櫻にカナリヤ - 2/4

青天の霹靂

 三住(みすみ)椎弥(しいや)の引退会見が始まった。
 画面の中の三住は偏光レンズのサングラスをかけている。テロップにも『フラッシュの明滅にご注意ください』と出ているぐらいだから、三住のあの目には眩しすぎるのだろう。
 皓汰(こうた)は自宅の居間でテレビ越しに彼を見る。
 三住が口にしたことの大半――野球についてはどうでもいい。甲子園から約十五年、ファンとして三住を応援し続けてきた父と違って、皓汰にとって三住は友人の友人でしかない。顔見知りが進退を決める瞬間というものを、興味本位で見に来ただけだ。
『引退後のご予定は?』
 つまらない、しかし皓汰の待ちわびた質問に、三住がゆっくりと口唇の両端を上げた。
 サングラスを外す左手の指。こちらに向けた手の甲と、薬指で白く輝くリング。
 黄色と黄緑のオッドアイが、初めてカメラの前にさらされる。
「結婚して、これからの人生をその人に捧げようと決めました」
 皓汰は眉をひそめて、とっくに冷めていた茶を飲み干した。
 三住は叶わない片恋をしていたはずだ。新たな出逢いで容易く捨てられる想いには見えなかったのに。
 瞳の色と結婚のことで記者の質問が錯綜している。三住は度ごとに相手をしっかり見据え、口角をやわらかくくぼませて答えていた。自棄を起こした人間の表情ではない。
 肚を括ったのか。皓汰たち外野には窺い知れない類の覚悟。
 皓汰は興味を失くして立ち上がった。今日び有名人の熱愛報道なら事欠かない。わざわざ生放送に貼りつかなくとも間に合っている。
 廊下に出たらちょうどドアベルが鳴って、インターホンを通さずふらっと引き戸を開けた。宅配業者だ。また修羅場中の意識が朦朧としているとき、現実逃避に服か何かを注文したらしい。
 だが手渡された荷物は、衣類にしてはあまりに小さかった。本かとも思ったが書留だ。言われるままサインをしたが、さすがにここまで重大な品を勢いで買ったりはしていない……はずだ。昨今流行りの送りつけ詐欺でないといいが。
 玄関の薄明かりではよく見えないので居間に戻る。
 品名『貴金属』、差出人――『三住椎弥』?
「相手についてはー、迷惑かかるんでここでは言えないですけど、カメラに向かってメッセージぐらいなら。えへへ」
 何がえへへだ、もう三十路だろうに。
 特徴的な舌足らずが耳につき、ついテレビを見る。画面越しの三住と目が合う。
 三住はカナリヤの羽のように鮮やかな色の目を細め、確かに笑った。
「これからずーっとよろしくね。『センセー』」
 受け取ったばかりの小箱が皓汰の足の指に落ちる。全く事態を把握していない父の後ろで、皓汰はうずくまり頭を抱えた。
 桜原(おうはら)皓汰、二十九歳。職業は作家。
 知り合いであり熱烈な読者の三住椎弥からは、親愛を込めて『センセー』と呼ばれている。

 

「おはよーございまーす」
 玄関先に段ボールが積み上がっている。眼鏡姿の三住椎弥が敷石に立って手を振っている。
「荷運びはこっちでやるから。センセーは気にしないで」
「するだろ……」
 皓汰は寝起きで痛む頭を壁に預けて、弱々しく呟いた。
 三住が持ち込んだものは成人男性一世帯分にしては随分少なく、運んできた車がいつ去ったかも分からなかった。箱の側面には油性マーカーで殴り書きがしてある。『皿』『服』『本』『人』
……人?
