覚えていなくていいから

 誰かが開けた窓から秋の風が吹き込む。講堂に満ちていた熱気が薄まっていく。気の早い暖房でぼんやりしていた頭にもやっと冴えが戻る。
 講義が随分長引いてしまったが、為一(たいち)との約束に間に合うだろうか。早瀬(はやせ)怜二(れいじ)はバイト代で買った腕時計を確かめながら立ち上がる。どうやら待ち合わせ時刻には着けそうだが、十五分前行動が染みついているやつだからなるべく早めに行ってやりたい。
 急いで黒いメッセンジャーバッグを肩にかける。運の悪いことに前野(前野)亜理紗(ありさ)と視線がかち合ってしまった。目を大きく見せることに並々ならぬ情熱を燃やしている女で、死ぬほどの恐怖を体験したときの楳図かずおのキャラぐらい上下のまつ毛ががっつり開いている。おかげで服装はおろか鼻や口の印象も全く残らない。去年の授業で同じグループにならなければ一生縁がなかったかもしれないタイプだ。
 前野は上機嫌で手を振ってくる。
「おつかれー、怜二くん。また研究室に顔出す?」
「今日はやめとく」
 怜二はポーズとして残念そうに言った。
 前野は周囲の人間を下の名前で呼び、自分のことも『アリサ』と呼ぶよう求めてくる。怜二はなるべく彼女の固有名詞を出さないようにしている。
後藤(ごとう)は?」
 怜二が声をかけると、数歩離れて立っている眼鏡の女が首を傾げた。空気を含んだ黒髪が揺れる。今日はスキニーにロングブーツのいわゆるジョッキースタイルだが、本人は騎手というより大人しい馬のような佇まいだ。
「アリサが行くなら顔ぐらい見せようかとは思ってるけど、早瀬くんは用事?」
「まぁ。ちょっと約束があって」
「それって……」
「当ててあげるー。デートでしょ?」
 やけに大きいヴィトンのトート(本物かどうかまでは知らない)が割って入ってくる。ああ、まただ。後藤虹子(こうこ)がまだ何か言おうとしていても、前野亜理紗は気短に会話を進めてしまう。こんなにテンポが合わないのにどうしてつるんでいるのか謎だ。
 怜二は苦笑して壁の時計を指差した。
「男友達と飲むんだよ。もう遅刻しそうなんだ。じゃあな」
 机の合間を縫って歩き始める。すれ違いざま後藤が指先だけちょこちょこ揺らしたので、怜二も大袈裟でない程度に片手を挙げる。
 ――あの子、携帯にバットマンのストラップ着けてたんだよな。映画好きみたいだしもっと落ち着いて話してみたいんだけど、前野がそばにいる限りちょっと無理かな。
 外は既に陽が落ちていた。身を切るというほどではないが地味に寒い。明日はもう一段階厚めのアウターを羽織ることを心に決め、怜二はウインドブレーカーのファスナーを上げる。
 為一から連絡がないか確認しておこうか。ポケットから二つ折りの携帯を出す。
 2006/11/01の表示の下に新着メールの通知。案の定為一からだ。メッセージを読んだ怜二は色を失って走り出す。
 正門近くのベンチにやたら目立つ男が座っていた。奇抜な格好や異様な風体をしているのではない。むしろ逆で、長い両脚を組み本を手にした姿が様になりすぎて浮いている。何組ものグループが近寄って話しかけては笑顔で追い払われており、あの中心に突っ込んでいくのは正直ものすごく気が重い。が、最後のコマが休講だったからと、わざわざ別の大学にまで足を延ばしてくれた幼なじみを邪険にするわけにもいくまい。
 深く深く息を吐き、意を決して大股で歩き出す。向こうも気付いて手を振ってくる。
「レイジ、おつかれ」
「おう」
 怜二は突き刺さる好奇の視線を無視し、当たり障りのない返事をした。
