12話 Thirty Pieces of Sunset - 7/10

祭囃子に紛れて

「それで侑志、眼鏡かけさせられて抱きつかれただけだったの?」
「そう。頭わっしゃわっしゃかき回してよー、わっけわかんねぇ。親父の眼鏡、度がキツくてしばらく頭痛かったわ」
 土曜日、午後十七時半の公園入口。
 賑わってはいるが見えるのは小学生か大人ばかりで、中高生がほとんどいない。地元民の桜原姉弟曰く『若者が騒ぐのは、この盆踊りじゃなくて月末の花火大会』。そんなに混雑していない分、出店も回りやすそうだ。
「皓汰んとこは? 監督大丈夫だったのか。酒弱いんだろ」
「平気なんじゃないの。次の日も普通に仕事行ったし。あの人、常にだるそうだからあんまよく分かんないけど」
 侑志、皓汰と呼び合うことも慣れてしまえば簡単で、何かが変わった気もしない。前より皓汰が近しく感じるのは、呼び名とはあまり関係ない理由だ。
 フェンスを隔てた広場から、伸びきったカセットテープの祭り囃子が聞こえる。
 待ち合わせは十八時、指定場所にはまだ侑志と皓汰の二人しかいない。
 井沢はあの後、母親やその実家と話し合いをしたらしい。転校はしないが別の物件に引っ越すと言っていて、その日がちょうど今日だった。永田と富島もそれぞれ家の用事があるとかで不参加だ。
「あれ、皓汰君。朔夜さんは?」
 最初に現れたのは坂野(さかの)だった。ここまで見事に無視されると怒りもわかない。嫌な顔をしているのはむしろ皓汰だ。
「後で来ます。出掛けに母に呼ばれてただけなんで」
「そっか。迎えに行った方がいいかな」
「平気でしょ。普段一人で走ってる時間のがよっぽど遅いし」
 この三遊間が和解する日など来るのだろうか。フォローする筋合いでもなし侑志は時計を見る。しばらくはこの三人でいることになりそうだ。
 坂野は黙り込んだ皓汰と何とかコミュニケーションを取ろうとしていたが、ふと眉をひそめて背を向けた。あのサマーニット、真っ白でソースとか跳ねたら目立ちそうだな、と侑志はお節介なことを考える。
「オレはもう着いてる。皓汰君と新田はいるけど、時間前だから別に」
 電話か。坂野はいつもマナーモードだから着信音が聞こえない。
 口ぶりからして他の二年生もそろそろ来そうだ。振り返るとちょうど岡本(おかもと)がいた。
「こんばんはー。部活関係なく会うの新鮮だねぇ」
 ミリタリーな私服が意外だったが、森貞のお下がりと聞いて妙に納得した。
 坂野はまだ電話を続けている。
「だから一回帰れって! 走らなくていいよ、いや自転車では走るけど急がなくていいから徒歩で来いってこと。遅れたからどうってわけじゃないし」
「ミツかな」
 岡本の呟きが聞こえていたのか、坂野は電話を切るなり頷いた。
「自転車、家に置きに戻るから遅れるって」
「パクられるとかわいそうだから持って帰らせたんだよね。サカちゃんってそういうとこ優しいもん」
三石(みついし)の世話は八名川(やながわ)の仕事だろ。あいつ、いつまで寝込んでるんだ」
 坂野はつっけんどんに言って首の後ろをかいた。侑志も皓汰も顔を見合わせる。
 これから部を牽引するべき新主将・八名川は、夏の大会が終わった翌日に高熱を叩き出した。怜二(れいじ)経由の情報だと四十度近くだそうだ。そもそも調子が悪かったところに、最後の馬淵学院戦で雨に濡れたのがたたったらしい。
 おかげで彼が指名すべき副主将も不在のまま、当面ということで朔夜が部を取り仕切っている。ある意味順当であり今までどおりでもある。
「来週の火曜から出るってさ。もう熱は下がってるっつって今日も来たがってたけど、ぶり返すと困っから置いてきたわ」
