櫻にカナリヤ - 4/4

雨に金糸雀

 椎弥が引退してから約五ヶ月。二月も下旬となり、最高気温が二桁に達する日も増えてきた。皓汰の祖父が植えたという玄関の前の桜も、遠くない春を待ちわびているように見える。
 椎弥は枝を見上げて顔を綻ばせてから、桜原家の引き戸を開けた。
「ただいまー」
「おかえり……ごめん、せっかく起こしてくれたのに二度寝した」
 桜原皓汰がぼろぼろの寝間着姿で階段を降りてくる。麻の葉柄の浴衣。毎晩整えてやっているのに、皓汰の寝乱れは芸術的にひどい。
「悪いんだけど、お昼書きながら食べれるやつにして」
「と、思ってパン買ってきた。サンドイッチでいい?」
「助かる」
 引き返していく背中。衿が抜けて肩が半分出ている。えっちだなぁ、と素朴な感想を抱きつつ、踏んでこけなきゃいいけど、と心配もする。
 皓汰との生活は概ね順調だ。
 まだマスコミが相手の特定に躍起になっている頃、皓汰が――櫻井皓が出版社を通して正式に椎弥との『結婚』を発表してくれたのが大きかった。櫻井皓の作品は一貫して既存の性の在り方に疑問を投げかけてきたから、彼のファンのほとんどは椎弥との関係に好意的だった。
 椎弥も彼の覚悟を受け、あらためて取材の場を持ち彼との関係を公にした。歓迎する声には心から喜んでみせたし、性根の曲がった質問には最大限傷ついた顔もしてみせた。
『僕は今まで誰にも恋愛感情というものを抱いたことがありませんでした。そういうものがあるようだと理解はしながらも共感することができなくて、恋愛に関する質問を受ける度ずっと苦しんでいた』
 半分しか事実でないことを堂々と言い放った。真実で傷つくのは自分ではないから死ぬ気で、いや、殺す気で隠し通した。
『あなた方が奥さんや旦那さんとの夜について他人に訊かれたくないなら、そして相手もそうかもしれないという想像力を働かせられるなら、僕とあの人とのことはどうかそっとしておいてください』
 世間の声は大体椎弥の狙いどおりになった。人々にとっての問題は『三住椎弥が同性愛者であること』から『他人の恋愛や結婚に口を挟む無神経』にすり替えられ、テレビは椎弥が黄色の瞳から一筋涙を伝わせる瞬間――片方の目許に刺激物を塗っておいたおかげで、我ながら美しく泣けた姿――を連日報道した。バッシングを恐れたコメンテーターたちは、おっかなびっくり椎弥に同情するコメントを発信し続けた。
 椎弥はアンチのふりをして、自分の悪口をネットに投下するだけでよかった。その雑言が事実であろうとなかろうと、『善意』の擁護派が本当のアンチごと焼き尽くしてくれたから。
 球界に未練はなかった。永久に蔑まれても皓汰と二人なら後悔はしないと思った。それでも何割かの人たちが心から祝福してくれたときは、本当に嬉しかった。そう感じられるぐらいには、野球と関われたことを喜んでいる自分が誇らしかった。
 何らかのかたちで残らないかと誘ってくれる人もいた。けれど椎弥は何よりも皓汰を支えていきたかったし、ようやく本腰を入れられる『本業』もあった。実益を兼ねたネット絡みの悪趣味は、実のところ皓汰の稿料より多くの金を呼んでいる。皓汰には、収入について『合法な範囲で資産を運用している』としか申告していない。実際この水準の生活でいいなら、椎弥は貯金と片手間にやっている株トレードだけで一生皓汰を食わせてやれる。櫻井先生のやる気を削ぎたくないので口にはしないが。
 結局一度もよそに移らなかった球団の応援歌を口ずさみつつ、耳のないパンに室温に戻したバターを塗り、ワインビネガーに漬けておいた四角いキュウリを並べていく。キューカンバーサンドは皓汰のお気に入りだ。
「帰ったのか」
 皓汰のものより低い声と共に、ダイニングに男が入ってきた。皓汰の父の桜原太陽(たいよう)だ。二十歳そこそこで二児の父となったそうで、年齢は椎弥の両親より五つほど若く五十になったばかり。骨格は皓汰よりがっしりしているが、顔立ちはタイムラプス写真みたいに似通っている。
「お父さんも、昼食サンドイッチでいいですか?」
 太陽は頷いて食卓につき、煙草に火を点けた。決まってメビウスのオリジナル。こだわりというより変えるのが面倒なようだ。皓汰は気分ですぐに浮気するのに。
 椎弥は馴染んだ紙煙草の匂いを嗅ぎながら、太陽の好きな玉子サンドのペーストを準備する。
 家主である太陽は、椎弥がこの家に住むことに全く反対しなかった。手土産持参の挨拶で戸惑った様子だったのは、椎弥のファンだからというだけらしい。
 桜原太陽は息子と椎弥の関係についても、唐突な引っ越しについても何ひとつ訊かなかった。椎弥と皓汰が同性であることも、こうなった経緯のことも。ただ深々と頭を下げて、不束な息子ですが頼みます、と絞り出し、寿司をとって三人で食べた。
 以来椎弥は彼の二人目の息子になった。特に気遣いもされないし邪険にもされない。家族として、皓汰と同じ距離感で――つまり余計な干渉をされずに過ごさせてもらっている。
「ところでな」
 太陽は紫煙をくゆらせ、どこから持ってきたのか分からない接続詞を浮かべた。
「あれの母親が近いうち戻ってくる」
「奥さんがですか?」
「元だが」
 口の減らない皓汰と違い、父親はあまり言葉がうまくない。そのうえ表情に出ないので何を言いたいのか掴むのにコツがいる。だが今回はそのテクニックを使う暇もなかった。
 玄関からガチャガチャと錠の外れる音。椎弥はエプロン姿のまま急いで廊下に飛び出す。
 女がいた。黒いショートボブの女。三十代のように瑞々しくも六十代のように疲れきっても見える。
「あら。あなたが皓汰の奥さん?」
 落ち着いた艶のある声と、人を食った老獪な笑み。実物は写真以上だなと怯んだ本音を押し込めて椎弥は笑い返した。
