白と青

「よろしくお願いします!」
 ひんやりとした三和土に、圧縮された熱気と蝉の濁り声がまとめて押し入ってくる。青人(あおと)が一〇三号室の玄関先で大きく頭を下げる。思春期特有の細長い手足に、スカイブルーのTシャツと黒いハーフパンツ。眉に少しかかるぐらいの髪は汗に湿っている。
 今年中学生になったはずの甥は、正月に会ったときと全く変わらないように見えた。自分も十三歳の頃はこんな背丈だったろうか……白輝(しろき)は考えかけて、すぐやめた。十三年前の見た目なんて覚えていない。ろくに床屋にも行かなくなった今よりはマシだったろうが。
「まぁ、上がれよ。狭いけど」
 白輝は口にしたとおりの手狭な靴脱ぎ場で松葉杖をもたつかせる。青人が散らかったサンダルを端に避けてくれた。こういうところが姉の息子だなと思う。
「シロキくん、お母さんからいろいろ預かってきたよ。レトルトのカレーとかご飯とか。どこに置けばいい?」
「そういうのいいって言ったのに……いや、冷蔵庫の前にでも置いて。ありがとう」
 白輝はぎこちなく部屋を横切り、ローテーブル(と呼んでいる機械部分が壊れたこたつ台)の脇に腰を下ろした。たった1Kなのに、片足の甲にひびが入っていると移動も骨だ。
 青人がぱたぱたとやってきて、白輝の近くに体育座りする。
「事故ったって聞いたけど、どうしたの?」
「事故っつーか……」
 白輝はテーブルに転がった煙草の箱を手繰り寄せ、我に返って背後に隠した。青人の前では絶対に吸うなと姉に念押しされていたのだ。咳払いして会話に戻る。
「やられたんだよ。仕事中に」
「なにそれ? 誰に?」
 アルバイトで、老朽化した図書館の移転作業を手伝っていたときだった。エレベーターがないので、二階で箱詰めされた本をバケツリレーの要領で一階まで下ろす。踊り場から一階までが白輝の担当だった。二階から踊り場までを担当していた学生は、重い重いと一箱目から文句を垂れていて、三箱目にはふらふらし始めた。そして三十分後、白輝の目の前で『もうムリです』と叫んで両手を開いた。分厚い本がみっちり詰まった箱は右足の甲を直撃。白輝の足も『もうムリ』だった。
「ひでぇ目に遭ったよ、マジで」
「人に頼まれたことは、責任持ってちゃんとやり遂げないとダメだね……」
 青人は止めていた息を深く吐いた。他意はないのだろうが、姉からの頼まれ事も放り出すなと釘を刺されているようで気が重い。
 白輝は右手の煙草を洗濯物の山に突っ込んだ。
「それで、野球教えてほしいって具体的にどうしたいの」
「夏休みが終わったら野球部入りたいんだ。基礎的なことは今のうちにできるようになりたい」
 青人は真剣な顔で居住まいを正す。
 正直、なぜ春から入部しなかったのか疑問だったし、アパートの一室で怪我人が教えられることなどたかが知れているのだが……白輝は何も訊かなかったし説明しなかった。今回は青人が満足しさえすればそれでいいのだ。藪をつつく必要はない。庭を指差して首を傾げる。
「素振りとかする?」
「する! 自分のバット持ってきた」
 青人は喜び勇んでバットケースのファスナーを開けようとする。白輝は片手を振って甥を制した。
「庭使わせてもらうなら大家さんに挨拶しないと。一緒に――」
「いいよ、ぼく一人で。シロキくん足痛いでしょ」
 一番立派な玄関のとこだよね、と言うが早いか青人は部屋を飛び出していく。礼儀に厳しい姉がきちんと教育してくれていることを祈り、白輝は追いかけるのを諦めた。
 煙草を掘り出し、一〇〇円ライターとともに握りしめる。腕を使って陽の強い方へ這っていく。