 怜二がごく自然に会話に入ってきた。その黒いだぼだぼのTシャツのせいで小学生と区別がつきませんでした、などと言った日には殺されるので、侑志は無難に挨拶だけをしておいた。
 岡本が振り返り下を見る。
「あれ、レイちゃん。琉千花ちゃんどしたの」
「いや、そんなでけぇ祭じゃねぇから恥かくだけだぞって言ったんだけどよ、聞かねんだよ」
 やはり怜二の背中に貼り付いている白い塊は琉千花か。横髪を留めてある和風のバレッタと同じぐらい耳が赤い。
 兄が構わず同輩としゃべっているので、侑志は頭をかいて琉千花に声をかけた。
「こんばんは、るっち。そんなくっついてると怜二さん暑いと思うよ」
「え、う、こんばんは。……新田君」
 浴衣姿の琉千花は、胸元を抱くようにして兄から離れた。白地にピンクと水色の朝顔。華やかで無邪気で、琉千花のイメージにぴったりの柄だ。
「ごめんなんか、おかしいよね、こんな、ちっちゃい子ばっかりのお祭で浮かれちゃって。私ほんと、ばかみたい」
 琉千花は視線を上げず早口に言う。確かに浴衣の人は少ないが、いないでもない。それに。
「いいじゃん、似合ってるんだし。かわいいよ」
 琉千花はすっと侑志の顔を見た。
 何だろうと思ったが、ありがとう、とどこか泣きそうな笑顔で言われただけだ。本心から褒めたのに、慰めだと思われたのだろうか。永田もいれば全力を尽くして褒めちぎっただろうに、間の悪いやつだ。
 坂野が腕時計に目をやりながらさらりと言う。
「そうだよ琉千花ちゃん、気にしなくていい。お兄さんは妹さんの素敵な姿をみんなに見せたくなくてああいうこと言うだけだからね」
「えっ、はい」
「坂野てめー、せめて見てからフォローしろよ。琉千花もはいじゃねーんだよ」
 関わるだけ泥沼な気もしてきた。侑志は視線の向きと話題を変えた。
「ていうか皓汰、あのデカい人さぁ」
「以外に考えられないけど、岡本さんが呼んだのかなぁ」
 皓汰が岡本のシャツの裾を引いたのと、彼がこちらに歩いてきたのはほとんど同時だった。
「え、リューちゃんじゃん。どしたの、こんなとこで」
「昼間、コンビニの前でフミくんに会ったんだよ。んで夜ここで集まるって聞いて」
「あー、兄ちゃんおしゃべりだから」
 森貞は、ジーンズに白いシャツを合わせただけの服装だった。彼ぐらい体格がよければ充分様になる。顔つきも標準服でいるときより自然に見えた。
 延々身内トークが続きそうなところに怜二が割って入る。
「それよりリューさん、鼻大丈夫なんすか」
「まぁ大丈夫。軟骨折れただけだし、あと一週間もすりゃくっつくだろ」
 森貞は痛々しい患部を気にするでもなく言った。怜二は『なら安心です』と『いや大丈夫じゃないでしょ』とどちらを言うべきか判断がつかないという顔をしていた。侑志も同じ気持ちだ。
 うーん、と森貞は袖まくりした腕を組む。
「ちゃんと話する時間なかったからと思ったんだけど、あんまり揃ってないみたいだし出直すかな」
「それでわざわざ来たの?」
「いや、雪枝(ゆきえ)と別のとこの花火大会行く途中に寄った」
 気負いなく答えた森貞に、怜二と坂野が化け物を見る目をした。
 そういえば朔夜が、恋人のことで森貞をからかうと血が流れるとか言っていた。自ら口にしたこともなかったのだろうか? 無邪気な二年生は岡本だけだ。
「じゃあ今日ユキちゃん、もしかして浴衣? 綺麗だろうなー、見たい見たい」
「駄目だよ。見せない」
 森貞の笑顔も台詞もまた芝居がかっていた。侑志が初めて話したときの印象どおり。
「雪枝の浴衣姿は本当に綺麗だから。いくらお前らにだって、絶対見せてやらない」
