12話 Thirty Pieces of Sunset - 6/10

夢の残滓

 桜原太陽が家に戻ったとき、妻の夢子が縁側に座っていた。
 普段なら自室にこもっている時間だ。夫婦の部屋は当初の取り決めどおりずっと別で、外にいるときはもとより家にいるときでさえ、太陽は妻が何をしているのか知らなかった。
「飲むか」
 台所で淹れてきた紅茶を差し出す。緑茶が嫌いだと言っていたことをぼんやり覚えていた。夢子は怪訝な顔で湯呑を受け取り、ありがとうと感情のこもらない声で言った。
「何見てたんだ」
「なにも。この家の庭ってどんなだったかしらと思っただけ」
 夢子は桜原家を『うち』とは呼ばずに『このいえ』と呼ぶ。太陽も異を唱えたことはない。
 古くから根を下ろしているというだけで手に入れた土地は、現在の価値なら贅沢と言ってもいい広さだ。昔の感覚なら大したものでもない。太陽の趣味のもの――野球関連の用具のせいで余計に狭く見える。
「新田と話した。お前、俺との約束を反故にしただろう。だからあいつとの取引も無効だ」
 太陽が隣に腰を下ろしても、夢子は視線を動かさなかった。ネット越しに星の遠い夜空を見ている。
「二人とも律儀ね。律儀というより、馬鹿なのよ。十七の小娘の口約束にどんな効力があるっていうの。さっさと破ればよかったのに」
 開き直った台詞を吐かれても、太陽は夢子を責める気になれなかった。他の誰より信頼した男の人生をめちゃくちゃに踏み壊されてなお、桜原太陽は柏木夢子を憎めない。
 夢子は湯呑を傾け、眉をひそめて口から離した。
「何これ。何が入ってるの?」
「砂糖の置き場所が分からなかったから、冷蔵庫にあったジャムを突っ込んだ」
「桜原くんってそういうところ、本当にガサツよね」
 太陽としても夢子のこういうところが本当にかわいくないと思う。声には出さず、ママレードを溶かした紅茶を喉に流し込んだ。アルコールで焼けた粘膜に染み込んで少し痛い。
「新田くんにどこまで聞いたの?」
「藤谷に自分を売り込んでもらう条件でお前と寝たこと」
「それ、半分正解だけど半分間違いだわ」
「どの辺が?」
「最後までできなかったの。新田くんがダメで。泣き始めちゃったし」
 夢子があんまり淡々と言うから、真面目な話なのに笑いそうになって俯いた。
 どこまで潔癖なのだ、新田総志という奴は。
「暗室? ヤリ部屋になってるって噂、本当だったのか」
「そうね。私がそういう使い方をしようとしたのは一回だけだったけど。新田くんがよく顔を見せてくれたのは、その噂のおかげだったのかもしれないわね」
 夢子は湯呑を脇に置き、ポケットから小さなデジタルカメラを取り出しシャッターを切った。空を向いていたが何を撮ったのか分からない。
 ずっと前に、どういう基準でボタンを押すのかと訊いたら、基準なんてないわ、まばたきだもの、と静かに返された。
「わたしね、本当に新田くんが欲しかったの。最低でも新田くんの子供を産みたかったの」
「知ってるよ」
 答えてから、ああ、半分嘘をついたと気付いた。
 知っていたのではない。途中で知ったのだ。
 レンズがうなる。フラッシュが光る。柏木夢子の心が動いている。
「侑志くん、いい子だけどとても普通ね。美映ちゃんがかわいがって育てたの、よく分かる」
「そうだな。あいつは新田の息子にしては出来すぎてるよ。いかにも藤谷の息子って感じだ」
 自分がしゃべっているのに、何の話をしているのかよく分からなくなる。
 カメラの音と、変わらない夜空が、十七の頃に空気を戻していく。
「美映ちゃんが好きになるのって、いつもクズみたいな男の子なの。外見しか見てない連中。そのくせ、綺麗で、頭もよくて、気が強くって身持ちもかたい美映ちゃんより、わたしみたいな手頃な女で手を打とうってせこい男ばかり」
