15話 Never Never Never Surrender - 5/10

燃えゆく街

「にゃーさん、具合でも悪いんですか?」
 為一は視線を上げ、後輩の顔を見た。新田。何故いるのだったか。
 思い出した。明日に迫った定例部長会議のことについて、わざわざ二年A組まで訊きに来たのだ。次期主将としての自覚が出てきたのは結構だが、すっかり清々しい表情になっているのが少し癪だ。あれだけの騒ぎにしておいて。
 取り繕う余裕もなく、為一は自分の席に座ったまま顔を伏せた。
「部会の話だよね。連絡しなくてごめん。今年度いっぱいはオレも一緒に出るよ。メモの取り方とか教えるから覚えて」
「ミーティングの司会は?」
「ミーテ? ああ、うん、そうね。それも順次引き継ぐ」
 しゃべっているのか、ため息をついているのか、自分でも分からないような声が出た。頭がぐらぐらして片手で支える。
 新田は真面目だ。目端も利く。このクラスに朔夜(カノジョ)がいなくとも、疑問に思うことがあれば都度尋ねに来るだろう。去年の為一が森貞に対してそうしたように。坂野の評価した彼の律義さが、今になって煩わしい。
 八名川さん、と新田は正しく為一の名字を呼んだ。
「俺、森貞さんに代理頼んでみましょうか? 昼休みだし、初回だけなら付き合ってもらえるんじゃないかなって。面倒かけるより、にゃーさんが無理する方が嫌がると思うんです。リューさんなら」
 新田は何の躊躇いもなく床に両膝をついていた。椅子に座った先輩と視線を合わせる、ただそれだけのために。ざわつく上級生たちを意にも介さず為一の答えを一途に待っている。頭の奥のノイズが大きくなる。
「おい、何やってんだよ」
 朔夜が来るのがあと一秒遅かったら、新田の顔面を蹴り飛ばしていたかもしれない。為一は顔を背けて、止まっていた息を全て吐いた。
 朔夜の呆れた声が聞こえる。
「侑志お前、何だか知らねぇけど、ヒトの教室でいきなり土下座すんなよな」
「いや違うんすよ朔夜さん、にゃーさん顔色悪そうだったんで大丈夫かなと思って」
 朔夜と新田。恋人であるはずの二人の会話は、まるで互いの父同士のものだ。監督とコーチ。桜原と新田。それで完結。あの部で為一が何をしたっていつも蚊帳の外だ。
 手近なクラスメイトに教師への言伝を頼み、為一は二人を放って教室を出た。体調はすぐ崩すくせに早退するのは久しぶりだ。小学生のとき裸の男と鉢合わせてから、家には定時より前に帰らないようにしている。中学までは保健室で時間を潰していたけれど、高校生にもなるとそんな気分でもない。
 使っている駅とは逆の方向に歩いていった。朔夜や新田たちが去っていく方。何のことはない、ただの道だ。向こう側と大した違いも見て取れない。
 大通りに退屈して適当に曲がった。活動場所である公園を避け工業地域を見て回る。ローファーの中が蒸れてくる。制服もない学校で、通学用と運動用に靴を分けているのが不意に馬鹿馬鹿しくなった。裸足で駆け出してみたい衝動も浮かぶけれど、高慢な自尊心と半端な理性が子供じみた危険な真似を許さない。
 為一は嘆息して上を見る。空は秋晴れ。太陽は真上。
 この周囲で潰せる暇などたかが知れている。どこかの店で適当な服を買って、長袖のワイシャツとネクタイは鞄に入れてしまおうか。ラフなファッションなら為一は大学生に見られる。警察に目をつけられて補導されることもないはずだ。
 色褪せたフェンスと低い建物。甲高い何かの機械音と出入りする大型トラック。慣れない喧騒に背を向けたら、知らない男たちが立っていた。
 三人の若い男たち。全員為一を見ていて、行く手を阻むように広がっている。
 何の用かは考えるまでもない。黒川だ。迎えに来ると言っていた。つけられたか行方を捜されていたのだ。
 為一は反対方向に全力で駆け出す。走った距離以上に心臓が跳ね回っている。ほどなく右腕をつかまれ足がもつれた。アスファルトに勢いよく倒れ込む。グラサン男の苛立ちに満ちた顔と、残り二人の下卑た笑みが視界をよぎる。
「手間かけさせんじゃねェよ、ガキが」
「マジで女みてぇ。未亡人ぽい」
「そうかぁ? 細ぇだけだろ」
 逃げないと。頭の中には叫ぶ自分と、俯瞰して嘲う自分。
 どこに? この状態からどうやって? 助けでも呼ぶつもり? 『オレ男だけど男にさらわれてマワされるかもしれないので助けてください』って?