 けれど今の彼は、大声も気遣いもなく、自分だけの願いを口にした。何のためでもなく。
「琉千花もめちゃくちゃかわいいぞ! 童貞諸君は頑張る女の子をもっと褒めてやれよ!」
 森貞は軽やかに笑いながら、月村(つきむら)が待っていると思しき方向へ駆けて行った。
「なんかリューさん雰囲気変わったよな」
 怜二が小声で呟くと、そうかな、と岡本はやわらかい顔をした。
「戻っただけだと思うよ」
 大声で名指しされた琉千花は『かわいい』が原因か『童貞』が原因か、赤面して俯いている。俺は最初に褒めましたよ、童貞だけど、と侑志は心の中で森貞に反論した。
「童貞がなにー?」
「なんでミツさんはそういう単語に反応して出てくるんすか!」
 いきなり人の脇の下から両腕を突き出すのもやめてほしい。三石は手を引っ込めると、ひょいと琉千花の顔を覗き込んだ。
「うん。かわいー。分け目いつもと違うね」
 褒めるところは浴衣ではないのか。琉千花もまんざらでもなさそうだが。
「なんかるっちが着てると全然違うや。なー朔夜」
「はっ?」
 変な声が出てしまった。三石が首を向けた先に浴衣美人が立っている。
「似合わないことぐらい分かってんよ。何度も自覚させんなよな」
 口を開いたら朔夜だった。尖らせた口唇には薄い紅がひいてあって、小麦色の肌もいつもよりきらきらしている。
「似合ってるよ! 世界で一番の美人だよ!」
 坂野が激しい身振りを交えて、矢継ぎ早に賛辞を吐き出す。勢いで言えば矢というよりマシンガンだ。
 朔夜は最初に一言礼を告げたきりで、止まらない比喩を最後まで聞く気はないようだった。琉千花に歩み寄って頬を緩ませる。
「朝顔ー。るっちはこういう柄似合うねぇ。バレッタもかわいい」
「あ、ありがとうございます。朔夜さんも……」
「おい朔夜、無理して褒めなくていいんだぞ。スーパーでセール売りしてるガキ用の甚平みてぇっていうのは兄貴のオレが一番わかってるからな」
「お兄ちゃんはもう黙っててよ!」
 お約束が済んでも坂野の褒め言葉はまだ終わっていない。
 皓汰がこそこそと耳打ちしてくる。
「時間かかってると思ったら着付けされてたんだね。ゴリラがいまさらヒトの装いをしたところでって感じなんですけど……侑志?」
 侑志は実のところ、本気の本気で坂野が羨ましかった。
 朔夜の黒髪は整髪料でいつもと違うかたちをしていた。艶やかに、流れるようにまとまっている。どういう手品かショートヘアに艶やかなつまみかんざしが挿してあり、朔夜が笑うたび房が揺れる。浴衣は藍に白く大きな八重桜。少し抜けた衿から日焼け跡の残るうなじ。淡い黄緑の帯も爽やかで、姿勢のいい朔夜によく似合っていた。
 つまり全部が綺麗だった。
 そのことを、坂野の半分でもいいから本人に伝えたいのに、喉が詰まって一言も出てこない。振り向いてもらえなくていいと決めたはずなのに、すげなくあしらわれることを想像すると心がすくむ。
 るっちにしたみたいに、もっと自然に褒められたらいいのに。俺のこういうとこが童貞なのか。わからない。童貞って哲学だな。
「侑志も今日おしゃれしてんじゃん」
 硬直している侑志のところに朔夜が歩み寄ってくる。前開きの襟付きシャツを無造作に両手でつかむ。
「なにこれ、何の素材? 通気性よさそう」
「えっ、あっ」
「やめなよ、朔夜がそれやってっとカツアゲにしか見えない」
 皓汰が止めようとしてくれたが弟の制止で止まるような朔夜ではない。鼻先で髪が動くたびに嗅ぎなれない香りが咲いて、理性ががつんがつん揺さぶられる。
「待って朔夜さんいつから新田を呼び捨てにしてるの?」