「だからって全部とっちまうこたなかっただろ」
「ダメよ。美映ちゃんを食いものにする男はわたし絶対に許さないんだから。だから桜原くんのことだって諦めさせてあげたんだから」
「そら仕方ねぇな。俺も相当なクズだ」
 夢子は否定しない。肯定もしないでまた同じ名を出す。
「新田くんだけは、わたしが先だったのに。わたしが先に好きになったのに」
 それはこっちもだ。新田が藤谷に一目惚れなどしなければ、自覚もしないで済んだのに。
 太陽は肉眼で、夢子がしきりに写した空を見上げた。
 新田総志と藤谷美映子は、きっと自分たちが何もしなくとも落ち着くべきところに落ち着いて、幸せに生きていたはずだ。それを認められずに、二人の未来に関わったと言い張りたい弱さも、太陽には解るような気がする。
「夢子。今、少しは自由か」
 振り返り、夢子は値踏みするように夫のはずの男を眺めた。
 高校を出るなり、まだ婚姻関係にもないこの女を家に住まわせたいと申し出たとき、父が抱いていたのは全くの同情だったろう。父が他界して、夢子と籍を入れて、朔夜と皓汰が産まれても、太陽がこの女に抱く感情は一向憐れみの域を出ない。
 冬の日の、凍えるような教室で、帰る家が欲しいと泣いた少女に手を差しのべたときから。
「俺はお前に、帰る家をやれたか」
 清潔な寝床を。充分な食べ物を。娘を犯さない父親を。妻を殴らない夫を。親に壊されなかった子供たちを。
 俺が手を尽くしたものは、ひとつでもお前を満たせたか。
 夢子の口唇が作り笑いに歪む。
「ごめんね」
 ごめんね、桜原くん。
 太陽は左手をのばして夢子の髪を撫でた。拍子に湯呑が倒れ、紅茶が地面を濡らしていく。
「いいよ」
 結局もらってばかりだった俺なんかに、赦されようとしなくていい。
 二十年ぶりに見た涙を胸に抱いて、桜原太陽は静かに目を閉じた。
「今までありがとう。柏木」

「ええ、わざわざありがとう。おやすみなさい」
 美映子は固定電話の受話器を元に戻した。
 十時十二分。四十近い男が無事に帰宅しているか確認してくれるなんて、相変わらず桜原太陽は総志に対してだけ過保護だ。
 ため息をついて、後ろからしがみついている本人の腕を撫でた。
「ほーら、くっつくのはいいけど、あんまり強くされると動けないでしょ」
 総志は首を振るばかりで全く離れようとしない。普段から甘ったれのお坊ちゃんではあるが、今日はさすがに度が過ぎている。
 どれだけ深酒したのかしら、と美映子はくっつき虫を背負ったまま歩き出した。
「お夜食作るけど、食べる? お夕飯早かったし、そろそろ侑ちゃんがお腹空かせる頃なのよ」
「サンドウィッチなら」
「わかりました。まずお座りになってね、旦那様」
 道具と材料を一式ダイニングテーブルに運んだ。
 まな板、パン切りナイフ、食パン、マーガリン、ハム、チーズ、ママレード。
 テーブルに突っ伏した総志の指が、ママレードジャムの小瓶を揺らす。
「これ、常備してくれてるの、僕のためだと思ってた」
「え、あなたのためだけど」
 侑志は甘いものが苦手だし、美映子はジャムパンが苦手だ。ママレードサンドを食べるのは総志だけなのに、何を言っているのだろうか。
 小瓶が弱い音を立てて倒れ、のろのろ転がっていく。
「侑志が言ってたよ。ママはジャムを紅茶に入れてるって」
「そうでもしないと減らないんだもの」
 美映子はジャムの瓶を受け止めて縦に戻した。パンに塗る量なんてたかが知れている。普通の紅茶に飽きたとき、ゆず茶のようにして飲んでいるのだ。
 天板に投げ出された大きな手が空気を強く握り込む。
