3話 It’s All Right - 1/6

イッツ・オール・ライト

 侑志(ゆうし)永田(ながた)たちが講義室に戻ってすぐ、初めてのミーティングが始まった。
 ほとんどの部員は長机についているが、一人だけホワイトボードの脇に立っている生徒がいる。
「はい、じゃあ初対面の子もいるのでサラッと自己紹介ですよ。二年生で副主将やらしてもらってます、八名川(やながわ)為一(たいち)です。みんなからは『にゃー』とか『にゃーがわ』とか呼ばれています」
 優雅に一礼して見せたのは、学園ドラマにでも出てきそうな美系だ。少し着崩したワイシャツに、水色のストライプ柄のネクタイ、紺のブレザー、グレンチェックのスラックスを合わせている。黒の詰襟ばかりの高葉ヶ丘ではめずらしい。
 そして女性的な顔立ちに、襟足の長いふわっとした茶髪。運動部は運動部でも、バスケやらサッカーやら横文字の部が似合いそうな雰囲気だ。笑顔がまた様になっていた。
「一年間、ミーティングの司会を務めさせていただきます。よろしく」
 高葉ヶ丘の運動部では、慣例として試合外の実務は二年の副主将――つまり秋からの主将――が行うことになっている。中央委員会は年度内に責任者が替わることを嫌がるからだ。ミーティングも中央と直接やり取りしている次期主将が中心となる。
「ではサクサク行きますよ。本日の連絡ひとつめ」
 整った字で書き付けられたのは、『体育祭について』。
「一年生は初めての、三年生は最後の体育祭です。怪我には充分気をつけて楽しんでください。二年生は楽しみすぎてハメ外さないように」
 軽そうな見た目に反して真面目な進行だ。八名川は二年生の野次も流して話を続ける。
「で、野球部の予定ですが。体育祭の練習は三時までなので、終わってからいつもどおりにやります。注意してほしいのは五月五日ですね。日曜日。先週のミーティングに参加した皆さんはご存知でしょうが、九時から練習試合があるので午前中はクラスの予定入れないでください。背番号いつでしたっけ、監督?」
 壁の一部のように沈黙していた監督が、一言だけ発する。
「明日の練習後」
「だ、そうです。それから五月一日は、全員這ってでも学校来てください」
「なんかあったっけ?」
 金髪の派手な二年生が伸びをする。
 ミッちゃあん、と八名川は情けない声を出した。わざわざマジックを赤に持ち替え、ホワイトボードにでかでかと書く。
『5/1(木) 生徒総会及び生徒会役員選挙 全員必ず出席のこと』
「こんなとこで選挙活動すんなよなー!」
 朔夜(さくや)が椅子に寄りかかり、頭の後ろで両手を組んだ。
「はい、桜原(おうはら)朔夜さん」
 八名川は赤マジックで朔夜を指す。口角は上がっていたが目が笑っていなかった。
「生徒手帳出して。みんなも。コータ君、生徒会規約集五ページ第三章十八条を大きな声で読んだげて」
 はい、と桜原は文章の硬さに似合わしく抑揚のない声で、指定の箇所を読み上げた。
『中央委員会が成立しない場合は、選挙日より補欠選挙までの期間中、評議会及び選挙管理委員を除く委員会及びクラブ・同好会は停止とする。』
「体育祭実行委員も野球部も、中央委員会――生徒会の下位組織です。そして生徒総会と選挙は、全校生徒の三分の二以上が出席しないと行われない。選挙がなければもちろん中央委員会は成立しない。と、いうことは」
「体育祭の練習も試合もナシってことかよ!」
「はいご明察。嫌なら学校来てね」
 生徒会規約を暗記しているというのもどうなのだ? と侑志は思うのだが、周囲が何も言わないので黙っていた。
 相模(さがみ)が難しい顔で補足する。