「皓汰も少しこういうの覚えたらいいじゃんって、なぁ洗い方表示どこ?」
「大体こういうのって左脇じゃないかなー」
「朔夜これー? 麻一〇〇%? って書いてあんよ」
「ねぇ朔夜さんってばぁ! いつから!」
 何故か岡本と三石まで参加してきて、寄ってたかってリネンの七分を脱がされる。中にもう一枚着ているとはいえあんまりな仕打ちだ。溺れているみたいにもみくちゃになりながら、侑志は叫んだ。
「いいから早く出店回りましょうよ!」
 苦し紛れの台詞で一斉に侑志への興味を失った先輩たちを、恨みがましい目で睨んだけれど無駄な労力だった。

「いらっしゃい」
 エプロン姿の美映子に迎えられ、どうも、と夢子は当たり障りのない挨拶を返した。
 新田家は新築マンションの七階に住んでいた。夢子は昔から高階層に暮らす人間が苦手だ。心理的にも見下されている気になる。特に、優雅な奥様然とした女を見るとゴキブリと遭遇したときより不快になる。
 一方夢子の前にいる桜原太陽は、気後れした様子もなく土に汚れた靴を脱いだ。
「お前ら、こんな他人だらけの建物に閉じこもって窮屈じゃねぇのか?」
「三人しかいない世帯ならこれで充分なんです」
 分かりやすくむくれる美映子の向こうに、新田総志が立っていた。視線を外して、夢子に小さく頭を下げる。どこまで行っても無視まではできない人の好さが、愚かで切なくて抱きしめたくなってしまう。
「美映ちゃん、お招きありがとう。これ、つまらないものだけど」
 よくない欲求を飲み込み、社交辞令と共に紙袋を差し出した。どうもご丁寧に、と受け取る美映子も茶番じみていて吐き気がした。
「ワイン。俺が見立てたんじゃねぇけど。新田たちは飲むのか」
「あ、うん。美映子さんも飲めるし、僕はお酒の中では一番好き、かな」
 太陽が話しかけたことで、新田の顔からこわばりが解けた。
 それならもっとちゃんと好みを聞いてから選べばよかったな、とふわふわした心地で、夢子は美映子についてリビングに向かった。
 ドアを開けるとオリーブオイルの香りが鼻孔をくすぐった。桜原家には縁がない。朔夜は和食ばかり作るから、いつもだしの香りがしている。
「一応うちでも用意してたのよ。総志さんどうせたくさん飲むんでしょうし、冷えてる方を先に開けちゃう?」
 そうしさん、と自然に口にする美映子に頭の奥がちりっとした。高校のとき美映子は新田総志を『新田君』と呼んでいた。付き合い始めてからもずっと『総志君』だったのに。
 美映子の手から袋を奪い取って、買ってきたワインを箱から出し見栄えのいい料理の横に並べた。慣れた作り笑いからはすらすらと台詞が流れる。
「せっかくだから持ってきたのを一緒に飲みましょうよ。赤と白どっちが好きか分からなくて、ハーフボトルで両方買っちゃったの。フルボディと辛口だけど、飲みやすいのを選んだつもりだから」
 顔を美映子に向けながら新田に聞かせた。
 ありがとう、と美映子が笑う。困ったように。白髪の気配もない、あの頃と同じ色の髪を指先にくるくる巻き付ける。
「私はワイン全然わからないの。口をつけてみてやっと、おいしいとか合わないとか言い出すのね。せっかくいただいたもの、目の前で飲めないって言っちゃったら、申し訳ないなって思ったんだけど」
 口角を上げている力を失って、夢子はぼうと美映子を見つめた。新田がボトルを持ち上げてとりなすように言った。
「白はシャルドネだね。前に美映子さんがおいしいって言ってたのと似てるから、大丈夫だと思うよ。赤は重いからちょっと苦手かもしれない。でも僕は飲めるし、残ったら料理に使わせていただこうか」