「だって、その飲み方……桜原のだ」
 そういうことか、と合点がいった。あのときばかりでなく、桜原太陽はいつも砂糖を探すことなく乗り切っていたらしい。
 美映子はパンの耳を切り落とす。固さの違う部分を残しておくと、切ったとき見た目が悪くなる。
「一度だけお宅にお邪魔したことがあるわ。ひどい夕立の日。歩いてたら、お前それで電車乗るつもりかって引っ張られて」
「それ、って?」
「傘を持ってなくて。夏服だったから、まぁ、はっきり言っちゃうと透けてたのね。でも乗車時間も大したことないし、いいかなって。むしろ桜原君でもそういうの慌てるんだって意外だったかな」
「美映子さんは意外とそういうところ潔いよね……」
 総志が下を向こうとした拍子に眼鏡のフレームがかつんと鳴った。美映子は調理を中断して眼鏡を外してやる。
 学生時代と似た太い黒縁。何本か見立ててあげたのに、やっぱりこれが気に入りのようだ。内側についた水滴の跡を拭って、そっと置く。
「シャツを借りて、一杯だけ紅茶をごちそうになったの。お母様の形見の傘を渡されて、次の朝に返した」
「それだけ?」
「それだけ。ご期待に添えなくて申し訳ないわね」
 抗菌のウェットティッシュで手を拭いて、調理を再開した。
 やわらかくなったマーガリンを白いパンに広げる。総志しか好まないママレードを重ねていく。
「柏木と桜原君が付き合うって聞いたとき、ショックじゃなかったと言えば嘘だけど、正直ほっとしたの。もう新田君のこと好きになってもいいんだって思った」
「どうして?」
 総志はゆっくりと身を起こした。そのくせ視線は落としたままだ。
 質問ばかりの知りたがりに、美映子はまたひとつ答えを返していく。
「柏木があなたのこと好きだったから。あなたと仲良くするの、当てつけみたいでいやだなって。気を抜いたらすぐ好きになっちゃうぐらい、あなた優しかったから」
 なんて幼くて傲慢な理由だろうと今は思う。当時はそれが友人への思いやりだと本気で信じていた。
 総志は両手で顔を覆った。泣いているのか照れているのか、とにかく声が震えている。
「僕がストレートに好意を示しすぎるせいだと思ってた。本当は桜原のことが好きだったのに、僕で手を打ってくれたのかと」
「ずるかったのは認める。でも、あなたを選んだ理由と桜原君は関係ないの。あなたに恋をしてから、私はあなたのことだけ想って生きてきた。これからもそうして生きていく。どうしてだか解る?」
 答えはない。
 美映子は二枚のパンにナイフを載せる。崩れないように、自重で通っていくのを待つ。三角になったサンドウィッチを、皿の上に並べて置いた。元は一つだったものを寄り添わせて、総志の側に向けた。
「簡単でしょう。私はあなたの妻だから」
 総志がようやく視線をくれた。
 丸くて少し離れた目。黙っているだけで不機嫌を疑われる美映子とは違って、人に安心感を与える目だ。
「僕は、いい夫ではなかったよ」
 皿の縁をなぞる節ばった左手。美映子はその薬指を右手でくすぐる。
「私にとっては世界一のひとよ」
「でも、僕は柏木さんと」
「それ、私と付き合う前でしょ。さかのぼっていちいち責めないわよ」
「ついこの間も……」
「いいわよ。あの子が噛み付いたぐらいで大騒ぎしてたら、私たちとっくにどうにかなってるじゃないの」
 総志は目を白黒させていた。
 美映子にとって自明のことが、どうやら彼にはそうではなくて――美映子が気に留めていないから言わなかったことを、彼は無知につけ込んだ裏切りだと思い詰めていた。
 呆れもする。愚かだと感じる。そんなことのために長い間苦しんで。
「どうしてほしいの? どうしたらあなたは、安心できるの?」