 庭に面したガラス戸の外には、幅一メートル・奥行き五〇センチのウッドデッキがある。よく樹木の手入れをしている大家さんと話し込むために、白輝が許可を得てしつらえた『縁側』だ。家賃は手渡し、果物が実ればお裾分け……と、アパートというより祖父母の家に居候しているようなこの借家を、白輝は心から気に入っていた。田舎みたいな暮らし心地なのに、大きな駅まで徒歩一〇分、電車に乗ったら池袋までやはり一〇分という便利さもいい。
 扇風機を外に向くよう動かす。網戸を開けて縁側に乗り出す。大家さんが喜んでサンシェードを取りつけてくれたおかげで、八月が始まってもここは快適だ。
 蚊取り線香と煙草に火を点ける。それぞれの煙が、細く白く風に流れていく。サラウンドでじわじわと染み入ってくる虫の声。
 白輝は天を仰いで目を閉じた。
 ああ、一服終えたら二度寝としゃれこみたい。
 午前中から子守だなんて今日も不運だ。

 

 挨拶から戻ってきた青人は、つやつやしたバットを鼻息荒く見せてくれた。
木元(きもと)選手のモデルなんだよ。通販で頼んで、昨日の夜やっと届いたんだ」
 うわぁ木製かよ、と思ったが口にはしなかった。面倒だったし、こんなに目を輝かせている少年に水を差すのも気乗りしない。
 バッティンググローブの類は買わなかったようだから、滑り止め付きの軍手を一双やった。
 青人は庭に立ち、白いスニーカーで土をならしてから、ご自慢のバットを何度か揺らして肩に載せる。木元(りょう)選手のルーティンの真似か。
「ねえシロキ先生、質問」
「普通に呼んだら答えてやる」
「野球選手って、一日に一〇〇回とか一〇〇〇回とか素振りするんだよね? なのに三割しか打てなくても『すごい』って言われるの?」
「打者が死ぬ気で打とうとしてる球は、バッテリー……投手と捕手が死ぬ気で打たせないようにしてる球なんだよ。機械が気持ちよく打たせてくれる球とは違う」
「なるほど」
 青人は腕をまっすぐ前に伸ばし、突き抜けるような青空にバットヘッドを向けた。
「努力を打ち破るのは努力」
 厳かに呟き、青人はまたスタンスを取る。どんどん気温の上っていく午前十時、一回、二回、とカウントしながらバットを振っている。
 白輝は煙草のない片手を口許にやった。
 木元諒か。近年メジャーリーグで活躍していた選手で、来期から日本に帰ってくる。白輝にとっては母校の先輩にあたる人だ。高校一年生のとき会ったことがある。やはりOBである監督がパワハラに近い権限を使ったようで、野球部の練習に来てくれたのだ。十五分ほどティーバッティングを見てもらった。
 当時二十代前半だった木元は、白輝のそばに来るとひとつ頷いて微笑んだ。甲子園で八面六臂の活躍を見せ、ドラフトで奪い合われて、プロでもすぐ一軍に上がっていった木元諒。老いも若きも男も女も魅了する笑顔で、白輝のために明るい言葉をくれた。
『いいと思うよ』
 白輝は全身の血が沸き立つのを感じ、いっそう力を入れてバットを振った。
 嬉しすぎて、他の部員が何を言われているかまで聞き耳を立てたほどだ。あいつはスイングを直された、あいつは俺と同じ『いいと思う』をもらった……。
 次の春、新しく発表されたスタメンは皆の予想とは大きくかけ離れていた。急成長した選手たちが、不動と思われていたレギュラーを引きずり下ろしたのだ。部員たちは口々にこの大事件の仮説を挙げていったが、白輝は何を訊かれても沈黙を貫いた。
 どの予想も外れだ。誰もこの法則に気付かない。新しく入ったのは木元に何かしらの指摘を受けた連中で、外されたのは『いいと思う』と言われた連中。白輝も、そうだ。一桁だった背番号をあっけなく剥奪された。
 白輝は『いいと思う』の意味を必死で考えた。褒められたのではなかったのか? 何が『いい』んだった? 技術? センス? 取り組む姿勢?