「ただの脅しじゃないぞ。俺たちが一年のとき、実際にそういうことがあったんだ」
雅伸(まさのぶ)、あんとき評議委員だったよなぁ。運動部が暴動起こしかけて、俺も地学室のドア、中から押さえるの手伝った。今出たら絶対殺られるって思ってなかなか帰れなかったんだっけ!」
 森貞(もりさだ)が懐かしそうに目を細める。いい思い出のような口振りだが、多分とんでもないことを言っている。
 持ち出した八名川もさすがに苦笑していた。
「ま、一昨年はそもそも候補者数が足りなかったらしいですからね。今年は人数ピッタリの信任投票だから、そこまで大事にはならないと思うけど。とにかく生徒の一員として自覚を持って総会に臨んでください。オレからは以上です、が」
 全員で監督の顔を見る。頷いたのを確かめてから、森貞が立ち上がって解散を告げた。みながばらばらと部屋を出ていく。
 侑志と井沢(いざわ)だけ、まだ用があると残らされた。
「しかし為一も忙しいなぁ。選挙の原稿とか総会の準備とかあるだろうに。無理にこっち出なくても、どうとでもしてやるのにな」
 森貞は忘れ物がないか見て回っている。朔夜は軽やかにホワイトボードの文字を消している。
「いいんスよ、八名川は予定ギチギチにすんの趣味なんですから。マゾってやつ」
 どうも規約に詳しいと思ったら、八名川は現職の生徒会書記なのだそうだ。今回の選挙でも副会長に立候補しているらしい。
「まぁ為一は三期目のベテランだし、対抗馬がいても余裕だろうけどな」
「どーだろ。アイツ敵多いから」
 朔夜はにやにやしている。森貞は否定せず豪快に笑った。
「モテそうだもんな、八名川センパイ」
 井沢が耳打ちしてきた。そうだなぁ、と侑志は頷く。
 仕事のできそうな人なのに、顔がいいだけで敵が増えるなんてなんだか気の毒だ。そんなに単純な話ではないのかもしれないけれど。
 片付けが終わると連れ立って部室に移動した。
「オットコくせぇ!」
 扉が開くなり朔夜が鼻を押さえる。同性の侑志でも少しきつい。回を重ねるごとに何も感じなくなるだろうが、それはそれで怖い気もする。
 侑志が四人分の靴を揃えている間に、朔夜と森貞は六畳弱の部室の奥に進んでいく。
「何食ったらこんなニオイ出んだよ。ありえねー」
「ごめんな、ありえちゃって」
「いやリューさんに言ってるんじゃないですけど」
「あと朔夜、俺は戦犯を見つけてしまったので良心が痛むがお前に売り渡すぞ」
三石(みついし)ィ……」
 朔夜がげんなりした顔で呟く。森貞が指差した先にはインナー類を含め一式脱いで積んだ山があった。部員たちがロッカーと呼んでいる棚は扉もない木製の背面ラックで、においが遮断されないのだ。
「じょ、女子更衣室はこんなことないですよね。いい匂いなんスよね?」
 突然、井沢が裏返った声で訊いた。そういえば馬淵学院は男子校だったか。
 朔夜が意地の悪い笑みで言う。
「フローラルすぎて引っくり返るかもな、お前」
「そ、そんなに華やかなんすか」
「制汗剤。花とフルーツと汗とワキガのニオイが混ざり合って、吐き気こらえんの大変なんだよ」
「女子やってくのも大変なんですね……」
 井沢は肩を落とした。現実なんて得てしてそんなものだ。同情する侑志も女の現実を充分に理解しているわけではないが、前を通りかかって気分が悪くなったことはある。
 朔夜が窓を広く開けた。新鮮な空気が入り込んでくる。長い黒髪とプリーツスカートが大きく揺れる。
 満足そうに息を吸う背を見て、大変だろうとこの人は女子を生きていくのかと、分を越えた同情が胸に兆した。
「さて。みんな大好きユニフォームだぞぉ」