「いやもーさー、本はキリないから櫻井(さくらい)センセーの以外全部トランクルームにやっちゃった。家電もほとんど売った。結構金になったよ」
「『人』……とは」
「あ、これ? 想い出の品とか、そういうご縁的なやつ」
「じゃ、なくて!」
 そんなことはどうでもいいのだ。皓汰は箱を中に入れようとする三住の行く手を塞いだ。
「昨日から全く状況が把握できないんだけど。ちゃんと説明して」
 三住は鼈甲眼鏡の奥の瞳を大袈裟に見開く。
「それ今じゃないとダメ?」
「本当は今よりもっと前じゃなきゃいけなかった」
 語気を強めて言う。皓汰の本気を感じ取ったか、三住は抱えていた段ボールを廊下に置いた。
「で、どこから?」
「全部。引っ越しと、会見と、書留のことも、全部」
 皓汰は下駄箱の上から小箱を掴み、三住の胸に押し付けた。昨日の書留だ。三住は口を尖らせて、貴重品の入った未開封の包みを受け取る。
「おれはセンセーが好きで、結婚して一緒に暮らしたくなった。それで全部じゃん」
「どこがっ」
 皓汰は口をつきかけた反論を途中で飲み込む。父は仕事でいないとはいえ、こんなところで軽率に三住の想い人の名を出すのはいかにも不誠実だ。
「そーゆーとこが好き」
 三住は黄色の猫目を細めて、小箱を閉じていたテープを引き裂いた。左手。指輪を抜きにしても、皓汰が意識せざるを得ない手。失策だと知りながら目を逸らした。
「あのさ、こういうの世間で何て言うか知ってる? 俺たちそんなに接点もないし、顔合わせたのだって数えるぐらいで」
「三回だよ」
「だから普通は三回会っただけの恋人でもない同性にプロポーズしないの」
「普通普通って。『普通を疑え』ってスタンスの櫻井(あきら)センセーらしからぬお言葉だな」
 三住の右手が壁に置かれる。間に皓汰がいる。いわゆる壁ドンだが相手は男……逆だ、皓汰が男だった。三住の縦幅は一八〇もなさそうだけれど、横幅と厚みはテレビで見るより圧がある。残っているのはセレモニーの一戦のみとはいえ、現役アスリートの身体だった。
「ね……運命の相手でしょ、おれたち」
 三住の手が下がってきて、皓汰の左手を取る。そのまましれっと薬指に輪っかを――。
 皓汰は我に返り、寸前で三住の指を払った。
「一回寝ただけだろ!」
「大丈夫、うちの両親は多分一回もしないで結婚したし。一回したならした方っしょ」
「絶対そういう問題じゃない」
 皓汰は左手を胸元に退避させ右手で握り込んだ。油断も隙もない。
 三住は時間をかけて皓汰から離れ、床に積んだ段ボールを軽く叩く。
「で、これどこなら運んでいい?」
「いやだから、持って帰れよ」
 否定した皓汰の声を攪拌するように、三住は人差し指を上に向けくるくると回した。
「お姉さんが使ってた部屋、空いてるだろ?」
 頭の中で何かが割れた音がした。困惑を上回った怒りが三住の喉に伸びる。だが届かない。
「よかった。櫻井センセーが怒るとこ、誰も見たことないって噂聞いてさ。触れられたくないとこ知ってるっていいよな。理解者面できて」
 妖しく笑う三住は、皓汰の手首を握る指に少しも力を込めていないように見えた。にもかかわらず肩を震わすことしかできない。これ以上動けない。
「ダメだよ、作家さんは投手と同じで手が商売道具だろ? 大事にしなきゃ。センセー、ただでさえケンカ慣れしてないんだから」
 軽く腕を揺さぶられただけで、皓汰はバランスを崩してその場に両膝をついた。
 三住の言うとおり、皓汰は人生でまともに誰かを殴った経験が一度もない。長らく運動らしい運動もしていないせいで、足腰も体幹もまるでお話にならなかった。
 俯いた皓汰の前に、三住がそっと片膝をつく。
「いろいろ手は打ってる。マンションは引き払ったし、バイクは背格好の似た後輩に譲って、会見の後まぎらわしい場所を走ってもらった。球場も時間差で裏から出て、タクシーで二駅分逆方向に行った後、高葉ヶ丘のホテルまで走ってった。多分まだ、てっぺー以外誰もおれがここにいること勘づいてないはずだから――親もめーかも」