 美映子が恥ずかしそうに頷く。
 ああ、またこれだ、と思った。
 美人は持っていても様になるし、持っていなくてもかわいらしい。不足は誰かが補ってくれる。結果的に彼女たちの手の中には全てが揃っている。美映子のような女たちは、自力で必死に集めては取りこぼす夢子のような女たちの上に、常に君臨しているのだ。
「桜原は何飲むんだい」
「俺もワインでいい。ビールがダメだからって他の酒もダメとは限らんだろ」
「ワインのが度数高いんだけどなぁ」
 太陽と新田のとぼけた会話も相変わらずだった。
 案の定、乾杯してグラスを半分も空けないうちに太陽は眠ってしまった。新田がソファまで運んでくれて、今は二人してテーブルを離れている。戸籍上は自分の夫である男にまで、膝枕をしてもらってずるいと思うのが我ながら本気で壊れている。
「ごめんなさいね。息子を追い払う口実に、お宅のお子さんまで使ってしまって」
 美映子がカナッペをつまみながら呟いた。クリームチーズとスモークサーモン、夢子には名前の分からない木の実の漬物も載っている。絵に描いたようなワイン用の前菜。
「いいのよ。あの子たち、家にいたって何をしてるわけでもないもの」
 蔑んだ笑いは自分に向けてだった。夢子は子供たちが普段何をしているかなんて知らないし興味もない。
 今夜、朔夜を着飾らせてやったのも気まぐれだ。義母の古い浴衣があったから合わせて化粧をしてやった。スタジオで働いていたとき、ヘアメイクまでやらされたのを手が覚えていたのだ。太陽の遺伝子の色濃い顔貌を、蠱惑的に見えるよう女に寄せた。自分に似た癖のなさすぎる髪を、椿油とたくさんのピンでどうにかまとめた。
 誰に対する嫌がらせだったのだろう。女性性の押し付けを嫌う朔夜か。娘に好意を持っているらしい男子たちか。そのうちの一人の親である新田と美映子か。
 夢子にもわからない。今になって母親ぶろうとした自分自身へのものだったのかもしれない。
「いいお酒ね」
 夢子は料理に手を出さずグラスを傾けた。新田が取り寄せたワインは夢子が虚栄で選んだものより値が張らず、香りと飲み口はずっとよかった。
 美映子は答えずグラスを揺らし、澄んだ葡萄酒をじっと見つめている。
「おいしいでしょ。総志さんこういうの詳しいの。何か言うと、これはどう? ってすぐ出てくるのね。必ずしもお高いわけじゃないのに、質のいいものをたくさん知ってて」
 自慢と取るにも惚気と取るにも陰鬱な口調で、美映子は化粧を覚える前から長かった睫毛を伏せた。
「本物なのよ。生まれたときから。つま先立ちで同じもの見ようったって、ダメね。あなたが探してくれたの早く冷えないかな」
 綺麗に整えられた爪がクラッカーの端をぱきりと割った。その動作は記憶にある。
 小学生の頃、クラスの女子たちが『みんなおそろいで持ってるんだよ』と美映子の机におはじきを一枚置いた。みんな、の頭数に入っていない夢子は自分の席からじっと見ていた。美映子が爪先でおはじきの端を押すとガラス片は飛び上がって机から落ち、『一枚きりあったってどこにも当たらないわね』と彼女はつまらなそうに言った。
「美映ちゃんこそ。みんなお嬢様だって言ってたわ。お育ちが違うんだって。どこかの外人の血が入ってるとか、今はばあやが育ててるけど大きくなったら遺産をもらうんだとか」
「やだ、黙ってると噂ってそこまで育つのね。うちの事情なんて本当、貧乏ったらしいのに」
 美映子は軽やかに笑う。思い出す。彼女は口さがない人たちを、憎む手間もなく片付けてしまうのだ。
 本当はこっちの方が好きなのよ、と手に取ったクラッカーには、わざとらしいほど真っ赤ないちごジャムしか載っていない。