 森貞が金属のラック棚から、くたびれた段ボール箱を下ろして中央の机に置く。
「徹平はMでいいか?」
「Sではないです!」
「あ、念のため嗜好じゃなくてサイズの話だけど」
「どっちもSではないです!」
「そっか、俺もだ!」
 何の話をしてんだ。侑志は二人に背を向けて、とっくに切れていた消臭剤をゴミ箱に入れた。これは部費で申請できるのだろうか。
 朔夜が窓を開け放したまま振り返る。
「井沢、いくつ」
「十五歳です」
「バカ、身長だよ」
「百六十五です」
「じゃあSだよ。見得張んな」
 朔夜は容赦がなかった。よくわからない声を上げて泣きついてきた井沢の頭は、確かに侑志の母親と同じぐらいの高さにあった。長身の朔夜に言われるのは井沢も堪えるらしい。さらに高い侑志が何か言うのも嫌味なので、黙って背中を叩いてやった。
 一人の少年のプライドを叩き潰した本人は、気のない様子で段ボールに歩み寄る。
「新田は?」
「百八十二です」
「ふぅん、じゃあOかな」
 朔夜はまずS一式を井沢に手渡し、箱の中を漁り始めた。身長を訊いただけでサイズの判断ができる辺り、やはりマネージャーなのだなぁと感心する一方、胸の中がもやもやした。
 ないなー、と呟く朔夜に森貞が首を傾げる。
「タカヒロと同じサイズって小さくないか? 五センチぐらい違うだろ」
「そんな違います? 新田、細いしなぁ」
「肉はつく、これから! 背も伸びるだろうし。第一男はワンサイズ大きく申告したいものなんだ、なぁ二人とも!」
「はい!」
「はぁ」
 元気よく答える井沢の横で、侑志は覇気のない返事をした。サイズ云々より、たびたび細いと言われることが気になる。特に朔夜の口からその言葉が出ると、妙に心がしぼむ。
「まぁいいや。とりあえず井沢、上だけでも合わしてみ。新田はこれ。XO」
 朔夜がユニフォームを放り投げてきた。井沢のときよりぞんざいだ。
 井沢は羽織っていた詰襟を机に脱ぎ捨て、続けてワイシャツに手をかけたところで朔夜に止められた。
「バカ、着替えなくていいよ。肩合わしてみりゃ大体分かるんだから」
「あ、そすか」
 女子の前で着替えることには抵抗がないらしい。侑志には井沢の恥じらいの基準が分からない。
 朔夜は井沢の背中にユニフォームを当ててやっていた。
「やっぱこんくらいだろ。伸びたらまた変えりゃいいよ」
「はーい」
 二人を横目に、侑志は眉をひそめて金色のボタンを外していく。森貞が誠に遺憾そうな表情でそばに立っている。
「ごめんなぁ、俺で」
「なにがです?」
 侑志は引きつった笑みで、何も不満でない旨を示した。
 森貞が侑志の背にユニフォームを当てる。朔夜が寄ってきて肩の縫い目を指先でなぞる。背筋がぞわぞわ粟立って、侑志は口唇を噛んで動かないように努めた。
「やっぱりこれだと肩ちょっと落ちてますよ。まだ一つ下の方が――って何笑ってんスか、リューさん」
 笑ってやがるのか、と恨みつつ表立って怒る余裕もない。
 大きい分には平気だと思います、と言おうとした瞬間、肩にあった朔夜の手が思いもよらない箇所に触れた。侑志は悲鳴を上げて床に崩れ落ちる。
「うわ、ビックリした! 何だよ急に」
「こっちの台詞ですよ! なんで急に脇腹……」
「ウエストどれくらいだろうと思っただけじゃん。新田、細いから下も身長に合わせると緩そうだし」
 朔夜は呆れ顔で侑志を見下ろした。侑志は涙目で脇腹をさする。
 また細いって言われた。そりゃこの身長の平均と比べりゃアレかもだけど、そんなにガリガリじゃないはずなのに。
「何やってんの?」
