12話 Thirty Pieces of Sunset - 8/10

「然し君、恋は罪悪ですよ」

 三石たちと前を歩く朔夜を見て、やはり惜しいことをしたのでは、と侑志は戻らない過去を振り返る。
 浴衣を着ていくかどうか母に尋ねられたとき、何も考えず頷いておけばよかった。友達と遊ぶのにそんなの着てる男いないよ、とすぐに突っぱねてしまった。着せてもらえば並んでも様に、いやでも、やっぱりみんなから浮くし、ああでも。
「サカちゃんも浴衣着てくればペアルックだったねぇ」
 後ろで岡本がもごもご言った。早速買った焼き鳥を食べているのだ。
 侑志は全身を耳にして、真後ろにいる坂野の答えを待った。待つまでもない即答だった。
「は? 着ないよ。動きにくい服着てたら、いざというとき朔夜さんを守れない」
「そゆとこ現実的なんだ?」
「安全優先。基本だろ」
「大人だなぁ」
 何気ないやり取りに、数十秒前までの考えをまた後悔した。まだ何も入れていない胃が詰まるようで片手を添える。
 朔夜への好意を自覚してからというもの、坂野が今までより数段疎ましい。
 呆れていられるうちはまだよかった。坂野は、他の面子にからかわれても朔夜に雑にされても動じない。それが空気を壊さないため、朔夜の負担にならないためだなんて気付かないままでいたかった。皓汰の前でだけ調子が狂うのは、笑い話にならないことを自覚しているからだなんて。
 侑志は、きっとダメだ。気持ちを言葉にすれば差し迫った調子になる。答えを求めたくなる。朔夜を追い詰めてしまう。浴衣が似合っていると、何でもない一言を告げることすらできやしない。
「朔夜、モツ煮! 『はつはつ』のおっちゃん来てる」
「お、やった。父さんも好きだからお土産に買って帰ろ」
「ここで食うならともかく、土産は先に買っちまったら邪魔になるだろ」
「でもさレイジ、あれ人気でいつもすぐ売り切れんの」
「そうそう、地元じゃ有名なんだよ」
 浴衣の桜が夕陽に染まる。笑う横顔も赤く輝いている。
 俺も食べてみたいです! と無邪気にまざってみたいけれど、侑志は動物の内臓が苦手だ。食べると自分の内臓の働きがおかしくなる。
 いじけてため息をついたら、琉千花に声をかけられた。
「新田君、大丈夫? 調子悪い?」
「ああ、うん、別に。俺はモツ食えないから、どうしようかなって。皓汰は?」
 隣の皓汰に話を振る。皓汰は横目で琉千花を見てから、姉たちを指差した。
「俺も食べたいし、いったん向こう行くよ。二年生は二年生で回るだろうから、しばらく二人で回ってれば? 後で合流する」
「ん、わかった」
 たまには同じクラスのよしみで過ごすのもいい。特に琉千花は、日々の学校行事ではあまり一緒に過ごさないから。
「そしたら新田君、行こ? 私、向こうのわたあめが食べたい」
 琉千花が下を向いて侑志の手を取る。子供っぽいとからかわれたくなくてまた黙っていたのかなと、促されるまま広場から出た。
 フェンスを離れて公園の中を歩くが夜店らしきものはない。灯りも乏しく、急に自分たちと同じか少し上ぐらいの男女が目立った。手を繋いだりそれ以上に密着したりしている。
 暑さのせいではない汗が出てきた。
「あのさ、るっち。多分こっちじゃ」
 ない気がする、と侑志が言い切る前に琉千花が振り返る。
「朔夜さんの浴衣姿、綺麗だね」
 平板な声を発した口唇のいつもより艶めいていることを、侑志の手から離れた爪の紅がいつもより強いことを、侑志はたった今知った。
 沈む陽の側に立つ琉千花の瞳は、透明な寒天で覆った水菓子のように光っていた。
「私、茗香ちゃんと井沢君見てて思ったの。本当の気持ちは、伝えられるときに伝えておかなきゃいけないって。わからなくても、わかりたいって言わなきゃダメなんだって」
 思わず後ずさっていた。何を言う気だろうと身構えた。
 嘘だ。ここまで来たら侑志にも、琉千花の言おうとしていることぐらい予想がつく。
 陽が傾いてから空が暗くなるまでの時間は驚くほど速い。
「新田君は知らないだろうけど、春からずっと私、新田君のこと見てた。新田君のそばにいたいから野球部に入ったの」
 琉千花が襟元を抱いて話すのを呆然と見ている。止める権利はないが聞く義務があるとも思いたくない。
 こんな風になる夢を、見ていた。恋というものを知ってから、環境が変わるたび相手を変えて何度も夢に見ていた。
 茜が消える。
「好き。私、新田君のことが、好き」
 現実に告げられた恋心は、重くて、鋭くて、痛かった。
 殻だけ残して、身体が空になったみたいに何も出てこない。答えも、動きも。
 最初に浮かんだのは永田の横顔だった。初めて会ったときから不器用に琉千花を想っていた彼はどうなるのだろう。どうするのだろう。
 いらない、あげたい、と最低な言葉が頭の中で泡になって、握り潰すように自分の手のひらに爪を立てた。
「ごめん」
 告白を断るというより無礼を謝罪した。琉千花に伝わるはずもないのに。琉千花の気持ちだって侑志には伝わってこない。
 いいの、と琉千花が首を振って、何がだよ、という台詞をぎりぎり飲み込んだ。
 侑志が懸命に笑顔を作って、みんなのところに戻ろうと言いかけたところで琉千花がもうひとつ続けた。
「付き合ってとか言わないから、このまま近くにいさせて」
 よりによって真顔に戻し損ねた笑みのとき、苛立った本音がこぼれた。
「ねぇ。それ俺が決めることじゃ、なくない?」
 しまったと思いながら、侑志の舌は弁解の努力を最初から放棄していた。口角も無駄なあがきをやめて下がっていく。
「もう帰るよ。皓汰たちには親に呼ばれたって言っておいて」
 琉千花が走り去ることだけ避けたかった。このうえ説明の手間と怜二との揉め事まで生じたらかなわない。
 ひどい自覚はあるが、どうせどうにもできないのなら、琉千花に始末を一任してクズに成り下がる方がマシだ。
「ごめんね、新田君、ごめんなさい」
 泣きじゃくる琉千花を慰める言葉だって、侑志は何ひとつ持っていなかった。