「待たせて悪かったな」
「やー、勝手に来たのオレだし。行こっか。やっぱり他大生って目立つみたい」
 為一は苦笑いしながら立ち上がった。一七七センチの長身、怜二と十一センチ差――何度も計算してしまったから覚えている。
 今日の服装はタートルネックにジャケットか。またハリウッド俳優か何かしか許されないような格好を……顔面とスタイルのせいでやたら似合っているのが悪質だ。耳にかかるかぐらいまで伸びたやわらかい茶髪、整って愛嬌もある色素の薄い目や、眉間からすっと筆を滑らせたように細くてまっすぐな鼻梁。怜二の硬い黒い髪や丸くて黒い目、歳より幼く見られる低い鼻とは全て真逆だ。
 例えばレイフ・ファインズの若い頃の写真を見たら為一と雰囲気が似ていて驚いたものだが、為一も年を食ったら『名前を呼んではいけないあの』感じになるのだろうか。ちょっと恐ろしくもある。怜二が好意を寄せる女の子が為一を好きだったり、そもそも為一目当てで近寄ってきたのだったりと、怜二にはとうに恐怖が訪れているという説もあるのだが。
「タイチ、お前もう喉冷えんのか」
 怜二は指先で自分の襟元を触る。為一も華奢な指で高い襟を引っぱる。
「うーん。マフラーするほどでもないけど、気持ち心配だからこういうの着てるって程度。大学入ってから発作も起きてないし、大丈夫だよ」
 為一の身体は外装だけでなく内側も繊細にできている。特に気管支は弱くて、幼い頃はよく喘息で寝込んでいた。
「ていうか、レイジは今何やってんの? 研究? 就活?」
「それもやってっけど、今のメインは六年制に編入する準備」
「四年制と何か違うの?」
「進路。基本的にこっちは創薬、あっちは薬剤師」
「あれ、レイジって元々薬剤師目指してたよね。なんで最初から……」
「今年新設されたんだよ。四年次からなら移れるっつーから」
「薬学部ってなんか複雑だねぇ」
「生物工学の方が何やってんだかわかんねぇよ」
「オレは細胞工学だもん、細胞見て細胞いじってまた細胞見てるよ。わかりやすいでしょ?」
 全くわかりやすくはないのだが、深く突っ込むと厄介だ。これから酒を入れて馬鹿になろうというのに難しいことを聞きたくない。
 ビルとビルの間に敷かれた大通りを歩いていく。どことなく高校の通学路に似た景色。三年経ってできることも行ける場所も増えて、それでもまだ二人で歩いている。為一は浮かれた声で怜二の顔を覗き込んでくる。
「で、レイジくん。今日はどこ連れてってくれんの?」
馬淵(まぶち)にまた妙な居酒屋あるっつーから、そこ」
「やった~、へんなみせ大好き~」
 へにゃへにゃと笑う為一。このナリで、バーやカフェよりおでん屋やラーメン屋台の方が好きなのだ。一番の好物は店主の変わった趣味が前面に押し出されている居酒屋。個性的な店がひしめく馬淵周辺は為一のお気に入りだが、治安があまりよろしくないので行くときは怜二がついていく。
「てか、今年は忘年会どうしよっか? レイジ行きたい店ある?」
「お前また幹事するつもりか? ああいうのって持ち回りでやるもんだろ」
「結局気になって口出ししちゃうから、最初っから自分でやった方がラクだな~って思っちゃうんだよね」
「他人に任せること覚えねぇといつかキャパ越えちまうぞ」
「それ高校生のとき新田(にった)コーチに何度も言われたわ……」
 話しながら改札を通って電車に乗る。為一を席に座らせて怜二は正面に立つ。馬淵までは乗り換えなしで三十五分。
 電車は大回りで二人の地元を避けて、縁もゆかりもない街へ走っていく。
 怜二は二十一。為一も今日で二十一。出逢ってからもう十八年だ。

