3話 It’s All Right - 4/6

俊足のライオン

 五月三日。祝日だというのに、高葉ヶ丘高校の校舎は生徒でにぎわっている。
 侑志たちのいるアリーナも、B組の一年から三年まで集まって騒がしい。
「自由参加の名の下に強化された徴兵システム。全く巧妙な手口だよね、いっそ素直に義務だと言えばいいのに薄汚い」
 桜原は壁に向かって低い声でぶつぶつと何か呟いていた。角で小さくなっているのは、中央で暴れているよりかえって目立つ。
 桜原は運動部にいる割に、身体を動かすことが得意ではないらしい。体育の授業も憂鬱そうにしている。そもそも性格が体育会系からほど遠い。野球にしても、高葉ヶ丘のあの野球部でなければとても在籍できないだろう。
「そんなに嫌か? 体育祭」
「嫌。小学校のときなんか運動会が嫌すぎて帯状疱疹出た」
 筋金入りだった。侑志は桜原のそばで頭をかく。
 せめて桜原がこうして圧力に屈した日だけでも、一緒に参加してやろうと思う。侑志は集団行動も体育会系のノリも、好きではないが嫌いでもないから。
 明るい話題はないかと周囲を見回すと、ちょうど二年生と目が合った。金髪の少年が、こちらに気付いて大きく手を振っている。
「ミツさんだ」
 桜原はにわかに顔を輝かせて立ち上がった。
 逆立てた金髪を揺らし、ポケットに手を入れて歩み寄ってくるのは、三石(みついし)潔(きよ)充(みつ)。普段は裾を出したワイシャツに黒の詰襟を羽織り、だぼついたズボンに重そうなウォレットチェーンを提げている。有体に言うと悪そうな見た目だ。
 今日は蛍光絵の具をぶちまけたようなTシャツに、学年指定の青ジャージだ。
「何やってんの? 皓汰と――吉田?」
「おはようございます、三石先輩。新田です」
 侑志は几帳面に礼をした。三石は、まずったという顔をする。
「ごめん。新田コーキ君だっけ」
「ユウシです」
「新田ユウシ、うん」
 覚えた、覚えた、と頷いているが、似たようなやり取りももう三回目だ。侑志はあと五回覚悟している。
 髪のせいでのっぽに見えるものの、まともに並ぶと思ったほど上背はなかった。桜原よりはいくらか高い。額が丸出しの髪型はライオンを思い出させる。
「どしたん皓汰、真っ白に燃えつきたみたいになってんよ」
「ミツさん。俺、ダンスが破滅的にできないんです」
 桜原は肩を落として現状を嘆いた。よしよし、と三石は後輩の頭を気安く撫でる。
「だいじょぶだいじょぶ。オレもう覚えってっから、一緒にやろーぜ」
 なんでも上級生は、四月のうちにダンスパフォーマンスの振り付けを叩き込まれるらしい。桜原は地獄を見たような顔をしていたが今はひとまず、集合がかかるまで二人でレッスンを受けることにした。
 五・六年前に流行ったダンスナンバーを口ずさむ三石。音程もリズムも狂いなく聴きやすい。彼に照れがないので、侑志と、多分桜原も、変な自意識に邪魔されず練習ができる。
 歌はやがてBメロにさしかかる。桜原が必ず失敗する箇所だ。今回も案の定引っかかる。
 三石は歌を止め、右拳を左手の中に納めた。真面目な顔で一言放つ。
「コータ。二塁牽制」
 投げる真似。桜原が捕る真似をして床に手をつく。そうそれ、と三石は相好を崩す。
「次、揃えんよ」
 もう一度歌が始まって、三石が送球の動作をして、サビ直前の一拍で侑志と桜原のタイミングはぴったり合った。何度やり直してもワンテンポ遅れたのに。
「できたじゃん、イエーイ」
 三石が両手を挙げて、桜原はこそばゆそうにハイタッチに応じた。そのまま侑志の方にも向かってくる。
「町田もー」
「すみません新田です」
「あっごめん」
 侑志は苦笑して、遠慮しながら先輩と手を触れ合わせた。
 いい人なのだと思う。記憶力が心許ないだけで。