 誰かが窓から顔を覗かせた。朔夜が軽く片手を挙げる。
「おう岡本(おかもと)。どした」
 ちわす、と井沢が礼をする。侑志も頭を下げる。床に両膝をついたままだったので、土下座のようになってしまった。
「いいからいいから。そんなとこに座ってると汚れるよ」
 苦笑したのは二年生の岡本堂弘(たかひろ)。入部前に何度か見かけた投手だ。癖の強い髪と黒々した下がり気味の眉、純朴そうな雰囲気の少年。
 朔夜がユニフォームをたたみ直しながら問う。
「センカンは?」
「行ったら終わってた。今日はもうすることないってさ。朔夜たちまだいるかなと思って見に来ただけ」
 センカンってなに、と井沢が小声で問いかけてくる。この顔はどうも戦艦の類を想像しているなぁと思いつつ、選挙管理委員だろ、と侑志は答える。生徒会選挙のために準備しているのだろう。
 岡本は森貞の姿を認め目を丸くした。
「あれ、リューさんもまだいる。時間大丈夫なんですか?」
 段ボールを戻していた森貞も同じような表情をしている。岡本は遠慮がちに壁の時計を指差した。
「今日、ももちゃんのお迎えに行く日です、よね?」
 森貞の顔面から一気に血の気が引いた。大慌てで靴を履き始める。
「朔夜、あと任せていいか!? タカヒロも侑志も徹平もすまん、お先!」
 森貞は鞄を引っつかんで部室を飛び出していった。朔夜は目をしばたかせてドアを見ていた。
「保育園かぁ。リューさんも大変だな」
「うん、でも、妹さんのことはすごくかわいいみたいだからね」
 岡本は含みのある言い方で笑った。この辺もいろいろあるらしい。
「すみません。話変わるんですけど、ユニフォーム代って、いくらですか」
 井沢が緊張した面持ちで尋ねた。案外きれいに畳んでいる。
 ああ、と朔夜は肩をすくめた。
「無理に買わなくてもいいよ。ていうか一年で買うやつほとんどいないし。卒業するとき記念に買い取ってく人はたまにいるけど」
 今年の一年でも注文したのは永田一人だという。二年で持っているのは朔夜だけで、父親が入学祝いに買ってくれたのだと自慢げに話してくれた。ちなみに息子は欲しがらなかったのだそうだ。
「つーことだから。気になんないなら、それ着てていいよ」
 井沢は再びユニフォームを広げた。洗い上げられた白地に眩しい、深緑の校名。満足そうに見つめてから、大事に着ますと上下合わせて抱き込んだ。
 朔夜はやわらかく笑って鞄を右肩に背負った。
「買ってもらわなきゃいけないのはとりあえず、帽子とストッキングだな。他は自分で好きなの使いな。店教えっからついといで。新田のユニも発注しちゃおう」
「あ、はい、ありがとう……ございます」
 自分の口にした感謝の言葉が、朔夜に届いている気がしなかった。
 侑志と井沢が詰襟を羽織り直す間に、朔夜は窓に歩み寄り枠に指をかけた。岡本は朔夜を優しく見上げている。
「俺が行こうか? 朔夜、逆方向でしょ」
「別に。どうせ帰ったってやることないもん。それより一緒に来てよ」
「いいよ」
「窓閉める」
「うん。正門のところにいる」
 ガラスが大儀そうにサッシを走る音と、鈍い施錠の音。
「つーわけ。先輩待たしてんだから早くしろよ」
 朔夜が脇を通り過ぎていく。
 侑志は彼女と同じ側の肩に鞄をかけた。井沢もくたびれたスポーツバッグを斜めに背負う。
「なんか朔夜センパイ、岡本センパイには口調違くね?」
 付き合ってんのかな、あの二人、と言いながら、返事を聞かず井沢は出ていってしまう。侑志はまとまらない言葉を口の中で持て余す。
 てめえ早くしろってんだよ、と朔夜に怒鳴られて慌てて部室を出た。上手くは言えないが胸が嫌な感じだった。