 

 しかし、駅から路地一本でいきなり客引きに遭うとはさすがに想定外だった。イントネーションがどことなく怪しい女性が為一の前腕をつかんで、オニサンオヤスイだのサービスツヨイヨだのまくしたてる。為一は最速記録に目をしばたかせて固まっている。
「悪いな、姐さん。行く店決まってんだ」
 怜二は為一の腕を軽くひねって肘を引かせた。指が外れ女性はたたらを踏む。怜二は為一の手首を持ったまま、飲み屋横丁をずんずん進む。背にかかる謎の罵倒語は聞かないふり……といきたいが、いかんせん声がでかい。
「ボディコンのポン引きってまだ生き残ってんのかよ。マジでこの街昭和から動いてねぇな」
「へへへ」
「なんだよ気落ち悪い」
 振り返ると、為一はだらしなく相好を崩していた。
「やっぱかっこいいな。レイちゃん」
 怜二は口唇を尖らせてよそを向く。
 為一から『レイちゃん』と呼ばれていたのは昔の話だ。今はふざけているときと、甘えているときしか呼ばれない。
 目当ての店は、昼間は定食・夜は酒類を提供している大衆食堂だった。二人――というか主に為一は入店するや否や好奇と嫌悪の視線を向けられたが、口の上手さと気取らなさですぐおじさんたちと馴染んでしまった。怜二も親世代からの受けはいい方だが、あの手腕にはとても敵わない。
「そーいやレイジ、カノジョできた?」
 為一は隣のテーブルのご機嫌なお父さんたちが奢ってくれた(『お兄ちゃんたちねぇ、あのー、ここのコレはうめぇからねぇ、食っときな!』)焼きおにぎりを頬張っている。苦い口許を見られないよう怜二もおにぎりにかぶりつく。
「できてたらこんなとこでお前と飯食ってねーんだわ」
「はは、それ喜んでいいんですかね?」
 為一は複雑そうに首を傾げて、とんすいに二個目のおにぎりを放り込んだ。
「で、どんな子が好きなの? レイジくんは」
「どんなってこともねぇけど、とりあえずうちの連中みたいのは勘弁だな」
「お。今度早瀬家行ったら言ってやろー」
「やめろ。オレを殺す気か」
 怜二には姉が二人と妹が一人いるが、全員別の方向に自分勝手だ。血の繋がらない女性と過ごすならあんな横暴からは自由でありたい。
 怜二は壁一面に貼られたメニューを気にするふりをして黙った。
 普通なら、お前は、と訊くところなのだろう。だが怜二は為一にそんな質問をぶつけられない。もう女が憎くないのか、恐ろしくないのかとまず尋ねなければいけないから。誕生日に居酒屋で持ち出すには重すぎる。
「ま、とにかくレイジを大事にしてくれる子がいいね。オレとしては」
 為一は目を伏せて、鍋の残り汁をかけたおにぎりを箸先でつついていた。陶器の中でほろほろと米がほどけいていく。だしの香りが鼻腔をくすぐって、満足しかかっていた胃を再び刺激する。
「うまそうだな。オレもやるわ」
「んーじゃお皿貸して。やったげる」
 この後はお決まりの思い出話だ。未来なんて想像もつかないものに割くエネルギーがない。
 小学校、中学校、高校、ずっと一緒だった為一を一人にさせることが心配だったくせに、いざ大学生になればお互い問題もなくやれている。自分は必要なかったという証明が年々なされるのを受け入れていく。
 女であれ何であれ為一を大事にしてくれる人間が現れたらいいと怜二は本気で願っている。
 一方でそれは自分が大切な人を見つけた後であれ、と密かに祈っている。

 

 為一を初めて見たとき、天使みたいだと思った。
 ゆるやかな巻き毛にふくふくした白い肌、花びらのように淡く血色のにじむ頬、ラッパでも吹きながら空を飛びそう。
 手を引くお母さんもマリア様みたいに優しそうな美人。ただその聖母は見てくれだけで、息子が転んで泣いていても発作でうずくまっていても、ぼーっと何もないところを向いているだけで手を差し伸べることはなかった。
 為一の怪我には何を塗ってやればいいのか、例の母親に預けられた吸入器の中身は何なのか、母に訊き手探りで調べていくうち怜二は薬に詳しくなっていった。薬剤師を志した最初の理由は少しでも為一を助けてやりたかったからだ。
 誰にも言ったことはない。為一が、生物工学を選んだのは製薬会社の仕事を理由に家を空けている父を追いかけてのことだと、公言しないのと同じように。

 

