鳩ヶ谷さんはいつも信号のボタンを殴るように押す。白杖を持ったピクトグラムの描かれた白い箱。交通弱者用押しボタン。
「いったい何が弱者だよなぁ、おい」
鳩ヶ谷さんは自分の車椅子のハンドリム(手でこぐ部分)を、ごつごつした指でしきりに叩いている。僕は鳩ヶ谷さんの隣にただ突っ立っている。
肌は日に焼け、ポロシャツの胸ポケットにはラークの箱を入れており、汚れひとつないエアジョーダンをはいた車椅子のおじさんについて、僕が知っていることはほとんどない。
この近所に住んでいること。ほぼ同じ時間に同じ横断歩道の前で、信号の変わるのを待っていること。渡り終わったら右に折れて、駅前のバスロータリーから鳩ヶ谷行きのバスに乗ること。
『交通弱者用押しボタン』が嫌いなこと。
向かいのビルに新卒で入社した僕と、同じ信号の前で毎日三〇秒ぐらい話をするのが、どうやら嫌ではないらしいこと。
「じゃあ別の案でも考えません? 暇つぶしに」
僕は身体を少しひねって鳩ヶ谷さんの顔を見る。
交通『弱者』という呼び方が嫌いな理由は何度も聞いた。ヤバい人だ関わらんとこと思っていた頃にも、いっそ開き直って話しかけてからも聞いた。
『弱者呼ばわりされて喜ぶやつがあるか』。それはごもっともだ。お年寄りや子供、妊婦さんや怪我をしている人だって、青の時間がのびることを喜んだとしても、弱者呼ばわりは望んでいないだろう。
とん、と鳩ヶ谷さんの忙しなかった指が止まる。
「別の案か。そうなぁ……」
顎を上げて信号を睨んでいる。僕もつられて赤い人影を見つめる。
「だれでも押しボタン、とかどうです」
「トイレじゃねぇんだぞ」
「バリアフリー横断歩道とか」
「横断歩道自体バリアフリーじゃあねぇんだわ」
人影が青に切り替わった。タイムアップか。
「そんなもんなぁ、事実だけでいいんだよ。事実だけで」
駆動輪が回り出す。僕も歩き出す。鳩ヶ谷さんが前しか見ずに大声で言う。
「ごちゃごちゃ理屈をこねんなってんだ。いいんだよ、『青信号ナガクナール』とかで!」
「あおしんごうながくなーる?」
あまりのネーミングセンスに僕は立ち止まった。どこかの製薬会社じゃないんだから。
鳩ヶ谷さんはいつもどおり右折していく。横断歩道の真ん中に留まっていた僕は、交通強者界の王たる車――教習を受ければ乗り回せる巨大な金属の塊――のクラクションで我に返り、慌てて渡りきった。
でも、そうだ。あの白い箱は渡る人がどんな状態かをいちいち認識しているわけじゃない。そんな機能も資格もない。あの押しボタンにできることは、青信号を長くするだけなのだから。
ほどなく鳩ヶ谷さんを見かけることはなくなった。エレベーターに鏡がついている会社に転職したと最後に会ったとき言っていた。バックカメラ義務になったろ、俺ぁ車両だから法律守らねぇとなと笑っていた。
僕は今日も白い箱についた赤いボタンを押す。
僕には無事に動く両脚がついている。妊婦でも子供でも年寄りでもない。世直しを願う高潔さも、義憤に燃える正しい心も持っていない。
僕が平日の朝にこのボタンを押すのは、交通強者を少しだけ長く待たせたいからだ。事実と呼べるものがもしあるならば、僕にとってはそれだけなのだ。
