3話 It’s All Right - 3/6

愛のかたちはそれぞれです

 五月一日、生徒総会当日。
 高葉ヶ丘高校には体育館という独立した建物がない。式の類は、体育棟地下の運動スペース――アリーナを使う。二フロア分の吹き抜けで狭苦しさはない。
 席はクラス単位でしか決まっておらず、その範囲で各々好きな椅子に座っていた。侑志は一年B組の区画の一番後ろに陣取り、桜原も隣に腰を下ろす。
「高校の総会っていかにも真面目そうだよなぁ。生徒でもこんなこと提案していいんだって議題結構あるし。うちの中学なんて、給食にチョココロネを出すか出さないかで十五分ぐらい議論してて、どーでもいいよって感じだった」
 侑志は事前資料を流し見た。予算だとか設備だとか難しいものばかりだ。桜原はパイプ椅子のきしみが気になるらしく、しきりに尻を置く位置を調整している。
「うちの学校、昔学校絡みの汚職事件がきっかけで、教職員と全校生徒の全面抗争起きたらしいんだよね。生徒がストとかして自治権認めさせたみたい。その名残ではっきりした意見も出やすいんじゃないかな」
「そんなことあったの? マジで? 桜原ってタカコーの歴史詳しすぎだろ」
「祖父の代から住んでますとね、いろいろ耳に入ってくるんですよ。ま、今の話は親父が生まれた頃とかだし、俺も新聞のスクラップで読んだぐらい」
 ようやくベストポジションを見つけたようで、桜原は満足げに腰を落ち着けた。
 普通、地元の学校の事件が新聞に載ったからといって、何十年もスクラップを取っておくものだろうか。世の中にはいろいろな人がいるようだから、中にはそういうもこともあるのか。
 侑志が首を捻っていると、桜原が壇上を指差した。
「にゃーさん来た」
 上手から八名川が顔を出した。昨日と同じブレザーだが、シャツの第一ボタンまできっちり留めている。眼鏡も加わって知的な印象だ。
 八名川は長机に左手をつき、右手で置き型マイクを調整した。
『間もなく開会いたします。皆様ご着席のうえ、お手元に資料をご用意ください。繰り返します、間もなく生徒総会が始まりますので、ご着席になってお待ちください』
 よく通る声で言い終えると、八名川は身を起こして眼鏡の位置を直した。それだけで上級生の一部から黄色い声が上がる。一年の女子もざわついていた。
 八名川は苦笑して袖に引っ込んでいく。
「なんか、天に二物も三物も与えられた人って感じだな」
 侑志は感心して呟いた。先週のミーティングでの手際も含め、ここまで格差が明らかだと妬む気も起きない。
 桜原は腕時計に目を落としている。
「そうだね。二物三物もらって、うち一・二物を自らドブに捨ててる人って感じ」
「は?」
 思わせぶりな台詞を問い詰める前に、チャイムが鳴り響く。舞台上に現職生徒会役員が勢揃いする。八名川は末席に粛然と座っている。先程八名川がチェックしたマイクで生徒会長が告げる。
『お待たせいたしました。ただ今より高葉ヶ丘高校生徒総会、議事に入ります』

「いやー、八名川センパイかっこよかったな」
 ホームルーム明け、廊下に出たら井沢がいた。体育祭の練習もあるのに、その話がしたくてわざわざ待っていたらしい。
「ああいう人なんて言うのかな、カンゼンムケツ? うちのクラスでも女子がキャーキャー言ってんの。同じA組だから体育祭大変かも」
「うちも。同じ部活だって知られたら面倒くさそう」
 侑志は小声で言って歩き出す。どこで誰が聞いているか分からない。桜原は横に並びながら携帯を触っている。
「でも二週間ぐらいしか続かないんだって」
「何が?」
「女と」
「はぁ!?」
 井沢と二人して大声を出したら廊下中の視線を浴びてしまった。桜原は顔をしかめて耳を押さえている。至近距離でステレオ再生されたのだから、たまったものではなかっただろう。