「誰がそんなこと知りたいって言ったよ」
 差し伸べられた手を平手で殴る。
 うん、だからさ、と三住は皓汰の目の前で指輪を外す。元々なかったものが抜けていって、頼りない金属片が皓汰の手のひらに載る。
「今なら全部なかったことにできる。本当に、本当におれのこと嫌いなら、今ここで、何もかも、拒んで」
 人とは違う色の虹彩が濡れて光っていた。
 昨日世間にさらす前から、初めて会ったときから皓汰には見せてくれていた瞳。作りものみたいに鮮やかな、カナリヤイエローとライムグリーン。視線がぶつかる度に脳の裏側がちかちか瞬く。
 三住の手がぎこちなく皓汰の頬をなぞり、口唇は互いの吐息が交ざり合う位置で止まった。
 最後の確認を能動的に求める辺り、誠意というより言質にしか思えなかったけれど――一センチだけ顎を動かして、許可を下ろしてやった。
 こんなつもりではなかったのに、なんて月並みな愚痴も、この期に及んで通用しそうにない。

 

 三住がファンを名乗って桜原家を訪ねてきたのは五年前。二〇一一年だ。最初は当惑した皓汰も話しているうちに彼を気に入り、様々な違法行為には目をつぶってそのまま帰した。
 再会したのは翌年。共通の友人の結婚式で、じゃあ今度はうちにでもと誘われた。祝いの席の社交辞令だと思ったのに、後日三住は律義に皓汰の予定と好物を尋ねてきた。
 そして四年前のクリスマス頃、皓汰は三住椎弥の暮らすマンションを訪れた。冬生まれの皓汰が二十五で、秋生まれの三住が二十六歳の年だ。
 オフシーズンとはいえスター選手の自宅。どんなえげつないパパラッチが待っているかと身構えたが、何のことはない、誰にも接触されなかったしフラッシュの類も焚かれなかった。
 同性ってこういうとき死ぬほど便利だな、と思う。皓汰はセフレのマナミちゃんの部屋に上がるのだってそれなりに警戒するし、やましいことのないバイト先のカナコちゃんとだって彼氏に誤解されないよう気を払いながら接している。
 ガラス張りのエレベーターで、合成背景みたいな夜景を眼下に三十三階まで運ばれていった。誕生日の数字にちなんだと言っていたが、全二階の一戸建てから出たことのない皓汰には、そんな高さで暮らしたい気持ちが一切分からない。
 アトラクションから降りたら、浮いた胃をさすって三三〇一号室の呼び鈴を押す。
「来てくれてありがと。センセー」
 ドアを開けた三住は、鼈甲縁の眼鏡姿で髪もセットしていなかった。対外的な『歯に衣着せぬ強気キャラ』とは全く違う。口調は猫にでも話しかけるように骨がない。
「ゆっくりしてって。何にもないけど」
 どうも、と皓汰は後ろ手にドアを閉め、上がり框まで随分あるなと三和土を見回す。
「玄関広いね。やっぱりそういう仕事だと、大勢呼んでホームパーティ的なことすんの?」
 庶民の皓汰は一番壁際まで寄ってショートブーツを脱ぐ。ううん、と頭上で三住が苦笑する気配がする。
「体育会系って縦社会だし、強引に上がられることはあるけど。おれ基本的に人呼ばないんだ。親とかてっぺーも入れたことねーぐらい」
 意図的に伏せられた名前を掘り返すほど皓汰も無粋ではない。代わりに、一生懸命平行を保ってきた紙袋を三住の手に託す。
「酒飲まないんでしょ。甘いの」
「あ、キルフェボンのタルトだ! おれこれすげー好きだよ」
 目を輝かす三住に、この程度食べ飽きてんじゃないの? とは訊かなかった。招いてもらって当てこすりを言うのも礼を失している。嘘ではない程度の褒め言葉も少し添えておこう。
「イケメンは何着ても様になるね」
 三住はシンプルな白いニットの袖をまくって、ジーンズを合わせているだけだった。顔と身体がよければ人間それで充分なのだ。三住が頬をかいて応酬してくる。