「父がね、勤めてた会社のお金を使い込んで、若い女と蒸発しちゃったの。母は頑張って働いてくれてたけど、どこかで何か切れちゃったんでしょうね。私を実家に預けたまま帰ってこなくなっちゃって。小三だったかな。仕方ないからって祖父母が転校させたのが、あなたの通ってたとこだった。当時は私も事態が呑み込めてなかったから、人に訊かれても答えられなかったの」
 夢子もいちごジャムのクラッカーをひとついただいた。
 素朴と言えば聞こえはいいが、安っぽい味だ。馴染みのある味。
「美映ちゃんは、あのときどうしてわたしに話しかけたの?」
 大した話題ではない。夢子が図書室で本を読んでいたら、何読んでるのと訊かれただけだ。それでもやっかみ混じりに有名になっていた美少女が、向こうから声をかけてくるというのは夢子にとって大事件だった。
 だって、と美映子はあっけらかんと答えた。
「あなたは私を珍獣扱いしなかったもの」
 あ、とか細い声がして、自分の漏らした息だと最初は気付かなかった。
 やっぱり美映子はずるい。夢子が新田を好きになるずっと前から、彼と同じ理由で夢子を選んでくれていたなんて。そんなこといまさら言われたって、もうどうしようもない。
「ね、夢子って、いい名前よね。眩しくて私、ずっと呼べなかった」
 美映子の手が、グラスの脚を握りしめた夢子の手に触れた。日々の苦労を知らないように見える指先は硬く、とてもあたたかい。
「私はデザイナーの夢を諦めたけど、あなたはフォトグラファーとして名を残してる。すごいことよ、本当に」
「夢なんかじゃない。これしかできなかっただけ。カメラなんか嫌いよ、わたし」
 馬鹿なモデルの機嫌を取るのも、機材もろくにない場所でまずい料理のにおいを嗅ぐのも、中身のないインタビューでそれらしい一枚をどうにか探すのも、そうしなければ金にならないからだ。
 仕事。社会の役に立っている気にならないと自分を保てないからやっているだけ。作品と呼べる写真は結局趣味で撮っている。
「そうなの? でも私はあなたの写真好きよ。本買っちゃったし」
 それらしい嘘を論破してやりたかった。そのくせ美映子の手をつかんでいた。
「わたしの本、一般流通してないわよ」
「個展で買ったの。気に入ったから、期間中にもう一度行ってまた二冊ぐらい買ったかな。息子の本棚にも差してあるんだけど、あの子、多分気付いてないのよ」
 綺麗な笑顔が歪んで見えたのは、夢子の視界が揺れたせいに違いなかった。
 美映子はいつもそうだ。だから嫌いだ。夢子にとって人生が変わるぐらい重大なことも、美映子にとっては日常の一言に過ぎない。あの日だって。
 中二の秋、夢子が学校で隠れてカメラをいじっていたのは、継父にこれ以上嫌な写真を撮られないためにはどこを壊せばいいのか考えていたからだ。通りがかった美映子は、そんなところで何してるのと尋ねはしたが、夢子の手にあるものを見て質問を変えた。
 何で学校にそんなもの持ってきたの、でも、何を撮るの、でもなく。
『写真撮るの? かっこいいね』
 質問ですらなかったのかもしれない。語尾が上がっていたというだけで、美映子は返事を待たずに歩み去った。
 そのポラロイドカメラはそのまま学校の池に捨てた。次の日曜、電車を何本も何本も乗り継いで祖母のところに行き、祖父の形見のカメラを譲り受けた。撮った写真を送れば祖母は喜んでフィルムをくれた。その繰り返しは祖母が亡くなるまで続いて、高校に入れば部活動としていくらでも写真が撮れた。帰りたくない日もカメラを提げていれば大目に見てもらえた。