「三住椎弥といいます。お目に書かれて光栄です、柏木夢子先生」
「ご存知なの? だったら話は早いわね。皓汰の母の柏木です、よろしく」
 皓汰と柏木夢子の関係を椎弥が知ったのは、四年前のマンションで食事を共にした夜だ。スミレの写真を見たときの態度が引っかかって、皓汰が帰った後すぐに調べた。本人は今になっても母親の話を一切しないので、椎弥は彼女が皓汰の敵か否かをまだ決めかねている。
 靴を脱ぐ柏木の横から、椎弥はスーツケースを框に引き上げた。
「ヨーロッパでお仕事されてたんですよね。無事にお帰りになって何よりです。あの辺りは近頃きなくさいですから」
「詳しいのね。パートナーの身辺を嗅ぎ回るのはお好き?」
「好きというより習い性ですかね。子供の頃は名探偵になるのが夢だったんですよ。日本ではどうやらそれじゃ食べていけないと分かってからも、調べる癖だけは抜けなくて。育ちが悪くて面目ありません」
「そう? 三住製薬の御曹司にしては上等なご趣味だと思うわ。わたしもそういうのは大好き」
 淀みなく、歌うように答える柏木。あの父親でどうして皓汰がああなったかと思っていたが、道理だ。彼は間違いなくこの女の血を継いでいる。
 どたどたと慌ただしく皓汰が降りてきた。だらしない浴衣姿のままだ。いくら綿入れを羽織っても胸元が開きすぎている。
「おかーさん、またいきなり帰ってきて……」
「ただいま皓汰。おじいちゃんの服、着ることにしたの? よく似合ってるわよ」
 柏木夢子は椎弥の手からスーツケースを取り、中廊下を奥へと進んでいった。
 皓汰が歩み寄ってきて険のある声で耳打ちする。
「椎弥、大丈夫? 変なこと言われてない?」
 息がかかってこそばゆい。椎弥は冷えた板の間で、大事な人の襟をかき合わせる。
「それよりこーた、やっぱ浴衣で寝るのやめたら? はだけすぎだって」
「だって」
 二十九歳の成人男性が、悪びれもせず片頬を膨らませた。
「和装えっちって興奮するんだもん」
「……それは」
 椎弥は咳払いしたが、赤くなった顔は隠せなかった。
 椎弥との声明を出すにあたり、皓汰は性別を問わず全てのセックスフレンドと手を切ってくれた(彼との日々を週刊誌に売る不届きな輩はいないかと、椎弥は嫉妬半分探ったが、彼・彼女らは見事なまでに櫻井皓を知らなかった)。皓汰の性欲は椎弥一人に集中することになり、昨晩も――。
 首を振って邪念を払い、椎弥は皓汰の帯を結び直す。
「直しても直しても気付くとべろべろにするだろ、いい加減風邪ひくよ。おれパジャマ買ってあげたじゃん」
「いやアラサーの男にウサ耳もこもこパーカー着て寝ろって結構な要求だよ?」
「かわいいよ」
「かわいいけど」
「似合うし」
「似合うけど」
「じゃあ問題なしでしょ。はい拗ねてもかわいい」
 むくれる皓汰の頬を両手で撫でる。
 まっすぐで短い眉、切れ長の黒い瞳、小さくて薄い唇、極めて和風なパーツが、顎先に向かうにつれすらりと細くなる顔の中に退屈そうに収まっている。たまらなくなって抱きしめた。ずっと思い描いてきた顔貌とは何もかも違うのに、どうしてこんなに手離しがたく感じるのだろう。
「どしたの? 我慢できなくなってきちゃった?」
 皓汰の手がふわりと椎弥の首に回る。強引にキスされる。身体の芯から欲望を引きずり出すように、厚く熱い舌が絡む。つま先まで冷え切るような真冬の玄関で、淫猥な炎が熾る。
「皓汰。椎弥くん連れてこっちへいらっしゃい」
 見計らったとしか思えない呼び声に、椎弥は視線を背けて身を離した。
 柏木夢子、フォトグラファーにして桜原皓汰の実母。一筋縄ではいかないか、と椎弥は指の背で自分の口唇に触れた。

 

 椎弥はここに来てしばらく客間を借りていたが、今は皓汰の姉が使っていた部屋をあてがわれている。当人が快く譲ってくれたのだ。ありがたい反面、生まれ育った場所を笑顔で手放せる自信が正直羨ましかった。椎弥は実家の部屋に暗い思い出しかない。
 その部屋に新調したベッドを置いた途端、皓汰がマーキングに来た。元が姉のテリトリーだとかそういうことは頓着しないらしく、こっちの方が広いからとほぼ毎晩布団に潜り込んでくる。
 今夜も皓汰は当たり前にやってきて、当たり前に椎弥にまとわりついた。
「椎弥、いつもより激しくなかった? 女の喘ぎ声聞くの初めて?」
「……それ別にカンケーないよ」
 品のない質問に、椎弥は眉をひそめて寝返りを打つ。
 いつもより余裕なく求めた自覚はあった。皓汰が来る前から身体が熱かった自覚も。真下の部屋から断続的に聞こえる情事の声に、有体に言えばあてられたのだ。
 椎弥は女を抱いたことがない。男に抱かれたことも、目の前の相手の他にはない。他人の婀娜声を耳にして真っ先に浮かんだのは皓汰の白い肌だった。陽を忘れ夜ばかり食んで生きている不健全な肌。
「こーたも声大きいじゃん。二人に聞こえたかも」
「いいよ、親父は今更だし。お袋も親子だなーってぐらいしか思わないでしょ」
 少しは恥ずかしがるかと仕掛けた意地悪も、皓汰はあくびひとつで片付けた。一方的にダメージを負った椎弥は黙り込む。
 皓汰の声が大きい――多分だ、椎弥の中に比較対象はない――のは、最初の男が彼をそう躾けたかららしい。今では声を上げないと気持ちよくなれないと笑っていた。笑っていた分、椎弥はその男をどうにか見つけ出して殺したくなる。皓汰が望まないからしないけれど。
「喉乾いたろ。水持ってくるよ」
 自分の服の代わりに、皓汰が寝間着にしている櫻井()の浴衣を羽織った。ありあとぉ、ともう半分眠っているような口調で皓汰は枕に突っ伏す。椎弥は皓汰の髪を一撫でしてから身なりを整え、廊下に出た。そっと階下に降りダイニングを覗く。
