傘を咲かす

 未紅(みく)は雨に降られるのが好きだ。むやみにテンションが上がる。みんなが傘を差しているほど手ぶらなのが楽しくなってしまう。
 シンギンザレイン。普通に生きていて、服ごと濡れる機会が他にあるだろうか? ゲリライベントは全力エンジョイに限る。
 と、今までどおり上機嫌で帰ったら同居人にメッタクソ怒られた。
「こうなる前に俺を呼んでください」
 雅伸(まさのぶ)の骨ばった手が、バスタオル越しに未紅の頭を包んでいる。気持ちいいなーとは思うが、三和土に立ったまま上がらせてもらえないのがパンプスでむくんだ脚に地味にクる。
「一人暮らしの癖でつい。駅からすぐですし」
 未紅は靴箱の上を盗み見た。四段重ねのフェイスタオル、パジャマ上下、フリース素材はらまき、部屋用のもこもこ靴下……下着まである。玄関でのお出迎えの範疇を超えすぎだ。
 雅伸は事前に準備して段取りどおりに進めることは得意だが、予想を崩されると途端に要領が悪くなる。未紅はそれを密かに『動揺のデバフ』と呼んでいる。
「雅伸くん。これだけ拭いてくれれば大丈夫ですよ。このままお風呂入っちゃいます」
 未紅は雅伸の左手首をそっとつかむ。険しかった彼の目許がわずかに緩まり、視線は未紅の足下に移動して固く止まった。大丈夫と言ったのだから笑ってほしいのに。
 雅伸は目を合わさないまま、やんわりと未紅の手から逃れた。積まれたタオルで未紅の鞄やコートを手際よく拭く。どうやらデバフが解除されたようだ。
「着替えは俺が持っていきますから、風呂どうぞ」
 雅伸はふいと奥まで引っ込んでく。オイダキシマスと無機質な女性の声が響く。未紅は手を使わずにびしょびしょの靴を脱ぐ。
「いっしょに入りませんかー」
 雅伸に明るい声で呼びかけてみるも、華麗な無視。
 足が余裕で伸ばせる湯船に、今日も一人でつかることになりそうだ。下心たっぷりで広い浴室付きの物件を選んだのに、未紅はまだその恩恵に預かれずにいる。

 ご飯はわかめと長ネギのお味噌汁に豚の生姜焼きだった。雅伸の作る夕食は日々進化していて、不格好な大皿ひとつだったものが今や立派な一汁一菜だ。
「とにかく、雨が降ってたら電話の一本ぐらい入れてください」
 雅伸は精確に一センチ幅に切ったキャベツ(一週間前は一・五センチだった)を箸でつかみながら、未紅が帰ったときのお小言を厳かな声で繰り返した。未紅はそのたび真面目くさった顔で頷いた。
 電話か。雨はどうでもいいが、雅伸の親から支払いの名義をかっぱらってやったガラケーを、未紅のためだけに使わせるというのはとてもいいアイディアだ。そのうち説得してスマホに機種変させたい。そうしたら、特に使う相手もいないのに深夜のテンションで買ってしまった、メッセージアプリのおバカスタンプもついに活躍の場が――。
「未紅さん」
「はぁい。美味しいです」
 おいしい。ご飯も、自分を本気で案じてくれる人のお叱りも。
 未紅は高らかにおかわりを要求した。

 仕事に疲れた女性が青年を拾う系の漫画が、未紅はずっと苦手だった。現実との落差で虚しくなってしまうから。その辺に優しいイケメンくんが都合よく転がっていることなんてないし、多分拾ったら何らかの理由で警察のご厄介になると思う。
 高台にある夕暮れの神社で、そこから飛び降りる直前の雅伸に出逢えたのは、未紅にとって人生で唯一の幸運だったのだ。
 二つ年下の、イケメンというより時代を間違えた武士みたいな青年。出逢ったときは髪とひげが伸びていたせいで三十五ぐらいかと思ったけれど、身なりを整えたら実年齢の二十九より幼く見える。
 理解の得づらい障害で働けない自分を、何度も『申し訳が立たない』と責めていた。居場所も行先もなく顔を伏せて街をさまよっていたひと。
 未紅は、せっかくなので彼の人生をもらうことにした。雅伸には未紅の諦めた汚部屋をまともで清潔な生活空間に戻し、キッチンを本来の用途で使う才能がある。スキップで帰宅する理由にだってなってくれる。
 軽率に青年を住まわせてしまうヒロインたちに、今ならめちゃくちゃ共感する。
 思うよね! 要らないんだったらちょうだいって!
 だってわたしは欲しいんだもん!