 打ちつけた左腕の傷がじくじくと思考の邪魔をする。
 ――オマエ、それ本当に誰かに言えんの?
「震えてねぇで行くぞ。オヒメサマ」
 つかまれたままの腕を引かれ、為一は力なく立ち上がった。
 言えるわけがない。言ったところで、どうにもなるわけがない。何かしてもらえるはずがない。
 ――男のくせに。男の子なのに。
 地獄はそうやって存在しないことにされていく。世間にとって為一は被害者ですらないのだと、全てを認めて諦めればきっと楽になれる。
 だから、こんなときに慣れた声なんて聞きたくなかった。
「何してんだ?」
 場違いに落ち着き払った口調。
 視線を向ければ、工場の敷地内に桜原監督がいた。両袖を腰で結んだグレーのつなぎに黒いタンクトップ姿。フェンス越しでも煙草の香りは強く漂う。
「関係ねーだろ。引っ込んでろオッサン」
 お定まりのフレーズを残し、男たちは為一を連れていこうとした。刹那、分厚い銀紙を一息に丸めたような激しい音が鳴る。監督が前触れなくフェンスを蹴ったのだ。突然のことに男たちも足を止めている。
「一丁前に粋がるじゃねェか。ここがどこだか解ってんのか、ガキ共?」
 監督はドスの利いた声で言いながら、左手を鋭く振った。グラサン男が悲鳴を上げて為一を突き飛ばす。為一は尻もちをつき、さっきまで男が立っていた場所を呆然と見つめた。火の点いた煙草が今も紫煙を上げている。
 監督はフェンスの上部に手をかける。怒鳴ることも睨むこともせず、無感情に身体を引き上げる。
「なんだ、オッサン、やんのかよ」
「オレら舐めてっと痛い目見んぞ」
「逃げんなら今のうちだ」
 無個性な負け惜しみを口にする男たちの腰はどうやら引けていた。監督が音高くこちらに降り立った瞬間、また来る旨を律義に残して駆け去る程度には。
「つまらねぇ」
 監督はぼそりと呟き、自分の投げた煙草を左足で踏み消す。『つまらない』が連中の性根を評したものなのか、殴り合いにならなかったことなのかは訊けなかった。
「知り合いか?」
 監督の問いに、為一は黙って首を横に振る。監督は、そうか、と吸い殻を右手で拾って握り潰した。
「俺は喧嘩に煙草使ったことはなかったんだがな。新田が火の点いたやつ、笑いながら(やっこ)さんの鼻の穴に突っ込んでたのを思い出した」
 今その物騒な思い出話は必要だったのか。視線で尋ねると、監督は情けなく眉尻を下げる。笑うところだったらしい。
 迷いなく差し出された左手に、為一の方こそ躊躇した。朔夜がこういうときに伸ばす手は必ず右だからだ。自身の利き手を守りつつ、相手の使いやすい手を考慮する彼女のバランス感覚を、為一は密かに気に入っている。なまじ似た人間に反転した動作をされて混乱した。
 監督は眉間にしわを寄せ、為一の脇の下に腕を突っ込んだ。腰を抜かしていると考えたようだ。ありがとうございます、と立ち上がった為一の声はそれは無様にかすれていた。
「監督、何でこんなとこにいるんですか」
 棚上げを承知で先んじて尋ねる。監督は黙ってフェンスの中の建物を指差した。壁に黒々としたゴシック体で『神崎金属(株)』と書かれている。クラスメイトである神崎めぐみの血族が経営している会社、桜原監督の勤務先だ。昼休みで煙草を吸っていたのだろうか。
「八名川。お前もう飯食ったか」