 文系の友人たちは、三年になれば授業も少なく就活ばかりしているというが、研究畑は専攻も定まったこれからが忙しい。薬科学科から薬学科に転科しようとしている怜二もだ。必要な単位、受ける試験、書類の取り寄せに記入、慌ただしくてふと自分が何をしているのかわからなくなる。
「ねえ怜二くん。昨日一緒にいたイケメン誰?」
 突然視界内に巨大な目。前野亜理紗だ。ぐるっと首ををめぐらせると、ここは一号館の二〇三教室。ああ、第二外(ドイツ)語が終わったのか。朝一の語学はついぼーっとしてしまう。
 前野がさっきより強い口調で詰め寄ってくる。
「昨日正門のところにいたでしょ。あの人怜二くんを待ってたんだよね?」
「だから?」
 後藤はいないのかと思ったら応対が雑になった。いや違う、為一のことを嗅ぎ回る女は敵だ。昔から。
「あの人カノジョいる? 紹介してよ」
「あいつそういうの苦手なんだよ」
「友達同士を引き合わせるぐらい別によくない?」
 オレとお前がまず友達じゃねぇだろ、と言いかけて飲み込む。本音だろうと事実だろうと口にすべきではない言葉はある。
 しばらく同じような問答が続いたが、埒が明かないと見たか前野はふいときびすを返した。
「じゃあいい。もう怜二くんには頼まないし」
 低い声で言い捨てていく。怜二は眉をひそめて首の後ろをかく。
 諦めてくれた、のだといいが。
 その日の昼、為一から届いたメールに怜二は目を疑った。
『前野アリサって子、怜二のトモダチ? なんか合コン誘われたんだけど』
 どうしてそんなことに? メールの往復では致命的に遅い気がして、廊下を行きながら急ぎ電話をかける。
『レーイジ? どーしたのよ、そんなに慌てて』
 為一は歌うみたいな調子で答えた。機嫌がよさそうに聞こえるが逆だ。心を閉ざそうとするとき為一は愛想をよくする。
「どうしてだよ」
 ああ、違う、順番が前後した。何故為一が前野を、いや前野が為一に?
『レイジ、その子に高葉ヶ丘高校(タカコー)出てるって教えたことある?』
「ない……いや、あるか?」
 前野亜理紗に問われて聞かせたのではないが、仲間内で出身校の話になって名前を出した覚えはある。そのときのことを覚えていたのだろうか。にしても……。
 為一が浅くため息をつく。肉声なら馬鹿みたいに透き通っている声が機械越しに割れている。
『うちから十人ぐらい進学してたでしょ。その中にオレと同じクラスだった女子がいたの。あんまり話したことないけど、学級委員だったんだっけな。連絡網作るからってメアド預けた覚えがある』
「ごめん……」
 怜二は冷たくなった指先で口許を覆った。
 自分の個人情報からそこまで辿られてしまうなんて。あのことを為一に思い出させるようなことは避けなければいけなかったのに。
『誰がこんなことになるなんて思うよ。レイジのせいじゃないし、オレも迂闊だったから』
 何が。為一の何が迂闊だ。大学生が単位互換もある他大学を訪ねてくるようなことが? 高校生が同級生に連絡先を教えるようなことが?
『ま、大学生たるもの合コンのひとつぐらいたしなみってヤツでしょ。何事も経験経験』
「心にもないこと言うな」
 ずきずきと痛む頭を手のひらの底で押さえ、怜二は言葉を絞り出す。
「オレが断ってやる。何言われたか知らねえが、お前は来るな」
『ありがと。でもオレが行くのが一番早いんだよ』
 諭す口調。知っている。知っているからその手段はさせたくなかった。
 下手に断って食い下がられるより、一度相手の希望を叶えたうえで、為一が手ずから好意を叩き潰すのが一番早い。今までのように。
『来るよね? レイちゃん』