 一人でフェンスに向かって投げ続ける桜原太陽を撮ったのもその頃だ。
 ――そんなこと、今になって思い出させないでほしい。
「美映ちゃん、わたし、離婚するの」
 一世一代の告白を、そう、と美映子は受け止めた。
 そう、と繰り返す声に、うん、と俯く。
「一人で暮らそうと思うの。生まれて初めて」
 桜原家は夢子の避難所であって家ではなかった。桜原太陽は夢子の保護者になろうとしてくれたが、彼がそうすべき相手はとうに夢子ではない。同じ対象を見守ることは夢子にはできない。
 もう彼の手を放して、あたたかな輪の中に、返さなければいけない。
「頑張ったね。夢子」
 美映子が正面に回ってきて、夢子の頭を胸に抱いた。頑張った、ではなく、これから頑張るのに、と考えて、不意に気付いた。
 頑張って決めたのねと、そう労ってくれたのだと。
「わたし、美映ちゃんのそういうところ、嫌い。ほんと、むかしから、だいきらい」
 新田くんが美映ちゃんを選んだの、見た目が綺麗だからじゃないってわたしが一番解るから、大嫌い。
 美映子にすがりついて声を殺して泣いた。
 頭をなでる手の優しさを、少しでもあの子たちにあげられたらよかったのにと、詮無い祈りもエプロンの繊維に吸われて消えた。

 美映子たちの会話は総志にも聞こえていたが、口を挟むべき事柄もなく桜原の枕に甘んじていた。
 本気で眠りこけている親友をこっそり起こしてやろうかとも思った。十分ぐらいして薄目を開けた桜原が、焦点の合わない目で総志を見上げた後、『新田んちか』と呟いて堂々二度寝を始めたのでどうでもよくなった。
 三十分が過ぎようかというところで美映子が料理を温め直してくれて、ようやく食事にありつけた。総志は酒の味自体も好きだが、酒の席でやわらかくなった空気はもっと好きだ。
「侑志はどう見ても藤谷の息子だろ。顔も怒り方も似すぎ」
「でも昨日美映子さんに言われて気付いたんだけど、眼鏡かけると僕にそっくりなんだよ」
「皓汰君は顔だけ桜原君にそっくりよね。なのにすっごく礼儀正しいから驚いたわ」
「皓汰はおじいちゃんに似たのよ。本が好きなところも、達観したようなところも」
「ああ、確かにはじめさんに似てる。僕も桜原のお宅にお邪魔したときよく本を借りたよ。いい人だったな」
「今度線香上げに来いよ。親父も喜ぶ」
「そういえば桜原。あの名前、娘さんにつけたんだね」
「まぁ、次に息子が生まれるとか分かんないしな。それにあいつに似合ってる」
「いいなぁ女の子。私も欲しかった」
「美映ちゃんまだ産めるでしょ。作ればいいじゃない」
「この歳でまた一から子育てなんて気が遠くなるわ。侑志のお嫁さんを待つことにする」
「おいうちの娘はやらねぇぞ」
「え、あらなに、侑志ったらそんな感じなの?」
 この家が懐かしい笑い声に満ちる。
 ぐちゃぐちゃに壊れたと諦めた。許されないと怯えて逃げた。四人でこうして過ごす時間を捨ててしまっていたのは自分の弱さなのだと、楽しいと感じるほどに強く思い知る。
「なんだ新田、また泣いてんのか?」
 開けっ広げに訊いてくるあたり桜原はやはりデリカシーがない。
 総志は、美映子がこっそり膝の上に載せてくれていたティッシュで鼻を拭く。
「すぐ戻るから」
 席を立つと美映子もさりげなく腰を上げた。嬉しいけれど困る。美映子と二人きりになったら、きっと際限なく泣いてしまう。桜原夫妻をこの部屋に二人残すというのも気まずいし。
「いや、待て新田。そこにいろ」
 何故か桜原まで椅子から離れた。テーブルを回ってこちらに来る。どうしたの、と言おうとして開けた口唇は声を失った。
 用があったのは総志ではなく。