 先客がいた。柏木夢子だ。この冷えるのにボトムスを身に着けていない。着丈の長いネイビーのトップスから覗く脚は細く引き締まっており、おばちゃんのパジャマ姿と呼ぶにはかなり色香が勝っていた。
 柏木は椎弥に気付き、黒いボブカットを余裕ありげに揺らす。
「お先にいただいているわよ。ミルクでいい?」
「いえ、お気遣いなく」
 椎弥は笑みをつくって距離を取った。冷蔵庫ではなく水道からマグカップに水を注ぐ。電子レンジに入れて六〇〇ワットで四十秒にセット。猫舌の皓汰でも一気飲みできる温度にするにはこれが一番。
 椎弥がレンジの前に突っ立っている間、突然柏木が口を押さえて笑い出した。
 なにか、と気の進まないながら問うと、いえ、と笑みの消えきらない声で柏木が返す。
「あの子も『普通』のセックスができないのねと思ったら、やっぱり親子ねと思えただけ。気を悪くしないで頂戴。あなたがどうこうということではないの」
「でも、それは……自分も訊く権利があることですよね」
 椎弥の強張った声を揶揄するようにレンジが鳴る。柏木は、片手でとんとんと食卓を叩く。椎弥は肚を括って椅子に座る。
 柏木が手にしているのはホットミルクだった。独特の香りが鼻腔に届くが、味は匂いほど甘くないことを椎弥は経験上解っている。
「あなたが興信所みたいにわたしについて嗅ぎ回っていたことはもう聞いたわ。どこまで知っているのか話してもらいたいの。その方がお互い手間が省けるでしょう」
「素人が個人で動いただけです、肝心なことはほとんど知りませんよ。たとえば、貴女が十五年前太陽さんと離婚したこと、そしてその翌年、ご両親と民事で争ったことぐらい。確か争点は『虐待を理由とする扶養義務の拒否』でしたか?」
「本当に、皓汰はとんでもない子を見つけて来たわね」
 柏木は首を振ってからミルクを口にした。見つけたのは皓汰ではなくこっちだ、という主張は本筋から離れるのでやめる。
 柏木の視線が壁を伝って奥の部屋に向かう。桜原太陽の自室だ。椎弥が借りている部屋の真下。
「太陽がどうしてわたしと結婚したかは調べた? もしくはその『虐待』の内容について」
「いえ、そこまでは、さすがに……記録に残るようなことでもないですし」
 椎弥は言い淀んで、皓汰のために用意したはずの白湯を一口飲んだ。
 桜原太陽と柏木夢子が結婚したのは二人が十八のとき。長子が生まれたのが十九のとき、皓汰が生まれたのは翌々年の二月。八〇年代といえばそこまでの昔ではない。若くしてせっつかれるように家族をつくったことには、何らかの理由があったはずだ。しかしさしもの椎弥も皓汰から軽蔑されることを怖れて深くまでは踏み込めなかった。
 柏木はつまらなそうに、だがはっきりと言葉を継いだ。
「彼は同情で私をこの家に住ませたのよ。わたしはその見返りに子供を産んだ。愛していた人はお互い別にいたの。……あなたたちみたいに」
「は?」
 喉の奥の奥から不遜な声が出た。
 違う。自分は皓汰を愛している。皓汰も、彼なりに椎弥を想ってくれているはずだ。
「わたしに虚勢を張るのは構わないけれど、自分たち自身にするのはやめた方がいいわよ。わたしたちはそれで二十年を棒に振ったわ。若かったからやり直せたけれど、あなたたちはもう三十でしょう。遠回りしている暇があるの?」
「おっしゃる、意味が」
「解らない? なら皓汰とは別れた方がいいかもしれないわね。あの子はわたしよりずっと聡いし、太陽よりもずっと繊細だもの」
 いっそそうあってくれればよかったのに、柏木の顔に悪意は見受けられなかった。
 本気の忠告なのだ。彼の母の。同情で愛のない男に囲われた人の。
「考え、させて、ください」
 椎弥はマグカップを手にダイニングを出た。適温のはずのお湯はすっかり冷めきっていた。

 

 双子の妹――茗香に関する最も古い記憶は、ピアノの発表会だ。
 椎弥は母親の隣で客席から茗香を見た。淡いグリーンのドレスは強い照明で真っ白に見え、およめさんみたい、めーかがいちばんきれい、と心を躍らせた。
 そして『男女七歳にして席を同じうせず』という父の古くさい考えに沿って、椎弥と茗香は同性しかいない小学校へそれぞれ入った。三歳からの親友である徹平は共学に行ったから、椎弥は一から人間関係を作り直した。低学年の頃は何の問題もなかったが、次第に強烈な違和感に襲われるようになった。
『どの子がタイプ?』
 漫画のキャラクター、テレビのタレント、雑誌のグラビア、クラスメイトたちはしきりと女子の品定めをするようになっていった。
 椎弥はいつも答えられなかった。
 だって、どの子も茗香より圧倒的にブスだったから。
 茗香よりかわいくない女の子を選ぶ意味がなかった。茗香とは生まれる前から一緒なのに、わざわざ茗香より性格の悪い女の子をそばに置く理由がなかった。
 ――世界一の女の子は茗香だから。
 この頃はまだ兄バカと笑い話にできたからよかった。
 笑えなくなってきたのは中学二年生の頃だ。妹を穢す夢を見た。夢の中の茗香は必死に抵抗していた。泣きながら何度も徹平の名を呼んだ。俯瞰して見る自分はそれは醜く笑っていた。
 誰にも言えずに一人で吐いた。妹の顔を見られず食卓にもつけず、部屋に運ばれてくる食事も喉を通らなくなった。その間も椎弥は繰り返し夢の中の妹を犯した。
 耐え切れなくて、同じ中学に進学していた徹平に打ち明けた。徹平は、気の迷いだと心優しい助言をくれた。周囲に他の女子がいないから、欲望がよく知る姿を借りるだけだと。
 椎弥もそう信じたかった。だが誰よりも知っていた。
 三住椎弥は他でもない、三住茗香にのみ欲情しているのだと。
 高等部に上がり、また徹平と別れ、椎弥は硬式野球部の寮に入った。少しでも妹と離れているために。この頃には椎弥の瞳の色が他人と違うことを知る者もほとんどなかった。茗香の瞳に似せた、真っ黒なレンズでいつも覆っていたから。下世話な話に適当な言葉を返すのも上手くなった。野球に集中したいと言えば言うほど、恋愛沙汰の種は自然と離れていった。