 家に帰ると父が食器を洗っていた。
「ママは疲れて休んでいるから」
 父に家事が一つでもできることを侑志は初めて知った。洗いたてのワイングラスがいくつも並んでいる。二人で利き酒でもしていたのだろうか。
「ねえ。酒ってうまいの?」
 かすれた声で発した疑問に父が顔を上げる。真面目な瞳に捉えられていると思うと、自分が訊いたくせについ目を背けた。
「大人は嫌なことあると酒飲みたがるじゃん。あれって別にうまいからとかじゃなくて、他にどうしようもないだけなの」
「侑志」
 息子の名を呼ぶ響きに説教じみた色はなく、父は笑って手招きした。侑志は床に跳んだ泡を踏まないように近寄っていく。
 父は洗い物を中断し、ワイングラスを一つ手に取った。冷蔵庫から暗い色の瓶を出してきて一センチほど注ぐ。
「お酒がおいしいかは人によるよ。自分で試してごらん」
「え、親だよね? 息子の歳わかってるよね」
「興味があるんだろう。これぐらいならお菓子とかにも入っているんじゃないかな。大丈夫だよ」
 強引に押し付けられて、侑志は仕方なくグラスに口をつける。舌先で舐めただけで変な刺激がきた。
 無理、と突き返す。
「何これ。にが……っていうかえぐい? なんかよくわかんない味がしてとりあえずヤバい。あとすげぇくさい」
 父は大笑いで、侑志の飲めなかった一センチをするりと喉の奥に流した。今日は年上の男に違いを見せつけられてばかりで面白くない。
「お酒が欲しくなるほど嫌なことがあったのかい」
 水の入ったコップがテーブルに置かれる。侑志が普段座る席だ。黙って腰を下ろして一気飲みする。父も向かいの椅子を引いた。
「僕も中学の頃はいつもむしゃくしゃして、憂さ晴らしの手段ばかり探してた。バカなことは一通りやったんじゃないかな。結構ワルだったよ」
「酒とかタバコとか?」
 侑志は雑に答えて、ラップのかかった料理の皿を片手で引き寄せる。
 自分で悪ぶるやつに本当のワルなんていない。まして優等生の父の非行だ、言ってもたかが知れている。
 そうだねー、と父は頬杖で壁を見つめた。
「セックスだけは機会に恵まれなかったけどね。ケンカとかいろいろ、葉っぱとか」
「はっ? はっぱ?」
「うん。バッドトリップすると死ぬほど苦しいからやらない方がいいよ。僕は一回で懲りた。あと空薬莢拾って適当にハンドロードしたりとか、撃つのはそんなに上手くなかったな。全部、恐いお兄さんたちに睨まれない程度のヤンチャだよ。不良の真似事がしたい時期だったんだろうね」
 涼しい顔で話しているが、侑志の基準では全部『真似事』ではなく完全に『近寄ってはいけないレベルの不良』のやることであり、父もれっきとした『恐いお兄さん』である。その頃アメリカにいたから、という補足は何のフォローにもなっていない。
 まぁまぁお食べよと父はのんきにフォークを手渡してくる。もはやこの四つ又も凶器に見えてきて、侑志は受け取るとき若干震えた。
 息子の態度に傷ついたのか、父はむくれた顔をする。全然かわいくない。
