12話 Thirty Pieces of Sunset - 4/10

フェンスのこちら側の君へ

 傾斜のきつい坂を一回、二回、三回折れたところにやっと駐車場があって、そこからまた石段が始まる。馬淵神社の境内は、普通のビルの九階か十階ぐらいの高さにある。
 井沢徹平は本殿の裏手に座って、フェンスの向こうに広がる緑を眺めていた。二十三区内とは思えないほど自然しかない。見ていると、全てのしがらみから開放される気がする。
「井沢。何やってるんだ」
 突然降ってきた覚えのある声。振り向くと相模(さがみ)雅伸(まさのぶ)が立っていた。相模は辺りを見回しながら、トートバッグに入れていた手を出して額の汗を拭う。
「ここ、日向かと思ったら木陰になってるのか。穴場だな」
「ノブさん、何でここに」
「何でって、ここ俺の地元だよ」
 何を言っているんだという顔で返されて、そうですか、と徹平は尻すぼみに答えた。そういえば相模は新田と同じ城羽北(しろばきた)中の出身だと聞いた。この辺りは城羽地域と馬淵地域の境だ。
 相模は断りも入れず近くに腰を下ろした。もとより徹平に拒否権もなかった。
 徹平は相模雅伸を、部活の先輩の一人以上には知らない。相模にとってもそうだろう。目立ってひいきをする質でもなかったが、特別な後輩はやはり桜原姉弟と新田だけに見えた。
 沈黙を和らげるように風が吹く。緑の柵越しの木々が幾枚もの葉を手放す。
 相模は中空に手を伸ばし、ゆっくりと指を畳んだ。何をつかんだのか徹平には想像がつかない。
「妙な気持ちだな。始まってなかったものが終わるっていうのは」
 言葉の意味が分からなくて、徹平も同じように風を握りしめた。汗ばんだ手のひらが少し乾いた。
 相模は小さく笑って、座ったまま伸びをする。
「知ってるか。タカコーの野球部っていうのは、軟式野球の学校代表でも、勝ち進みたい部でもないんだよ。言うなら『桜原部』ってとこだな」
「桜原部?」
「そう。桜原監督のすがりついてる夢に、便乗してる集団」
 相模は徹平を見ていない。遠い緑を見遣って、眩しそうに目を細める。
「気を紛らわすのに、野球はちょうどよかったんだ。遅く帰る口実がほしかっただけだよ。俺も、森貞(もりさだ)も」
 徹平は気付かれないよう口唇を噛む。自分だけじゃなくてよかったなんて、この期に及んで浅ましすぎる。
 桜原と新田に誘われたとき、正直に言ってしまえばちょうどいいと思った。野球なら道具も心得も少しはある。さほど新しい物を買わなくとも、新しいことを覚えなくとも、それなりに『普通の生徒』になれるだろうと。
 自分の貯金を切り崩しても、あのワンルームにまっすぐ帰るより百倍マシだと避難所代わりにした。その汚さを覚られたくなくて一生懸命なふりをした。
「井沢はこの神社、よく来るのか?」
 相模はこちらに視線を転じて問いかける。徹平は口ごもったが、相模に頓着した様子はない。話を続けるために訊いただけらしかった。
 相模の人差し指が西側を示す。
「俺はあっちによく立ってたよ。ときどき、青い縁の学ランの子が参拝に来るのを見てた。今年の春頃から見なくなったな」
 あ、と細い声が漏れた。
 馬淵学院の制服だ。中学時代、学校帰りによく寄った。見られていたのか。
 相模の指はまだ西側のフェンスを差していた。
「彼が本殿に礼をして帰っても、俺はずっとあそこに立ってた。夕陽で街中が真っ赤に染まるのをじっと見つめてさ」
「きれいでしたか」
 我ながら馬鹿げた質問だ。相模は嘲りのにじんだ笑みを浮かべたが、見下した対象は徹平ではないようだった。
「綺麗かどうかなんて考えたことないな。あのフェンスを越えたら、自分も同じ色になれるだろうかって、そればかり考えてた」
 あまりに落ち着いた様子で告げられたので、一瞬意味が解らなかった。