 高卒でプロになって、また寮に入って、一年のほとんどを転々として過ごすうち、茗香と徹平の結婚が決まった。椎弥もずっと望んできたことだ。徹平なら、茗香を椎弥から永遠に守ってくれる。
 椎弥の世界にはずっと茗香と徹平だけがいた。聖母と司祭。他の人間は善き行いに感謝こそすれずっと遠い隣人だ――どんなに助けてくれようと椎弥はサマリア人ではない。ましてやユダヤやレビの人でも。生身の人間の代わりに切り取られた感情だけを食い荒らした。ネット。ゲーム。読書。特に、まだ世間に迎合する術を知らない無名の新人の、あけすけで荒削りな痛みに触れると少しは苦しみが和らぐ気がする。
 そうして櫻井皓の小説に出逢った。
 読んですぐに美しい人だと思った。自身につきまとう色香を自覚して、猥雑な虫を嘲笑いながら使いこなしている。そのくせ世界一自分を嫌っている。ひどく虚ろだと感じている。その空洞に意味を見出そうとする賢しい人間は、男も、女も、等しく滅べばいいと願っている。
 櫻井皓の書く台詞は椎弥の言いたいことだった。
 櫻井皓の綴る文は椎弥の考えていることだった。
 もっともっとこの人を知りたい。乏しい情報を繋ぎ合わせて所在を突き止めたとき、それが手の届く範囲であると気付いてしまったとき、椎弥はたまらず櫻井皓の家まで押しかけた。
 その人は椎弥の予想とは違って男性だった。特別綺麗でもない、平凡な顔立ちの青年。
 櫻井先生? と問いかけると、訝しそうに髪を耳にかける仕種をした。
「祖父に何かご用でしょうか」
 何でもない一言が蠱惑的だった。厭世的で、そのくせ石を投げられるだけの強さもなく、斜に媚びたような声だった。ジャケットからわずかに出た肌は、ソメイヨシノの花弁みたいに淡い艶を放っていた。
 ああ櫻井センセーだ、と椎弥は微笑んでいた。
 マッチョイズムの中になく、ミサンドリーの外にあり、他人からのカテゴライズを拒絶する。彼はきっと九十九匹になれない自分たちの代弁者になるだろうし、ならなければならない。
 櫻井皓と言葉を交わした日から、件の夢は明らかに減っていった。
 身体を重ねた後は一度も見ていない。

 

 椎弥が冷めた白湯を持って二階に戻ると、皓汰は黒いふわふわのパーカーを着てうつ伏せでスマホをいじっていた。椎弥は皓汰に近づいてウサギ耳のフードを被せる。
「おれのあげたパジャマ、着てくれたんだ」
「浴衣盗られたからね」
「かわいいよ」
 皓汰は煩わしそうに頭を振ったが、フードを払いのけはしなかった。椎弥はヘッドレストにカップを置き、毛布の下に身を滑らせる。皓汰がスマホから目を上げない。
「お袋に何か言われたんでしょ」
「『なにか』って三文字で片付けるには、かなり重かったけどね」
「そ。この家そんなんばっかだから、正直どれのことか分かんないな」
 皓汰の足が椎弥の足をつついてくる。布団の中にいるのに、さっきまで歩き回っていた椎弥より冷たい。ぬくもりを分けようと脚を絡める。どうして親子そろってズボンを穿かないのか。
「お父さんがお母さんと結婚したのは同情で、皓汰たちはその見返りって、どういう意味?」
「なんだ。その話か」
 はふ、と皓汰はあくびを噛み殺した。
「俺がじいちゃんのこと尊敬してるのは知ってるでしょ」
「櫻井朔先生だろ? おれもあの人の文章好きだよ」
「うん。でも、もうひとりの祖父の話は一度もしたことないよね」
 皓汰はスマホの電源を切り枕元に伏せた。フードのせいで横顔は半分しか見えない。
 椎弥は指先でそっと皓汰の輪郭を探す。
「聞かせて。きっと大事な話だ」
「どうかな」
 皓汰は大儀そうに口許を歪めて、母方の祖父母について語ってくれた。
 柏木夢子の実父は、娘が生まれる前に行方をくらませた。母は何度か男を替えたが、再婚した男が最低最悪だった。殴る蹴るの暴力に留まらず、娘を――まだ初潮も来ていなかった少女を犯した。母は娘の味方をするどころか、自分の男を奪う存在として露骨に敵視し始めた。
「姉貴を産む前に二度中絶したって言ってた。高校生だった親父は、偶然そういうことを……お袋が証拠品として学校のロッカーに隠してたひどい写真を見て、知った。ただそれだけだった。それだけで、目の前で泣いてた同級生を助けた。自分の恋もその先の人生も投げ出して。子供(おれたち)のことにしたって、対価なんて言っても自分のためじゃなかった。ただ大好きな父親に孫を見せたかっただけなんだ。間に合わなかったけどね」
 バカなんだよ、と皓汰は突き放した言い方をしたけれど、椎弥には解る。
 皓汰は父親によく似ている。自分の想いより人生より、目の前の傷ついた小鳥を迎え入れる方を選ぶようなところが。
 ふわふわした背中をそっと撫でる。皓汰が苦笑する。
「あんま深刻にならないで。今はあの二人、籍こそ入ってないけどあの通りちゃんと夫婦だし」
「二十年棒に振ったっていうのは?」
「そこまで話したの? 二人とも、隠そうとしてた片想いを吹っ切るのに時間がかかったってだけだよ。それからやっとお互いの顔を見られるようになったってだけ」
 椎弥は皓汰に触れる手を止める。自分を向いた瞳を見つめ返せず目を伏せた。
「それができないなら、こーたと別れた方がいいかもって言われた」
「指示語の示すものが曖昧」
「作文の添削みたいに言うなよ。……片想いに、ちゃんとケリつけるってこと」
「ふうん?」
 皓汰は首を傾げると、身を起こして椎弥の脇に体育座りした。ウサ耳フードはうなじに落ちて、男性としては長い黒髪があちこちに跳ねている。
「椎弥はどうしたいの」
「おれは、センセーと別れたくないよ。でも」
