短編

  • ピアノの顔

    あった。椅子の座面からお気に入りのペンを拾い上げ、琉千花はほっと息をついた。
    振り返って授業後の音楽室を見回す。空っぽだ。これから昼休みだが、高葉ヶ丘の軽音部は時間外練習をするほど熱心ではないようだった。

  • 夜中にアイスを買う自由

    「買って来ますよ」
    アイス食べたい、なんてほとんど意味のない未紅の独り言に、雅伸は大真面目な顔で振り返った。

  • 面目

    最後の夏は、多少なりともドラマチックに終わるものだと思っていた。
    竜光は誰もいなくなった部室で、捕手向けと褒められた大柄な身体を丸めてプラスチックコンテナからキャッチャーマスクを拾い上げる。

  • 生き止まり

    焼香の順番を待ちながら、僕は教え子の遺影をぼうと見つめた。
    卒業してから二ヶ月しか経っていないのに、眼鏡も髪形も変えた君は随分と大人びて見えた。

  • 黒が劣勢

    弱モードでも夜中の換気扇はよく響いて、気遣い虚しく妻が起きてきてしまった。
    「禁煙って約束したのに。私もこの子もどうでもいいんだね」
    妻はまだぺちゃんこのお腹を撫でながら恨みがましく言う。

  • 傘を咲かす

    未紅は雨に濡れて帰るのが好きだ。むやみにテンションが上がる。みんなが傘を差しているほど手ぶらなのが楽しくなってしまう。
    シンギンザレイン。普通に生きていて、服ごと濡れる機会が他にあるだろうか? ゲリライベントは全力エンジョイに限る。

  • 運想

    壁にかかる60インチ4Kテレビ。為一は新居のフローリングに座って真っ黒な画面を眺めている。
    結婚しよう――たった一言で二年に及んだ同棲は終わった。三つ上の彼女を喜ばせるはずだった幻想のために。

  • アヤメ

    「杜若くんっていうんだ! あたしはアヤメだよ」
    五条あやめの自己紹介は唐突だった。中学一年の春、杜若颯太は彼女にどう返事をしたのか思い出せない。

  • 香花

    「ちょっと杜若に頼みがあって」
    薫は杜若の机に弁当がないのを再確認して、ガラスの小瓶を見せた。四角い容器の半分ほどを、琥珀の液体が満たしている。
    「祖母の形見整理してたら出てきたんだけど。箱とかもないし、何の香りなのかはっきりしなくて」

  • 眠罪

    眠るように息を引き取る、とはよく聞くが、男は死ぬように眠りにつく。意識を失う際に喉を掻きむしる。

  • 忌み枝を抱く

    建て替えた桜原家に初めての春が訪れた。見下ろす桜も心なし初々しい。父が生まれた記念に植えられたものだから、本当は皓汰よりずっと年上なのだけれど。

  • この突き刺さる青の小さな破片ひとつでも

    九回裏はなかった。後攻の相手校が三回に二得点を挙げ、先攻の高葉ヶ丘は一回から九回まで〇点を連ねた。熱い攻防もなく奇跡的な逆転劇もなく、侑志たちにとっての夏季大会は淡々と幕を閉じた。

  • 眠れぬ夜に

    「雅伸くんって、お薬ないと絶対眠れないんですか?」
    妻の質問は実に唐突だったから、雅伸はシートから押し出した錠剤を床に転がしてしまった。

  • 千々ノ一夜迄

    「『しんど百物語』、やってみませんか?」
    またおかしなことを言い出した。雅伸は眉をひそめて、隣に寝転ぶ女を見る。紺野未紅はベッドにうつ伏せになって、膝から下をぱたぱたと動かしている。

  • 赤を囲う

    その日、兄が飛び降りた。理由は知らない。
    感性。出生。性愛。外見。疾病。「普通」でない人たちが自分の色と在り様を見つけていく短編集。

  • 渇仰

    八月。全国の球児が沸く季節。この大切な時季に『違和感』なんて低レベルな嘘がまかり通るほどには椎弥はチームに貢献しているし、練習を放り出しても構わないほどに妹と幼なじみが大事だった。

  • 写真

    「朔夜さんって写真撮らないよね」
    君はスマートフォンを私に向けて呟いた。陽光にきらめく海から視線を外し、私はレンズではなく君の目を見る。

  • 習作――卒業間際

    卒業を間近に控えた面々。感傷と焦燥と諦念の瞬間。

  • 異文化コミュニケーション

    高級ブランドスーツの上着は、チークの椅子の背に無造作にかけられている。
    指を突っ込んでネクタイを外しているところで着信に気付き、彩人は眉をひそめた。

  • 太陽の在り処

    藍色の雨空を海のようだと美映子は思う。天地が引っくり返って、逆さまの海から水がこぼれている。それはとても不自然な在り方で美映子はいつも不安になる。

  • 紅茶とキャンディ

    「ひとつ忠告しとくぞ」
    振り上げた右手は空中で掴まれて、頬まで届くことはなかった。彩人は聡子の手を放さずに淡々と言った。
    「眼鏡かけた奴の顔を、不用意に狙わないことだ。弁償させられたくなけりゃな」

  • パンクした重い自転車

    雅伸は必ず制服でそこに行く。時間に余裕があっても着替えては行かない。私服で行ったらその服にケチがつきそうな気がしている。気分的な問題だ。