、新田、せめて新田だけでも。
 そうして命乞いして、束の間とはいえ勇気をくれた監督が殺されるのを眼前で見ているのか? そんなことできない。どうしたら。どうしたら。
「ご到着だぜ」
 痛ましい表情のコーチに付き添われ、両手を上げた監督が入ってきた。丸刈りの男に金属バットで腰を小突かれている。なのに、いつものままの仏頂面だ。
「よぉ。無事か」
 無事なわけはないしそちらこそ一番危ないではないか。為一は視線で抗議したが、監督はどこ吹く風だった。
「で、どうすんだ。用もないのに呼び出したわけじゃねェだろ」
 いきなり激しい音が鳴る。黒川が監督の頬を張ったのだ。
「テメーに落とし前つけさせるために決まってんだろうが、あ?」
 監督の髪をつかんで顔を向けさせる黒川。監督は信じられないことに笑っている。
「泣けるぜ。どんな女王様かと期待して来たら、ションベンくせぇガキだとはな」
 黒川のそばに控えていた男が拳を振り、今度こそ監督の身体が飛んだ。受け身も取らずコンクリートに叩きつけられ、重い音が床を伝って為一の元にも届いてくる。
 どうして。なんで。この人は、ここまで。
「さ、き、払いで殴られてやってんだぞ。取り決めどおり、一人放しゃあがれ」
 憎まれ口を続ける監督を、今度は銀髪が蹴った。ノーガードで腹をやられて監督が身体を折る。コーチが目を逸らしながら言う。
「そっちの、細い子が先だ。背の高い方は金銭と交換……即金で二〇〇万、少し時間をくれれば五〇〇まで用意できる。あくまで順番を守った場合だけだが」
 違う。他人の子を先に解放させて、我が子を金で買い戻すなんて間違っている。何がどんなに正しくても、どんな風に合理的でも、そんなことは絶対に認められない。
 他の誰でもなく為一自身が。
「金の問題じゃねェんだよオッサン。こちとら面子潰されてんだ」
 黒川が前に出る。ポケットに手を入れている。
 刃物だ。為一の腕に傷をつけたあの折り畳みナイフ。金属部分が立ち上がる。鈍い光が揺らめく。
 怜二が『強い』と評した監督は床に伏したまま動かない。
 黒川は監督に身体を向けて、
「やめろよぉおおおおおお!」
 為一は叫びながら飛び出していた。
 オレを傷つけたくないならオレが傷ついてやる。監督を殺したいならオレが殺されてやる。力なんかなくたって、オレは全力でオマエらに嫌がらせしてみせる。
 だから。だから絶対。
 ――オレから、オレ以外を奪ったりするな。
 為一は監督に覆い被さった。強く目をつぶり痛みに備える。けれどいつまでも刃は下りてこない。
 恐る恐る上を見ると、黒川が目を見開いて動きを止めていた。新田コーチが左の拳を宙に留めている。そこからぼたぼたと赤い雨が降る。
 コーチの色を失った口唇が、何事かを呟く。
You shall die(ころすぞ),fuckin’bitch(アバズレ).」
 コーチの手の中でちゃちなナイフがひしゃげていく。根元から折れてただのガラクタになる。
 コーチが無表情で黒川の顔面に右拳を叩き込む。そんな場合ではないのに為一の頭に浮かんだのはアクション映画を見ていたときの怜二の解説だった。
 ――鼻の下って、人中(じんちゅう)っつって急所なんだぜ。重要な神経集まってんだよ。つか普通に前歯殴られたら痛ェしな。
 そこを、新田コーチは精確に、躊躇なく殴り抜いたのだ。
 男たちは倒れた黒川を心配するより、ぽかんと突っ立っていた。
「待て! 待てお前、死人出すなって言ったろ!」
 桜原監督が飛び起きる。コーチはおもちゃを取り上げられた子供のように口を尖らせる。
「不正の侵害、急迫性、防衛の意思・必要性・相当性……(ハンド)正当防衛(フルハウス)だよ? それに前歯折ったぐらいで死ねるなら僕だってそんなとこ殴らない」
「西海岸基準で人殴るのやめろって二十年前にも言ったろ!」
 蒼褪めたのは為一だけではなかった。英語圏で『西海岸』といえば恐らくカリフォルニア近辺のことだ。ストリートギャングの本場。
 コーチは黒川を昏倒させた手をひらひらと振って笑っている。
「どうしたの? 冴えない金持ちのオジサンが実はCA帰りって聞いてビビッてる? 郷に入っては郷に従えというしね、こうなったら僕も君たちの流儀に従うのはやぶさかじゃない。Bring it on(かかってこいよ),pussies(ヘタレども).」
 さっきから煽り文句が映画でしか聞いたことがないような下劣さだった。
 みゃーぎゃってろー、と叫びながら銀髪が果敢にコーチに殴りかかる。為一のリスニングが正確であれば『ナメやがってこの野郎』と言ったはず。コーチはつまらなそうに無警戒の姿勢になる。その眼前で銀髪が膝から崩れた。
「悪党とはいえ、女の顔面殴って得意がってんじゃねぇよ」
「君は僕に似ず紳士だねぇ」
 揶揄を聞き流し、新田侑志は父親に背を預けた。いつの間に移動したのか。
 新田総志は血だらけの左手で悠然と煙草を吸い出す。
「あんまり手を使うんじゃないよ。もったいない」
「うるせぇ。自分の血ィ止めてから言え」
 それから何が起こっているのか、為一にはよく分からなかった。
 殴る。蹴る。殴り返す。蹴り返す。目の前の暴力的な光景は、現実ではなく怜二の好むヤンキー映画のようで――。
「あいつ、喧嘩は嫌いかと思えば意外と血の気が多いのな。親父に似てよく暴れやがる」
 監督はのんきな声で言い、へたり込んだ為一の隣にあぐらをかく。
「監督、なんで」
 礼や謝罪、言うべき台詞はいろいろあるはずなのに、最初に為一の口をついて出たのは疑問だった。
 んー、とうめいて監督は乾いた鼻血を左手で拭う。眠いときの皓汰にそっくりだ。
「なんでってこともねぇよ。自分(てめェ)のために無償で殴られる大人がいるって、お前に見せてやりたかっただけだ。口で言っても信じねェだろ?」
 コーチは監督を小突いていた男から金属バットを奪い、左手で辺りをカンカン鳴らしながら歩いている。凶器になるものを持っているのに敢えてそれを使わないところにいっそうの『ヤバさ』を感じる。新田はカウンターしかしないのが何というか、実にらしい。
「ま、あれだ」
 監督の右手が伸びてきて為一の後頭部に触れる。不器用な動きで為一の髪をかき回す。
「かばってくれて嬉しかったぜ」
 為一はぼうと隣の人の横顔を見つめた。
 大人を喜ばせるには、対価や犠牲が必要なのだと思っていた。そんなことを度外視してばかりのこの人は、ある意味『オトナ』なんかではないのかもしれないけれど。
「ありがとう、ございます」
 同じことをあの人たちにも言わなければと思った。
 息子のついでとはいえ為一を救ってくれた人と、たった今、黒川たちをつかまえるために駆けつけてくれた人にも。
 監督からはまた煙草の香りがする。
 あれだけ嫌だったのに、今はほとんど気にならなかった。