 普段から予想のつかないことを言い出す人ではあるが、今日はまた一段とひどい。為一は意図をつかめず再度首を振る。監督の返事も、そうか、とまた同じだった。
 監督はフェンスの向こうに手を振り、ジェスチャーで為一と大通りを示した。倉庫らしき建物の中に立っている男性が、頭の上で大きく丸を作る。確かOBとの親善試合で主審をやってくれた取締役だ。監督は小さく頭を下げて歩き出した。
「飯屋行く前に電話してくる。コンビニで涼んでろ」
 投げ渡される五〇〇円玉。会社の人とはさっき意思疎通していたのではないのだろうか? 首を傾げ、為一は大人しく近くのコンビニエンスストアに入った。
 ガラス越し、監督に視線をやる。あの人ケータイとか使えるんだな、といまさらで無礼千万な本音を胸にしまい缶コーヒーを買う。喫煙者なら大体コーヒーも好きだろう。だが外に出て渡そうとすると一言『飲めねぇ』と言われた。
「釣りは要らねぇよ」
 言いながら歩き出す様子も、自己陶酔や冗談ではなさそうだ。スポーツブランドの、スニーカーと見紛いそうな安全靴の動きを目で追う。蛍光オレンジに黒。朔夜の言う『燕好き』が本当なら発狂しそうなカラーリングだが、不満はないのだろうか。
 桜原太陽監督は、八名川為一が見てきた他のどの大人とも違う。サンプルがないから行動も反応も読めない。
 為一は小銭を持て余し監督の後を歩く。
 落ち着かない。自分の一言で笑わせられない大人といるときは、いつも。

 連れていかれたのは古そうな喫茶店だった。
 新品にはない深い存在感をたたえた調度品、カウンターの奥に並んだ暗褐色の豆とどっしりした白いカップ。
 監督は店員の案内も待たず、道路側の角の席に腰を下ろした。失礼します、と断ってから為一も向かいの椅子に座る。さぞ潰れているだろうと思った座面は意外とやわらかい。しかしコーヒーが飲めないのに、こんな店が行きつけなのだろうか。
 好きなものを頼めと言われたが、ランチメニューはどれも今の為一の胃には重かった。定番のオムライス、ハンバーグ定食、カレー、ナポリタンまではともかく、最後に燦然と輝く『カツ丼』の表記が異色すぎて解せない。
 コーヒーだけでいいですと為一は言ったのに、監督が店員に出したオーダーはカツ丼二つだった。
 学校をサボって拉致されかけた後、部活の監督と喫茶店でカツ丼。第三者の立場だったら最低三回は、何言ってんの? と聞き返すだろう。当事者の立場でも何ひとつ理解できない。
「監督、喫煙席じゃなくてよかったんですか?」
 為一は店の奥をちらりと見た。二段上がって、仕切りの大きなガラス戸に『分煙シテ〼』という紙が貼られている。スーツ姿の男性たちが死んだ魚の目で煙草をふかし、霧が立ち込めたみたいに空気が白い。
「今は無理だろう。煙草」
 監督は頬杖をついて、窓の脇に置かれた観葉植物を眺めていた。為一が息を止めたことぐらいは横目で見ていただろうか。
「言った、こと、ありましたっけ? ……苦手だって」
 繕いきれなかった笑みが口唇の端に引っかかる。監督はシュロの細い葉を人差し指と親指で挟んで擦った。
「自分で知らんのか。俺と話すとき、日によって距離が違う」
 はっとして、一年半監督と接してきたときのことを思い返してみる。心当たりはあるようでない。