 起き上がろうとしたら抱きしめられた。
 そうだね、と皓汰はそれこそどこへ向けているのか分からない相槌を打った。
「俺はお袋の考えてるほど思い詰めてないよ。椎弥の好きな人が、他人ほど簡単に片づけられる相手じゃないことも知ってる。だから椎弥が決めていいんだ」
 椎弥は黙って皓汰の背に腕を回す。食べさせても食べさせても薄い。太らないまでも、もう少し健康的になってもいいのに。
「椎弥が墓まで持っていきたいなら俺もそうする。区切りを付けたいなら、どんな結果になってもここで必ず椎弥を待ってる」
 皓汰の手が椎弥の頬にかかる。夜闇の瞳に、カナリヤの鮮やかな黄が灯る。
「選んでいいんだ。君の人生なんだから」
 思ったよりも冷たい肌が、印象よりも骨ばった指が、椎弥の輪郭を包んでいた。これから発する言葉を受け止めるかのように。
 返さなければいけないと思った。重大な宣言をしなければならないと。
 けれど椎弥が口にできたのは、関係も自信もない台詞だけ。
「こーたは、おれを、愛してる?」
「軽率に断じたくはないけど」
 妙な予防線が皓汰だった。持って回った言い方が櫻井皓だった。
「俺は君を手放したくないし、無為に泣かせたくない。抱き留めておきたいと感じている。君がこの執着を『愛』という言葉に置き換えたいなら、それでもいい。俺たちの間では『それ』が『愛』だということにしよう」
 椎弥の大事な二人が、声を揃えて言うのならばきっと。
愛してるよ。椎弥」
 ――それこそが、椎弥の殉じるべき定義なのだ。
 椎弥は彼の両手に包まれたまま何度も頷いた。
「確かめてくる。俺が一番愛してるのはあなただってことを。たとえそれであの子に二度と会えなくなっても、あなたが待っていてくれるのなら」
「椎弥はいい子だね」
 額にやわらかなキスが落ちる。人に赦される安らぎを、椎弥は初めて得た気がする。皓汰にしては不自然なぐらいの優しさだった。こんな風にぬくもりをまっすぐ受け取れない弱さも、いつかは失くしてしまえればいい。
 ゆっくりと重くなるまぶたも、弛緩する身体も、全て預けて意識を溶かした。
 この日見た夢は、ひとつも記憶に残っていない。

 

 決心をしたところで、皓汰にしたほどの電撃戦を茗香に仕掛けられるわけもなかった。今まで逃げに逃げてきたから、急に向き合うといってもやり方が分からない。
 初恋っぽいねぇ、思春期だねぇと皓汰にはにやにやされている。甚だ不本意だ。
 冷蔵庫を覗き込み、椎弥はため息をつく。
「何もねぇー……」
 柏木夢子は台所に立ち入るタイプの女性でなかったが、成人が一人増えるとやはり影響が出た。ここ数日は椎弥も見栄で華やかな品を足したりしたから、完璧だった食材フローに乱れが生じている。
 冷蔵庫の扉を閉めて、今朝入ってきた新聞の折り込みチラシを広げた。
 これは行きつけの八百屋の二色刷り、こっちはときどき使うスーパーの両面フルカラー、手を変え品を変え興味を引こうとしているが、要するに見慣れた商品ばかりだ。皓汰の三十の誕生日は明日だし、気晴らしも兼ねてもっと特別なレシピに挑戦したい。
 スマートフォンで近隣の食料品店を検索する。一人暮らしの頃よく利用した高級スーパーの名前がある。いつも買い物をする地域とは真逆だが徒歩圏内だ。
 白のオックスフォードシャツに、ライダースジャケットを羽織って外に出た。昨日は雨で冷え込んだものの、今日はなかなか暖かい。春の気配に足取りも軽くなる。
 初めて行く店舗は、高葉ヶ丘駅前の総合アミューズメントパークの中にあった。
 椎弥はつい挙動不審になる。子供の頃でさえこんな楽しそうな場所には来たことがない――椎弥の目は、世間体を気にする両親が連れ歩くには派手すぎたのだ。ジェットコースターも観覧車も、球場に出入りするとき遠目で見ただけの異界の物体だった。
 平日の昼間でもショップ街はそこそこ賑わっていたが、おしゃべりに夢中な女性グループや自分たちしか見えていない学生たち、幼子のお守りで手一杯の母親などが各々騒がしくしているだけで、誰も椎弥には気を払わない。昔ながらの商店街で『コウちゃんの旦那さん(あるいは奥さん)』と呼び掛けられるのも悪い気はしないけれど、椎弥はまだ下町的な近所付き合いには慣れていない。このくらいの無関心が一番楽だった。
 クレープ屋の近くに差し掛かる。五歳ぐらいの子供が二人、交互に駄々をこねている。双子か、大変そうだなと父親を見たらばっちり目が合った。
「椎弥⁉」
「……てっぺー」
 椎弥は後ずさって親友の名を呼んだ。こんなところで会うなんて、いや、不定休の友人がたまの家族サービスをしているのは何も不自然ではない。場違いなのは椎弥だ。
 徹平は両手にそれぞれ子供を抱えて駆け寄ってくる。
「買い物か? こっちの方に足伸ばすなんてめずらしいな」
 幼女がステレオで、だぁれーだぁれーと繰り返している。双子の姪。生まれたと聞いたときに祝い金を贈ったきり、会うのは初めてだ。徹平は上下に軽くバウンドしながら答える。
「椎弥お兄ちゃんだよ、いつもテレビで見てたろ。椎弥、こっちが清香(さやか)でこっちが鈴香(すずか)
 さぁかです、しゅずかです、と元気よく挨拶されて、しーやですとつられて返した。雰囲気は似ているけれど茗香の子供の頃の方がかわいかったなんて、本人たちや父親の前では言えやしない。
 徹平は太い眉を寄せ、斜め奥の公衆トイレに視線をやる。
「急いだ方がいいかも。多分そろそろ戻ってくる」
 誰のことを指しているのかはすぐ分かった。今までの椎弥なら気遣いに感謝して即座に立ち去ったはずだ。だが迷ってしまった。これは大きなチャンスなのでは? 待て、一家の時間を邪魔してまで自分が楽になりたいのか? 徹平が一日休みだなんて、そう頻繁にはないだろうに?