 為一は夜の空より静かに言った。暗く沈んだ色は、甘えも脅しも内包しながら感情を個別に識別することはできない。全てを含んで全てを拒絶している。
「いくよ」
 怜二は明るい空を無様に仰いで答えた。
 どうして、オレは、そこからお前をすくい出したいと思ったはずなのに。
 どうして自分自身を傷つけようとするお前に、手を貸すことしかできないのだろう。

 

 覚束ない足取りで研究棟の裏のベンチに向かった。晴れている日にも人があまり来ない穴場だ。
 だというのに、今日に限って先客がいた。
 後藤虹子だ。めずらしく前野がいない。後藤は深刻な顔で怜二を見つめている。
「早瀬くん、少し話があるんだけど大丈夫?」
「いいよ」
 怜二は覚られないほど短く嘆息し、後藤の隣のベンチに腰を下ろした。
 案の定前野の主催する合コンについてだった。後藤は詳細を知らされないまま、強い口調で来るよう求められたのだという。
「早瀬くんのお友達は乗り気じゃないんでしょ? ごめんね。私がアリサに諦めさせるから」
 後藤の膝に載った小さな弁当箱の中身は減っていない。怜二も買うだけ買ったゼリー飲料の封を切れない。舌に乗るのは、本当は抗いたい為一の主張。
「ありがたいけど、それじゃあ根本的解決になってないし……長引くよりはさっさと会わせた方が」
「お友達にそう言われたの?」
 一瞬で看破された。頷くほど無責任にはなれないが否定するほど不実にもなれない。
 重く差した沈黙を、後藤の悲しげな呟きが少しずつ押しやっていく。
「なんとなくだけど、早瀬くんのお友達はエマに似てるのかなって、思った」
「誰?」
「私とアリサの友達。元々エマの紹介で知り合ったの、私たち」
 エマという女性は、日本人の父とフランス人の母を持つ見目麗しい人なのだそうだ。彼女は自分の見た目をいつも呪っていたという。
「男の人に言い寄られるのも、それで女の子に嫉妬されるのも、何も飾ってないのに大人に『派手だ』って叱られるのも、自分で選んだことじゃないっていつも怒ってた」
 為一もだ。作り笑いを覚える前は、自分に向けられる好意と敵意の理由がわからず泣いてばかりだった。美しさを自覚してからも、それを疎みこそすれ誇っているのは見たことがない。
 思えば為一の母親もそうだったのかもしれない。男を惹きつける容姿がなければ、不幸な結婚をすることもなく、寂しさに任せて父親のはっきりしない子供を――為一を産むこともなかったのかも、しれない。
 後藤は手を付けないまま小ぶりな弁当箱を閉めて、怜二にぎこちなく笑いかけた。
「やっぱりこういうのって、無理に来てもらうものじゃないよ。早瀬くんもお友達も気にしないでね、別の男の子に声をかけてみるから」
「別のって、誰に?」
「サークルの……女の子紹介してって何度も言われてるんだ。アリサもかっこいい男の子といるのをエマに自慢したいだけだろうから、その子たちを誘った方が円満に済むと思う。うん、大丈夫だよ。断ってくれて、大丈夫」
 弁当箱を押さえる華奢な手は震えていた。
 怜二たちが行かなければ、ガツガツした男どもと彼女が一緒に酒を飲むことになるのか。グループ発表の打ち上げでも、愛想笑いでずっと時計ばかり気にしていた女の子が。
「いや、オレたちが行くよ」
 後藤の反応を確かめることができなかった。怜二は地面を睨んでアルミパウチを握りしめた。
「他の男よりは、オレが後藤の前に座ってたい」
 胸の早鐘は緊張でも使命感でもないと気付いている。自らの本音に吐き気がする。
 なんのことはない。前野亜理紗と変わらない。味方面した分もっとひどい。
 ――一番醜く為一を利用しているのは、オレだ。

