春がもうひとつあったとて

 土壁風のまっさらな壁紙に左手をつき、椎弥(しいや)は一歩一歩桜原(おうはら)家の階段を上っていく。素足で踏む廊下は冷たい。勢いよく二階奥の襖を開け放つと、あたたかい空気がぶわと流れ出すのを感じた。
「なに? 飯? さっき食べたよね」
 仕事中だった櫻井(さくらい)(あきら)――桜原皓汰(こうた)が、目を丸くして振り向いた。肩から落ちかけた半纏を片手で直し、とんちんかんなことを言う。
 椎弥は皓汰の目の前に仁王立ちし、桜色の封筒をずいと突きつけた。
松原(まつばら)さんって誰」
「え、誰?」
「おれが訊いてんの!」
 思わず声を張ったが、皓汰は怪訝な顔をして頭をかいただけだった。
 心当たりがない? 本当に?
 椎弥は手を引っ込め、ブルーブラックのインクで書かれた『櫻井皓先生へ』の文字を睨みつける。
「櫻井センセー宛のファンレターが、出版社通さないでここに直接来るなんておかしい」
「面識ないのに直接家に来たやつが言う?」
「それはそれじゃん」
 今更、関係のない出逢いの話を蒸し返さないでほしい。
 椎弥は指を差しながらひとつひとつ確認する。
「切手は貼ってあるけど、消印ないし向こうの住所しか書いてない。で、この丸っこい字は多分女の人だ。〇〇年代の十代に流行ってたような字だから、年齢はおれらと同じかちょい上ぐらい」
「え、こわ……」
「だろ? どうかしてるよな」
「どうかしてるのはおまえですけど?」
 皓汰は袂を押さえて腕を伸ばしてきた。節ばかり目立つ細い指が、椎弥の手から取った封筒をくるくると回す。
「あー、はい」
 やがて皓汰は微苦笑を浮かべ、小さく二回頷いた。寄木細工のペン立てからハサミを引き出し、不器用に封筒の端を切る。
 信じられない。親展の重要書類も素手でバリバリ開ける男が。
 信じられない。たった便箋二枚の書き文字を、そんなにやわらかい目で追うなんて。
 信じられない。――伏し目で手紙を読む櫻井皓、絵になりすぎる。永遠に上映してほしいしフィルム原本もデジタルリマスター円盤も欲しい。
 椎弥が両手を頬に当てていると、皓汰がいきなり視線を上げた。ファンサかと思ったらどうやらそういう顔ではない。
「椎弥、一筆箋ちょうだい。なにか季節感のある……」
 皓汰は右手に便箋を持ったまま、祖父の形見の万年筆を取り出した。しかもいつも原稿の下書きに使っている実用一辺倒の舶来ものではない。漆黒に螺鈿細工の桜舞う、手入ればかりで実際に文字を書いているのを見たことがない方。
 プライベートでは呆れるほどの筆不精で、年賀状の返事すらろくに出そうとしないのに。
「サインペンも持ってる? 俺、何年か前にインク乾いて捨てたきりな気がする」
 皓汰は苛ついた手つきで、文机の脇の引き出しを開けたり閉めたりしている。許可を得て椎弥も整頓しているが、そんな俗っぽい文房具は入っていないはずだ。
「聞きたくないけど、何に使うつもり?」
 椎弥は腕組みをして問う。皓汰はちらりともこちらを向かず、引き出しを漁り続けている。
「言いたかないけど、サイン本を作るんですよ」
「サイン本? は? ……サイン本!?」
 椎弥はその単語を受け止めきれず、どさりと膝を折った。混乱のまま皓汰の両肩をつかんで前後に揺さぶる。
「櫻井センセーのサイン本? なんで? おれの知る限り一回しか世に出たことないのに!?」
「あー、なんか女性誌? の取材で、読者プレゼント用に二・三冊書いた気がする。相変わらずよく知ってんね」
「二十冊買って応募したよ! 外れたけど!」
「そこまでされると『ありがたい』って言いづらいな」
 何を言うのか。二十は本来の読者層に充分配慮した冊数だったというのに。我欲を優先していいなら無限回収したかった。
 皓汰は耳許の髪を左手で後ろに流しながら、いかにも面倒くさそうにため息をつく。
「欲しけりゃいくらでも書いてやるよ。三住(みすみ)椎弥様へ、って」
「ちがう! それじゃこーたのサインだろ! おれは! 正規ルートで入手したいの! 櫻井センセーの! サイン!!」
「オタクめんど……」
 それについては自覚があるので何の反論もできない。
 椎弥は畳に身体を投げ出し、ダンゴムシのように身を丸めた。
「ずるい。そいつずるい。ホントにだれ? 少なくともこーたの小中高のクラスにそんな名前のやついなかった」
「なんでそんなこと知ってんの?」
「名簿買ったもん」
 何にでも需要はあって、表沙汰にならない供給もあるということだ。
 皓汰が尻を蹴っ飛ばしてくる。
「おまえさっきから、それ絶対俺以外の人にやるなよ」
 やるわけがない。椎弥だってリスクと価値のバランスぐらい考えている。いつでも何でもモラルを捨てているわけではない。
「でもセンセーがその人との関係教えてくれないなら、もっと手を広げちゃうかも」
「そういうの強迫って言うんだよ」
 皓汰が立ち上がる気配。椎弥は視線だけで様子を窺う。黒地に咲いた紅白の椿が目の前を艶やかに横切る。本棚脇の段ボールまで献本を取りに行ったらしい。彼の言うところの『脅迫』までしたのに、手紙の主について口を開く気はないようだった。
 渋々なら教えてくれると慢心していた自分に気付いて、椎弥はいたたまれずにもっと身体を縮ませる。