 応援合戦の練習が終わって、個別競技の練習のためにグラウンドに移った。半泣きの桜原を、あとで迎えに来るからと騎馬戦の集まりまで送り届けて、侑志は自分が参加するクラス対抗リレーの集団に合流した。
 ここにもまた三石がいる。
「よし、じゃない、新田!」
「はい新田です」
 周りの選手たちに怪訝な顔をされたが、直される前に思い出せた三石はご満悦だった。この調子ならそろそろ覚えてもらえそうだ。
「新田新田。六人いて、補欠二人だから、四人選ぶって」
「え? っと、選ばれた六人の中から、さらに四人に絞って、残りの二人は補欠ってことでいいですか?」
「そうそうそれそれ」
 周りの人間は疲れないのだろうか。侑志は一対一で話し始めて一分だが既に疲れかけている。
「五〇メートルで競争して決めんべってことんなったから、走んぜ」
「はい」
 今のは分かった。
 さらに話を聞くと二枠はもう三年生で確定しているそうで、一・二年で残る枠を争う。別の二年生が第一、三石が第二、侑志は第三、もう一人の一年生が第四レーン――といってもラインなど引いていないので、便宜上ということだが――に、入る。
「がんばろうな」
 三石は跳ねるように屈伸をしている。いつでも楽しそうな人だ。
「よーい」
 三年生の声がかかり、侑志は慌てて両手の先を人工芝についた。スタートの合図で足を踏み出す。いや、踏み出そうとした瞬間に目を見開いた。視界の左側に映った光景に心を乱される。
 何という、瞬発力。
「フライング、フライング!」
「あっすんませっ」
 三石はばつが悪そうに笑っている。正直冷や汗が流れた。
 仕切り直して選抜レースが始まる。今度はロケットスタートに動揺することはなかった。長身の恩恵もあって、侑志は足に少し自信がある。今の走りも決して悪くはないはずだ。だが左隣に並べない。せめて差を縮めたいのに一足分もその背に追いつけない。
 届かない。苦しい。たった五〇メートルが――長い!
「……っついし、さん、速いっスね」
 ゴールラインを越し、侑志は失速しながらフェンス際にたどりついた。三石は組んだ両手を前に突き出す。
「だろォ?」
 笑ったのに合わせて、長い八重歯が顔を覗かせる。賛辞を肯定されても全く嫌味がない。侑志は緑色に塗られた壁に頬を押しつけた。日陰のコンクリートは冷たくて気持ちいい。
 風が吹く。変な形の雲が流れている。三石は侑志の隣に胡坐をかき、五月晴れの青を見上げた。
「だからオレ、軟式にした」
 どこから繋がっているのか不明な接続詞が来た。
 三石がこちらを見て微笑む。白目がちな目が細まる。
「軟球の方がさ、飛ばないじゃん。それで間に合う方がカッコいいなって思ったわけ」
「はぁ」
 分かるような分からないような理屈だ。
 正選手は文句なしに一着の三石、どうにか二着の侑志に決まった。走順を決めてから解散し、侑志は二〇〇メートル走の練習を終えてから桜原を拾いに行った。
 桜原は予想より元気だった。黙って馬をやっている分には、他人に怒られることも少ないので気楽らしい。
 午後はクラスTシャツを云々するとかで、各教室に集められた。机も椅子も前方に寄せられてあり、直接座る床はどうもよそよそしい。
「ケツ冷てぇ」
「繊細だね新田は。椅子持ってくれば?」
「面倒くせぇ」
「その割に怠惰だね」
 いろいろ体勢を変えてみたが、どうもしっくり来ず、結局あぐらで昼食をとることにした。桜原は体育座りの膝の上で弁当箱を押さえている。引っくり返さなければいいのだが。
「そういえばさ。俺さっき、リレーの練習で三石先輩と一緒だったん――」
 侑志が言いかけたとき、すぐそこの扉が勢いよく開いた。三石が真顔で立っていた。わけもなく脂汗がにじんでくる。
 え、俺、なんかしたっけ?
 今も別に悪口とか言ってないし、えっ、なに?