 

 中学二年生のとき、為一はしばらく学校に来なかった。
 彼の姉がよくない仲間とつるんでいた頃だ。姉の友人だった女に騙されて性犯罪の被害に遭い、携帯電話のカメラで撮影されたらしい。怜二がそれを知ったのは高二の秋だが、言われてみれば腑に落ちることばかりだった。
 女、特に年上の女に対する異様なまでの嫌悪。自分に好意を示す女からそういう相手を選んでは、必要以上に傷つけて破局することを繰り返す。
 人に裏切られ、知らない建物に監禁され、尊厳を踏みにじられ、命の危険を味わったのだ。何かを恨まずに、憎まずに、歪まずに生きていけるはずがない。
 三年間も黙っていた為一を責められなかった。あまりにも無関係な場所にいて、能天気に心配の言葉を吐くだけだった怜二に何も言えなかったのは道理だ。言えない空気にしてしまっていたことをずっと悔いていた。やっと話してくれたのだからこれからは本当の意味で支えてやりたいと思った。
 思ったのだ。嘘偽りなく、本気で。

 

 夕から夜に変わろうとする藍色の下、怜二は今日のために新調したテーラードジャケットのボタンを留めたり外したりしていた。
 閉めるか開けるか着こなしの正解がわからない。心外だが、オシャレ上級者の為一に訊くのが確実だろうか。携帯を見る。ちょうど為一からのメールだ。
『ごめん熱出した~
 テスト近いし念のため寝てるわ』
 安堵で笑い混じりの変な息が漏れた。
 身体の弱いのが幸いしたか。強引な前野といえども病人を引きずって来いとは言うまい。相当な嫌味を浴びることにはなろうが、それで為一のことも嫌ってくれたらラッキーだ。
 約束三十分前の駅前、せっかちなイルミネーションも今なら素直に楽しめる。口の中で音もなくクリスマスソングを歌ってみる。稲垣潤一の『クリスマスキャロルの頃には』。冬にカラオケに行くと為一はいつもこれを入れて、ラジオばかり聴いて古い邦楽が大好きなやつだから――怜二はクイーンの『サンク・ゴッド・イッツ・クリスマス』を返す。「ああ友よ、オレたちには希望も恐れもあった」――。 
 五分後に後藤が現れた。ラベンダー色のショートコートにチェックのロングスカート。どうやら一人のようだ。
「ごめんね、アリサ、急に体調悪いって……早瀬くんだけ? お友達は来てないの?」
「あいつも熱出したらしいんだ」
「そうなの。お大事に……」
 顔を見合わせて間抜けに突っ立ってしまった。
 肝心の二人が欠席ということは、つまり。
「どうする? オレたちだけで飲んでもアレだし、キャンセルしても……」
「で、でも、四人分キャンセル料払うのもそれこそアレだし、その、早瀬くんが嫌じゃなければ」
 お互いアレだアレだとふわふわしたことを言っているのでつい吹き出す。後藤も目を丸くした後ふんわり苦笑する。
 怜二は笑いすぎてにじんだ涙を親指で拭った。
「せっかく予約したしな。いねぇやつ肴に飲んでいくか」
 後藤が大きく頷く。フレームの細い眼鏡を直す手の、右の小指に細い金属が光っている。
 心臓が煮えかけた鍋みたいにコトコト揺れる。
 そんなことぐらいで、何が変わるわけでもないのだけれど。
 本音を言えば、彼女だけは八名川為一に会わせたくないと思っていた。