「ありがと、センセーもカッコいいよ。モード系っていうの? その上着の柄いいよな、えーと、修正液みたいで」
「表現」
 悪気はなさそうだがもっと言い方があったと思う。
 玄関先で話し込むのもなんなので、奥まで入れてもらった。バカみたいに広いLDK。カーテンは閉まっていてせっかくの眺望はできない。
 そんなことより、皓汰は壁に飾られた写真に吸い寄せられて足を止めた。
「あ、それね。おれの好きな写真家のやつ。店持ってって引きのばしてもらったんだ」
「知ってて?」
「え?」
「いや。何でもない」
 まるきり無邪気な反応に、さすがの三住もそこまで嗅ぎつけてはいないかとため息をつく。安堵なのか失望なのか自分でも分からなかった。
 花弁の千切れたスミレの写真。柏木(かしわぎ)夢子(ゆめこ)の、二十年近く前の作品。
「それさ、めずらしいんだよ。花とかわかりやすいモチーフあんまり撮らない人だから。その写真も気まぐれで撮ったっていうか、ざっくり写り込ませただけっていうか、えらく無造作な感じじゃん? 上手く言えないけど、いいなーって。ヒトに言ってもなかなか伝わんねーけど」
「わかるよ」
 皓汰は埃ひとつない額縁にそっと指を這わせた。
 解るに決まっている。めずらしく居間で写真を選んでいた母に『どれが好き?』と言われてこれを差し出したのは皓汰だ。どこがいいのかしらねと無感情に答えて、母は――そのとき戸籍上『桜原夢子』だったひとは――個展の作品に、己の価値観とは合わない写真を一枚交ぜ込んでくれた。
 優しいのだ。結局は。とても無責任に。
「本人も自覚はないんだろうけどね」
 皓汰もきっと、無自覚に母と同じ不実を繰り返している。
 三住は皓汰の呟きを拾わなかった。意図的な冷淡さ。そういうところは三住も彼女に似ている。
「好きなとこ座って」
 木目調の大きなテーブルには、真っ白な皿がいくつも並んでいた。絶対に無駄な端切れが出ていそうな切り方の肉、几帳面に均一なサイズで整列している色とりどりの野菜。
「三住、これ全部自分で作ったの? コース料理みたいじゃん」
「そんな大層なモンじゃねーって。一人暮らしなんて、家事の他にすることないっつーだけ」
 三住はキッチンカウンター越しに笑っていた。皓汰は顔を曇らせ皿に左手を添える。
 料理らしい料理は一切できない皓汰でも、サインのように華やかな曲線を描いたソースが、一人暮らしの自炊には不要だということぐらいは理解できる。三住椎弥が極端なまでの凝り性である可能性を差し引いても、この料理は明らかに『誰かに見せること』を目的としたものだ。
 恐らくは、先程名前を呼ばなかったひとりと共にしたかった食卓。
「あれ、そんだけ? リアクションうっす。もしかしてフレンチ嫌い?」
 三住が皓汰の前まで歩いてきて顔を覗き込んだ。紫外線からカナリヤ色の瞳を守る、青いレンズに皓汰のしかめ面が映っている。泣き出しそうな、怒鳴り散らしそうな、不安定で歪な表情。
 皓汰は鼈甲を撫でながら、三住の眼鏡をすっと外した。
「よくよく救いようがないね。三住は」
 どこがと三住は問わなかった。ガラス細工のような瞳を細めて妖艶に笑う。
「そういう人間が愛しくてたまんないんでしょ。センセーは」
 愛か。執着をそう言い換えてしまうのもたまにはいい。
 自分の素肌をなぞる投手の左手を妄想する。悪くない。特に、左で投手というのが。
 皓汰は笑い返して、眼鏡をテーブルに置いた。
「お腹空いたね。食べさせて?」

「そういえば『域』読んだよ。徹底的に救いがなくてよかった」
「ありがとう。もうちょっと明るいの書かないんですかって言われちゃったけど」
「それがセンセーの持ち味なのに。なんだろな、こう、優しさに満ちた人間不信? はーい希望なんか持っても仕方ないですからねー、可哀想だからあらかじめ壊しときますねーみたいな。愛のブルドーザー?」
「なんだそれ」