「それ、チョー遊んでるってこと?」
 井沢がA組側の階段から下り始める。こちらは中央階段より狭く下駄箱からも遠いため、あまり人がいない。桜原は頭をかいている。
「いや、にゃーさんは見た目チャラいけど真面目だから、浮気とかは絶対しないらしいんだよね。でも来るもの拒まずっていうのかなぁ。フリーのときに告られるとオッケーしちゃうんだけど、付き合い出すとすぐフラれるって」
「性格悪ィの?」
「いいひとだよ」
「じゃあやっぱ完璧すぎんだ」
 感嘆する井沢に、桜原は笑っただけだった。
 井沢の言った二つが違うとすれば、あとは相当な野暮であるか、あるいは――変態であるかだ。侑志に確かめる勇気はない。
 桜原はおもむろにメールを打ち始めた。
「桜原、階段で携帯いじんなよ。危ねぇだろ」
 注意しても桜原は顔を上げず、左手で侑志の右腕をつかんできた。踏み外したら支えろということらしい。もろともに転げ落ちる可能性は考えていないのだろうか。補強のつもりか今度は井沢が桜原の右腕をつかんだ。いっそうおかしな画になった。
「つーかさぁ、なんで八名川センパイって『にゃーさん』って呼ばれてんの?」
 一階に着いて井沢が腕を放す。桜原も携帯を閉じて侑志から離れた。
 桜原たちは八名川のことを『にゃー』と呼ぶ。平坦な発音だ。頭のnをはっきり言わないと恐い職業の方々に聞こえる。
 桜原は廊下の奥を指差した。
「すぐ分かるよ」
 誰かが校舎に飛び込んできて、そのままこちらへ全力疾走してくる。どうやら八名川らしいと認識するかしないかのうちに、彼は押し倒さんばかりの勢いで桜原に抱きついた。平然としている桜原の頭をめちゃくちゃに撫で回している。
「コーちゃああん! 超ッかわいいんだけど何コレぇマジヤバいんですけど、いとおしさで息ができないじゃんなにオレを殺す気? ああもうどうしたらいいのか分かんねぇ溢れ出るこの気持ちっ」
 どうしたらいいのか分からないのはこっちだ。侑志たちが唖然としていると、八名川は現れたときと同じくらいの唐突さで桜原を放し、開いた携帯電話を突きつけてきた。
「新田たちも見てコレ、ヤバくない? 超絶かわいいんだけど即待ち受けだしマジパねぇんだけどヤバいっしょコレ、オレをときめき殺しにかかってるとしか思えない」
「……ねこ?」
 侑志と井沢は眉を寄せて呟く。地面に座って、首だけで振り返る猫の写真だ。
 八名川は改めて桜原の肩を抱き直すと、あらぬ誤解を受けそうなぐらい顔を近づけた。
「コーちゃん、ホント相変わらず素晴らしい腕前。このコどこで撮ったの」
「タカニんとこの坂です」
「ありがとう今度捜しに行く。ときに今回は何をご所望?」
「購買のいちごカスタードメロンパンとか?」
「オッケイ、お兄ちゃんが今度買ったげるから乞うご期待」
 交渉が成立したらしい。八名川は桜原から離れると、普段の顔つきで侑志たちを見た。
「悪いね、時間取らせちゃって。体育祭の練習出るとこ?」
「何時って言われてないんで大丈夫です」
「俺はバックレるんで大丈夫です」
 侑志と桜原はそれぞれ答えた。後者は問題発言だったような気もするが、個人の自由なので聞き流した。
 井沢が右手を挙げながら言う。
「八名川センパイは出ないんすか? オレも今からA組のパフォ練なんすよ」
「オレは今日ちょっと行けないかもだね。終わりの時間読めないから」
 八名川はやわらかく口角を上げて講義室を見遣った。どうやら閉め切っているようだ。
「選管の人たち、今も必死で開票してくれてんだよね。オレら候補者がいくら気張ったとこで、彼らなしで選挙成り立たないからさ。当落がどうあれ、最後は全員の顔見て労いたいの」
「え、中身まで男前……」