 考えて考えた結果、自分たちの言われたことが何だったのかようやく思い至った。
 木元はきっと「これ以上は無駄だからもうその辺で『いいと思う』」と言ったのだ。要するに「どうでも『いいと思う』」。
 どんな気持ちだったのだろう。
 あんなに爽やかに笑って、他人に将来性のなさを告げるというのは。
 見切りをつけた連中の上に立って、華々しい活躍を続けていくというのは。
 青人が素振りをしている。十三歳まで野球をしたことがなかった子が、恐らくずっとやってきたであろう子たちに追いつこうとしている。
 白輝は眉をひそめ、投げやりに片手を振った。
「脇締めて」
「こう?」
「違う。もっと『肘を胴体に巻き付ける感じ』で」
 木元が別の部員に授けたアドバイスを青人に伝える。手本を見せてやったわけでも、直接腕の位置を直してやったわけでもないのに、フォロースルーまでの動きが格段によくなった。
「ねーえ。シロキくんって、甲子園行ったんでしょ? すごいよね」
「行ってねぇよ。姉ちゃんまだ勘違いしてんのか」
 姉にかかれば高校球児は皆『甲子園』だ。白輝が経験した最大の舞台は、二年のときの全国高等学校野球選手権大会西東京大会、つまり夏の甲子園地区予選決勝の伝令。甲子園常連と名高い学校にも関わらず、白輝の在籍した三年間、母校・岩茂学園八王子(いわもがくえんはちおうじ)高等学校は春も含め一度も甲子園の土を踏んでいない。
 いわゆる『外れ年』だったのだ。白輝を追い抜かしていった彼らでさえも。
「角度が悪い。『ヘッドより先に、グリップエンドでボールを迎えに行く感じ』」
「こう?」
「そう」
 そうだ。そうだよ。ムカつくぐらいよくなってる。
 白輝は口の中で毒づいた。
 あの日母校の野球部にいたのが青人なら、きっと木元は『いいと思う』とは言わなかっただろう。無性に煙草が吸いたくなった。
「おまえ、本読む方が好きだったろ。なんで野球だよ」
 代わりに舌を動かすと、青人は透明なピッチャーを見据えながら返してくる。
「シロキくん、この前のニュースウォッチナウ見た?」
「見てない」
 この前、というのがいつなのか不鮮明だったし、件のニュース番組は名前がダサいのとすぐに若者の非正規雇用問題を取り上げるのでほとんど見ない。
「木元選手のインタビュー、すっごくカッコよかったんだよ」
 青人は熱っぽい口調で言ったきり、内容を説明しようとはしなかった。賢明だ。白輝はきっとどれだけ聞いても、青人の感動を理解できない。『いいと思う』と線を引かれた側には、多分一生わからない。
 左腕がむずむずすると思ったら、知らないうちに右手で爪を立てていた。ゆっくり外して左の脇腹に当てる。化繊のシャツはじんわりと湿っている。
 木元や青人にだってわからないだろう。
 見下していた父親と同じ煙草を吸ってしまうみじめさも、存在しない傷を押さえてうずくまってしまう愚かさも。
「シロキくん? どうしたの」
「なん」
 なんでもねぇよ、と脂汗で怒鳴りかけたとき、大家さんと奥さんがお盆を持って庭に現れた。青人と白輝のために、素麺を茹で天ぷらまで揚げてくれたそうだ。
 いつものように調子よく礼を言った気がする。
 味は何ひとつ感じられなかった。胃を返そうとする不快な食感だけが舌に残っていた。

 

 食後、青人は再びバットを手に取った。また脇が開いてきていたがそのままにしておく。
 朝よりも蝉がうるさい。他の音をかき消し、ものすごい濃度で耳に入り込む。違う個体のはずなのに、毎年同じトーンで脳みそをかき回す。試しにまぶたを下ろしたら、だんだん今がいつの『夏』なのかわからなくなってきた。 
 妙な季節だ。蝉の声には蝉の声以上の意味はない。アスファルトに揺れる逃げ水も空を衝く入道雲もただの現象だ。そのくせ意味深な感傷を手荒く引きずり出す。心の奥に抱いていた個人的な経験が、容赦なく叩き潰されて『夏』に一般化されていく。
 目を開ける。青人が歯を食いしばって素振りをしている。若さ。情熱。努力。『夏』が好きなもの、『夏』を膨張させる養分。今の白輝の手にはひとつもないものたち。
 不意に、高校のとき付き合っていた女の子を思い出した。
 雨が好きだと言っていた。その理由を力説する顔は、光を浴びた雨粒のようにキラキラと輝いていた。白輝は天気予報を熱心にチェックし、部活の休みと雨が重なる運命の日に彼女をデートに誘った。
 彼女は喜んでくれなかった。早口で唾を飛ばして悪態をついた。
 ――わかる? そういうのはね、窓の外で起こってるからいいわけ。わざわざ出かけて濡れにいくのはバカなの。わかる?