 三石は侑志を見下ろして眉をひそめた。
「新田? と、皓汰?」
「ども」
 桜原は箸を持ったまま右手を軽く挙げた。
「ミツさん。ここ五階ですよ」
「ごかい?」
 訝しげに教室を見回し、ごかい? と三石は繰り返した。桜原が頷く。三石は一度引っ込んで入り口のプレートを見てから、再び顔を出して素っ頓狂な声を上げた。
「五階じゃん!」
「五階ですけど!」
 侑志も思わず大声を出してしまった。三石はしばし固まってから、しょんぼりと肩を落とした。
「まちがえちゃった……」
 侑志は断言を避けてきたことをついに認めざるを得なくなった。
 薄々気づいてたけど、この人やっぱちょっとバカだ。
 桜原は慣れっこの様子で弁当を食べ続けている。
「ミツさん、どうせだからここで食べてきません?」
「そうするわぁ。ああ、五階かぁ。五階……間違えたぁ」
 まだ立ち直り切れない様子で、三石は桜原と侑志の向かいに腰を下ろした。
 コンビニの袋からねぎ塩カルビ丼が出てくる。調達の帰りに、三月までの癖で四階を行き過ぎてしまったのだろう。
 三石は割り箸をくわえて二つに割いた。
「とこっで新田はさー、ドーテー?」
「は?」
 侑志は声を裏返らせた。
 道程? 高村光太郎? 『僕の前に道はない』? 一体何の、どうて……。
 三石の意図した変換ができた瞬間、侑志は弁当を落としそうになった。何かしら抗議したいのだが血液が頬に集まるばかりで声が出ない。
 三石と桜原は顔を見合わせている。
「ぽいな」
「ですね」
「これでドーテー率上がったな」
「七割ぐらいですかね」
「すみませんがお二方、昼飯時に教室でそういう話するのやめていただけませんか」
 侑志は低い声で二人を諌めた。何でよりによってソーセージ食ってるときにとは言わなかった。
 しかし十二人中(朔夜は含まれていないはずだ)、経験者三割とすると三人か四人ぐらいか。一人は八名川で確定だろうし、すると残る二人ほどは誰……いやいやいや、考えるな。
「随分ぐるぐるしておいでですわね、新田さんの奥さん」
「黙って弁当お食いあそばせ、桜原さんの奥さん」
 思わずキャラを合わせてしまった。発端の三石は顔色ひとつ変えず麦飯をかき込んでいる。
「新田の髪色いいなぁ、自分で染めてんの?」
 正直引っ張ってほしい話題ではなかったが、それにしても見事な流れの切りっぷりだ。
「これですか」
 侑志は自分の前髪に少し触れた。黒と焦茶が混じっている。食事中なのですぐにいじるのをやめた。
「よく言われるんですけどね。地毛なんですよ」
「え、ウソ。だってノブさんが中学んときは黒かったって」
「あ、それは――」
 どこの中学でもそうだろうが、城羽北中学校でも染髪は校則で禁止されている。
 侑志の髪は生まれつき明るめの色だ。同じ髪色の親と一緒に、あらかじめ学校側に事情を説明してあった。にも関わらず、教師には注意される。部活で試合に行っても相手監督に怒られる。通りすがりの知らない大人に嫌味を言われる。小学生のときはさほど気にならなかったのに、世間は制服を着た茶髪にこうも厳しいのか、と思ったらほとほと嫌になった。親にも黙って染髪料を買ってきて黒くした。侑志の髪を見て、教師たちは満足そうにしていた。
 校則を守るより破る方が褒められる。校則はそれ自体が道徳なのではない、生徒を画一化して管理しやすくするための手段なのだ。鏡の中の見慣れない自分が教えてくれた。
「だから高校は、なるべく校則が緩いとこにしようと思って。タカコーって頭髪規定ほぼないじゃないですか、それで」
「言われてみれば、根元から茶色だね。受験終わってから伸びたんだ?」
 桜原が膝立ちになってつむじを覗き込んでくる。何となく恥ずかしいのでやめてほしい。三石も同じように侑志の髪を観察していたが、急に腰を落として目元を覆った。
「せ、先輩?」
「気軽に金髪とかにして、すみませんでした」
 声が震えている。まさか今ので泣いたのか? 侑志は弁当箱を持ったまま狼狽する。
「いやっ、学校がいいって言ってんだから、先輩の好きな色にしてていいんですよ。俺だって今は好きなようにしてんですから、ね?」
「ありがとう。新田ってすごいイイヤツ」
 三石は顔を上げた。やはり涙目で鼻声だった。侑志が助けを求めて桜原を見ると、嬉しそうに笑っていた。
「だから俺、ミツさんのこと好きなんだ」
「すげー分かるよ」
 昼休みが刻々と過ぎていく。もう一頑張りしたらまた練習。
 二日後には、この先輩たちと一緒に初めての試合だ。