 井沢は口許に手を当てて戦慄していた。八名川は肩をすぼめる。
「なんつって、おかもにCD返さなきゃなだけだったりしてね」
 そういえば、岡本は選挙管理委員だったか。部室で朔夜とそんな話をしていた。
「洋楽ですか? 岡本先輩もこの前、三石先輩にCD返すとか言ってましたけど」
「あの二人は結構何でも聴くからねぇ。オレは邦楽の方が好きかな」
 侑志に答え、八名川は学生鞄から件の品を取り出した。ご丁寧にCDショップのビニール袋に入っている。
「これ、出たばっかの小田和正のベスト。去年出たマイラバのベストと交換で貸してもらった」
「聴きそう」
「好きそう」
 井沢と侑志が口々に言っても、桜原はぴんと来ていない様子だった。音楽はあまり聴かないのかもしれない。
「っと、やべ。また引き留めちった。じゃあオレ部室行くんで。コーちゃん、にゃんこちゃんの写真超超ありがとねー愛してる!」
 八名川は手を振って駆け去っていく。三人で礼をする。
 それから桜原は身を起こし、井沢は膝に手をつき、侑志はしゃがみ込んだ。
「だから、『にゃーさん』。分かった?」
「なんつーか、もったいねーヒトだなぁ」
「超ビックリした……」
 侑志は頭を抱えた。まさか人が変わるレベルの猫好きだとは。
 と、いってもだ。
「あの顔と有能さと気配りがあって、この程度でフラれるとか女子の求めるものってどんだけ高ぇの?」
 侑志の疑問に、井沢はものすごく真剣な表情で答えてくれた。
「わかんねぇけど、もしかして……死ぬほどえっちがヘタとか」
「そんなことでおまえ、いや待てあの顔面レベルになるとそういうことが現実として大問題になってくるのか……?」
 交際経験ゼロの侑志には男女の実態というものが分からない。桜原が歩き出しながら呟く。
「あるいは猫でしか勃たない」
「ありえる!」
「やめろ」
 軽快に指を鳴らす井沢を即座に止め、侑志も昇降口に向かった。
 A組とB組の靴箱は横並びだ。井沢は上履きを脱ぎつつそのまま話しかけてくる。
「桜原と八名川センパイは猫だけの関係?」
「まぁ基本的には部活の先輩と後輩ですけど、姉貴の友達とも言えるし。猫写メの取引はむしろ二次的に発生したものというか」
「特にそーゆう関係ではないんだ」
「そーゆうって、どーゆうんだか訊かない方が身のため?」
「マブガクにはたまにいたからさー、そーゆうの」
 そーゆう、の含みが深すぎる。黙っていようかと思ったが、こらえきれず侑志も口を挟んだ。
「男子校ってリアルにいんの?」
「よく見かけるってほどじゃないよ。隠してただけかもしんないけど。でもオレの友達は、彼女ほしいって言いながら男と付き合ってたかな」
「なんかスゲーな男子校」
 話が遠すぎて全く想像がつかない。
 桜原が靴箱の扉をやけにしんみりした手つきで閉める。
「共学も然りだよ。俺、クラスの女子からラブレターもらったと思ったら、朔夜宛だったし」
「お、おう。なんかおつかれ」
 我ながら雑なフォローだったが他にどう言っていいやら。
「でもさ、誰かのこと好きになる気持ちって、絶対悪いもんじゃないと思うんだ」
 井沢がガラス戸を開けてくれて、三人で外に出る。五月の紫外線は容赦なく網膜を刺激する。
「まぁ、そうだなぁ」
 侑志は適当に相槌を打った。そうだよと井沢は勢いづく。
「それはスゲー気持ちなんだよ絶対。相手が誰でも関係ないって。男でも女でもたとえにゃんこでも!」
「八名川先輩はもうそういう人で決定なわけ?」
 ないない、と桜原が冷静に否定した。
「なんか俺ら童貞にはわかんない機微があるんでしょ、男と女ってのは」
「悟ってんなぁ、桜原先生」
 桜原はそのまま裏口から帰った。侑志と井沢は更衣室へ向かう。
 背中の方で遠く、見事な三本締めが響いていた。