 加減がわからない。好意を隠さなくてもいい相手は皓汰が初めてだから。愛情をどこまで知識に換えていいのか、どこまで開示してもらえるのか、何も、ひとつもわからない。
 椎弥が勝手に彼を知り尽くしたいだけなのだ。彼がさらけ出したいわけではない。わかっている。わかっている、と思っていたはずだったのに。
「白黒しかなかった」
 皓汰の声が降ってくる。椎弥は肘をついて身を起こす。
「何の話?」
「だから、椎弥が聞きたがった話」
 皓汰は椎弥の前であぐらをかき、ふてくされたような声で何かを見せてきた。
「この人、だと思う。髪が長かった覚えがあるから」
 A5サイズの薄い冊子だ。簡素なゴシック体で『図書委員』とある。同じページに十数人の高校生? が写っていて、皓汰の指の先には髪の長い少女がいた。セーラー服姿で快活そうに笑っている。画像がおそろしく粗いために、顔立ちはかなり不鮮明だ。
「じいちゃんのファンなんだって。それで少し話したことがある。それだけだよ」
 皓汰は畳に目を落とし、早口で言う。まるで言い訳でもするみたいに。それでいて説明する気なんて毛ほどもないみたいに。
「じゃあさっき、なんで一回知らないムーブしたの」
「旧姓しか知らなかったから」
 椎弥はそれ以上詰問することができなかった。
 本当に『少し話した』だけの相手なら、皓汰は自分の素性を明かしたりしないはずだ。祖父の存在は、自己肯定感が地に墜ちている彼の唯一の誇りだから。
 けれど彼が『それだけ』と言ったら『それだけ』なのだ。言葉で飯を食っているくせに、皓汰はいつも自分を表現する言葉には不自由している。きっと『それ』より先は椎弥と共有できるかたちにはならないし、してもくれない。
 椎弥は黙って皓汰の両手を取った。握り返してくる指は、血が通っているとは思えない温度だった。その指を額に押し戴いて目を閉じた。
 いろいろあったけれど、椎弥は自分の人生に満足している。
 愛してはいけない人を愛したことも、天から与えられた才で他人に尽くしてきたことも、全て意味のある罪と贖いだった。皓汰と出逢えたことは最上の幸いだった。
 それでもこんなとき、椎弥は彼の過去に存在しなかったことがたまらなくなるのだ。
 今よりずっとやわらかく、痛みの正体すら知らずにいた時期を知らないことが。
 櫻井皓の孵化する過程を見られなかったことが。
 同じ場所で、同じ青春の真似事ができなかったことが。
 どうせ高校生の皓汰は高校生の椎弥を嫌いだろうし、逆だってきっとそうなのだけれど。
「椎弥。お願いがあるんだ」
 皓汰はふっと声を和らげて、椎弥の左手の甲をしきりに撫でた。
「かわいいご祝儀袋にいくらか包んで。それと釣り合いが取れるように、何か結婚祝い選んでくれない?」
「センセーが選ばなくていいの? 好みとかあるだろ」
「椎弥のセンスでいいよ。俺はそういうのからきしだからね」
 羽より重さのない言葉を、わかった、と椎弥は一言だけで受け入れた。
 彼女が、椎弥が旧姓も正確な読みも知らない『松原深春』と皓汰がどんな関係だったのか、どうしてポストにその手紙が入っていたのか、皓汰が何も語らずとも、それでいい。
 椎弥は桜原皓汰の妻として、皓汰が恥をかくことのないよう、完璧に取り計らうだけだ。
 皓汰の手を外して立ち上がる。精一杯上ずらせた声で呼びかける。
「その代わりじゃないけど、やっぱサインちょうだい。櫻井センセー」
「いいけど。どれに書く」
「白いシャツ着てくる。街で偶然会った初対面の読者って体でやってくれよ。おれ、『色紙とか持ってなくてすみません! よければここに書いてもらえませんか!』って、自分の裾引っぱるから」
「何言ってんの」
 皓汰は左手で横髪を耳にかけ、幼子でも諭すように微笑んだ。
「ダメだよ。そんなとこに書かない。おまえが俺の本を一冊も持たずに出歩くことなんか、四季が逆転したってあり得ないんだから」
「好き」
 認識するより先に感情が口から出ていた。椎弥は両目を覆って、うなりながら天井を仰ぐ。
 別の出逢いなら愛さなかったかもしれないと思ったけれど、ありえない。絶対に好きになる。だってこの男は存在するだけで、こんなに椎弥の情緒をめちゃくちゃにしていく。
「おれ今度から書棚背負って歩くよ。いつ何時センセーに逢ってもいいように」
「そんな埋まるほど出せてないよ……」
 皓汰は胃を押さえて背中を丸めた。遅々として進まない原稿を思い出したらしい。
 椎弥は声を立てて笑って、文鳥の描かれた襖を丁寧に開ける。
「だったら埋めて。あなたの芽ぐませた春なんだから、死ぬまで咲かせ続けてよ。櫻井センセー」
 ちゃんと明るく言えていただろうか。椎弥は口唇の両端に優しい力を込める。
 皓汰は無言でひらと右手を振り、パソコンに向き直った。猫背を忘れて背筋を伸ばしているのは、集中している証拠だ。
 椎弥は廊下に正座をし、三つ指を突いてから静かに襖を閉めた。
 彼の祖父(さくらいはじめ)のファンだというひとが、彼に何を吹き込んだのだとしても構わない。櫻井皓の誕生まで彼女のおかげだったとしても構わない。
 彼を呪うのは椎弥だ。少なくとも今それが可能なのは椎弥なのだ。
 春がもうひとつあったとて、それだけは椎弥の役目であるはずだ。