「そのストラップ、後藤もバットマン好きなの?」
「そうなの、去年『ビギンズ』観てハマっちゃって」
「あれよかったな。今までのマッチョ路線よりかはスタイリッシュな感じで」
「早瀬くんは前から好きなんだね。他の映像化作品でオススメってある?」
「ティム・バートン監督のやつかな。ガキの頃観て、ジャック・ニコルソンのジョーカーが怖すぎてトイレ行けなくなった。その分バットマンが頼もしく感じたんだ」
「ジャック・ニコルソンって『シャイニング』の?」
「そう。結構恐いの観るんだね。意外だな」
「意外かなぁ。早瀬くんが私のことどう思ってるのか、気になるかも」
 後藤は大概前野と一緒にいたから、邪魔も入らず話すのは新鮮だった。飲み放題の二時間は笑い合っているうちに終わっていた。
「後藤、どうする? 帰るなら駅まで送るけど」
「でもまだ八時だよね」
 後藤は腕時計を確認してから上目遣いで怜二の顔を見る。怜二は密かに唾を飲む。
 これはもしかして、もしかすると。
「時間大丈夫なら、どっかで飲み直す?」
 勝算ありと見込んで申し出たのだが返事がもらえなかった。近くのコンビニのドアが開き知らない人が横を行く。店内のクリスマスソングがすうっと流れ出てくる――『ジングルベル・ロック』、クソ、『リーサル・ウェポン』の冒頭で死体と一緒に流れてるやつだ。縁起が悪い。
 ドアが閉まってまた喧騒に戻る。後藤は俯いて両手をすり合わせ、やがて怜二の袖を指先で握った。
「よかったら、さっき言ってた映画、レンタルして……うちで、観る?」
 後藤は大学の近くに部屋を借りて一人暮らししているのだという。もちろん断る理由はない。途中のレンタルショップにも運よく在庫があった。二人で歩く道、人通りも交わされる言葉もだんだん減っていく。
 案内されたのは、片付いて物の少ないワンルーム。服・漫画・ぬいぐるみと、三者三様に散らかった姉や妹の部屋とは大違い。
 折りたたまれたベッドの脇に、怜二のトートバッグと後藤のハンドバッグが二つ並ぶ。
「お酒の後だし、緑茶がいいよね?」
 キッチンスペースに向かう背を、怜二は立ったまま目で追った。
 緑茶か、さすがだ。人が摂取したエタノールは肝臓で有害物質アセトアルデヒドに酸化されるが、緑茶に含まれるビタミンCはその分解を促進する。カテキンやカフェインも毒素の排出に役立つ。知識をひけらかさず日常に活用できる、彼女のそういうところが怜二は前から……。
「お待たせ。熱いから気をつけてね」
 後藤がトレーを持って戻ってくる。かわいらしい猫の湯呑がペアである理由を問う根性はなく、ありがとう、と小さく呟くに留める。
 後藤と二人、木製のローテーブルで緑茶をすする。
 借りた映画は? と訊いた方がいいのか、ゆったりした時間を一秒でも引き延ばした方が得なのか本気で悩む。
「アリサがね……」
 後藤が耳を赤くして、湯呑の縁を指先で撫でる。
「男きょうだいがいるから、つい癖で男の子にボディタッチしちゃうってよく言ってるじゃない。私は兄とそういうスキンシップはしないんだけど、早瀬くんのおうちはどう?」
「うちも……たまに姉貴に背中ブッ叩かれたりするぐらいで、前野みたいに腕にベタベタ触ったりとかは」
 あ、まずい。いくらなんでも『ベタベタ』は友人に対して使われたら不快な言葉だったろうか。
 後藤は眉を寄せて黙った。黙ったまま、両手を床について腰を浮かせ、怜二の近くまで移動した。
「じゃあ、これは、早瀬くんにとってもきょうだいの距離じゃない、よね」
「……うん」
 もう勝算がどうのという話ではなかった。この先に踏み込むか、踏み込まないかだ。
 左手を動かして、華奢な右手に触れる。振り払われない。指先を軽く握る。後藤のバッグの中で携帯電話が震える。気を取られた怜二を咎めるように、彼女が肩に寄りかかる。怜二は小さな頭が転がり落ちないよう右手で支え、慎重に上体を左にひねる。顔を向ける彼女は両目を閉じている。
 口唇が近づいたとき、さりげなく角度を調整され少し胸が痛む。最初の男でないのを気にするような器とは、今初めて自覚した。その自嘲もすぐやわらかさへと溶けていく。
 気持ちは落ち着いている。弛緩したぬくもりにこのまま浸っていたいと思う。同時に、何かの拍子に取り返しのつかないほど身体の芯が燃え上がる確信がある。
 下唇が擦れ合う。開いた隙間から新鮮な空気が喉の奥に。くすぶる火種に酸素が触れこれ以上は、
 ――携帯電話が吠えた。絶え間ない振動が室内を殴り散らかす。怜二も後藤も息を止めて、鞄の中で狂ったように暴れる携帯を見下ろしていた。
「ごめん、出るね」
 後藤はそそくさと身を離し、二つ折りの携帯電話を開いた。耳に当てないということはメールだろうか。だとしたらなおさらまともな勢いではないが……。
「ひッ」
 短い悲鳴を上げ後藤が電話を取り落とす。フローリングを滑っていく電話を、手を伸ばして怜二が拾う。そのつもりはなくとも画面が目に入る。
 真っ黒だった。暗転しているのかと思ったが違う。文字だ。改行さえ挟まず、明確に一人の男を罵っている。八名川為一を呪っている。
 後藤のをテーブルに置き、怜二はジーンズのポケットから自分の携帯を取り出した。
 為一にかける。出ない。もう一度。ダメだ、留守電に繋がってしまう。
「悪い、オレ行かないと」
 怜二は鞄をつかんで立ち上がった。前野の面子をここまで潰したのなら、為一も相応のダメージを負っているはずだ。あいつは今家を出て一人暮らしだから、調子を崩して倒れていても誰も何も気づかない。
 通じたばかりの想いは捨てがたいけれど、為一の命には替えられないのだ。
「本当にごめん。せっかく誘ってくれたのに」
「気にしないで」
 後藤は両手を――恐らく携帯電話を握っている手を――後ろに隠して、ぎこちなく微笑んだ。
「アリサの愚痴は私が聞いておくよ。DVDは七泊八日で借りたから、だから、間に合ううちにまた遊びに来てね」
「ありがとう」
 怜二は彼女の茶色い瞳を深く覗き込んだ。花模様の虹彩。怜二が知るうちで唯一、為一より綺麗な瞳の人。
 立ち去る前にこれだけは伝えておかなければ。
「順番が前後しちまったけど、好きだ。付き合ってほしい」
 彼女がこぼした肯定の二文字が床に落ちないよう口唇でふさいだ。
 このままこうしていたいのに、我ながら実に恋に向いていない。