 為一の発作は元々小児喘息で、今ではほとんど完癒している。動物もハウスダストも、大抵のものは日常生活に支障がない程度に耐性がついた。唯一治らないのが煙草で、医者からは『激しい発作を起こしたときの記憶を、脳が煙草と関連付けているのではないか』と言われた。事実、強いストレスがかかっているときほど煙草のにおいが耐えがたく感じる。
 変に気を遣わせたくなくて、他人にはずっと伏せてきた。高葉ヶ丘(たかばがおか)の中でも、怜二と、発作を起こしたときに一度だけ居合わせた岡本(おかもと)三石(みついし)ぐらいしか知らないはずだ。監督に気付かれていたなんて。
 ――なぁんだ。知ってたんならちょっとぐらい禁煙してくださいよぉ。
 そう軽く濁そうとしたのに、監督の視線に喉が詰まる。
 真実を黙殺する朔夜の冷淡な目とも、事実を看過する皓汰の寛容な目とも違う。本質を貫いておいて微動だにしないまなざしは、今まで為一が誰からも向けられたことのないものだった。
「やあ、監督さん。こちらにいらっしゃるのは久々ですね」
 さらに見知らぬ男性がいきなり寄ってきて、為一はびくりと肩を震わせる。
 スーツ姿の大柄な男だった。日に焼けた肌に大きなえくぼ、短く刈り込んだ白髪まじりの髪。五十手前ぐらいか、恐らく為一の父より年上だろう。
 監督はめずらしく愛想笑いで会釈した。
「ご無沙汰してます。坂野さん」
 坂野? 疑問が視線に出ていたのか、坂野と呼ばれた男性は為一を向いて破顔する。
「息子さんかな? 確か高葉ヶ丘の野球部だね。どうも、坂野輝旭(てるあき)の父です」
「あ、坂野君のお父さんでしたか!」
 為一は素早く立ち上がって男に握手を求めた。空気を立て直す絶好のチャンスだ。逃すわけにはいかない。
「高葉ヶ丘野球部主将の八名川といいます。輝旭君にはいつもお世話になっておりまして」
「いやいやこちらこそ。ああ、せっかくだからご一緒しても?」
「はい、もちろん」
 坂野父の指は為一よりずっと太く、手のひらは硬く乾いていた。強く握られたら折れてしまいそうな自身の手を、為一は無礼でない程度に素早く引っ込める。監督は坂野父が隣に腰を下ろすまで何も言わなかった。
 学校で坂野輝旭がどうだとか、為一が当たり障りのない会話で繋いでいる間に二人前のカツ丼が来る。見ているだけでげんなりする量だ。為一は勧められて箸を持ったきり手を付けなかった。
「坂野さん。最近またタチ悪いの見かけませんでしたか」
 監督は遠慮なく米をかき込んでいる。
「こいつといるとき、若い三人組に絡まれましてね。この歳になっても、俺ァ高葉ヶ丘でクソ野郎がデケェ面してるのはどうも気に食わない」
「丸くなったかと思えば変わらんなぁ。君は」
 呆れ顔の坂野父に、監督はさっきの三人組の特徴を細かく説明していた。
 為一は鞄を握りしめ、テーブルに置かれたピッチャーの中の薄切りレモンをじっと見つめていた。
「八名川くんは? 何か覚えていることはある?」
 来た。話を振られた瞬間、為一は用意していた笑顔を二人にぶつける。
「や、道訊かれて話こじれちゃっただけなんでちょっと覚えてないっすね。お役に立てなくてすみません。じゃ監督、ごちそうさまでした。体調戻ったらまた部活復帰するんで、申し訳ないんですがよろしくお願いしますね。坂野君のお父さんも失礼します」
 立ち上がったら即歩き出す。周囲の耳目を集めないように、かつ、できるだけ速く。