「え、椎ちゃん? どうしたの。こんなところで」
 ベビーカーを押した女が声をかけてくる。顔を上げるまでもない。茗香だ。
「ママしーやちゃんだよ」
「しーやちゃんパパのおともだちなんだよ」
 双子がご丁寧に説明をしてくれて、まだ言葉もおぼつかない様子の赤子はベビーカーからまじまじと椎弥を眺めた後、とりあえずという感じでカーゴパンツのポケットをつかんだ。
「清香と、鈴香と、この子が朝香(あさか)です。椎ちゃん会うの初めてだよね」
「あ、うん」
 答えるついでに茗香を盗み見た。腰まであった髪を肩を過ぎるぐらいまで切って、くたびれたシュシュで一つに括っている。子供たちを連れて日常的に外出するためなのか、透き通るように白かった肌はいくらか焼けたようだった。
「椎ちゃんもお買い物? それなら、一緒に行ってうちで一休みしない?」
 茗香に笑顔で提案され、椎弥はかすれた声で、いいよと返した。
 随分強引になったなと思ったけれど、昔からだった気もする。茗香は椎弥も徹平も手を焼くほど、とびきり素敵で頑固な女の子だったから。

 

「ごめんね、散らかってるけど」
 茗香の言うことだからどうせ謙遜だろうと高を括っていたら、井沢家は本当に散々な有様だった。ところ構わず洗濯物が干してあるし、三歩歩けばおもちゃに当たるし、テーブルの上は何だか分からない色紙のくずだらけだ。
 双子は靴を脱ぐなり駆け出して、人形を取り合い大ゲンカになった。ベビーカーを片付けていた茗香がすっ飛んでいって説教を始める。
 徹平は茗香の作業を引き継いで苦笑した。
「悪いな。呼んどいてこんな状態で」
「おれたちがガキの頃のがひどかったろ。あんま覚えてねーけど」
 椎弥は建売一戸建ての壁を撫でる。低い位置にカラフルなシール。かわいいものだ。椎弥と徹平は、三住家の柱に自分の背の高さをマジックで書き込んで大目玉を食らった。
 そのまま昔話に移行するかと思いきや、徹平は声を落として椎弥に首を寄せた。
「茗香に話したいことあるなら、協力するぞ」
「……君のような勘のいいデカは嫌いだよ」
 椎弥は漫画の台詞をもじって強がってみる。有名なネタだと思うのに徹平には全く通じていない。観念して息を吐き、一言だけ告げた。
「めーかに告白する」
「そうか」
 徹平も一言しか返さなかった。コアラのように椎弥の足につかまっていた三女を抱き上げ、明るく通る声を双子に向ける。
「ゆうやけたんけんたーい!」
「いちーっ!」
「にーっ!」
 緑の服の女児が右手を挙げ、黄色の服の女児が左手を挙げ、揃って徹平の元まで駆けてくる。
 徹平は椎弥の右肩を二度叩くと、父親の顔で娘たちにコートを着せて冬の街に出ていった。
「近所の坂を上がっていくとね、夕陽がすごく綺麗に見えるの。すぐそばなんだけど、子供の足には探検みたいに遠く感じるみたいだから」
 茗香がソファの前のラウンドテーブルにカップを置く。促されて右端に座る。茗香が横に腰を下ろす。懐かしい居心地の悪さだ。正面に座るのも隣り合うのも不安になる。
「桜原さんはお元気?」
 茗香は結婚式以来顔を見せなかった不義理を責めもせず、ゆったりと問いかけてくる。飲んでいるのはコーヒーだ。しかもブラック。椎弥の知る茗香は紅茶党で角砂糖を三つも入れていた。
 げんきだよ、と小さく返して、椎弥も浅煎りのコーヒーを喉に流し込む。せっかく徹平が時間をつくってくれたのに、頭の中が真っ白で何を言っていいのか分からない。
 茗香はカラフルなカップを両手で持って、少し笑った。
「桜原さん、優しい人でしょう? 椎ちゃんのこともきっと大事にしてくれてるんだろうなって思って」
「めーか、セン……こーたと交流あったんだ?」
 椎弥はやっとまともな口を利く。交流ってほどじゃないけど、と茗香はカップを置く。視線は膝の上で汲んだ両手に注がれていた。
「わたしと椎ちゃんも双子だけど、多胎育児って本当に寝る暇もなくてね。清香と鈴香が生まれたばかりの頃は、わたしもすごく余裕がなくて、徹平くんもああいうお仕事で留守がちだから、もう全部嫌になっちゃって……お母さんを電話で呼びつけて、子どもたちを押し付けて家を飛び出しちゃったことがあったの」
 椎弥は相槌しか打てずに茗香の告白を聞いていた。
 よく聞く話だけれど、茗香までそんな風になるとは考えたことがなかった。茗香ならきっと絵に描いたような良妻賢母をスマートにこなすと勝手に思い込んでいたから。
 茗香は鼻をすすって天井を仰いだ。ろくにとかした様子のない黒髪が首の方に流れる。
「桜原さんと道で偶然会ってね。手ぶらだったから多分散歩か買い物の途中だったんだと思うな。でもわたしが泣いてるのに気付いて、『奥さんちょっとお時間よろしいですか』なんて、近所のジャズ喫茶に連れて行ってくれたの。わたしは初めてのお店だったけど、桜原さんはご主人と知り合いだったみたいで居心地のいい席を用意してくれて、楽器の生演奏聴いたのなんて久しぶりだったな」
 椎弥はつい笑みをこぼした。皓汰らしいおどけ方だ。徹平と茗香がデートで何度も使ったという、警察署前の喫茶店を避ける気遣いも。
 茗香は顔を動かして椎弥を向いた。口唇はやわらかく弧を描いている。
「桜原さん、何でも話していいって言ってくれたの。自分の仕事はいろんな人の体験と気持ちを集めて活かすことだし、聞きたくないことや聞いて害になることはないからって。話したいことを話したいだけ話していいって言ってくれて……結局、徹平くんが迎えに来てくれるまで二時間ぐらいかな。嫌な顔ひとつしないでわたしの泣き言を聞いてくれて、最後に短く『どうもありがとう』って。お礼を言わなきゃいけないのはわたしなのに、なんて優しいんだろうって思った」
 そうだね、と椎弥は目を伏せる。