 徹平が眺めていた林側の斜面と違って、西側には何もない。ビル九階分の高さから、下の道路まで一直線だ。身体を染める赤は夕陽の色では済まない。信心を失った徹平にとっても、その行為はとても罪深く恐ろしいものだった。
「それで、どうしたんですか」
「どうもこうもこのとおりだよ。空想してるうちに陽が沈んで、引き返して。その繰り返し」
 相模がおもむろに腰を上げる。フェンスの西側に歩いていく。徹平もたまらず追いかけた。
「生きていればいつかいいことがある、っていうの、俺は嫌いなんだ。時期も大きさも不確かな『いつか』に、今の苦痛を耐えるだけの価値があるかなんて誰にも分からないだろう」
 年上の少年の手がフェンスをつかむ。その勢いと重い音に徹平の身はすくんでしまう。口だけがただ切実な疑問を投げかけた。
「ノブさんも、生まれてこなければよかったと思いますか」
 その方が世界は、幸福に回っていたと思いますか。
 誰にも証明のできない疑問。雲にも手が届きそうな場所で何度も青空に突き立てた。答えがないこともずっと知っていたのに。
 どうだろうなと相模は笑った。
 真昼の白い光に照らされて、震えた声で笑っていた。
「でも、朔夜が『ありがとう』と言ってくれた。俺たちの先輩が。あの子が、謝るなと言ってくれた。それだけで、三年間ここを越えられなかった弱さも無意味じゃなかったと思えた。こんなものにすがりながら、無様にこの内側に居続けたことは」
 そう言って相模が鞄から覗かせたのは、白い紙袋。『精神診療科』と書かれた薬袋だった。かさかさと枯れ葉を踏むような音を立ててバッグの中に戻っていく。
 相模の指がそっと離れて、緑の金網が優しく鳴った。
「井沢。お前が生まれてきてよかったかどうか俺にはわからない。けどきっとお前も、朔夜たちと同じフェンスの中にいられるよ。もし幸せだと思えなくても、きっと意味のあるかたちで」
「相模さん」
 徹平は真夏の陽光に痛む目をこすって、外向けではなく心の中で呼んでいた名を口にした。
「オレ、もっと早くに、相模さんとこうやって話したかったです」
「バカ。現役の間に、こんなカッコ悪いとこ後輩に見せられるか」
 相模が歯を見せて笑うのを初めて見た気がした。この人の後を継いでいくのだと自覚した。同じ四という数字を負っていくのだと。
「喉乾いたな。アイスでも食うか。買ってきてやるよ」
「坂のぼってる間に溶けちゃうじゃないすか。オレも行きます」
 徹平も自然と笑えた。
 相模はこの先、自身をそこまで追い詰める問題について語ることはないだろうし、徹平も尋ねるつもりはない。
 フェンスを越えない。選択とも勇気とも呼べない弱さを抱えて、こちら側を生きていくのは自分一人ではないのだ。
 うだるような暑さはまさしくアイス日和だった。

「ノブさんもやっぱフタのとこのやつ食うんすね」
「食うよ」
「よかったー。カップアイスのフタの裏とかも」
「それはやらない」
「えー」
 拝殿側の木陰で、並んでチューブアイスをすする。人目を避けるつもりがないなら、こちらの方が視界が広く取れる。
 特に見るべきものもない街。古い住宅がひしめき合い、川沿いにはいくつもの建てかけの高層マンション。すぐそこに工業地域。高架の上を通る本数の少ない電車。駅前の半端な繁華街。つまらない街だった。このつまらない街こそが、慣れ親しんだ、懐かしい徹平の故郷だった。
 石段の周囲が騒がしくなり、二の鳥居から知った顔が現れる。新田侑志だ。神様になのか先輩になのか、律儀に一礼してから入ってきた。
「井沢、お前、こんなとこで何やってんだ」
「新田こそ何でこんなとこにいんの?」
「ノブさんから電話もらって、お前のこと迎えに来たんだよ」
 相模を振り返ると、涼しい顔でアイスの空容器を片付けていた。最初に鞄をいじっていたのはどうやらそういうことらしい。話を繋いだり、坂を下りたり上ったり。徹平はまんまと足止めされていたのだ。