 ドアチャイムを揺らして外に出た。やっと一人になれたのはいいが、ここがどこだか分からない。ひとまず角を曲がって姿を隠し、息をついて携帯を取り出した。地図を検索すればどうにか帰れるはずだ。
「このまま大通りを直進するのが、一番安全で早いよ」
 降ってきた声に弾かれて顔を上げる。坂野父が太い眉を下げて笑っていた。
「すまないね。太陽くんも悪気はないんだが」
 為一は携帯の画面を自分の胸元に抱えて後ずさる。坂野の父親はその場から動かない。困ったような笑みのままゆっくりと右手を上げ、光を背に負いながら後ろの大きな建物を指差した。
「気付いているかもしれないけどね。おじさん、そこで働いてるんだ」
 威厳ある金のエンブレム。神崎金属よりも力強い書体で、『高葉(たかば)警察署』と書いてあった。
「……薄々は」
 為一は頷こうとして、ただ顎を引いただけになった。両手の親指をスラックスのポケットに引っかけ、坂野父は喫茶店を見遣る。
太陽(たいよう)くんとはもう二十年来の付き合いになるかな。彼は何かと目立つからね、君ぐらいの頃はよくトラブルに巻き込まれていたよ。だが頑なに大人に相談をしない子だった。だから君に頼ってもらいたくても、方法を示すことができなかったんじゃないかと思う」
 理解ある大人の口調だった。
 コーチの口振りにも似ていたが、あの人はまだ暗に『社会』に反抗している様子が残っている。目の前の警察官からは、システムに組み込まれた温度しか感じない。
「頼るも何も、本当に何もないですから」
 失礼します、と言い捨てて為一は大股で歩き出した。坂野父は追ってこない。だが携帯のカメラを使って後ろを窺うと、ずっと為一を見つめ続けていた。
 気配を感じなくなるまで進んで、為一は腕時計を見る。昼休みはあと五分残っている。
 電話をかけると坂野輝旭は不機嫌な声で出た。
『なに。今A組の前通るけど、直じゃダメなわけ?』
 早退したことを知らないのか。それもそうだ。クラスも違うし、部活のない日に連絡を回す必要もない。納得した為一は手短に用件を告げた。
「さっき坂野ちゃんのお父さんに会ったんだけど」
『は? なんで』
「なんでおまわりさんだって、黙ってたの?」
 なんで、を為一が奪うと、坂野は周りを気にしているのか急に小声になった。恨みを買いがちな仕事だから伏せるように言われている、というのは多分建前で、その後に言ったのが本音だったのだろう。
『カッコ悪いだろ。刑事なんて、泥臭くてさ』
 そのつもりはなかったのだけれど指がボタンを押していた。規則的な電子音。ぼうっと通話終了画面を眺める。坂野もかけ直してはこない。時間も時間だ、当然か。
 繁華街は黒川たちにも警察にも見張られているかもしれない。自宅も把握されているからすぐ帰る気もしない。
 いつもは使わない駅に着いていつもは乗らない電車に乗った。途中で降りて山手線に乗り換えた。平日昼間の車両は空いている。席に座って、窓から見える文字を漫然と読んで暇を潰した。すぐに飽きて、同じ色の物を目でたどる遊びを始めた。赤い文字。赤い壁。赤から赤。赤、また赤。そして赤。
 為一は補色の電車に乗って東京の街を回り続けた。目に入る全てが夕焼けで赤く焼け尽きるまで。

 警戒するにも疲れ果て、為一は覚束ない足取りで帰路についた。赤色は消え地元はむせかえるような夜の匂いに包まれている。