 雨は翌日も降った。
 降るから、小雨は既に降っているからと雅伸に再三言われたのに、ギリギリまで寝ていた未紅はバタバタしていつもどおり傘を持たずに出勤した。
 退勤する段になって恐る恐る電話をかけたのだけれど、分かりましたと答える雅伸は落ち着いていた。未紅が傘を置いていくのは予想の範疇だったらしい。ご理解いただいて光栄なようなそうでないような。
 最寄りになったばかりの駅のホーム、指に吐きかける息は綿あめみたいに白く膨らむ。
 ひとつしかない改札をくぐると、旅を促すポスターの前に雅伸が直立していた。壁に寄りかかることもなく、手元の端末で暇を潰すこともなく、階段を降りてくる乗客を間違い探しのように睨むこともなく、屋根の切れた先に顔を向けている。光に照る雨の線を見つめている。
 駆け寄る予定だった未紅は三歩しか動けずに止まった。
 その横顔に干渉することが、なんだかとても罪深く思えたから。
 さざめいていた人の波が夜闇に散っていく。未紅と雅伸の間に空白が生じる。
 雅伸がゆっくりと首を巡らせた。未紅の姿を認めると小さく会釈する。手を振るよりも微笑むよりも彼らしい。未紅は頬を緩めて雅伸に近づいた。
「お待たせしましたぁ」
 左腕に組み付こうとしたらナチュラルに阻まれた。未紅は目をしばたかせて固まる。
 人前だから照れている? そういえば、雅伸と連れ立って外を歩くことはほとんどない。そのせいかも、だって家ならどんなにべったりしても(熱湯や包丁を手にしていなければ)拒まれたりしないし……。未紅が必死に自己弁護していると、雅伸は左手に持っていたものを差し出してきた。
「どうぞ」
 握り込まれていたのはダークブラウンの柄。スモーキーピンクの蕾がすらりと続いている。
 女性ものの傘だ。
「雅伸くんが?」
 未紅の問いに、雅伸は一拍置いて頷いた。選んだ、も、買った、も当てはまると思ったのだろう。
 未紅は自分の右手を左手で強く握り込んだ。手袋のない剥き出しの肌に爪が食い込んでいく。
 未紅の家には安いビニール傘しかないはずで、病気でバイトもままならなかったという彼に貯えはほとんどないはずで、こんな綺麗な傘を手に入れるには彼の嫌いな人混みを通り抜けなければいけないはずで、
 ああ、ダメだ。この気持ちは。
 未紅は覚束ない手つきで長財布を取り出した。
「は、払います」
 歯の根が合わない。寒い、はずだ、雨の十二月だもの……早く、早くお金を受け取ってもらわないと。
 ファスナーを引こうとする未紅の手を、雅伸の右手が確かに押しとどめる。生きているのかと疑いたくなるほどの温度だった。
「お気に召さなければ、俺が使います」
 伸ばされた雅伸の右腕には白い柄がかかっている。未紅が靴箱の脇にほったらかしにしていた、骨が曲がって赤錆も目立つビニール傘だ。透明な膜にはうっすらと水玉模様が浮かんでいる。
 雅伸の表情は凪いでいた。黒々とした一文字の眉も、奥二重のまぶたに半分隠された瞳も、何も語りはしない。
 未紅は口唇を震わせて立ち尽くしていた。雅伸はピンクの傘も右腕に提げ、空いた左手を上げて未紅の目許を擦った。
 どうしてとも、どうするとも訊かず、雅伸は根気強く未紅の涙を排していく。未紅は目を閉じて雅伸の胸に身体を預ける。
 未紅を殴った男たちはみな、最初は優しかった。些細な贈り物で未紅を喜ばせ、それを貸しとし、いずれ利子付きで返せと恫喝した。
「まさのぶくん、もしいま、わたし」
 ――異世界トラックに轢かれて、転生しちゃいたいって言ったら。
「つきあって、くれますか」
「はい」
 雅伸は即答して未紅の背に手を回した。
「善処します」
「ぜんしょ」
「転生については保証しかねます」
 ぷは、と未紅は吹き出した。真面目な声でなんてことを言うのだ。
 一瞬でも疑ったなんてバカだった。
 最初からずっと、彼をたぶらかし続けているのは未紅の方だ。
「おうちに帰りましょうか。雅伸くん」
 未紅は雅伸の左腕につかまる。雅伸はピンクの真新しい傘を開き、明らかに未紅の側に寄せて差した。
 未紅は苦笑して雨の街に踏み出す。今日は髪も肩も濡れることはない。
「次のお休み、雅伸くんの傘を買いに行きましょうね」
「これでいいです」
 雅伸はゴミ寸前の傘を未紅に示す。未紅はそれを奪って骨を外側に折ってやる。正真正銘のゴミになった。
「はい決定でーす。買いに行きまーす」
 雅伸は小さく息を吐いて、未紅の手から傘を奪い返し右手に持った。きっと帰ってから然るべき捨て方をするのだろう。
 未紅はセーターに包まれた雅伸の腕に指を沈める。寒くないんですか、と呟く。特に、と答える息は白いのに、彼はその言葉を頭から信じ切っているようだった。
 ひとりでは生きていけないひとだ。
 ひとりでは死ねない未紅のために生きてくれている。
「推せる~」
 未紅の魂の呟きを、雅伸は『また何か変なこと言ってるな』と言いたげな一瞥で済ませた。
「帰ったら風呂を沸かし直しますね。未紅さん」
「やったー、今日こそ雅伸くんも一緒に入りましょう」
「嫌です」
「なんでー」
 白い雨に煙る夜。街行く人は足早な夜。
 自分たちもせいぜい普通に見えていればいい。それも、多少羨ましがられるぐらいに。