12話 Thirty Pieces of Sunset - 5/10

三十枚分のささやかな幸福

「つっ、かれ、たぁ」
 侑志はリビングのソファに倒れ込む。エアコンで冷えたクッションが気持ちいい。
「今日は部活なかったんでしょう。どこか行ったの?」
 母が台所から出てくる気配がする。侑志は目を閉じたまま答える。
「学校行った後、馬淵神社まで行ってた」
「え、あのすっごく上の方にある神社? 何のために?」
「俺もだんだん分からなくなった」
 あの後、相模は『予備校の夏期講習がある』と帰ってしまったし、井沢は……なんだかもう侑志たちはいるだけお邪魔としか思えなかったので、現地解散した。
 いろいろな意味で一人では帰らせられない桜原を家まで送って、侑志もやっと帰宅したところだ。
「侑ちゃん、今日はご飯ママと二人で早めでもいい? パパ、今日はお友達と飲んでくるんですって」
「めずらしいね。父さんが母さんより飲み会優先するって」
 侑志はクッションを抱えて起き上がる。母は眉をひそめて小さく舌を出す。
「桜原君。いやよね、いつも総志さんのこと独り占めにするの」
「母さんは二十年だか独り占めしたんだからいいじゃん」
「だって総志さん、私には何にも話してくれないのに、桜原君は一回お酒飲むだけで全部聞き出せちゃうんでしょう、きっと。そんなのずるいじゃない」
 母はエプロンのポケットを引っ張ってむくれた。侑志は聞かなかったことにした。
 遠慮だかプライドだか知らないが、父はいい加減そういうつまらないものを捨てて母に悩みを相談すべきだと思う。被害に遭うのは息子なのだから。
「そういえば侑ちゃん」
 不意に母の口調が親のものに戻った。壁掛けカレンダーの土曜日を人差し指で叩く。
「週末、町内会のお祭やるんですって。近所の公園」
「どこ? 遊歩道の方の公園?」
「ううん、そっちじゃなくて。あの酒屋さんのとこぐーっと行った」
「ああ、バスケのゴールとかあるとこ」
「そうそう」
 いつもの練習に使っている方ではなく、朔夜とキャッチボールするのに出かけていった治安の悪い方か。
「こっち越してきてから、そういうの初めてでしょう? お友達誘って行ってきたら」
「え、別にいいけど」
 断りかけて、桜原の顔が浮かんだ。少しは気晴らしになるだろうか。朔夜さんも来るかなと考えかけ、首を振って下心を追い出した。
「着替えてくる」
「急がなくていいわよ」
 母は訳知り顔で笑った。そういうところが、母だってずるいと思う。
『もしもーし。忘れ物? また何か問題?』
 電話の向こうの桜原は明らかにあくびを噛み殺していた。
 全然平気そうだ。気を遣う必要もないのかもしれないが、電話してしまった以上は用件を言わなければならない。
「あのさ」
 切り出しかけたところで、コータ! と大きな声が聞こえた。朔夜だ。電話だれ、と怒鳴っているのがはっきり聞こえる。
『ゆーし!』
 桜原皓汰が急に侑志の名を叫んだ。呼びかけたのではなく姉に答えたのだと分かって、余計に頬が熱くなった。
 ほんとに、あの家では俺、『侑志』なんだ。
『ごめん新田、なんだっけ』
「いや、あの」
 なんだっけ。大したことではなかった気がする。そんなことより。
「つ、かいわける、の、めんどくさくね? ゆーしで、いいよ、別に外でも」
『通話口押さえるの忘れてたよね』
 桜原は諦めたように言った。
『これさ、俺もコータでいいよって言う流れ?』
「そうだよ! 両親が監督のこと名字で呼ぶから、今うちの中すげぇややこしいし」
『うちもそうなんだけど。何でキレてんの』
 侑志にだって分からない、そんなの。先輩たちだってみんなそうしているのに、同い年の同性を呼び捨てることの何がこんなに恥ずかしいのだろう。
「今週末の祭、こ、皓汰とか誘って行ったらどうだって、母親がっ」
『じゃあ、朔夜とか二年生にも声かける? ……侑志さえよければ』
 きっと全部、いまさらなせいだ。
 皓汰が二年生、侑志が一年生に連絡するということで話がついた。電話しただけなのに汗だくになってしまった。
 炎天下、地獄の坂を上って神社に行ったみたいに。