 薄汚れた柱に囲われた集合ポスト。左端の下から三番目が八名川家。あの部屋にいつの間にか郵便物が届くためには、為一が前もって運搬をしておかなければならない。
 6、7、4、悪意を感じる暗証番号に沿ってダイヤルを回す。夕刊と近所の主婦がポスティングした不動産のチラシ、姉が無軌道に頼んだ通信販売の包み。奥まで手を突っ込んで一抱えにする。半端に膨らんだ茶封筒が一通落ちて、舌打ちしながら緩慢に拾った。
 なんだよこの小っさいの。今度は何買ったんだ。
 厚みは一センチもなさそうだ。引っくり返すが差出人も宛名もない。直接投函されたもののようだ。
 判断力が麻痺していて、為一は自然に封筒を破っていた。隙間から見覚えのある深緑。その長方形が何なのか認識するなり、声にならない悲鳴を上げて封筒を投げ捨てる。飛び出してきた四角は、最も見覚えのある面をさらして地に落ちた。
 生徒手帳。失くしたことすら気付いていなかった。この間のホテルの女? いや、為一は違反を承知で連絡欄に個人情報を記入していない。学生証から読み取れる情報は、顔と名前と生年月日だけのはずだ。
 震える手で、毎日持ち歩いていたはずの紙束をつまみ上げる。
 回りくどい思考をしなくても分かる。黒川の手の者が学校付近に現れたのは、偶然ではなかったのだ。
「タイチ! お前こんな時間までどこほっつき歩いてやがった」
 怜二の声がする。怜二? 振り返り、怪訝な顔をしている幼なじみを見下ろす。
 怜二がいる。
 黒川の、あの最悪の女が見ているかもしれない場所に。
「やめ、ろよ」
 喉が笑いのような音で引きつる。説明を求める怜二の腕をつかんで、為一はその場から駆け出した。
 知った街灯知った小学校知った商店街、視界の両端を走るのは知った景色ばかり。知らない場所に行きたい。怜二を知らない場所に連れていきたい。為一が見たことのない――黒川真希那の目の届かない場所に。
「ってぇな、一体何なんだよ!」
 怜二に腕を振り払われた。失策を自覚する隙もなく怜二が顔色を変える。気付いてしまったのだ。為一が人の気配のない場所に移動することを望んでいた男たちに。
「なんだ、お前ら」
 怜二の声は常のあどけなさが嘘みたいに低かった。
「てめェこそ誰だよ」
 判で押したようにアクセサリーをジャラジャラとつけた五人の男たちが、誰が言っても変わりのない台詞と共に睨みつけてくる。
「このチビは姐さんの指示にねェよな。潰すか」
 一際派手な銀髪が怜二に右手を伸ばす。為一が叫ぶまでもなく、怜二は冷静に男の手首を手のひらで払った。虚を突かれた銀髪がバランスを崩す。
 一時期、怜二は組手試合のある空手を習っていた。映画の影響、と嘯いていたが、本当は別の目的だったはずだ。
「そっちこそ、怪我しねぇうちに帰れよ。今なら見逃してやる」
 きっと五つも十も年上の男たちに、得意げな調子もなく言い放てる怜二は、昔から変わらず為一のヒーローだった。彼にその成長を強いたのもまた為一で、数の不利から劣勢になっていくのを見ているだけなのもまた為一。
「突っ立ってんじゃねぇ、逃げんだよ!」
 タイチ、と怜二が怒鳴る。殴られながら。つかみかかりながら。刃物さえ持ち出そうという連中に羽交い絞めにされながら、言外に自分を置いていけと叫ぶ。
 何度こうして怜二を巻き込んできた?
 代わりに血を流させて、代わりに安全を得てもらった?