「僕だって何の理由もなく非行に走ったわけじゃない。まず、君のおじいちゃんには強い米国コンプレックスがある。若い頃、仕事でアメリカ人にやり込められたのをずっと根に持ってるんだな。息子を使って埋め合わせようとしたわけだ。初等部は日本のインターナショナルスクール、中等部はアメリカのミドルスクール、高等部は『将来の市場を肌で知りなさい』って帰国入試で日本の公立校、つまり高葉ヶ丘に入れられた。順当に荒れたよ僕は」
「だろうねー……」
 アルコールのせいか父の口はいつもより軽い。侑志はリアクションに困って料理を口に運ぶ。バジルソースのかかったパスタはぬるい。
 父と祖父の折り合いがあまりよくないのは知っていたが、そんな過酷な学校生活を送らされていたとは。祖父が侑志に甘いのは反動なのだろうか。
 まぁだからさ、と父はさっきのワイングラスに水をなみなみ入れた。
「君が『シンプルにバカなことをしてみたい』のであれば、僕はいくらでも付き合ってあげられる。でも『バカなことを使って嫌な現実を忘れたい』のであれば、一切許可するつもりはない。僕は大事な息子を無為に傷つける自由を、君に認めることはできない。それは覚えておいてほしい」
 深い声だった。微笑んでいた。父の手の中で少しだけ濁った水が回っている。
 その言葉を心底理解できるようになったら、難解な酒の味も楽しめるのだろうか。侑志には水の味すら区別できないのに。
「わかった。部屋、戻るから」
「うん。お腹が空いたらまた出ておいで」
 父は引き留めず見送ってくれた。ささくれだった気持ちは薄らいだが、鉛のように重い胸はどうにもならなかった。
 ベッドまで行くのも億劫で床に転がる。見るでもなく顔を向けた本棚から、一冊だけ背が飛び出している。話の抜け落ちた文学全集だ。起き上がって手に取ると接着剤で修繕してあった。きつい臭いがまだ残っている。
 頁が外れてしまわないよう、注意して読み始めた。夏目漱石著、『こゝろ』。旧仮名遣いで読みづらい。けれど何かがあるように思えて、漢和辞典と国語辞典を横に置いてどうにか先に進む。
 鎌倉の海で知り合った『先生』は、書生の『私』にも「仲の好い」『奥さん』にも重大な隠し事をしている様子だった。どこかで聞いた話だ。

『君は戀をした事がありますか』

 『先生』から『私』への問いかけは、そのまま侑志にまで届いた。
 恋。したことがないと言うには痛みすぎる。
 あると言うには淡すぎる。
 批難がましく『私』を分析した後で、『先生』は続ける。その一言が侑志の目を焼いて、脳を焦がした。

『然し君、戀は罪惡ですよ。解つてゐますか』

 ――しかしきみ、こいはざいあくですよ。わかっていますか。
 聞き覚えのある声がはっきりと言う。
 声の主も思い出せないまま文字を追う。
 ――きみ、くろいながいかみでしばられたときのこころもちをしっていますか。
 知ってるよ。黒い長い髪だろう。ずっと縛られてる。
 なぁ、『罪悪』ってどういう意味だよ。
 頼むよ。教えてくれよ。『先生』。
 夏の朝は早い。つっかえつっかえ繰った頁の先に、夕焼けと見紛う陽が差す。侑志の首筋を刺しながら一息に部屋を赤く染めゆく。
 同じ色ならまた夜が来ればいいのに。
 朝なんて今は、見たくもない。