 わかる? が口癖の子だった。その三文字を言うとき、軽くあごを上げて片側だけ口唇を歪めた。わからない、と返事をして白輝は彼女と別れた。
 今は少しだけ『わかる』。
 一心不乱にバットを振る青人は、人の生きる姿として非常に綺麗だった。
 真っ白な陽光に照る透明な汗。かたちのない未来を見定めるかのようなまなざし。発達途上の身体全てを使って、何かになろうと懸命に努めている。
 かつて白輝を包んでいたものたちに似ている。前後不覚になるほどの熱気、水のことしか考えられなくなる口内、汗と泥でかぶれていく肌、それでも前に運び続けた足。
 今は快適な日陰で麦茶を飲んでいる。だから『わかって』しまう。
 雨も夏も、他人事だから美しいのだ。
 白輝はあの頃、自分の在り様を美しいとは感じなかった。只中にある者は、客観的に、あるいは安全圏から自分を見ることはできない。
 あれらを賛美できるのは、口にした側があらゆる不快から解き放たれているからだ。もしくは、ごく軽微な我慢で努力を観測できるからだ。
 そうやって人々は『甲子園』に魅了される。最低限の労力で膨大な他人の不快を美談とし、普遍化し、両手を叩いて搾取する。
 ――みなさんが頑張っているのを見て、自分も頑張ろうって思いました!
 よくあるフレーズへの違和感が、十年経ってようやく言葉になった。
 ――俺たちと同じほどゲロ吐くつもりもないくせに、上澄みだけ便乗しようとすんじゃねぇよ。
 青人が頬を紅潮させて振り返る。
「シロキくん! 見た? 今の、すごいプロっぽかったでしょ?」
「ああ、プロっぽいプロっぽい」
「うそだよ、絶対見てなかったじゃん!」
 白輝は薄っぺらな笑みを浮かべて甥をあしらう。
 俺は今どこにいるんだろう。青人の青春を涼しい場所から搾取する側だろうか。わからない。でも青人を見ているとおそろしく不安になる。
 青人はふとバットヘッドを下げた。シャツの裾であごの汗を拭きながら、やわらかく目を細める。
「ちょっと休憩する。シロキくんも休もう?」
 慈しみすら感じる穏やかな口調だった。さっき再開したばっかだろと混ぜ返す余裕もなく、そうだな、と白輝は力なく呟いた。
 手を洗いにキッチンに行った青人が、小さな袋を手に戻ってくる。チョココーヒー味のチューブアイス。
「半分こしよう、シロキくん」
「いいのか? 小遣いで買ったんだろ」
「いいんだよ。シロキくんに必要なものがあったらこれで、って渡されたお金で買ったんだもん。人間は夏にアイスを必要とする生き物なんだよ」
 得意満面で白輝の横に腰掛ける青人。姉の口調にそっくりだ。白輝は苦笑して頬をかいた。
 二つで一つだったアイスを半分ずつに割る。半分よりはもう少し遠い血を分け合った二人で並んで吸う。
 青人は布の屋根越しに太陽を見上げ、霜で濡れた縁側を片手で撫でた。
「ここって、涼しいけどちゃんと暑いね」
「クーラーの利いた部屋に比べればな」
 白輝はリモコンで扇風機の風を一段強くする。二人のシャツの裾がばたばたと動く。
 うん、と頷いて青人は目を伏せる。
「ねぇシロキくん、前のこと訊いてもいい?」
「内容による」
「シロキくんって、おまわりさんだったんでしょ。なんでお仕事辞めたの?」
 口をつぐんで白輝も下を見た。甥から目を逸らしたのではない。誰にも言えなかった本音に、一人で勝手に怖気づいただけだ。
「話すのはいいけど、幻滅すると思うよ」
「大丈夫。ぼく、シロキくんにそんなに夢見てない」
「そういうこと言うなよ」
 ささやかに笑い合う。にじんだ汗が涼やかに引いていく。
 正面からは天然の風。昨日大家さんが刈った草の匂い。手の中にはアイス。足を伸ばすと、つま先を焼く陽の光。
 自分も意外と『夏』を持っているのかもしれない。
 一般化されていない、自分だけの。
「刺されそうになったんだ」