「藤谷」
 振り向いた美映子の手首を引いて、桜原はいきなり彼女に――キスをした。
 ものすごく長い時間に思えたが一瞬だったのだろう。美映子がつかまれたのと逆の手で、桜原の頬を思いきり張るのをスローモーションで見ていた。
「何するのよ!」
 美映子は柳眉を釣り上げて怒鳴っている。総志も犯人を殴って問いただしたいのに、当の桜原が左肩にもたれかかって大笑いしているので動くに動けない。
「あのとき新田が来なければこうしてるはずだったんだ。やっとやってやった」
 桜原はいつになく上機嫌だった。
 彼の言う『あのとき』がどのときだったのか、美映子と桜原がいい空気になるのを邪魔した機会なんて多すぎていちいち覚えていない。
「桜原。何だかわからないけど、今のはひとの奥さんに悪ふざけでしていいことじゃ」
「寝惚けろ。お前こそこないだ俺の女房としたろうが」
 割合に本気の声で言って桜原は離れた。おまえの女房は僕だろ? という冗談が場違いなことぐらいは総志も弁えていた。
 桜原はまっすぐな目をしていた。求めたマウンドに立てなくとも、公園の片隅で最高のストレートをミットに届かせてくれたときの目。
 口許にはあの頃の怖いもの知らずの代わりに、落ち着いた笑みが浮かんでいた。
「ちゃんとフラれてなかったからな。やっと片付いた」
「言っておくけど、あのとき同じことしてても引っぱたいてましたからね」
 美映子は総志の左腕を抱えて、威嚇するような声を出す。総志は桜原と顔を見合わせて笑った。
 嘘かもしれない。『あのとき』の彼女なら受け入れていたのかもしれない。
 けれど僕は、僕を引き留めて目の前でこうしてくれた桜原を、今このとき僕の指輪に触れてくれる美映子さんを、心から信じると自分で決めたい。
「そろそろ帰るな。子供たちが帰ってくるまでに電気点けといてやらねぇと」
「すっかりお父さんだね。桜原も」
「お前もすっかり旦那さんじゃねぇか」
 柏木もそっと帰り支度を始めていた。目が合う。彼女が儚く微笑んだ瞬間、暗室の色と薬液の匂いがまざまざとよみがえった。
 数えきれない刹那を切り取って浮かび上がらせる彼女は、まるで魔法使いだった。その場面に立ち会えることが喜ばしかった。放課後が来るのが楽しみだった。
 あの部屋で、印画紙の上で、総志は桜原太陽と出逢った。
 美映子とは違う色で、温度で、総志は彼女のことも好きだったのだ。憎んでも嫌えないからずっと苦しかった。
「柏木さんも、また遊びに来てください」
「アメリカでもその手の台詞は社交辞令でしょう。それぐらい知ってるわ」
 やわらかい声音で辛辣な言葉を吐く癖もそのまま。具体的な日時を示せないのは結局そういうことかもしれない。
「でも、また来てくれますよね」
 何の工夫もなく念を押す総志に、美映ちゃんがよければねと柏木は困ったように笑った。
「じゃあな」
 桜原がそう言って出ていき、総志たちはこう返す。
「またね」
 月並みなやり取りに全てを託して、夜空の下に向かう親友たちを見送った。
「美映子さん。ありがとう」
 総志は玄関ドアに寄りかかり、つっかけたサンダルも脱がずに俯く。美映子はストッキングのまま躊躇なく三和土に降りてきて、総志の両肩に手を添えた。金属に押し付けられた背は冷たく、口唇と胸にはぬくもりがある。
 遠く届かないはずの祭囃子が耳の奥で聞こえる。
 鳴り止むまで、息子は帰ってこないはずだから。
 まだ、もう一度、二人きりの頃の僕らでいさせてほしい。
 一畳もない場所で、十五の頃から知っているひとと、初めて口付けを交わした日のように離れがたくずっと抱き合っていた。