 優しい人だ。桜原皓汰は。いざこざに首を突っ込むのが嫌いなくせに、いざとなると静かに親身になってくれる。だから本当に甘えていいのか疑問になる。このまま彼の人生を踏み壊していいのかと足がすくむ。
 椎弥はテーブルの周りに散らばったクレヨンを一本ずつ拾い、小さな箱に収めていった。
「おれもお礼を言わなきゃ。大事な妹を助けてくれてありがとうって」
「桜原さんと、わたしの話するの?」
「こないだもしてた」
「どんな?」
 十二色揃ったクレヨンの箱を茗香が閉じる。椎弥も口を開けられなくなる。
 時計の秒針がうるさく響き、その音に紛れて茗香が呟く。
「椎ちゃんは、わたしのこと嫌いなんだと思ってた」
「そんな」
 ことないよ、と続けかけて黙る。
 そんなことないよと言ってしまいたかった。今までみたいに嘘に逃げてしまいたかった。
 椎弥は左手をぐっと握り締める。薬指に光る、桜原皓汰に渡したのと同じデザインのリング。
 そうだ。どうなっても帰ってきていいと言ってくれた。待っていると。
 椎弥は情けなく声を震わせて頭を下げた。
「ごめん。めーか」
「ううん、いいの。一緒にバージンロードを歩いたとき、そうじゃないって気付いたから」
 茗香が椎弥の右腕に触れる。井沢徹平と揃いの指輪が光る左手で。
 通常父親と歩くバージンロードを、茗香はどうしても椎弥と歩きたがった。父の面子を潰してまで我を通すのはきっと初めてだっただろう。椎弥は迷って、迷って、櫻井皓に――桜原皓汰にふわりと背を押された。そうして茗香の手を取って、徹平に――一番信頼している男に一番愛している人を託した。
「めーか。おれはね」
 腕を動かして、右手で茗香の指先に触れる。獣のように理性を失うかもと怯えていたのに、速くなる心拍は別の理由だった。
 子供たちがにぎやかに暮らす一軒家。リビングで休む一対の男女。
「おれ、めーかとこんな風に家族を築きたかった」
「うん。知ってた」
「違うよ。めーかは知らない。おれがどんな風にめーかを好きだったか」
 おれは本当の君をずっと知らなかった。君も知らない。君の兄貴がどんな男だったか。
 人生でこれ以下の顔をすることなんてないぐらいに、無様な顔で涙を絞る。
「おれは、てっぺーの位置にいたかった。君と生まれたままの姿で愛し合って、おれの子供を産んで笑ってほしかった。おかしいし、きもちわるいだろ。こんなの」
 知ってた、と茗香は繰り返した。
 穏やかに、諭すような声で。
「椎ちゃんがずっとわたしを守ろうとしてくれてたこと、気付いてた。わたしを愛していても、愛しているから、その気持ちを絶対表に出さないようにしてくれてたことも」
 茗香はティッシュで椎弥の涙を拭い、額に口付けをくれた。
 祝福のキス。眠りにつく子供から悪夢を取り去るおまじない。幼稚舎の頃は毎日交わした親愛の動作。
 椎弥は茗香の両肩に手を置き、彼女が好きだと言ってくれたカナリヤ色の両目で、全く似ていない黒い瞳をまっすぐに見据えた。
「めーか、おれ、こーたを愛してる」
「うん。わかるよ」
「一番気持ち悪いところから、少しはマシな恋に移れたってだけだけど、それでも」
「椎ちゃん。そういう言い方しないで。わたしは気持ち悪いなんて一度も言ってないし、桜原さんにも失礼だよ」
 茗香の手が椎弥のやわらかな癖っ毛を撫でる。
 自分の気持ちを言葉にできずに、すぐ泣いてばかりだった茗香。いつの間にこんなに饒舌に椎弥を叱れるようになったのだろう。
「わたしは徹平くんが好きだから、あなたを選ばなかっただけ。徹平くんもわたしを選んでくれたから、もうわたしは絶対にあなたのものにはならない。だからあなたも安心して、あなたを愛してくれる人の手を取って」
 椎弥は頷き、茗香の額に口付けを返した。大人になった妹へ。そして永遠に分かたれた半身に向けて、最後の祝福を心から贈った。
「めーか、ありがとう。愛してた。これからも大好きだよ」
「ありがとう。わたしもいつまでも大好きよ。兄さん」

 

「めーかに話してきた。全部」
 椎弥は桜原家に戻ると、廊下で待ち構えていた皓汰へ手短な報告をした。
 そう、と皓汰の返事も簡潔だ。階段を上がりかけてから、思い出したように首だけで振り向く。
「その袋片付けたら仕事部屋に来て」
 皓汰には何の表情もなかった。感情のことごとくが抜け落ちた顔。角度がついても別段の光にもならない。能面の方がよほど感情豊かに見える。
 椎弥は眉を下げて頷いた。きびすを返す皓汰の、着つけた覚えのない刈安の角帯が目に付く。
 皓汰がああいう顔をするときは、ろくなことを考えていないのだ。他人にとってではなく皓汰自身にとって。椎弥は食材を手早く片付けると二階に上がった。
 皓汰が仕事部屋と呼んでいるのは、櫻井朔が使っていた和室。皓汰が生まれる前に亡くなったというが、祖父の遺した本に育てられた皓汰は立派な『おじいちゃん子』だ。最近では着物も板について、近所の呉服屋で黒地に派手な花柄の袷を仕立てた。かぶいた皓汰に似合っている。
 椎弥が襖を開けたとき、皓汰はその自前の着物に縞の綿入れを羽織っていた。肩にかけているだけで袖は通していない。古い長持に座り、酷薄な目で口唇の片端を持ち上げる。
「最後の試練」
 袖で指した部屋の中央には花台があった。花台には皓汰が仕事で使っている古いノートパソコンがあった。画面の中ではエプロンをした黒髪の女がおもねる仕種で身体を傾けていた。
「なにこれ」
「最後まで見て。俺の前で」
 周囲のウインドウでいかがわしい動画であることはすぐ分かった。椎弥は後ずさり和室から出る。
「やだよ。なにそれ。意味わかんない」
「椎弥」
 皓汰が傍らの金属バットを手繰り寄せる。両手で持ちヘッドを思いきり畳に打ちつける。古い木造が衝撃に震える。椎弥の足元ももろともに揺らぐ。
 皓汰はバットに体重を乗せた任侠映画みたいな恰好で、椎弥、ともう一度繰り返した。