 自分の作品を肴に酒を飲む。こそばゆいが悪い気分ではない。
 料理をあらかた平らげると、映画でも観ようとグラスを持ってソファに移動した。三住が左で皓汰が右。自然と利き手同士が干渉しない位置につく。
「うわテレビでっか。何インチこれ」
「六十五とか? そんなにいいやつじゃないよ。でかいだけ」
 三住はさらりと言い放ち、サブスクリプション型の動画配信サービスを呼び出した。大量の映画のパッケージが画面に並ぶ。三住がリモコンで色とりどりの長方形をくるくる回す。
「何観よっか。センセーがいつも挙げてる『セブン』と『シャイニング』以外で」
「じゃあ『ハンニバル』か『スウィーニー・トッド』」
「食いながら観れるやつ!」
 結局、三住のおすすめ『ファイト・クラブ』が流れ始めた。
 血と汗の舞う殴り合いに眉をひそめ、皓汰は白ワインを飲み下す。
「こういうの苦手。向いてない」
「そっか。フィンチャーとブラピだから好きかと思った」
 三住は炭酸水の入ったグラスをローテーブルに置き、映画の再生を止めた。皓汰はまじまじと三住の顔を覗き込む。三住が怪訝な表情をする。
「なんだよ」
「『最後まで観ろ、それから語れ』って言わないの?」
「嫌だって言ってるもん無理やり見せることないだろ。好き嫌い全部共有したいなんて思ってないよ。ガキじゃねーんだから」
 タルト切ってくる、と三住が立ち上がる。皓汰は広い背を見送ってからリモコンの再生ボタンを押した。ソファの上で両膝を抱え、不思議な色に照らされた暴力の洪水を浴びる。
 本当は最後まで観て結末も知っている。そのうえで、皓汰は不眠症のまま寝転がって家具のカタログでも眺めていたい。実際には眠れているし物欲も修羅場以外は特になし、セックスには恵まれて言うことなしだ。人生なんて過不足ない程度にテリトリーを守れていればそれでいい。闘争も獲得も最小限で毎日波風立てずに平和を享受、これに尽きる。
 三住が戻ってきた頃、彼の気遣いに感謝してまた映像を切った。
「なんか観てた? お客さんなんだし好きに流してていいのに」
「そう?」
 お言葉に甘え、動画投稿サイトで雨の環境音を探して小さく流した。切り分けたタルトを三住と二人、無言で食べる。外から隔絶された適温の部屋は、少しずつ時間と現実感を奪っていく。
「センセー、いつまでいてくれる?」
 三住が左手でフォークを動かしながら呟く。皓汰は腕時計を見る。終電ならまだ余裕だ。
「もしよければおれ車で送るからさ、センセーの好きな映画、あらためて一緒に観ない?」
 そういうことを横顔で言うのがいじらしいと思った。瞳の色にばかり気を取られていたけれど、よく見るとまつ毛は案外短い。
「三住は何時ぐらいまでいてほしいの?」
 皓汰は再びワイングラスを持つ。小ぶりで薄い。飲まないくせにしっかり味に合わせている辺りがしゃらくさい。
「そりゃ都合がいーならいつまででもいてほしいけど」
 ぱっとこちらを向いた三住にいきなり顔を寄せた。
 押し付けた口唇。三住の喉がごくりと鳴る。
 皓汰が口の中に流し込んだワインを飲んだのに違いなかった。
「もう運転できないね」
 皓汰は背もたれにふんぞり返る。
 あんまり殊勝なことを言うから噛みつきたくなるのだ。これで少しは言葉に気をつけ――。
 いや、違う。皓汰がもっと深く配慮すべきだった。特殊な恋愛をしている三住は、こういったおふざけにまるで免疫がない。
 三住は耳まで真っ赤に染めて両手で顔を覆っている。皓汰はグラスを離し三住の膝を揺すった。
「いやごめん、ごめんて。もしかして初めてだった?」
 自分にとっては挨拶を通り越して相槌程度に軽い行為でも、侵犯を受けたら訴訟を起こしたいぐらい神聖に考えている人もいるだろう。軽率だった。素面のつもりでも、やはり酒が回っているのか。
 三住は下を向いたまま、いや、と蚊の鳴くような声で言った。