「あー、井沢君アイス食べてる。いいな僕も買えばよかった」
「なんだ、思ったより顔色いいな。もっと死にそうかと思ったのに」
「無理ぃ、坂多いのは高葉だけでじゅうぶんだよぉ」
 永田も富島も桜原もいる。遅れて二人の女生徒が姿を見せる。
 徹平は思わず立ち上がった。
「茗香」
 歩き出しざま、新田がリレーのバトンみたいにさっとアイスを預かってくれた。こういうことをとっさにやる辺りが憎たらしいのだが、今は茗香が先だ。
 茗香は琉千花に付き添われて石段を上ってきた。体力のない茗香が、こんな長い傾斜を休憩も取らずになんて無茶だ。案の定、鳥居の脇を抜けるなり座り込んでしまった。
「茗香!」
「来ないで!」
 駆け寄ろうとして怒鳴られた。茗香は両膝を折ったまま、握った両手を地に押し付けて、来ないでと繰り返した。
「徹平くんは、ずるいよ。わたしが弱く見えるときだけ、そばに来ようとするなんて、ずるい」
 そう言われたら動けない。茗香の指摘は正しかった。
 きっと泣いているのに。目の前で震えているのに、何もできない。
 何も、できないのだろうか。
「茗香。そのままでいいから、聞いて」
 徹平もその場に膝をついた。
 同じ高さで、同じ地面で茗香の顔を見つめる。
「オレは多分、野球がそんなに好きなわけじゃない。けどこのチームで三年間やっていきたいって思うんだ。こいつらのこと好きなのは、多分じゃなくて本当だと思うから」
 茗香が視線を上げる。目が合う。
 泣いてはいなかった。徹平も、茗香も。
「徹平くん、同じことおじいさまの前でも、言える?」
「言える。言うよ。誰の前でだって、椎弥にだって」
 手を伸ばすけれど、届かない。茗香との距離は三メートル以上ある。
 今触れたい気持ちは何だろう。
 同情? 色情? わからない。
 わからずに、頬にかかる黒髪を除ける真似をした。
「ありがとう、茗香。オレが意気地なしなせいでいっぱい傷つけたのに、何度も会いに来てくれてありがとう。ずっとオレを助けようとしてくれてありがとう」
 ただの風が、つまらない街が、君がいるだけで鮮やかに色づいていく。あの重い雨の日も、君の傘だけが優しい色で咲いていた。
 頭の中が黒く塗り潰されていっても、君と奏でた透明な音だけは消えなかった。
 届かなくても、触れられなくても、伝えていいかな。
「誰の前でだって言える。オレは、茗香に恥ずかしくない自分になりたい。茗香のことが、誰よりも好きだから」
 茗香の睫毛で雫が弾けた。何かを言う前に白いセーラー服が動いて、越えられないはずだった壁を突き破って、茗香は徹平の胸に飛び込んできた。花の香りしかしないと思っていた肌から、夏らしい汗の匂いがした。
「しいちゃんも、徹平くんも、わたしを子供扱いしすぎなの」
 首筋にしがみつく身体は、兄たちに追いつけないと泣いていた少女のものではなかった。華奢だけれど充分に大人の質量だった。
「傷つくかどうか、恥ずかしくないかどうか、わたしはもう自分で決められる」
「そっか。うん、そうだよな」
 触れていいかどうか決めるのも、徹平ではないのだ。
 腕を回しても茗香は拒まなかった。ばかりか徹平を抱く腕に力がこもった。
「ごめん、茗香。大好きだよ」
 不意に、生まれてきてもよかったのだと思えた。
 産み落とされた時期も育てられ方も誤りだったのかもしれない。それでも父と母を、自分の存在を赦したい。こんなにも必要としてくれるひとがいるなら。
「新田たちも、ありがと。来てくれて」
「ん」
 新田は不機嫌な顔で、もう溶けてしまった徹平の――徹平が相模におごってもらったアイスを勝手に飲み干した。
 夏が終わって、まだ秋ではなくて。以前を知るひとがいて、今を認めてくれた人がいて、これからを過ごしたいと願う人たちがいる。
 いい季節だな、と徹平は空を仰ぐ。
 頭上には一生ものの青が広がっていた。