 言葉は思ったよりもニュートラルな気持ちで出た。目を見開いて固まる青人。しっかり視線を合わせて、続きを継ぐ。
「でも刺されたのは俺じゃない」
 蒸し暑い夜だった。交番に、刃物を持った男が押し入ってきた。どう見ても尋常の精神状態ではなかった。刺激しないように『どうしましたか』と声をかけた。何が気に障ったのかわからないが、男は突然激昂して聞き取れない叫びとともにナイフを振り上げた。
 白輝は教場でもそこそこ優秀であったと自負している。逮捕術も輩と相対したときの心構えもきちんと身につけていたはずだった。
 だが何もできなかった。剥き出しの殺意に、言語の範疇にない声に、理屈の通じない衝動に、全く対処することができなかった。棒立ちの白輝をかばって、指導役の先輩巡査が刺された。やっと我に返って男を組み敷いたが、いつまでも手の震えが治まることはなかった。
「幸い先輩は軽症で、すぐ職務に復帰した。俺は無傷だったのに、それから制服に袖を通せなくなった。命の危険もあるって承知で警察官になったくせに、バカみたいだろ」
「そんなことない」
「子供が気を遣わなくてもいい」
「違うよ」
 青人は空になったプラスチック容器ごと、膝の上で両手を組んだ。
「こわいよ。死ぬのは。ぼくも一度も慣れたことない」
 青人は十も二十も年を取ったような横顔で地面を睨んでいる。
 まだ十三歳だ。生の喜びの半分も享受していないはずなのに、語った恐怖は諦念にも届きそうな実感に乾いていた。
「シロキくんが心配するから、お母さん言ってなかったと思うんだけど」
 何も言えない白輝を見て、青人は表情を和らげる。
 子供のくせに笑ってみせたりしなくていいのに。
「ぼく、ずっと喘息ひどかったんだ。発作で入院するたび『次はもうわからない』って言われてた。部活する許可をもらうのも、こんなにかかっちゃったし」
 白輝はやはり黙っていた。青人もそっと口唇を止めた。
 風鈴の唄が、近所を駆け回る幼子の声が、軽やかに絶え間なく通り抜けていく。
 本音を言えば青人を気の毒だと思った。だがそれこそ死んでも言ってやりたくない。
 青人は何の罪も責任もない不幸と、かばってくれる相手も逃げ込める場所もなく闘ってきたのだ。わかったような薄い言葉で、青人の痛みを、強さを、『夏』の青さの一部として勝手に消費したくない。
 とんぼが一匹迷い込んでくる。青人が空に向けて人差し指を伸ばす。とんぼは留まらず行ってしまう。上げたままの手首に赤い線が伝う。白輝も人差し指をゆっくり持ち上げる。
「青人。血が出てる」
「豆、潰しちゃったのかな」
 青人はぼろぼろの手のひらを優しく握り込んだ。
「平気。死ぬわけじゃないよ」
「そりゃそうだけどよ」
 でも、そうか。
 そうかもしれない。
 白輝は息を深く吸い、倍の時間をかけて吐く。腹に力を入れて、両足を庭から引き上げる。杖を使って立ち上がる。
 甥を見下ろし、今日一番の朗らかな調子で語りかけた。
「守備の練習も必要だろ。グラブ買いに行こう。選ぶの手伝ってやるから」
「でもシロキくん、足痛いんじゃないの」
 青人が不安げな表情で見上げてくる。白輝はごてごてに固定された足を軽く揺らし、平気、と笑ってやる。
「死ぬわけじゃねぇよ」
 青人は元から大きな目をさらに丸くし、それからいたずらっぽく口を尖らせた。
「シロキくん、パクった」
「お詫びに明日のアイスは俺が買ってやる」
「明日も来ていいの? やった」
 杖の先端とギプスに外出用のカバーをかけて、重い玄関のドアに手をかける。青人が先に立って扉を開けてくれる。久々の直射日光に目をやられ、うめきながら片腕を額にかざした。
 屋根のない真夏。誰も守ってくれないし、自分で歩いて進むしかない。
 それでもいい。死ぬわけじゃない。俺たちは生きて夏を過ごしている。
 雲と蒼穹のコントラストは、これ以上ないほど鮮やかだった。