「一応、おんなのひと、とも、おとこのひと、とも、一回ずつしたこと、あって。そんときは、きたねーなヤだなとしか思わなかったのに、今、すげー頭ふわっとしてて……」
「断言するけどそれアルコールのせいだよ?」
 皓汰は至極真面目に指摘した。父もそうだが、本当の下戸というのは信じられないくらい少量の酒でもすぐ目を回す。
 キスもそう。皓汰は両手に余る相手と口唇を重ね、初めてしたときから一貫して心が浮かれたことがない。今三住にしたのだってそう。普通の体質なら酔う代物ではない。
「センセー。おれ、誰かにこんなドキドキしたの初めてかも」
「だからそれ酒の――」
 誠実に論破しかけてやめた。
 三住の目に宿ったカナリヤの両羽は濡れている。録音の雨を本物と勘違いしたみたいに。
 飛び立ちたい空を諦めた翼だということも、皓汰は痛いほど知っていた。三住椎弥の恋は、決して、決して、叶ってはならない。
 皓汰は三住の頬を片手でいやらしく撫でた。
「もう一度、試してみる?」
 細い顎がわずか縦に振れ、頷き返す代わりに皓汰は息をする場所を合わせる。性愛というより慈愛じみたキスだった。抱いているのは赤子で自分は乳房。くだらない。いい歳をした男同士なのに。
 すぼまっていた三住の口唇は少しずつ開いて、内にある熱を染み出し始める。欲望の質が変わったことを覚り、皓汰も角度を変えて深く噛み合わせる。
 三住の舌遣いは拙かったが、がっついては来なかった。その度ごとに採点を求めるような、臆病で謙虚な動き。姉が『傲慢なくせに神経質』と評したピッチングとは違っているのかもしれない。皓汰はまともに野球中継を見ないので分からない。
 三住の右手に左手を絡めてみる。節くれだった長い指が、幅の狭い皓汰の手をぐっと握り込む。
「ね、セックスしたこと、ある?」
 耳許で囁きかけると、ためらう息が首筋をくすぐった。
「どこまでを『ある』っていうのかわかんないけど、真似みたいなこと、だけ……中に入ったり、入られたり、とか、は、一度も」
 空いた右手で三住の内腿を這い上がる。筋肉の隆起が美しい。さすがは身体で飯を食っているだけはある。妙な意味ではなく。
「してみたい?」
 親指と人差し指をL字に開いて、股関節を繰り返し擦る。三住は固く目を閉じ左手で口を押さえる。表情をいくら隠しても、男の欲望はいつもあけすけだ。
「それ、言わすのぉ……」
「だって合意を得ないとダメでしょ、こういうのは。ね?」
 繋いだ左手を、三住の右手ごと自分の服の中に突っ込む。体温を含んだ空気。素肌。
 発散されたことのない三住の淫欲。夢の代わりに人形になれたらと望んだ献身も嘘ではないが、皓汰は単純に三住椎弥と交わってみたかった。
 鍛え抜かれた手足は皓汰の軟弱な身体をどう扱うのだろう。いつまでも幼さの残る顔貌は猥情でどう歪むのだろう。高まりながら見つめるその瞳は、どんな色に映るのだろう。
「どっちがいい? 俺、どっちでもイかせてあげられるよ」
 強引に腰を抱かせて笑う。興が乗ってきてしまった。欲しい。清らかな顔をして生きてきた男をめちゃくちゃに乱れさせて堕としたい。穢したい。全部吹き飛ぶくらい気持ちよくなりたい。
 三住の手が皓汰の腰を上がって胸に触れる。
「せんせぇ」
 いーの、と耳朶を食まれる。皓汰は頷き三住の服をめくり上げる。
「してる間は、『コータ』って呼んでね」
 結論から言ってしまえばすごくよかった。準備をしてからソファで一回、ベッドで三回。後半は喘ぎすぎて何を口走ったかも覚えていない。敬虔なクリスチャンの三住は自慰もろくにしていなくて、二十六年間閉じ込められたままの生命力は大いに皓汰を昂らせた。三住の方でも、不品行で貪欲で男色をする酒に酔うものと食事を共にし、あまつさえ姦淫する背徳感に追い立てられたのかもしれない。舌足らずに皓汰を呼び、両手はずっとすがる先を探していた。
 姉から所在を問う電話がかかってこなければ、もっとしていただろう。