「わからない。でもそばにいてほしいんだ。これからもずっと。君を失うことが、僕は死ぬことよりもこわい」
 そのくせ、歯の浮くような台詞は目を見てはっきりと告げる。
 正直で馬鹿なひとだ。
「その誓いなら、十五年前にもしたじゃない」
 涙がこぼれてしまいそうで瞬きも我慢した。緊張に湿った彼の手を両手で包んで微笑んだ。
「これからは、もっとたくさんのことを話しましょうね。だからあなたも、もっと自分の伴侶を信じて。同じ気持ちだから、同じ指輪をしているんだって、いつも覚えていて」
 指輪はもう交換してあるから、代わりに眼鏡を掛けてやった。ありがとう、と総志ははにかんだ。いつまでも高校生のときのままの笑顔。
 そして初対面で恋心を告げてきたときより深い声で、もっと大きな言葉をくれた。
「ありがとう。これからも一生愛しているよ、美映子さん」
「私もよ。総志さん」
 食べて、とサンドウィッチを勧めた。総志は頷いたが手を出さず、代わりに顎を突き出す。
 本当に甘えん坊なんだから、と口許までパンを運んでやる。
「あ、父さんおかえ……またいちゃついてんの」
 侑志がリビングに入ってきて眉をひそめた。言われ慣れた総志は動じないし、美映子もいい加減うぶな反応はできない。
「侑ちゃんお腹空いたんでしょ。ハムサンド作りましょうか」
「んー、別にいい。自分でやる」
 父よりよほどクールな息子は、テーブルまで来て袋から食パンを一枚出した。
「あのさぁ、近くに立ってるだけで酒くせぇんだけど、どんだけ飲んだの」
「侑ちゃんパンくずこぼれるから座ってやって」
「アルコールの分解速いっていうの、身体に害がないって意味じゃないと思うよ」
「侑ちゃんお皿使って。散らかるでしょ」
「侑志のお説教、年々美映子さんに似てくるよね……」
 総志はママレードサンドの皿をひきずって抱え込んだ。くどいようだが隠さなくとも彼以外食べない。
 侑志は父の隣に腰を下ろし、耳がついたままの食パンにスライスハムを直接載せる。
「どうせ監督のペースにつられてガンガンいっちゃったんだろうけどさぁ」
「違う。弱かった。桜原。カエル並みのゲコ」
 両肘をついた行儀の悪い姿勢で、総志はサンドウィッチを角からかじった。ダジャレの意味もわかっていない息子の横で、ハムスターみたいに頬を膨らませる。
「中ジョッキ半分で真っ赤になってテーブルに頭ぶつけるし。結局、桜原はずっと食べてて僕がずっと飲んでた」
「大人ってなんでそんなバカなの?」
 男子高校生の悪意ない一言で、総志も食卓に額を押し付けた。
 息子は食パンを切らずに折り曲げ、三口で食べきってしまう。
「とにかく羽目外しすぎないでよ。いくら楽しかったからって」
「え?」
 総志が間抜けな顔をしたものだから、腰を浮かせた侑志まで似たような顔で父を見た。
「楽しかったんじゃないの?」
「うん。うん、たぶん」
「楽しくないならそんな飲むなよ。しらねーけど」
 侑志はぶっきらぼうに言い捨ててリビングを出ていく。美映子は余ったパンの耳を、何もつけずにかじる。
「あのね、最近気付いたんだけど」
 あなたはあの子を私に似ているとしきりに言うけれど。それは多分事実だけれど。
「あの子、眼鏡かけると総志さんにそっくりなの」
 総志はばねじかけの人形みたいにいきなり立ち上がった。椅子を蹴飛ばして、息子の名前を何度も呼ばわりながら廊下に飛び出していく。
「は? なに? なんだよ!」
 侑志の抗議の声はほとんど悲鳴だった。
 ゆーし! と叫ぶ声は愛してると同義だった。
「だから何なんだよ!」
 母親はそのやり取りを聞きながら、笑ってパンの耳にママレードをつける。
 久々に食べたら悪くない。今度から紅茶に入れなくても消費できそうだ。