 

 チャイムは押さなかった。
 いつもなら合鍵を挿す前に礼儀として呼び鈴を鳴らすのだけれど、今日に限っては態勢を整える時間をやりたくない。
 六畳のワンルーム。水場に圧迫されて実際使えるスペースは四畳半ほど。為一は本人の見た目にそぐわないしなびた畳に布団を敷き、背中を丸めて横たわっていた。体面を気にする父親は小綺麗に暮らすのに充分な額を仕送りしているはずだが、学費以外はほとんど使っていないのだろう。でなければ、わざわざ空っぽの実家を出てくる必要がない。
 歩み寄りながら顔を覗き込む。為一は静かにまぶたを下ろしている。喘息の発作はないようだ。高校を卒業してからそちらはずっと平穏らしいが、発熱で寝込む頻度は明らかに増えた。
 ジャケットを脱いで丸め、為一の正面にあぐらをかく。
 ――相変わらず死んでるみたいな面で寝やがる。
「こいつ死んでるみたいだなー、って思ってんでしょ」
「うわなんだテメェ急に起きんなよ!」
「急に入ってきた人が言う、それ?」
 為一は低いため息をついて上体を起こした。部屋着だが整髪料がついたままだ。帰るなり布団に潜り込んだのか。
「風呂入って来いよ。頭かゆくなるぞ」
「来るなりお風呂とかレイジのえっちー」
「ゾンビみてぇな顔色でクソみてぇなギャグ飛ばしてんじゃねぇよ」
 痛々しく笑う為一を直視したくなくて、怜二は身体の向きを変え小さなチェストに歩み寄った。
「熱あるのは本当なんだな?」
「一応ね。七度六分ぽっちだよ」
「寒気は」
「ない。肌がカラカラしてちょっと痛いだけ」
 下着と、パジャマは汗を吸いやすく肌触りのよい素材のものを。バスタオルに乗せて為一に突き出す。
「十五分で出なかったら声かけるからな」
「信用ないねー……」
 為一は疲れ切った足取りで風呂場へ消えていく。
 狭い三点ユニット。安いからと嘯いていたが、怜二にはあの一人分の都合しか受け付けない閉鎖空間が、他人を拒みたい意識の表れに見える。
「信用ねぇのなんて、お互いだろ」
 声に出したら余計に虚しくなった。
 怜二に嘘をつき隠れて前野に会ったうえ、知らないうちに片を付けようなんて。信用がないのでなければ何だというのだ。
 十二分で上がってきた為一は、右手にドライヤー、左手にコードを持っていた。宝塚の階段を下りてくるときの真似かと思ったがどうやら違う。
「重くて手が疲れた……」
 途方に暮れた顔で言う。怜二は嘆息して布団を手で叩く。為一は壁を向いて大人しく体育座りした。
 延長コードから電源を取ってスイッチを入れる。ドライヤーは長毛の飼い猫で慣れていた。為一の髪も緩く波打つ細い毛だ。絶対将来ハゲる、と本人は常々嘆いているけれど、どうせ抜けても退がっても今とは違う種類の男前になるだけだろう。
「ごめん」
 温風に紛れるように、顔を見せずに為一は呟いた。
「ああいうヒトって結構強く言わないと引かないから。友達にキツく当たってるとこレイジに見られたくなかった」
「友達なもんかよ。オレのダチを困らせるようなヤツが」
 水を含んで重かった髪が、滑らかな指どおりになっていく。繊細な――美しい分だけダメージに弱い髪。
「レイちゃん、なんでオレの方来たの」
「なにが」
「聞いたよ。もう一人来るはずだった子、好きなんでしょ」
「まぁな」
 為一が勢いよく振り返る。『マジかよ』という顔。それは、まぁ、こういうときつい否定しがちな性格であることは認めるが、ちょっと素直になったぐらいでそれはあんまりではないのか。
「別にお前に心配されるほどのこともねぇよ。自分(テメェ)の人間関係ぐらい自分(テメェ)でどうにかすらぁな」
 怜二はドライヤーのスイッチを切り、為一の猫っ毛をわしゃわしゃかき回した。
「終わり。これどこにしまうんだ」
「その辺に置いて。あとで片す……」
 さっきのリアクションで力を使い果たしたのか、為一は乱れた髪も直さず布団に倒れ込む。『その辺』と言われても、ちゃぶ台は壁際に寄せられ寝具が幅をきかせていて物を置く場所はない。踏まないようなるべく端にやるか。コードをまとめて、色の抜けきったぼろぼろの畳にドライヤーを横たえた。
 掛布団を引っ張り、肩を覆うようにかけ直してやる。ごめん、と何度目かもわからない謝罪をして、為一は右腕で自分の目を隠した。
「オレ、レイちゃんに頼りきりな自覚はあるけど。本当は、レイちゃんの足引っ張りたくないぐらいのことはちゃんと思ったてりしてるんですよ」
「おー、殊勝殊勝」
「真面目な話……」
 いつもはこっちの『真面目な話』をふざけて遮るくせに、逆は許さないとは勝手なやつだ。怜二が苦笑して右腕をどけようとすると、為一は首を振って拒否する。
「本当に、真面目な話。大事な人といるとき、レイちゃんはオレのことなんか思い出さなくていいから。ていうか……最初から覚えていなくていいから。キミが幸せじゃないと、たぶんオレは……」
 為一の声はだんだん小さくなって、最後は聞き取れなかった。怜二は見えていないのをいいことに、口唇を噛んで為一を睨みつける。
 ――バカじゃねぇのか。お前こそ、オレのことなんか忘れるぐらい幸せになれよ。オレなんかに世話を焼かれなくていいぐらい大事にしてくれる誰かをちゃんと見つけろよ。
 オレは一生お前のそばにいられるわけじゃない。死ぬまでお前を助けられるわけじゃない。たとえオレとお前が強く望み続けたとしても、この関係は将来絶対に崩れていく。
 だからせめて、安心して互いの手を離せるように。
「いちいち重ェんだよ、お前は」
 笑おうとした。上手くいかなくて為一の脇に突っ伏した。
「調子悪いときにごちゃごちゃ考えんな。起きてるときに全部聞いてやっから、早く治せよ」
「うん……」
 為一が腕を布団に下ろす。手探りで怜二の手を握ってくる。やがて呼吸は穏やかになっていく。
 何度も見てきた寝顔だ。何度も確かめてきた息だ。よそ見をしたら何かのはずみに死んでしまいそうで、可哀想で、怖くて、目を覚ますまでずっと離れられなかった。
 大事な人を先に見つけたいという願いも、本当は逆だったのかもしれない。一見恵まれている為一が、本当に恵まれるまで自分は心配をし続けるのかもしれない。
 懐かしいぬくもりに後ろ髪を引かれてしまうから。理由もわからぬ赦しを乞いたくなってしまうから。
 為一が何事か呟いて怜二の手を握る指に力を込める。怜二は逆の手で為一の手の甲を撫でてやる。この世に留まっているのが嘘みたいな蒼白い肌を見下ろす。
 乾いた目尻を一粒の雫が滑り落ちていった。理由は少しも見当がつかなかった。