「俺のこと好きか」
 もはや問いかけではなく恫喝だった。椎弥は気圧されて首を縦に振る。皓汰は視線を目の前の空間に据えたまま椎弥を向かない。色のない口唇で淡々と告げる。
「『降って湧いた希望を掲げて、きっと絶望の埋め合わせになるなんて屈託もなく考えちゃいないだろうね。手前の凹凸を確かめる気概もないくせに?』」
 つい数日前に読ませてくれた原稿の台詞だった。まだ世に出ていない、誰も触れたことのない櫻井皓の言葉。
 金属バットが気忙しく畳の縁を叩く。
「椎弥。もしまたあの夢を見ることがあれば、おまえ今までよりずっと深く自分を憎むよ。彼女が赦したからって自分まで背徳を受け入れるべきじゃないって、二度と誰にも心を開かなくなる。自分にも、井沢にも、彼女にも、俺にも」
 間に皓汰個人の意見を挟んで、衿から露出した白い喉は新しい文言を淀みなく吐き出す。
「『その胸に両手を突き立てろ。灼熱の澱を氷結の泥を掻き分けて、欠落の輪郭を認めろ。おまえの希望のかたちなど、おまえ以外に判りはしない』」
 椎弥はふらりと前に踏み出した。い草の感触。もう一歩先へ。皓汰は何も言わずに見ている。
 櫻井皓はいつもそうだ。安易な救いを認めない。鋭く磨き抜いた現実を、眼孔と同じ高さに置いている。逃げ隠れできない一本道で、光を見出しながら盲いる未来に誘う。
 椎弥はその残酷を愛した。地獄を安息と嘯く不遜に共感した。彼が自分に主人公の席を与えてくれたのなら、我が身のときだけ座り込んで泣いているわけにはいかない。
 部屋の中心に立つ。ろくに暖房も効いていない室内なのに炎天下のように頭がぐらぐらする。
 高二の夏、甲子園球場の真ん中にいたときの光景が脳裏に走る。あのときの方が多くを負っていたはずなのに、今の方が背中は重い。
 喉を鳴らしてパソコンの前に正座する。皓汰はバットを転がして、長持から緩慢に立ち上がった。椎弥の後ろに回り込み、肩越しにするりと両腕を絡みつかせる。
「『覚悟。なんて無邪気な空箱でしょう。私そういう不埒は好きよ』」
 耳をくすぐる甘い声。椎弥が「救いがない」と褒めた『域』のヒロイン、茅子(かやこ)の台詞だ。
 椎弥は黙って皓汰の左手を握り、逆の手でマウスをクリックした。
 おかえりなさい、とカメラに向かって女が言う。茗香とは似ても似つかないが、カテゴリは近い。長い黒髪に大きくて黒い瞳。男の顔は映らない。筋ばった手が女の腰を撫でる。女は半笑いで身をよじる。みだらな水音を立てて口付けを始める。
 椎弥はこういったものに一切触れてこなかった。信心のためでなく、見も知らぬ女のあられもない姿に妹を重ねることが怖かったから。
 エプロンの女は跪いて男のベルトに手をかける。
 二十一世紀にもなって、いかにカトリックといえど性交は生殖の目的でのみするべきとは椎弥も考えていない。徹平は何度も茗香を抱いているはずだし、つまり茗香は確実に処女ではない。
 作りものの夫婦は寝室に移動した。嬉しそうに弾む女の痴態を見ていたら、今日はもう枯れたと思っていた涙が椎弥の目尻から滑り落ちた。
 痛みと呼ぶには淡すぎた。安堵と呼ぶには痺れすぎた。強いて呼ぶなら納得だった。
 穢れではない。徹平となら、茗香には幸福な行為なのだ。
 椎弥も皓汰とならそうであるように。
「おめでと」
 皓汰が頬を寄せて呟く。意味が解らない椎弥の身体の中心を、皓汰の指が示す。
「無反応じゃん。立派なゲイだね」
 口調があんまり下品で、椎弥は噴き出してしまった。緊張の反動でなかなか笑い止まない。
「そうだな。おれもう、こーた以外とはできないよ」
「調教の甲斐がありましたな」
 皓汰は芝居がかった言い方でキスをして、強引に椎弥を引き倒した。畳に積まれた本の匂いが鼻をつく。隣に転がる皓汰は、見たことのないほど幼い笑顔を袖で隠そうとしている。
 ――ああ、そうか。
 またひとつ納得をして、椎弥は皓汰の目許にかかる髪を右手で除けた。
「ごめん。おれが情けないせいで、ずっと不安にさせてた」
 皓汰は口を閉じて瞬きもせず椎弥を見つめた。椎弥はだらりと下がった皓汰の左手を取り、祈りのかたちに指を合わせる。
「おれの絶望は、めーかじゃなくおれのかたちをしてた。求めてた希望は、あなたのかたちをしてる。だから――」
「ねえ椎弥」
 せっかくの決意の腰を折り、皓汰はやわらかく目を細めた。
「初めて会った日、俺が『バージンロード歩きなよ』って言ったの覚えてる?」
「覚えてるよ。だからめーかと歩けたんだ」
「もう一度歩いてみない? 今度はカラコンなしの、本当の椎弥の色で」
 皓汰の目が潤んでいる。茗香と同じぐらい黒くて、誰とも比べられないぐらい涼しげな瞳が。
「茗香さんと歩いてきてよ。俺のとこまで」
 あ、とか細い声が椎弥の喉から漏れる。
 目立つのが嫌いで、人前に出るのも嫌いで、祝われたり褒められたりするのも苦手な皓汰。宗教も学問として知っているだけで、信心とは程遠い。その人が、面倒も責任も全て織り込んで言ってくれた。気の利いた返事をしたいのに上手くいかない。上手くいかないのが嬉しくてもっと泣きたくなる。せめて体温を分かち合いたくて冷たい手をぎゅっと握った。
「ありがとう。おれは、あなたを愛せてよかった」
 皓汰は頷き、春の桜のほころぶように微笑んだ。
「こちらこそ。俺の人生に現れてくれてありがとう。三住椎弥さん」
 時代錯誤な服に包まれた薄い身体を、椎弥はそっと抱き寄せる。自分の吸わない煙草の香りを肺いっぱいに呑む。
 椎弥の生き方も皓汰の生き方も、ろくなものではなかった。
 これからも他人に自慢できるものになりはしないのだろう。
 けれど世界に否定し尽くされても、繋いだ指が痛んでも、おれはおれの大切なものを大切だと叫び続けていくんだ。
 あなたがおれに教えてくれた『愛』は、そういう類のものなのだから。