 歯の根が合わない。無意識に握り込んだ手のひらが痛い。
「タイチ!」
 ――レイくん。ごめん。ごめんね。
 もっと早く、こう言っておけばよかった。
「オレに、傷なんかつけたら、黒川が黙ってないでしょ」
 震える足で前に出る。もっと生意気そうに言う予定だった台詞は無様に揺れている。
 それでも、自分の招いた罪だから。
 いつもまっすぐな瞳をもう裏切りたくないから。
 キミみたいに、カッコよくは言えないけど。
「さっさとオレのこと連れてけばいいじゃん。もうその子のこと、殴んないでよ」
 為一は自分の胸に手を当てて言葉を押し出した。この後どんな目に遭うか想像したくもないが、これ以上怜二が痛い思いをするよりはいい。
 ずっとかばってもらった。
 もう自分のケツは、自分で拭く番だ。
「シュショーじゃねぇか」
 怜二と向かい合っていた銀髪の男が、漢字も分からず口にしているとしか思えない調子で言う。為一は揶揄せず、目を伏せてさらに前へと進み出た。
 そのときの怜二の顔は、幼なじみの悲愴な決意を目の当たりにしたにしては随分なアホ面だった。口を開けた怜二の視線の先はどうやら自分ではない。
 逆さにしたコーラのペットボトルを、飲み口を押さえて振っている監督だった。
「何してんだオッサン!」
 怜二を羽交い絞めにしていたグラサン男が怒鳴るより、監督が銀髪の襟にペットボトルを差し込む方が速い。銀髪が悲鳴を上げ背中をバタバタと両手で叩く。監督はそちらに目を向けず、怜二だけを睨んで鋭く空気を震わせた。
「てめェ無断で移動してんじゃねェよ! コンビニ行ってくるから待ってろっつったろーが!」
「す、すみません?」
 怜二も何故怒鳴られているのか分からない様子だった。無視された男たちが色めきだつ。グラサンが怜二を抑える手を緩めて身を乗り出す。
「おいオッサン、テメェ昼間もナメた真似し――」
 パァン! と何かが勢いよく弾けて台詞が止まる。男のサングラスがぬるぬるした何かに塗れている。
 監督はたった今投げたのと同じものを左手で弄んでいた。
 生卵だ。
「不良の口上ってのは何十年経っても代わり映えしねェな。こんだけ暗ェんだ、取っちまった方が男前だぜ? そのダッセえグラサン」
 とりあえず怜二を置いての買い出しが通常の目的でなかったことは確かだ。
 もはや為一にはリスニングできない言語で喚きながら、男たちが五人一斉に飛びかかる。
 監督は、明らかに笑っていた。

「おう無事か、ジャリ共。サツが来る前にズラかんぞ」
 振り返った監督は息ひとつ上がっていなかった。戦利品の紙巻き煙草を、火も点けずにくわえている。
「監督、強いんすね」
 怜二が右の鼻の穴を押さえ左の穴からぷっと血を吐く。まーな、と監督は口から煙草を離す。
「新田の方がやべェぞ。俺と違って腕かばわねぇし、倫理って言葉をいつまでも覚えやがらねぇ。あいつが塀の外で真人間みてぇに歩いてるのが、日本の司法の限界ってやつだ」
 為一は、新田総志(そうし)が笑いながら喧嘩相手の鼻の穴に火の点いた煙草を突っ込んだという話を思い出した。息子はあんな草食獣なのに。コーチのことは絶対に怒らせないようにしよう。
「つーか、何なんすか。さっきの連中」
 監督は怜二の問いに答えなかった。じっと為一の顔を見つめている。為一はたまらず下を向く。
「八名川。言うか言わないかはお前の自由だ。だがな」
 いっそもっと説教くさければいいのに、監督の声は憎らしいほど静かだ。そのくせ緑を揺らす風の音よりずっと力強かった。
「早瀬はもう顔を見られてる。それだけはお前の意思でどうにもできんぞ」
 為一ははっとして怜二を見る。怜二は為一から目を逸らさなかった。口唇をぐっと引き結んだまま。
 ごまかしてしまえば、為一は今までのように誰にも真実を話さず生きていけるかもしれない。
 だが、もう巻き込んでしまった。監督を。怜二を。自分のために傷ついてくれる人たちを。安全な居場所を持つ人たちを。
 喉が引きつる。こんな言葉、口にしたことがないから。どこか遠い世界の言葉だと諦めてきたフレーズだから。
 ぐっとみぞおちに力を入れる。
 それが何だ。こんな怯えなんかより、吐き気のするほど嫌なものをオレは知っているはずじゃないか。
「て、ください」
 かすれてしまった。もう一度。届かせるんだ。水面に手を伸ばす代わりに頭を下げて。
「お願いします。助けて、ください……!」
 吐き出した瞬間、重心を崩すところだった。喉から転げ落ちたものはそれだけ重かった。監督が肩を軽く、確かに支えてくれたから、転ばずに立っていられる。
「坂野さんに連絡するからな」
 為一は頷いた。眠るように深く。
 もう逃げ場所を求めて独りで走らなくていい。
 夜闇すらも自分を包み込むように生ぬるく感じた。