 一度中断されてしまうと、恍惚は消え罪の匂いだけが残った。皓汰もすっかり醒めてしまって、マンションを辞し電車で帰宅した。
 それから三住を避けた記憶はない。
 向こうは元々忙しい商売の人間で、皓汰も煙草とセックスの合間に仕事というものがあった。そうして過ごしているうちに、気付けば四年経っていた。

 

「おれ、あれからずっとセンセーのこと考えてた。苦しかったよ」
「いやもう完全に脱童貞して舞い上がってるだけでしょ……勘弁してよ……」
 三住は荷解きを終え、エプロン姿で桜原家の台所に立っている。皓汰は愚痴をこぼす以外の処置を思いつかないまま斜め後ろに控えている。三住は発泡スチロールの箱から野菜――ほうれん草? 皓汰には葉っぱは全部同じに見える――を取り出し、まな板に置いた。
「それ見極めるために四年待ったんじゃん。そもそも、おれをあんな気持ちにさせた人間って他にいないし」
「なにその『おもしれー女』理論。野球に興味ないのがそんなにお気に召した?」
「つかいいなこの台所! ちょー使いやすい、配置が神がかってる」
「聞いてる? 姉貴が立ってたときの名残じゃないの、左利きだし。まぁ親父も左利きだから、建てるときじいちゃんがユニバーサルデザインで発注かけたせいもあるだろうけど」
「うわぁ、それもう最初からおれが来る運命だったと思えてこない?」
「聞こえてんじゃねーかおまえホント大概にしろよ」
 ツッコみ疲れたが放っておいたら何をどうされるか分からない。柱に寄りかかってため息をつくと、三住が顔を輝かせて振り返った。
「『おまえ』なんだ!」
「は?」
「センセーいっつもおれのこと固有名詞で呼ぶだろ。二人称だとおれ、『おまえ』なんだ? 意外だけどなんか嬉しい!」
「ええやだちょっとこの人本格的に気持ち悪い」
 皓汰は距離を取ろうとしたが、三住は構わず抱きついてくる。平熱の低い皓汰でも、代謝の良い男に貼りつかれるとさすがに暑苦しい。主に心理的に。
「ねー、あのときみたいに『しーや』って呼んで!」
「呼んだっけ……っていうか素面のときベッドでのこと持ち出すのやめてくれる」
「やだよ、だってあのときのこーた、すごく綺麗だった。相性? もいいんだろ、『こんなの初めて』って何度も言ってた」
「だから定型句を真に受けるところが童貞なんだよ! そーゆーもんだってわかんでしょAV観……たことないんだったね、ごめんね! 俺が悪かったよ!」
 皓汰は三住の身体に手を回して背中をぶっ叩いた。
 正直に思い出す。あれからすぐ結婚が決まったマナミちゃんのたわわな胸も、半年後に彼氏と別れて皓汰と二・三度寝てから告白してきた(で断った)カナコちゃんの締めつけのいい膣も、抱いたり抱かれたり首を絞められたり尻を叩かれたりしただけの名前も忘れた男たちの一物も、皓汰をあの絶頂に導いてはくれなかった。
 忘れていたなんて、嘘だ。溺れてしまえばお互い破滅すると確信していたから、離れたままでいたかった。だって三住椎弥は友人の親友で、櫻井皓の愛読者で、皓汰の――皓汰の、何だ?
「結局、三住もそうなの?」
 急に冷えた声が出た。ああいつもの自分だなと安堵して力を緩める。
「『愛』とかセックスとかで、俺を」
 俺を縛るんだね、と最後まで言えなかった。
 光を弾く丸い瞳は、今日もあまりに無垢な色で。
「センセー、熱ある? ないか。いろいろあって疲れたよな。おれにとってはずっと準備してたことでも、センセーにとっては全部いきなりだったんだから」
 身長はさほど変わらないのに、三住は軽々と皓汰の身体を抱き上げる。ご丁寧にお姫様抱っこ。
「寝てて! おれちゃんと自分の包丁セット持ってきたから。飯できたら呼んだげる!」
 おまえ何なんだスパダリかよ、と内心で言うのが精一杯だった。
 確かに寝たい。それで、目が覚めたら全部夢であってほしい。四年前から。